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色んなことにやんややんや言う感じ
7
陽子は勢いに任せて|金波宮《きんぱきゅう》を奥へと向かった。しばらく|闇雲《やみきも》に歩き、ひっそりとした建物群を通り過ぎ、やがて雲海に面した静かな場所に出た。金波宮は複雑な起伏を持った山に広がる。どこかの宮の|庭院《なかにわ》を過ぎ、岸壁に|穿《うが》たれた短い|隧道《すいどう》を|潜《くぐ》ると、奇岩の合間に|拓《ひら》けた小さな谷間のような場所に出た。谷間の先は雲海に張り出した岬だった。ぽつりと|路亭《あずまや》があるだけのごくごく小さな場所で、夏草が小さな花をつけている以外、これと言って見るべきものもない。
陽子は軽く息を吐いた。左右に|聳《そび》えた岸壁の上の木立が落とす影、緑の匂いと潮の香り、眼下に広がる雲海の眺望の他には何もない。
「こんな場所があったんだ……」
陽子は呟いて|草原《くさはら》に腰を下ろした。夏鳥の声が降り、|潮騒《しおさい》が満ちる。|金波宮《きんぱきゅう》にこういう場所があることを、陽子はこの時まで知らなかった。そもそも広大な王宮のほとんどの場所は陽子にとって無用の場所だ。あえて立ち入ったことがない。
──ここは悪くない、と陽子は|頬杖《ほおづえ》をついた。
どこなのか、さっぱり分からず、どうやって帰ればいいのか見当もつかないけれど。
金波宮に限らず、この世界は余白というものに乏しかった。壁にも柱にも色彩と模様が踊り、何もないぽっかりとした空間が少ない。それは|園林《ていえん》も例外ではなく、個性の強い樹木や岩で、ぎっしりと空間が埋められている。
雲海の眺め以外に何もないここは、歴代の王に見捨てられてきた場所なのかもしれない。|路亭《あずまや》はあるものの彩色も|剥《は》げ、人の手が頻繁に入っている様子がなかった。だからかえってほっとする。──そういうとき、異世界を出自とする自分に思い至る。
王として立つ、それだけで精一杯で故国を思い出すことはほとんどなかった。たまに思い出しても、昔に見た夢のような心地がする。忘れていたのか、|蓋《ふた》していたのか──それが|泰麒《たいき》のことを聞いてからというもの、少し揺れている。懐かしい、という気持ち。恋しいとまでは言わないが、もう戻ることはないのだと思うと、切ない喪失感がある。
同じ時代の同じ場所を共有した麒麟。
──今頃、どこで何をしてているのだろう。
蝕があったということは、あの夢のような世界へ戻ってしまったと言うことなのだろうか。だが、なぜ泰麒は戻ってこない?
考え込んでいると、微かな足音がした。振り返ると、陽子の|僕《しもべ》が立っていた。
「……よくここが分かったな、|景麒《けいき》」
「主上がどこにおられるかぐらい、いつでも分かります。……|浩瀚《こうかん》が探しておりましたよ」
「うん……」
「延王は難しい顔をなさっておいででした」
「……だろうな」
「横に坐らせていただいても?」
「どうぞ。……景麒はどう思う?」
「どう、とは」
「やはり仁の獣でも、戴を見捨てるべきだと思うか?」
横に座った景麒は、しばらく無言で雲海を見ている。
「……戴の民が哀れです」
ぽつりと言うので、陽子は|頷《うなず》いた。
「戴は荒れていると聞いたけれども、たぶん事態は想像以上に悪い」
「そのようですね……。たとえ空位になったとしても、まだ六年にしかなりません。普通は六年で目を|覆《おお》うほど|酷《ひど》い有様になることは少ないのですが。泰王が登極される以前から荒廃が著しかったというわけでもありませんし」
「行ったことがあるんだっけ、|鴻基《こうき》に」
「はい。王が登極されたばかりでも、目につくほどの荒廃はありませんでした。|仮朝《かちょう》がしっかりしていたのでしょう」
ふうん、と呟き、陽子は景麒を見る。
「泰麒はどういう方だった?」
「お小さくていらっしゃいました」
陽子はくすりと笑う。
「相変わらず、景麒の説明はさっぱり説明になっていない」
「そう……でしょうか」
陽子はしばらく、一人で笑っていた。
「まあ……七年も前のことだから。聞いたところで、きっと今頃はずいぶん変わっておいでだろう」
そうですね、とだけ景麒は答えた。
「景麒がもし、国を追われたらどうする?」
「……戻ります」
「戻れない状況というのは、どういう場合だと思う」
「私には想像もつきません。泰麒は小さくていらっしゃいましたが、御自身に課せられたもののことは、ちゃんとお分かりでした。むしろ萎縮しておられたぐらいですから。何かの災いで泰を離れておしまいでも、何とかして戻ろうとなさるでしょう。それができない、という状況は思い浮かべることができかねます」
「……ひょっとして、泰王が一緒だということはないだろうか」
景麒は少し沈黙し、ないと思う、と答えた。
「なぜ? 戻りたくても戻れないということが考えられないのなら、本人に戻る気がない、と考えたほうが自然じゃないか? 泰王と共に潜伏しているのかも」
「泰麒が一緒にいるならば、泰王が潜伏なさる理由がないでしょう。泰王は民の信任を失って王宮を追われたわけではありません。傍らに|麒麟《きりん》がいて、王宮の門を閉ざす兵卒がいるとは思えません」
「そうだよな……」
陽子が考え込んでいると、景麒はひっそりと|零《こぼ》す。
「多分そんな……|容易《たやす》いことではないと思います」
「なぜ?」
「|鳴蝕《めいしょく》があったそうですから。……鳴蝕は麒麟の悲鳴が招く蝕だ、とも申します」
「悲鳴」
こちらとあちらを行き来するには、本来、|呉剛《ごごう》の門を使う。月の呪力を借り、月の影に門を開くわけだが、これは誰にでも開くことができるわけではなかった。門を開くための呪物か、さもなければその能力が必要で、それができるのは上位の仙、あるいは麒麟、それなりの妖魔だけだと言われている。しかしながら、呉剛門は、当然の事ながら月のない昼間には開くことができない。黄海の中や雲海の上に開くこともないと言われている。
「鳴蝕は月の力を借りません。麒麟の力のみで|綻《ほころ》びを作ります。それだけに、これは大変なことなのです。ごく小さな物とはいえ、蝕には違いないわけですから。街で起こせば付近には甚大な被害が出るでしょう。本人も無事には済まない可能性があると分かっている。ですから、普通は鳴蝕など起こしません。私も起こしてみたことはありません」
「ふうん……」
「しかも、おそらく泰麒は、鳴蝕の起こし方をご存じなかったと思います」
「知らないなんて事があるのか?」
「……泰麒の場合は。泰麒は|胎果《たいか》でしたから。|蓬莱《ほうらい》で生まれ、十の歳まで蓬莱で育った。そのせいで、麒麟というものがよく分かっておられなかったのです」
陽子は首を傾げた。
「……どう申し上げればいいのでしょう。私たちの獣の部分を言葉にするのは、とても難しいのですが。私は鳴蝕を起こしたことはありませんが、起こそうとしてみたことはあるのだと思うのです。具体的に記憶があるわけではないのですが、鳴蝕とはあれだという感覚がありますから。あれが鳴蝕だろう、けれどもあれは大変なことだ、よほどのことがなくてはあの先には行けない、という生々しい感じがあるのです」
「へぇ……」
「そういう種類のことが、他にもたくさんあります。私たちは幼い頃には、獣の形をしています。それが人の形になることを覚える。人に|転化《てんげ》し、そして獣の形に戻る──|転変《てんぺん》することを覚えるのですが、それがいつのことで、何をきっかけにどうやって|会得《えとく》したのかは覚えていません。問われても、何となくいつの間にか、としか答えられない」
「私たちが歩くことや|喋《しゃべ》ることを覚えるのと同じなのかな」
「なのだと思います。麒麟の能力の多くは、獣の時代に身につきます。鳴蝕もそうです。私はそれをいつ覚えたのか、記憶していません。けれども、あれだ、という感触はある。きっと小さい頃に、やってみたことがあるのだと思うのです。ある日、自分に足があることに気づいて、走ってみようと何気なく思い立つ……そういう感じに近いのではないでしょうか。なぜその気になったのか、何が起こるのかも分からずに、走ってみる気になって、走り始めてこれは大変なことだと気づいて引き返す──そういう経験があるのだと思うのです。けれども泰麒は胎果でした。蓬莱で十までを過ごされ、こちらに戻っていらしたのですが、その頃にはもう人の形でいるほどに成長していらしたのです」
「獣の時代がなかった?」
「はい。ですから、獣形の記憶を持たない泰麒は、麒麟たるべき多くの力を喪失していました。私が蓬山でお会いした時には、転変することも妖魔を|使令《しれい》として下すこともできませんでした。それで鳴蝕を起こす方法を理解していたとは思えません。本能的に鳴蝕を起こしてしまうような、何かがあったのだと思います。とても悪い、恐ろしいことが泰麒の身の上に起こった。そして、その中に呑み込まれてしまい、泰麒は戻ってくることができない……」
「……そうか」
陽子は呟き、しばらく口を閉ざしていた。
「……それでも泰を救うべきではないと思うか、景麒」
景麒は陽子を見返し、そして目を|逸《そ》らした。
「私に答えられるはずのないことを、お訊きにならないでください」
※
|穢濁《あいだく》は蓄積していった。彼はそのことに|微塵《みじん》も気づかなかった。それによって|損《そこ》なわれていくのは彼の中に閉ざされた獣としての彼だけで、殻としての彼は|些《いささ》かも損なわれることがなかったからだった。
当然のように、彼の周囲にいる者たちがそれに気づくはずもなかった。ただ、彼の周囲は別のことに気づいた。彼の周りで不審な事故が多いことに。
「うちの子が、お宅のお子さんと遊んでいて|怪我《けが》をしたのは二度目です」
女は彼と、彼の母親に言い放った。
「骨に|罅《ひび》が入ったんですよ。もう二度と近寄らせないでください」
叩きつけるように言って去った女を見送り、母親は深い溜息だけを落とした。
「あいつが勝手に転んだんだよ」
訴えたのは、彼の弟のほうだった。
「僕と兄ちゃんのこと、棒を持って追っかけ廻してきたんだ。そしたら、勝手に|転《ころ》んで溝に落ちたんだよ」
そう、と母親は呟く。
「あいつはいっつもそうなんだ。物を隠したり、突き飛ばしたり。帰り道で待ち伏せしてて物を投げたりするんだ。だから罰が当たったんだよ」
「そんなこと言うものじゃありません」
「何でだよ。あいつが|虐《いじ》めてくるんだ。怪我をしていい気味だ」
「やめなさい」
母親はぴしゃりと|咎《とが》めた。咎められたほうは、母親と兄を|怨《うら》みがましく見た。
「兄ちゃんのせいだ。神隠しなんか遭うからだ。変わってる、気持ち悪いってみんな言うんだ。それで僕まで虐められる」
彼は|項垂《うなだ》れた。それは事実だったからだ。
彼の周囲には最初、驚嘆と同情の声、そして帰還を喜ぶ慈愛が打ち寄せた。それが引くと奇異の眼差しだけが残った。それもやがて慣れによって|鈍磨《どんま》していき、次いで|慇懃《いんぎん》な|隔絶《かくぜつ》が訪れた。彼は異常な子供だとされた。そして彼の周囲にいる子供たちは、確かにそれを持って彼を迫害した。得てして弟はそれに巻きこまれることになった。
「僕のせいじゃないのに。みんなから悪口を言われて、小突かれたり物を投げられたりするんだ」
弟は半ば泣きながら言って、彼にその場にあった|玩具《がんぐ》を投げた。
「やめなさい!」
「なんでお母さんは、兄ちゃんばっかり|庇《かば》うんだよ!」
弟は手近の物を投げ続け、それが尽きると彼に|掴《つか》み掛かった。──いや、掴み掛かろうとした。だが、その前に弟の頭上に棚の物が降ってきた。突然、玄関の|鴨居《かもい》につけてあった棚が落ちたのだ。載せてあったものは、さほどに重いものではなく、しかも弟は棚板の直撃を|免《まぬが》れた。弟はきょとんとしてから、すぐに自分に降りかかった災難に気づいて大声で泣き始めた。母親は悲鳴を上げて駆け寄り、弟を抱き寄せ、そして大きな怪我のないことを確認すると、彼を振り返った。不審と不安が|綯《な》い|交《ま》ぜになった複雑な目で。
くつくつ、と|汕子《さんし》が笑った。
──汕子。
どこからか、|傲濫《ごうらん》の|咎《とが》めるような声がしたが、汕子は意に介さなかった。
──あの子供が悪い。
「泰麒に危害を加えることは許さない……」
汕子はずっとただ見守ってきた。|穢濁《あいだく》を盛られていくのも、已むを得ず容認してきた。汕子にはこちらの世界がよく分からない。だが、半覚醒の意識で漠然と理解した限りにおいて、泰麒には看守の庇護が必要であると納得していた。看守たちは少なくとも、泰麒に最低限の保障と生活の基盤を与える役を果たしていた。しかも、汕子が見た限り、この看守たちは自分たちが毒を盛っていることを知らないようだった。
「どこかに、いる。……敵の手の者が」
それが看守たちを巧妙に操っている。だが、それは誰なのか。
看守たちには、積極的に泰麒を害そうという意志はないらしい。憎み、あるいは敵視しているわけではなさそうだ。こうして泰麒を捕らえ、|弑逆《しいぎゃく》に荷担しているのは、おそらく驍宗に対する敵意ゆえなのだろう。
厳密な意味で、泰麒の敵ではない。だから、看守たちの迫害、理不尽は見逃してやる。けれども、それ以外の者は。
「警告しただけ。……たとえ|虜囚《りょしゅう》になっても、泰麒は麒麟なのだということを思い出させてやらないと」
|隠形《おんぎょう》した手を、ほんの少し伸ばしただけだ。それ以上の行為は泰麒の気力を|損《そこ》なう。だから警告だけで辛抱している。
「できる限りの譲歩はしている」
本音を言えば、|汕子《さんし》は今すぐにでも泰麒を|攫《さら》って逃げたい。王を除いては地上に並びない尊い身、下賤の者が捕らえ、粗末な生活を|強《し》い、無礼な言葉を吐き、ましてや打つなどと言うことが許されて良いはずもない。汕子は泰麒が受けるそれらの屈辱にまみれた仕打ちを、身も心も引き絞られるような思いで耐えている。たとえ手を挙げても、看守のしたことなら見なかったふりをしている。どんなに不遜な言葉を吐き、泰麒に向かって|罵《ののし》るような真似をしても、|断腸《だんちょう》の思いで耐えているのだ。|穢濁《あいだく》を盛られることさえ容認している。
「……悔しい」
なぜ泰麒がこんな仕打ちを受けねばならない。
「どうして泰王は泰麒を救ってくださらないの」
汕子が呟くと、少し|翳《かげ》ったように見える|鬱金《うこん》の闇の中、|傲濫《ごうらん》の呟きが聞こえた。
「……生きているだろうか」
「まさか」
「だが、王は文州へ|誘《おび》き出された」
汕子は胸を押さえた──つもりになった。
もしもそうだとしたら。仮に驍宗が逆賊に討たれ、すでに死んでしまったとしたら。いったい誰が、こんな状態の泰麒を救ってくれるのだろう?
──これがずっと続けばどうなる。
汕子はようやくそれを考え、そして初めて恐怖を感じた。
微量とはいえ、|穢濁《あいだく》は蓄積している。鬱金の色が|翳《かげ》った、それがその証拠だ。これが何年も続いたとしたら、泰麒はどうなってしまうのだろう?