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色んなことにやんややんや言う感じ
3
李斎はしばらく臥室でその帯を見詰めていた。
──まだ繋がっている。
確かにそうだ、と李斎は自分に言い聞かせた。|琳宇《りんう》に近い鉱山で、あのころまでまだ玉を掘っていたのは|函養山《かんようざん》しかない。文州で最も古いと言われるその鉱山は、完全に玉泉が枯れ、当時からすでに三等級以下の玉を細々と掘っているだけだったと記憶している。
驍宗が消息を絶ったのは琳宇の外れでの戦闘の最中、そして函養山からこれが見つかった。ならば驍宗は函養山で敵の手に掛かったのだ。それからどうなったのか──それは不明だが、少なくとも李斎は戴に戻りさえすれば、驍宗の足跡を追うことができる。
李斎は息を詰めて指を組んだ。諸国が泰麒を捜してくれるという。だが、もしもそれが巧くいかなかったとしても、李斎の打つ手が尽きたわけではない。
言い聞かせていると、大らかな声がした。
「李斎──|桂桂《けいけい》は?」
振り返ると|虎嘯《こしょう》だった。
「先ほど、景王が訪ねてこられて人払いなさったとき、|厩《うまや》に行くと言っておられたが」
「おかしいな。来るときには|厩《うまや》を覗いたんだが、姿が見えなかったんだがな。ちっとも一つ所に落ち着いていないな」
|李斎《りさい》は微笑む。
「お元気でいらっしゃる」
「まあ、元気なのは確かだが」
「良い|御子《おこ》だ」
まあな、と自身が|褒《ほ》められたかのように、|虎嘯《こしょう》は照れた笑いを浮かべた。
「あれでなかなか苦労人だが、変に|拗《す》ねたところもないし」
「身寄りがおられないのでしたか」
「うん。もともと父母を亡くして里家にいたんだ。姉がいたが、死んでしまって」
「お可哀想に……」
「寂しいだろうが、それを胸の内に納めているから小さくても一人前だ」
「本当に御立派なことです。しかし、虎嘯? 本当に|桂桂《けいけい》殿に厩の手伝いなどしていただいてもいいのでしょうか。桂桂殿には勉学やお役目があおりなのでは。それに、|飛燕《ひえん》は穏やかな気性だけれど、あれも騎獣の一種だから、万が一ということも」
「なに、本人がやりたいと言ってるんだから」
言って虎嘯は苦笑する。
「殿はいらんよ。桂桂には。立場から言うと|奄《げなん》だからな」
「仙籍には入っておられない?」
「まだ小さいからな。陽子は大きくなってから、自分で道を選んで欲しいと思っているようだな。……なんか、妙だな。あんたの口ぶりを聞いていると、桂桂が太子か何かのようだ」
「……そうか?」
李斎にはその自覚がなかったが、振り返ってみれば確かにそうかとも思う。
「そう言えばそうだな……なぜだろう」
「何だ、自分でも分かっていなかったのか」
李斎は頷く。その耳に、邸のどこかから流れてくる歌声が届いた。明るく澄んだ声だ。生き生きとした若い女の声──。
「あれは|祥瓊《しょうけい》だろうか。|女史《じょし》も|女御《にょご》もこちらに頻繁に出入りなさっているようだな」
「ああ──うん。そうなんだ。出入りしていると言うか、ここに住んでいると言うか」
李斎は瞬いた。
「ひょっとして、どらちかは虎嘯の?」
とんでもない、と虎嘯は手を振った。
「預かっているだけだ。まあ、どらちも赤の他人で」
「……あのお二人も?」
|李斎《りさい》が問うと、|虎嘯《こしょう》は困ったように笑う。
「そうだな、変に思うだろうなあ。……俺はそもそも官吏とは縁のない|無頼漢《ぶらいかん》って奴で」
「景王は、虎嘯が義賊を率いていたと言っていた」
「そんな大したもんじゃない。|質《たち》の悪い役人がいて、それをやっつけるのに、ちょっとばかり勇気のある連中を集めてたってだけだ。普通だったら反を起こした時点でお尋ね者になるところなんだが、たまたまその勇気ある連中の中に陽子がいてな」
「……景王が? 義民の中に?」
これは内緒だ、と虎嘯は笑った。
「陽子は|胎果《たいお》だ。こっちの生まれじゃないんだ──それは?」
「聞いたが……」
「うん。だから、こちらのことが分からないんだ。それで市井に出て、有名な義塾の学頭をしたことのある|遠甫《えんほ》の許に身を寄せていた。つまり、勉強に行っていたんだな。それがたまたま、俺の起こした騒ぎの中に巻き込まれる格好になって」
「……そうか」
委細は分からないなりに李斎が頷くと、虎嘯は視線を落とす。
「陽子は登極して間がない。俺はあいつは、立派な王になる素質をもっていると思うが、そう思わない連中もまだ沢山いる。そもそも慶に女王が立ってろくな事があった|例《ためし》がねえ。しかも胎果だ。分かって当たり前のことが分からない。だから、みんな不審の目で見る。とりあえず官吏の整理も進めちゃいるが、逆臣も多い。特に処分を|逆恨《さかうら》みしている連中がいて、そいつらは陽子に何をするか分からない」
李斎は目を見開いた。王朝の始まりはそういうものだが、景王は喜んで迎えられるに足る王に見えた。
「ろくでもない結果になる前に、女王など|潰《つぶ》してしまえ、という連中もいる。だから危険で|路寝《ろしん》には素性の知れない官吏を置けないんだ」
言われてみれば、と李斎は納得した。かつていた花殿でも、ほとんど官吏の姿を見かけなかった。正寝だというのに、花殿の|周《まわ》りは閑散としていた。李斎の面倒を見ていた女御も、鈴というあの娘だけ、|祥瓊《しょうけい》と呼ばれる女史が時折出入りしていたが、李斎はそれ以外の下官の姿を見たことがなかった。
「……それは、私が警戒されているのだと思っていた」
「そういうわけじゃない。今はまだ路寝に人が少ないんだ。俺たちは、以前からいた下官を陽子の周りに置きたくない。よほど人柄のしっかりした信用できる者だけ──それを確認しながら、少しずつ人手を増やしている、というところだ」
李斎は唖然とし、それが普通なのかもしれない、と思い直した。景王の言う通り、戴は|仮朝《かちょう》がしっかりしていた。そもそも驕王が朝をそこまで荒らさなかった。驍宗その重臣の中から、周囲の人望を得て立った。その戴でもあのようなことが起こり得る。
「慶はまだ……大変なのだな……」
「もう少しの辛抱だ。俺はそう思っているがな」
|李斎《りさい》は頷いた。未だ朝廷の落ち着かぬ慶、そこに李斎は転がり込んで、登極間もない朝廷を必死で治めようとしている彼女に、罪を|唆《そそのか》そうとしたのだ。今更ながら自身の選択の重大さが身に|沁《し》みた。恐ろしい|過《あやま》ちを犯すところだった。踏み|留《とど》まることができたのは、決して李斎自身の功績ではない。
たくさんの負担をかけている。そもそも慶は戴のために|割《さ》く余力などないはずなのだ。なのに景の若い王は、国土を支えようとする手の中に李斎までもを引き受け、当然のことのような顔をして、できる限りのことをしてくれている。
……これ以上を望んではならない。
泰麒を捜してくれるという。それだけで十分だ。たとえ泰麒が見つからなくても、慶に来たことは無駄ではなかった。
そんなわけで、と|虎嘯《こしょう》はどこか照れたように言葉を続けている。
「陽子の周りには人が少ないんだ。生活の面倒は鈴の他に一人、もともと俺の仲間だった女が見ているだけだ。女史に至っては|祥瓊《しょうけい》という、あの娘しかいない。小臣は俺の仲間だった奴、あとは禁軍の将軍が、絶対に信用できるという人間を厳選して置いてある。だもんだから、俺たちは宮殿に詰めっぱなしなんだ。官邸を貰っても、そこに帰る暇がない」
「それで、こんなところに?」
「そういうことだ。──俺には弟があって」
「実の弟御?」
「そうだ。今は|瑛《えい》州の|少学《しょうがく》にいる。少学の寮に入っているんだ」
「それは将来が楽しみだな」
まあな、と虎嘯は嬉しげに笑った。
「少学にやりたかったが、実際に行ってしまうと、何と言うか、寂しいもんなんだな。俺には弟以外、肉親がない。鈴とは親しいが、まさか男所帯に一緒というわけにもいくまい。そうしたら、陽子が|遠甫《えんほ》と|桂桂《けいけい》を預かってくれ、と言う」
「ああ、それで太師のところに」
「そういうこった。俺が預かるのはいいが、まさか大僕の官邸に太師を置くわけにも行かないだろ? しかも遠甫も始終陽子の傍にいるからな。陽子はこちらの政治の仕組みに|疎《うと》いから、まだまだ勉強中というところだ。それで遠甫がここを|賜《たまわ》って、世話をする俺もここに越してくることになったという──そういうところだな」
言って虎嘯は照れくさそうに笑う。
「そういう俺も、誰かに行儀作法を聞かないとどうにもならん。何しろ出自は場末の|舎館《やどや》の親父だからな。桂桂にだって勉強をさせてやらなきゃな。もともとあいつは頭がいいんだ。だから遠甫の面倒を見るのは願ったり|適《かな》ったりなんだが、今度は|女手《おんなで》がないので、家が回らない。結局、鈴やら祥瓊まで引き受けて、ご覧のような有様になった」
「それは──|賑《にぎ》やかだ」
まったくだ、と虎嘯は笑う。
「陽子は人を使うのが達者なんだと思うぜ。分かっていたんだと思う、自分の大僕が、でかい図体の割に寂しがりやだということがな。俺は周囲に人が|溢《あふ》れていないと落ち着かないんだ。しかも宮中なんざ、想像の|埒外《らちがい》だ。一人で官邸にいろと言われたら、何日も続かなかっただろう。大勢いるお陰で、何とか|保《も》ってる」
「おまけに私までが転がり込んでしまった」
「陽子が、ここのほうが気が抜けていいんじゃないかと言ったんだが、|煩《うるさ》かったら勘弁してくれ。ついでに、俺たちが不作法なのも気にしないでくれると嬉しいんだが」
とんでもない、と李斎は笑う。それほどまでに信を置いている者たちに預けてくれた、ということが嬉しかった。
「景王は……良い王におなりだろう」
「|余所《よそ》の将軍様にそう言われると、嬉しいもんだな。うん……まあ、俺もそうなって欲しいと思ってるよ。巧く行かなかったら辞めちまえばいい俺たちと違って、王や麒麟には他の道がないからな」
確かに、と李斎は頷く。良い王になるか──そうであり続けるか、破滅するかだ。王にはそれ以外の道がない。
「泰王も立派な人だったんだろう? 禁軍の|桓たい《かんたい》[#「桓たい」の「たい」は「鬼」+「隹」Unicode:+9B4B]って奴が、そう言ってた。うちの左軍の将軍なんだが。登極する前からすごい人だって、軍人さんの間じゃ有名だったんだって?」
「そう……私もそう思っていた」
「無事に戻ってくるといいな。泰王も泰台輔も。……まずは台輔か」
李斎は頷く。せめて泰麒だけでも見つかって欲しい。でなければ、戴は救われない。
粛然としていると、軽い足音がした。見ると、桂桂がやってくるところだった。光の溢れる戸口から、花を抱いて駆け込んでくる笑顔。
「北の|庭院《なかにわ》に|芙蓉《ふよう》が咲いてたよ」
差し出された花のひと枝、李斎はそれと桂桂を見比べた。
「……桂桂殿はいくつにおなりだ?」
訊くと、くすぐったげに、十一になった、と言う。
「……そうか──そうか」
|含羞《はにか》んだふうの桂桂の笑みが|歪《ゆが》んだ。笑んだまま、水の中に閉ざされ、歪んでしまう。
「……李斎様?」
もう、その笑みが見えない。なの゛李斎は手を伸ばした。残された片手の中に置かれる手、小さく、暖かく、|気遣《きづか》うように握りしめられる力。
「……|貴方《あなた》は、お幸せでいらっしゃるか?」
「僕……? あの、ええ」
「そう……」
李斎、と呼ぶ屈託のない声、李斎を見つければ、みろぶようにして駆けてきて、笑顔を向けてくれた。そこに|飛燕《ひえん》がいれば必ず、|撫《な》でてもいいか、と──。
「台輔もちょうど、貴方くらいのお歳だった……」
どうぞ、泰麒が戻ってきますように──李斎はその日、初めて祈った。
期待が裏切られることは辛い。それが心の底からの望みであればあるだけ、得られなかったときの絶望は深い。祈ることは期待することだ。だから李斎には、この日までそれができなかった。
戴の民が黙々と祠廟に通うのさえ、李斎は黙って見詰めていた。彼らは|吹雪《ふぶき》の最中にも、粛々と祠廟に足を運んでいた。阿選の耳を|懼《おそ》れ、誰も何もいわない。無言で祠廟に向かい、そっと|荊柏《けいはく》をひとつ、置いてくる。残してくれた恵みに感謝し、それを与えてくれた人の無事を祈願するために。
それしかできない戴の民を哀れに思いながら、李斎自身は祠廟に一度も足を運ばなかった。運ぶことが──できなかった。
泰麒を捜してくれる、と言われてからもそうだった。泰麒が見つかるかもしれないという期待よりも、見つからないかもしれない、そのことのほうを懼れていた。たとえ見つかっても、その先どうすればいいのか。泰麒の帰還がそのまま戴の救済を確約するものではない。泰麒が戻ってくることが、戴にどんな意味を持つのだろう、と。
……だが、泰麒は光だ。
諸国を逃げる李斎が|伝手《つて》を|辿《たど》り、身を寄せていた山間の|隠者《いんじゃ》は、諦めろ、と言った。
「主上はここにはおられません」
戴国|委《い》州、|驍宗《ぎょうそう》が出た山間の里、|呀嶺《がりょう》は|灰燼《かいじん》に帰していた。驍宗の姿を求め、ひょっとしたら出身地に身を隠しているのではないかと委州に向かった李斎は、雲煙に包まれた呀嶺の痕跡だけを見た。
「それよりも、貴女には休息が必要ではありますまいか」
「休んでなど」
「王のいない国は荒れまする。それを知らぬ者はありません。ですが、王は亡くなられたわけではない。王の|郊祀《まつり》がなければ、国が傾くのですか? それとも王の存在が国を保つのですか?」
李斎は首を振った。
「知らない……」
「すでに戴は王のいない時代へ動きだした。貴女はこれまでの長い間、王を捜して、ついに見つけられなかった。──もう宜しいのではないですか」
李斎は目を見開く。
「それは、王を見捨てろと言うことか?」
老人は首を振った。困苦に|窶《やつ》れた|貌《かお》には達観の色が濃かった。
「まず貴方様の幸福を考えるべきではなかろうかと思うのです。貴方様は、王が救うという民の中に自分が含まれることを分かっておられますか」
「私は……」
「戴の民の幸いを言うなら、貴方様御自身も幸福でなければなりませぬ。貴方様一人が全てを背負って苦しむのなら、民の全てが幸せではないことになる」
李斎は悄然と項垂れた。
「それでも、この国を救うことのできるのは、あの方だけなんだ……」
憐れむような溜息をついて老人が立ち去った後には、彼の孫娘である少女だけが残された。少女もまた|憂《うれ》うような眼差しで、物言いたげに李斎を見ていた。
「お前も……王のために放浪するは愚かだと言うか?」
少女は首を振る。
「私にはよく分かりません。私は王を存じ上げません。|政《まつりごと》のこともよく分からないのです。主上は雲の上のお方です。台輔だって、はるか高みのお方です。けれども煙が──」
「──え?」
「門前から見下ろすと、|委州《いしゅう》が広がっています。そこに煙がたなびいているんです」
ああ、と李斎は頷いた。阿選は驍宗に縁あるもの、驍宗を支持するもの、自らを指弾する者の全てを許さない。意に添わねば一里を焼き払い、己に背くものの一切を根こそぎこの地上から追い払おうとしている。
「南の国では、一年中が春のようだというのは本当でしょうか。|奏《そう》には雪が降らないとか。河が凍ることはないのだそうです。冬にも、温かな|陽脚《ひざし》が降って、晴れ間がある……青い空が見えるとか」
李斎は頷いた。少なくとも李斎は黄海より南に行ったことはないが、黄海でさえその陽脚は鮮やかで、空は力強いほど近く濃かった。
「戴で最初の雪が降ってから、その雪が|融《と》けてしまうまでに、どれくらいの晴れ間があるでしょう? きっと指を折って数えることができるほど。なのに煙が……」
李斎は少女の意を|悟《さと》って、思わずその手を握った。
「ほんのたまの晴れ間を、あの煙が覆ってしまうんです。炎が雪を|炙《あぶ》って、|融《と》けて、|瓦礫《がれき》と一緒に凍りつく。──私たち戴の民は、どれほど春が待ち遠しいでしょう。王宮は厚く低い雲に覆われた戴の、ただひとつの晴れ間のような気がします。その|蒼天《そうてん》が曇っている。地上の煙が雪雲のように|鴻基《こうき》を覆って、この国には晴れ間がない……」
少女は憂いをいっぱいに浮かべた目で李斎を見上げた。
「鴻基は一穴の蒼天にして、一点の春陽、長い冬の最中にも決して凍ることのない|煕光《きこう》でございましょう」
|凛《りん》と言った少女は、もうこの世のどこにもいない。祖父ともども、李斎を|匿《かくま》った|咎《とが》で阿選に討たれた。だが、このとき、そしてその後、先に待つ運命を承知で李斎を逃がしてくれたとき、少女の言った言葉を決して忘れてはならないのだ、と李斎は今更のように確認していた。
──どうぞ、主上を──台輔をお救いください。
4
禁門の上で待て、と例によって唐突に|青鳥《しらせ》が来たのは、陽子が|氾《はん》王の訪問を受けてから二日後のことだった。雲海の上、禁門の門殿の前で待っていた陽子が迎えたのは雲海を越えてやってきた三人の客人、尚隆と六太、そして今一人、金の髪を持った娘だった。
「氾王が来ているんだって?」
|すう虞《すうぐ》[#「すう虞」の「すう」は「馬」偏に「芻」の字。Unicode:U+9A36]から飛び降りるなり言った六太に、はい、と陽子は苦笑|混《ま》じりに|拱手《きょうしゅ》する。
「道理でぱったり連絡がとれないはずだ」
言って六太は、白い騎獣から降り立った人物を見た。
「|廉《れん》台輔だ」
陽子は|慌《あわ》てて礼を取る。廉麟は十八ばかりの明朗な雰囲気を持った人物だった。
「|廉麟《れんりん》、こっちが景王陽子──隣が景麒だ」
六太は言って、
「そんで? ──範の御仁と|小姐《ねえちゃん》はどこだ?」
「多分、お部屋においでだと思うけど」
陽子はこれまた苦笑するしかなかった。|堯天《ぎょうてん》に|舎館《やど》を取っているから、と言う氾王、氾麟を引き留め、|金波宮《きんぱきゅう》に滞在してくれるよう言ったのは陽子自身だが、客人としての氾王はなかなかの難物だった。最初は賓客をもてなすための|掌客殿《しょうきゃくでん》に案内したが、趣味が悪いのでいたくない、と言う。結局、勝手に宮殿の|園林《ていえん》にある|淹久閣《えんきゅうかく》を選んで、しかもこの壺は見苦しいからどけろ、あの絵は見るに|堪《た》えないから、あちらのあれに取り替えろ、などと言う。世話をするためにつけた|掌客《しょうきゃく》の官は、|悉《ことごと》く気に入らなかったらしく、気が利かないから変えてくれ、と主張し、困って|祥瓊《しょうけい》をつけると、幸いにも祥瓊は気に入ったようなのだが、今度は傍から離さない。対する氾麟は、範の宝重だとかいう|蠱蛻衫《こせいさん》を使って好き勝手に宮殿内を放浪している。突然、正寝にやってきて、どこの官吏が下官を|虐《いじ》めていたのは良くないと思う、などと言って去っていく、世話を一手に引き受ける|羽目《はめ》になった|祥瓊《しょうけい》は、外見は飾っておきたいような美少女だが、その中身は延麒だ、と評していた。
「……なかなか大変だろ、あいつの相手は」
六太が小声で言うので、陽子もそっと問い返した。
「|雁《えん》は|範《はん》とは?」
「不本意ながら国交はあるかな。範は|匠《たくみ》の国だからな」
「玉や金銀の細工では十二国一とか」
「それは認めないわけにはいかないだろうなあ。……範はもともと、何もない国でさ。何で立つにしろ中途半端な国なんだよ。それをあいつが工匠の国として立て直した」
「美術品や工芸品で?」
「細工するものなら、何でもやる。紙や布のような素材から、それを作るための機器や道具まで。特に道具だ。範の作る道具は精度が高い。物差しや|秤《はかり》の|錘《おもり》を取っても、そこらで作るものとは|雲泥《うんでい》の差だ」
「へえ……」
「うちはでかいものを作るのは得意だが──街とか建物とか港とか──そのためには範の工匠の協力が必要なんだよな。だから付き合いは、まあ……深い部類なんだけどさ」
六太は溜息をつく。陽子にはなんとなく、その溜息の理由が知れるような気がした。
「何と言うか……その、いろいろな意味で、変わった御仁だな」
「だろ? 尚隆の天敵なんだ」
六太はちらりと後ろを振り返る。最後尾からは、来て以来、一言も口を|利《き》こうとしない尚隆が憮然とした面持ちで|蹤《つ》いてきていた。
「それは……分かるような気がする」
呟いたところで、|園林《ていえん》の小径をやってくる祥瓊に出会った。祥瓊は足裏を石畳に叩きつけるような勢いで前のめりに歩いてくる。
「ああ、祥瓊──氾王は」
声を掛けると、祥瓊は殺気立った目で陽子を見た。
「|臥室《しんしつ》にいらっしゃいます。言っておくけど、今行っても会えないわよ」
「会えない?」
「私が揃えて差し上げたお召し物と|簪釵《かんざし》が合わないので、着替えをなさるのがお嫌だそうです。──見てらっしゃい。絶対に着せてやるから」
「……苦労してるな」
ふん、と祥瓊は腕組みをする。
「相手にとって不足はない、って感じよね。でも、私の見立てによれば、あれでいいはずなのよ。|連珠《くびかざり》と|耳墜《みみかざり》が合わないんだわ。陽子のものを勝手に|漁《あさ》るわよ。意地でもいいって言わせてみせるわ」
腕まくりしそうな勢いで言ってから、祥瓊は陽子の背後、|小径《こみち》を|辿《たど》ってきた人影に気づいたようだった。小さく声を上げ、真っ赤になって道の脇に叩頭する。
「──失礼いたしました!」
「大変そうだなあ」
笑い含みに声を掛けたのは六太だった。
「あの御仁の相手は大変だろ。……中には|氾麟《はんりん》もいるのか?」
「はい──ええ、おいでにおなりでございます」
「そっか。ちょいと相談事があるんで、範の御仁が急いで|臥室《しんしつ》を出られるようにしてやってくれ」
|畏《かしこ》まりまして、と祥瓊は深く頭を下げた。陽子らは、失笑気味にそれを通り過ぎ、奇岩に囲まれた二層の楼閣へと出た。何しろ当の氾王が祥瓊以外の下官を嫌うから、案内を請う者もいない。仕方なく声だけを掛けて中に入ると、|堂室《へや》の|榻《ながいす》に氾麟が寝そべっていた。──確かに、と陽子は苦笑混じりに思う。氾王の指示で家具を動かし、掛け物を|弄《いじ》った堂室は驚くほど趣味の良い建物に生まれ変わっていた。その中に氾麟がしどけなく寝そべっていると、それだけで絵のように見える。
「あら──陽子に景麒」
書物から顔を上げた氾麟は身を起こし、そして勢いをつけて|榻《ながいす》から飛び降りる。
「六太も。久しぶりね」
「おう」
飛び跳ねてやってきた氾麟は尚隆の顔をしたから覗き込む。
「尚隆も、お久しぶり。相変わらず田舎臭い格好なのね」
「|喧《やかま》しい。それより、お前の飼い主を呼んでこい」
「それは無理ねえ。主上はまだ着替えがお済みでないんだもの」
尚隆は苦虫を|噛《か》み|潰《つぶ》したような|貌《かお》で、
「着る物など、何でもいいだろうが。不満があるなら裸で出てこいと言ってやれ」
「とっても下品な尚隆らしい言い分よね」
言い放ってから、彼女は廉麟に目を留めた。まあ、と可愛らしく声を上げ、優雅に一礼をする。
「お客様とは存じ上げませんでした」
「ああ……廉台輔だ」
「お初にお目に掛かります。氾麟でございます」
にこりと笑って廉麟が挨拶を返す。氾麟は室内に集まった顔を見渡した。
「大変な顔ぶれだけど、ということは、泰麒の捜索が始まるのかしら?」
そういうことだ、と憮然と言って、尚隆は氾麟に坐るように促す。
「雁に来てくれと言ったのに、姿を現さず、消息不明になった連中がいてな」
「あら、それで来てくれたの? だったら良かったわ。私は慶のほうがいいもの。雁の下官は本当に気が|利《き》かなくて、しかも|喧《やかま》しくって」
「喧しいのはお前だ。とにかく雁と慶、範と漣の四国で|蓬莱《ほうらい》を探すことになった。」
「──|崑侖《こんろん》は?」
「奏と恭、才が探してくれる」
「大事業ねえ」
氾麟は呟いてから小首を傾げた。
「けれども、こんなことをして大丈夫なの? 前代未聞だと思うのだけど」
大丈夫だ、と答えたのは六太だった。
「俺たちが泰麒を捜すぶんには天の摂理に反しない」
「ふうん? 具体的にどうやって探すの? やっぱりどっと王師を送り込んで?」
まさか、と延麒は渋面を作る。
「それはできない。蓬山の玄君からも、くれぐれも蝕を起こすことは最低限にしてくれと言われているしな。それに、やっても意味がないんだ。泰麒は胎果だ。俺たち麒麟が麒麟の気配を目当てにして探すしかないんだ」
氾麟はぽかんと口を開けた。
「……それ、本気で言ってるの? 蓬莱って広いんでしょ?」
「こちらの一国ほどの広さはないさ。蓬莱そのものの広さを言うならな」
「それだってたいへんな広さがあるんじゃないの? それを探すの? 私を含めてたった四人で? ──それ、今まで六太が言った中でも、最低の|戯言《たわごと》だわ」
「難しいことだってことは分かってるさ。そうでなきゃ、そもそも他国に協力を頼んだりしない」
「でも」
「俺はかつて、泰麒を見つけたことがある。それがどこだか、具体的な場所は覚えちゃいないが、|大凡《おおよそ》の場所は覚えてる。泰麒がそこに戻ったという保証はないけど、そこから探し始めるしかないだろうな」
「本当に、たったそれだけの手がかりで探し出せると思ってるの? ──呆れた」
「では、見捨てるか?」
六太は氾麟をねめつける。
「他に方法があればそれを採ってる。他にやりようがないんだ。勿論、こんなことじゃ何年かかるか分からない。しかし、戴を何とかしようと思うなら、やるしかないんだ!」
|堂室《へや》に沈黙が降りた。やがて、口を開いたのは廉麟だった。
「……|使令《しれい》は使えないでしょうか」
「使令?」
「ええ。だって使令は麒麟の気配を知っているでしょう? どんなに遠くにいても、私の気配を感じ取って戻ってきます。ということは、使令なら他の麒麟の気配も見えるのではないかしら。ひょっとしたら、当の私たちよりも」
そうか、と延麒は呟き、そして、どうだ、とどこへも知れず問うた。是、という声がどこからともなく聞こえた。延麒の使令が答えた声だ。
「じゃあ、これはどうだ。妖魔なら?」
返答はない。
「お前たちは同族を召集できるだろう。無論、有害な妖魔を呼び集めるわけにはいかないかもしれないが、さほどに害のない小物なら──どうだ?」
少しの沈黙の後、是、という声があった。
「いいぞ──これで、だいぶ頭数を増やせる」
だったら、と氾麟は声を上げ、ぱちんと手を合わせた。
「範に|鴻溶鏡《こうようきょう》があるわ」
「──鴻溶鏡?」
「ええ。鴻溶鏡は映った者を|裂《さ》くことができるの。|遁甲《とんこう》できる生き物にしか使えないけど、使令や妖魔ならこれで裂いて数を増やせるわ──理屈の上では無限に。裂かれた分だけ能力も薄まっちゃうけど、人捜しに使うのだったら、さほどの能力は必要ないでしょう?」
では、と廉麟が声を挟む。
「漣には|呉剛環蛇《ごごうかんだ》があります。これは蝕を起こさずに、こちらとあちらに穴を通すことができます。人は通れませんし、一度に大勢を通すことはできませんが、これを使えば蝕を起こすことは最低限で済みます。──そう、以前にも泰麒のために使いました。延台輔が見つけ出してこられた泰麒をこれで蓬山に運んだんです」
よし、と六太が嬉しそうに頷いたとき、冷静な声が割って入った。
「問題は、泰麒がなぜ戻ってこないのか、ではないかえ?」
振り返ると、|臥室《しんしつ》の戸口に白い|羅衫《うすもの》も|眩《まぶ》しく、氾王が立っている。背後にちらりと、満足そうな顔をした祥瓊が見えた。
「やっとお出ましか? ……なぜ戻ってこないのか、ってのは何だよ」
「おや? 延麒なら不本意ながら蓬莱に流されて、そのまま居着いてしまうかえ」
それは、と六太は|口籠《くちご》もった。
「延麒ならそれを幸い、猿山の猿王から逃げ出すだろうが、泰麒はそういう|御子《おこ》には見えなかった。何としても戻ろうとするであろ。それが六年、戻ってきていない。戻れぬ事情があると考えるべきだろうね」
「そんなことは分かってら。だが、その事情の知りようがないだろうが。とにかく泰麒を捜してみないことには。それともあんたなら、事情の想像がつくのか」
さて、と氾王は|在《あ》らぬほうをを見る。
「あるとしたら、もう麒ではない、ということだろうね」
「もう麒でない?」
「麒麟が王の側に|侍《はべ》るのは、麒麟の本性のようなものだよ。民を哀れむのも麒麟の本能、ならば麒麟である限り、泰麒は泰王の許に戻ろうとするだろうし、民のために戴へ戻ろうとするだろう。そのための能力は|具《そな》わっている。──それができないのだから、もはや麒ではない、と考えるしかなかろうね」
「どうやって麒麟が、麒麟でないものになるんだ」
分かるはずがない、と氾王はにべもなかった。
「じゃが、泰麒は胎果であろ」
「そうだが……だから?」
「さあ。巧くは言えぬ。氾麟が麟でなくなるのは、|身罷《みまか》ったときだけかもしれない。だが胎果の麒麟があちらにいる場合はどうだろう。……単にそう思っただけだよ」
5
李斎が、泰麒の捜索が始まった、と陽子から知らされたのは、夏の盛りの頃だった。倦怠感を伴った暑気は王宮の上にまで忍び寄り、寝苦しい夜は朗報を待ち続ける焦燥感を掻き立て、李斎から安眠を奪った。
じきに見つかるから心配するな、と当初は元気だった六太の表情が曇るまでには、いくらもかからなかった。かつて六太が泰麒を見つけた蓬莱の一地方、そこに泰麒の気配は見あたらない、と言う。さらに捜索の手は伸ばされたが、やはり朗報はない。
眠れないまま、李斎は起きあがって掌客殿へと向かった。掌客殿の周囲に広がる|西園《さいえん》、そこにある|清香《せいこう》殿が客人たちの宿舎で、それに続く書房の|蘭雪《らんせつ》堂という建物が、泰麒を捜索する人々の議場となっていた。李斎は日に何度も、そこに足を運ばずにはいられなかったし、足を運んだ結果、落胆することになっても、それでとりあえず堪え難い乾きのようなものは治めることができた。この夜も、水を欲するように|彷徨《さまよ》い出て、蘭雪堂へと向かう。その堂室では、ぐったりしたように六太が椅子に坐り込んでいた。
「……延台輔」
よう、と六太は笑ったが、その顔にはいかにも力がなかった。
「見つかりませぬか?」
ああ、と六太の声は低い。立ち尽くすしかない李斎の落胆に気づいたように、六太は明るい声を出した。
「ま、こんなもんだろう。まだまだこれからってとこさ」
はい、としか李斎には答えられない。李斎には何一つ、手助けができない。国に並びないやんごとない人々が、自らの身体を使って労を割いているのに、李斎はそれを見守ることしかできないのだ。それで遅滞を責めるのは、あまりに|僭越《せんえつ」に過ぎよう。
「お茶でも飲んでいかないか? ……って、俺が欲しいだけなんだけどさ」
李斎は微笑み、|供案《たな》の上の小さな|火炉《ひばち》に日を入れた。水瓶から鉄瓶に水を汲み、火炉にかける。
「……|蓬莱《ほうらい》にはいないかもな」
李斎は手を止めた。
「では……|崑侖《こんろん》に」
「分からない。ただ、範の御仁の言う通りだ。問題は、泰麒がなぜ自ら戻ってこないのか、そのほうにあるんだと思う」
「お戻りになれない事情があるのでは」
「事情というのは簡単だが、実際にはどういうことだと思う?」
「私には分かりかねますが……」
「泰麒は|鳴蝕《めいしょく》を起こした。景麒が再三、強調するんだが、泰麒が鳴蝕の起こし方をしていたはずがない。起こしたとすれば、突発的な何かがあって、ほとんど本能的にやってしまったんだろうというし、それは俺も同感だ。泰麒は、あちらに渡った──というより、こちらから転がり落ちてしまったんだと思う。そうやって転がり落ちた先は、本当にあちらだったんだろうか?」
「それは……どういう」
「呉剛の門の入り口と出口の間には、何もない道がある。禁門や五門のようなものだと思えばいい。門があって、その向こうがあちら、手前がこちら、そういうものではなく、入り口と出口の間に|隧道《すいどう》がある」
ああ、と李斎は頷いた。呪を施した通り道がある。多くはそこに階段があるのだが。
「泰麒がこちらにいない以上、門の中に入ったのは確実なんだろうが、泰麒は本当に向こう側に出ることができたんだろうか」
それは──と、李斎は六太に向き直った。
「間に囚われてしまった、ということですか」
「分からないけどな。泰麒はあちらに抜けられなかったのかもしれない。廉麟の|呉剛環蛇《ごごうかんだ》を使ってあちらに通してもらうんだけどさ、降り抜けている間は廉麟の手を握っていなきゃならない。手と言うより、|呉剛環蛇《ごごうかんだ》の尾かな。二つある尾の片方を、廉麟の手を介して|握《にぎ》っていなきゃいけないんだ。そうしないと、迷う、と言う。中に入ったまま、先に出ることも戻ってくることもできなくなることがある、と」
「泰麒もそのように、迷った、と」
「分からないんだけどな。鳴蝕と呉剛環蛇を同じように考えるわけにはいかないのかもしれないし。……ただ、泰麒は向こうに抜けていないんじゃないか、と思いたくなる。それほど見事に気配がない。泰麒は胎果として流され、向こうで生まれてごく普通の子供として育った。あちらでの親がいて、家があった。俺がかつて泰麒を見つけたのはその生家だったと思われるんだ。それがどこだったのか、申し訳ないことに俺は覚えていない。だが、だいたいの位置は覚えてる。蓬莱国はそれなりに広いが、どの街の近辺だったかぐらいは覚えてる。蝕を起こして本能的に逃げ込んだのなら、郷里へ行ったのかもしれない。だが、郷里にはまるで泰麒のいる痕跡がなかった」
「では郷里ではなかったのかもしれません。どこか──別の場所に」
「そう思って国土を軒並みに探した。郷里を中心に、二方に分かれて北上、南下してみたんだが、やはりどこにも痕跡が見えない。……いや、ざっと探しただけなんだけどさ」
最後は、李斎を慰める調子だった。
「今度はもっと丁寧にやる。そのへんの人間を捕まえて、六年前に何か異変がなかったか聞いてみるのも|已《や》むなしだと思ってる。……そのぶん時間はかかるだろうが」
「はい」
「そうやっている間に、|崑侖《こんろん》で見つかってくれればいいんだけどな。……いずれにしても、いつまでも氾麟、廉麟を留め置くわけにはいかない。景麒はなおさらだ。慶はまだ未熟だから。どこかで諦めて、気長に探すしかない、という話になるかもしれない。その場合は、李斎には申し訳ないんだが」
「いいえ……仕方のないことですから」
李斎は|努《つと》めて冷静に言った。これ以上を求めるわけにはいかないのだ、と自分に言い聞かせる。少なくとも、李斎は|隻腕《せきわん》になったものの健康を取り戻してはいる。|驍宗《ぎょうそう》に変事が起こったのが、|琳宇《りんう》郊外の|函養山《かんようざん》だということも分かった。泰麒捜索に|何某《なにがし》かの決着がつけば、戴に戻って驍宗を捜すことができる。慶に来たのは無駄ではなかった。確かに李斎らはまだ驍宗と繋がっている。
「……その場合にも、戴を見捨てようという話じゃない。戴からの|荒民《なんみん》、あるいは戴に残った民のためにできるだけのことをすると約束するから」
「|勿体《もったい》のうござます」
李斎が呟くように|零《こぼ》した時だった。さっと暗い|堂室《へや》に光が射した。振り返ると、|蘭雪堂《らんせつどう》の奥にある戸口から微かに光が|漏《も》れている。李斎は立ち上がった。蘭雪堂の奥にある戸口を抜けると、ごく短い|曲廊《ろうか》へと続いている。それはひとつ折れ曲がって、その先には|孤琴斎《こきんさい》と呼ばれる小さな建物があった。その孤琴斎の中に光が射している。それは天窓から月の光でも射し入ったように見えたが、孤琴斎に天窓など存在せず、しかもこの夜は月がなかった。床が丸く白い光に照らされているのに、光源がない。それもそのはず、床上からではなく、下から照らされているのだ。
|呉剛環蛇《ごごうかんだ》だ、と李斎は孤琴斎に踏み込んだ。するりと慶を大きくした光の環から人影が滑り出た。最初に一人、続いてもう一人。二人目が抜け出すと同時に、光は遠ざかるように縮まり、消えていく。
「あら、李斎」
氾麟が声を上げ、そして曲廊から|堂室《へや》へと駆け込んだ。
「六太、変なの!」
「変?」
問い返した六太が、大儀そうに|背凭《せもた》れから身を起こすと、氾麟が頷く。
「使令が行けないというの。すっかり震え上がって、嫌だって」
「──は?」
「だから、近寄れないし、近寄っちゃならないって言うんだってば!」
「お前じゃ何を言いたいんだか、さっぱり分からん。……廉麟、どうしたんだ?」
それが、と部屋に入ってきた廉麟も不安げな顔をしていた。
「私にもよく分かりません。使令が嫌がるのです。不吉があると言って」
「不吉……?」
「ええ。延麒がおっしゃっていた、泰麒の郷里です。もう一度言ってみようと氾麟と戻ってみたのですけど、あちらに行くのは嫌だと使令が言うのです。不吉と|穢《けが》れがあるのだそうです。途方もなく大きな兇があるから、近づいてはならないと」
「何だ、それは? ……だってあそこは前にも行ったじゃないか」
「ええ、そうです。使令が言うには、前にも僅かながらあった、と。……そうなのね、|什鈷《じゅうこ》? 説明して差し上げて」
はあ、と|惚《とぼ》けた声がして、廉麟の|裾《すそ》から白い獣が姿を現した。小型の犬によく似ているが犬にしては尾がない。その獣はその|碧《あお》く丸い一つ眼を細める。老人の眉のような、瞳にかかって垂れた毛並みで、困ったような表情を作って見せた。
「ですから、あそこには災いがございます」
「どんな」
「分かろうはずもございません。良くないものです」
「それじゃあ、分からん。──それは以前にもあったんだな?」
はあ、と什鈷は身を縮める。
「思い出してみれば、ということですが。前にもちらりと妙な気がしたのですが、さほどでもない、気に留めるまでもあるまい、という気がしまして。それきり忘れておったのですが、今夜行ってみると、それが途方もなく大きくなっておりました。あれは良くないものです。|儂《わし》はあれに近づくのは御免でございます。台輔を近寄らせるなどとんでもない」
「良くないもの、なのか? それは予感がするということか?」
「そうではございません。大きな|穢《けが》れで、災いです。兇があるのです。小物のように思えましたが、あれは小物どころではない。近づいてはなりません」
「小物──?」
|怪訝《けげん》そうにした六太を、李斎は制した。
「お待ちを。差し出口をお許しください。──それはたとえば、強大な妖魔がいるという、そういうことでしょうか?」
|李斎《りさい》が言うと、|什鈷《じゅうこ》は飛び上がる。
「そう、そうでございます。それも尋常のものではありませぬ。我らとて、あれの傍に近寄るのは嫌でございます。そこへ台輔をお連れするなど──」
李斎は声を上げた。同時に六太が呟く。
「……|傲濫《ごうらん》だ」
「はい?」
李斎は什鈷に駆け寄り、床に膝をついて身を|屈《かが》める。
「それはどこです? 泰麒の使令です、きっと間違いありません」
「ですが、あれは使令になるような|生易《なまやさ》しい代物の気配ではございませぬ」
「泰麒には|饕餮《とうてつ》がおられる。饕餮です、違いますか」
什鈷は耳を立て、毛並みを逆立てた。
「饕餮。そんな」
李斎は残された片手で廉麟の衣に|縋《すが》った。
「きっと泰麒です、廉台輔!」
平衡を崩した李斎の身体を、柔らかな手が抱き留める。
「……分かりました。安心なさいまし。必ず泰麒をお連れいたします」
「なりません!」
什鈷が毛を逆立てたまま飛び跳ねる。
「あれは使令ではございりません。あれは妖気でございます」
「臆することは許しませんよ、什鈷。本当に妖魔だとして、それほどの妖魔がかの国にいる理由がありましょうか。泰麒なのかもしれません。少なくとも泰麒ではないと、確かめなければ。お前たちが嫌だというなら、私一人でも参ります」
そんな、と呟き、什鈷は|項垂《うなだ》れた。
廉麟、と声を残し、六太は|曲廊《ろうか》へ向かう。
「渡してくれ。行ってみる。──|小姐《ねえちゃん》はどうする」
氾麟は左右を見渡した。
「私は……行くわ。行きますとも。……でも」
|怯《おび》えたように薄い衣を抱きしめる手から、廉麟がそれを取り上げた。
「これは、私にも使えますか?」
「……ええ」
「では、お借りします。氾台輔は、これを他の方々に|報《しら》せてください」
「……はい!」
報せを受け、陽子と景麒が|孤琴斎《こきんさい》に駆け込んだとき、ちょうど二つの人影が|幽光《ひかり》の中から出てくるところだった。
「──延麒、見つかったって?」
「分からない」
答えた六太は、しかしながら連日の|倦《う》んだ様子を残してはいなかった。勢い込んで|堂室《へや》に戻る六太を追うと、中には雁と範の王が揃っている。
「泰麒は」
これは延王、氾王の双方から、
「分からない。見えない」
「見えない? どういうことだ」
「あれは|傲濫《ごうらん》だと思う。泰麒の使令だ。だが、確かにあれではもう使令とは呼べない。使令が震え上がるのも分かる。あれでは妖魔そのものだ。しかも、恐ろしく強大な」
遅れて|堂室《へや》に入ってきた廉麟の顔も|蒼褪《あおざ》めていた。
「とても大きな|穢《けが》れで、大きな兇です。近づけば、私たちにも分かります。場所は分かりました。大きな街ですけれど、あそこに傲濫はいます。でも、麒麟の気配は見えないのです」
「無茶を承知で近づいてみたが、全く何の|残滓《ざんし》も見えない。……範の御仁が正しいと思う」
「私が?」
六太はそそけだった顔色のまま頷く。
「麒麟はいない。泰麒はあそこにいると思う。だが、泰麒はもう麒とは呼べない」
「どういうことだ?」
陽子は問うて、六太と廉麟を見比べた。
「分からない。だが、傲濫がいる以上、必ず泰麒はあの街にいるはずだ。少なくとも傲濫が妖魔に戻ってしまったようには見えない。まだ使令として泰麒の支配下にあることは確かだが、麒麟のいる気配は欠片もない。戻りたくても戻れなかったはずだ──泰麒は麒としての本性を喪失しているんだと思う。そうでなければ、あそこまで気配の絶える道理がない」
「そういうことがあるものなのか?」
「知るもんか。あるとしか考えようがないだろう。とにかく|虱潰《しらみつぶ》しに探すしかない。探して連れ戻す。方法は選んでいられない。傲濫は……あれは、あちらにとっても危険だ」