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色んなことにやんややんや言う感じ
三章
1
その日、陽子が午前の朝議を終えて内殿に戻ると、自室で一羽の鳥が陽子を待っていた。それは|鸞《らん》と呼ばれる鳥、官府の間でやりとりされる|青鳥《せいちょう》のようなものだった。青鳥は文書を運ぶが、鸞は人語を記憶して直接言葉を運ぶ。鸞は|鳳凰《ほうおう》や|白雉《はくち》などのいる|梧桐《ごどう》宮にしかおらず、所有する王を発信人にするか受取人にすることでしか使えない。鸞はいわば、王の親書だった。いずれの国の鸞であるかは、その尾羽の色で識別できる。
陽子は鸞を見て、少しばかり目を見開き、そして銀の粒を与えた。鳥は明朗な男の声で、正午に禁門を開けるよう、ただそれだけを言って|嘴《くちばし》を閉じた。陽子は軽く苦笑し、正午きっかりに禁門へと降りる。門前で待つと、予告通りに二頭の|すう虞《すうぐ》[#「すう虞」の「すう」は「馬」偏に「芻」の字。Unicode:U+9A36]が飛来してきた。
「……遠方より、唐突なお越し、痛み入ります」
乗騎を降りた二者を苦笑混じりに迎えると、上背のある男のほうが、軽く眉を上げた。
「分かることがあれば報せてくれと、慶から使いがあったと思ったのだが」
「延王自らご報告をいただけるとは|冢宰《ちょうさい》も想像だにしていなかったでしょう。おかけでお迎えする官は今、|天手古舞《てんてこまい》です」
陽子は笑って、客人の今一方、金の髪をした少年の方を向いた。
「延台輔も、お久しぶりです」
うん、と笑った|延麒《えんき》|六太《ろくた》は、すでに禁門へと向かっている。
「……で、その|戴《たい》の将軍ってのは? 話はできるか?」
「なんとか」
陽子は二人の賓客を王宮へと案内しながら、|李斎《りさい》が駆け込んできた経緯を問われるままに話し、現在は動かすこともできず、|正寝《せいしん》の一郭を病床として|宛《あて》がっていることなどを説明した。
「|瘍医《いしゃ》はとりあえず、動かしてもいいだろうと言っているので、もう少し世話の行き届く場所に移ってもらうことにした。目が覚めていれば、話もできるようだが、あまり長時間はどうだろう。昨日も、話の途中で具合を悪くしてしまったし」
「では、戴の様子は分からないのか」
「最低限のことは聞いたと思うけど。──ああ、|浩瀚《こうかん》」
内殿の入り口では浩瀚が待ち受けていた。背後には景麒と|太師《たいし》の|遠甫《えんほ》の姿も見える。出迎えた彼らと書房の一郭、|積翠台《せきすいだい》へと向かった。
「李斎に寄れば、泰王も泰麒も行方不明だ、ということらしいんですが」
のようだな、と腰を下ろした延王|尚隆《しょうりゅう》は頷く。
「再度、調べてみたが、やはり|蓬山《ほうざん》に泰果はないようだ。つまり、泰麒は死んでいない。鳳も鳴いていない以上、泰王が死んだということも考えられない。戴からの|荒民《なんみん》に聞いたところでは、諸説ある中で、謀反があった、というのが、最も可能性が高いようだ」
「李斎の説明でもそう言うことのようです。泰王は乱を鎮圧するために出て、そのまま消息を絶ったということですが、詳細は分かりません」
「……出陣した先で何かがあったのだろうな。死んではいないが無事でもない。どこかに囚われているのか、あるいは、暗殺者につきまとわれて潜伏を余儀なくされているのか。いずれにしても、戴は逆賊が牛耳っていて、泰王はそれを討って玉座を取り戻したくても、それができない、ということなのだろう。──泰麒はどうしたと?」
「やはり詳細は不明ですが、行方が分からない、ということのようです。……何でも蝕があったのだそうです。王宮で|鳴蝕《めいしょく》があって、|白圭宮《はっけいきゅう》に甚大な被害が出たとか」
「……鳴蝕があった?」
不審そうに声を上げたのは六太で、深刻そうな表情をしていた。
「ええ。それ以後、泰麒の姿は見えない、瓦礫の中を探し回ったのだけれど、ついに発見できなかった、と|李斎《りさい》は言っていました」
「嫌な感じだな……それは」
|六太《ろくた》は頷いた。
「|鳴蝕《めいしょく》があったということは、泰麒の身に何か異変があったということなんじゃないのか。よほどのことでなければ、鳴蝕なんか起こすはずがないし」
「そうなんですか?」
うん、と六太は頷く。
「鳴蝕があって姿が消えた、と言うより、何か異変があって、|切羽詰《せっぱつ》まった泰麒が鳴蝕を起こしてしまった、と言うべきだろうな。下手をすると、泰麒はこちらにはいない……」
「では、あちらに?」
「断定はできないけどな。異変があって、それから逃れるために蝕を起こし、あっちに逃げ込んだ、と考えるのが一番順当なんだろう。ただ──それだけのことなら、戻ってくるだろう、普通。六年も戻ってこないところを見ると、まだ何かあるんじゃないのか」
陽子は頷き、そして、尚隆を見た。
「こういう場合は|延王《えんおう》、どうなるのです?」
「どうなる、とは」
「ですから──もしも泰王が亡くなっていれば、泰麒の次の王を選ぶわけですよね? もしも泰王が無事でも、泰麒が死んでいれば、泰王もじきに後を追うことになる。その場合には蓬山に泰果が|生《な》って、新しい戴の麒麟が生まれ、新しい王を選定する」
「そういうことだが」
「けれども泰麒は死んでいない。次の麒麟の生まれる道理がありませんね? しかも泰王も死んだとは思えない。ゆえに泰麒が無事でも次の王の先帝をする必要がない」
尚隆は頷く。
「それで全てだ。泰王も泰麒も存命なのだから、理屈の上では戴に政変はない」
「けれども大量の|荒民《なんみん》が流れてくるくらいです、戴は今、|酷《ひど》い状態なのでは」
「だろうな。少なくとも沿岸に妖魔が出没しているのは確かで、かつては多かった荒民も、このところ、ほとんどない」
「偽王が立って、正当な王による|郊祀《まつり》もやみ、国が荒れたということなのでしょうが、これを是正する方法はあるのですか?」
「正当な王がいる以上、偽王とは言わないが──まあ、そう言ってもいいのだろうな。この場合、戴の民が立つ、と言うのが、唯一の方法になる。泰王、泰麒がどうなったのかは分からないが、とりあえず諸侯と民が力を合わせて偽王を討つ。これで理を正すことはできる」
「けれども、泰王が死んだと勅使が来てから、すでに六年です。決起して偽王を討つだけの余裕があれば、とっくにそうしているのでは。それができないからこそ、李斎は|満身創痍《まんしんそうい》になってまで、私を頼ってきたのではないんですか」
「……かもしれぬ」
「とにかく、こうして延王に来てもらっても、ほとんど有効といえる情報がない。結局のところ、戴の状況というのは、そういう状況ですよね。選りに選って|燕朝《えんちょう》で蝕が起こり、甚大な被害が出たことすら伝わっていない。これは中央にいた官吏や、事情に明るくて当然の重臣、首都の民などはほとんど脱出できていない、ということの|証《あかし》なのでは。李斎がその唯一の例外です。つまりはそれだけ、戴の状況は|酷《ひど》い」
これには尚隆も、そして六太も沈黙した。
「李斎も、戴の民には自分たちを救う手段がない、と言っていました。とにかく、せめて人を|遣《や》って泰王と泰麒の捜索だけでも──」
陽子が言いかけると、それだ、と尚隆は声を上げる。
「戴について分かったことなど、あの程度だ。それならばわざわざ伝えに来るまでもない。俺はそれを止めにきた」
「それ?」
「いいか。何があっても、王師を戴に向かわせてはならぬ」
陽子は瞬く。
「……どうしてです?」
「どうしてもだ。そういうことになっている」
「私は延王の助勢を受けて慶に戻ったのだと思いましたが?」
それは違う、と彼は語気を強くした。
「お前が、俺に助勢を求めてきたのだ。国を追われた景王が|雁《えん》に保護を求めてきた。俺は王師を貸したにすぎん」
「……それは|詭弁《きべん》に聞こえます」
「詭弁でも何でもいい。それが天の|理《ことわり》なのだ。そもそも、軍兵を率いて他国に入るのは|覿面《てきめん》の罪という。王も麒麟も数日のうちに|斃《たお》れる大罪だということになっている」
陽子が困惑して室内を見渡すと、太師の|遠甫《えんほ》がこれに頷いた。
「|遵《じゅん》帝の故事がございましてな。ご存じですかな?」
「いや」
「昔、|才《さい》国に遵帝という王がおられたのです。その時代、隣国の|範《はん》で王が道を失い、多くの民が苦しめられておりました。範の民を哀れまれた遵帝は、|王師《おうし》を範に向かわせたのでござります。とはいえ、他国の王を|討《う》つわけにもいかず、範の高岫山に近い|里櫨《まちまち》に駐留させ、国を逃げ出そうとする民を保護し、連れ出そうとしただけのことじゃったのですが。ところが、王師が国境を越えて数日の後に麒麟は|斃《たお》れ、遵帝もまた|身罷《みまか》られた。天がお許しにならなかったのでございます」
「しかし、それは……」
|尚隆《しょうりゅう》は首を振る。
「天のすることに|是非《ぜひ》を言っても|致《いた》し方ない。たとえ侵略でなく、討伐でなく、民の保護のためであろうと、軍兵を他国に向かわせてはならない、ということなのだ。心情的には非がなくとも、これは天の|摂理《せつり》から言えば大罪、──しかも、遵帝の後、才の国氏は|斎《さい》から|采《さい》へと変わった」
言って、尚隆は一同を見渡す。
「遵帝が|登霞《とうか》なされて、通例通り、|御璽《ぎょじ》から斎王御璽の印影が消えた。次の王が登極したところ、御璽の印影は采王御璽に変わっていた、ということだ。御璽を変えたのは天の|御業《みわざ》、つまりはそれだけの大罪だったということだ。国氏が変わるなどということは、滅多にあることではない。その|滅多《めった》にないことが起こるほどの罪だった」
「では、見捨てろと」
「そうは言ってない。ただし、困っている者がいるのだから助けてやれば良い──というような、簡単なことでないのは確かだ。事は慶の国運に|係《かか》わる。くれぐれも早まるな」
「見捨てろと言っているのも同然です。延王は李斎がどんな酷い状態で|金波宮《きんぱきゅう》に駆け込んできたのか知らない。あれほどまでして頼ってくれた者を、保身のために捨て置けと言うんですか」
「勘違いするな。お前は慶の国主であって、戴の国主ではない」
「しかし」
尚隆は片手を|挙《あ》げる。
「|荒民《なんみん》の中には、こういう者もいる。泰王は|弑《しい》された、泰麒もまた弑された。そして、それを行ったのは、瑞州師の|劉《りゅう》将軍だ、と」
「……まさか」
「泰王も泰麒も、死んだと思えぬ以上、単なる噂の域を出ない。だが、荒民が逆賊の名として挙げたのは劉将軍が最も多かったことは覚えておく必要がある。
2
|李斎《りさい》はこの日、やっと|瘍医《いしゃ》の許しを得て、居座っていた|正寝《せいしん》から寄宿先を移ることになった。とはいえ、李斎はまだ足腰が立たず、|輿《こし》に乗せられて運ばれるままになるしかなかった。|虎嘯《こしょう》の先導によって連れて行かれたのは内殿にほど近い宮殿のひとつで、簡素な|園林《ていえん》に面する|客庁《きゃくま》に運ばれ、|榻《ながいす》に|降《お》ろされると、隣の|臥室《しんしつ》から子供が一人、駆け出してきた。
「お帰りなさい。準備は全部できているよ。僕一人で、ちゃんとやれたからね」
そうか、と|虎嘯《こしょう》は笑い、子供の肩に手を置いた。
「|桂桂《けいけい》という。俺の弟分だ。これから|女御《じょご》と一緒に、あんたの世話をしてもらうことになると思う。──桂桂、この人が戴国の将軍様だ。|李斎《りさい》殿という」
子供は|曇《くも》りのない笑顔で李斎を見た。
「大変なお|怪我《けが》だったんでしょう? もう|痛《いた》みませんか?」
「ええ──お世話を駆けて申し訳ない、桂桂殿」
李斎が言うと、子供はくすぐったげに笑った。
「呼び捨てでいいです。僕は|奄《げなん》みたいなもんなんです」
言って子供は、あ、と声を上げ、虎嘯を振り仰いだ。
「夏官の人が来て、|厩舎《うまや》に騎獣を置いていったよ。本当に僕が世話をしてもいい?」
「李斎がいいと言ったらな。あれは李斎の騎獣だ」
へえ、と桂桂は期待と賛嘆に満ちた顔で李斎を見る。
「……騎獣?」
李斎は虎嘯を見返した。
「では、|飛燕《ひえん》が?」
「ああ、騎獣のほうはすっかりいいようだ。一度、顔を見せてやりたかったんだが、正寝に騎獣を入れるのに天官が反対してな」
「何とお礼を申し上げたらいいのか……」
「俺に礼を言う筋合いじゃないさ。それより、軽々に世話をさせてもいいかね? と言っても桂桂は騎獣の世話をしたことはないんで、あんたにいちいち采配してもらわなきゃならないんだが」
「もちろんですとも」
李斎が言うと、桂桂は、小さくやった、と声を|漏《も》らした。
「それよりお客にお茶もないのか?」
虎嘯が言うと、桂桂は飛び上がる。そうだった、と明るい声を残して堂を出ていった。
「……失礼だが、あの子は虎嘯殿の?」
「いんや。俺とは赤の他人だ。身寄りをなくして、陽子が世話しているんだ」
「陽子……景王が?」
「そう。世話をすると言っても、実際に面倒を見ている暇があるはずはない。それで俺が預かっているんだがな」
「では、ここは虎嘯殿のお宅だろうか」
「さて。どういうことになるんだろうな」
李斎が瞬くと、
「多分、ここは|太師《たいし》の邸宅ということになるんだと思うが。太師府の裏なんだ。|府第《やくしょ》の一部だったんだが、太師の|遠甫《えんほ》が特に許されてここに住んでる。ここで寝泊まりしてもいいって事になってるんだ」
「では、太師が|虎嘯《こしょう》殿の縁者……」
「いや、やっぱり赤の他人だ」
「……失礼だが……それはどういう」
|李斎《りさい》が首を傾げたとき、|桂桂《けいけい》が茶器を抱えて駆け戻ってきた。
「虎嘯、陽子が来ているよ」
「陽子が?」
「うん。李斎様に会いたいって言ってるんだけど、お通ししてもいいのかしら」
虎嘯は李斎を問うように見る。
「勿論……どうぞ」
頷いて、虎嘯と桂桂が退出し、代わりに|堂室《へや》に入ってきた客人は五人、景王を筆頭に、昨日も会った景麒と|冢宰《ちょうさい》、そして顔を見たことのない男と金の髪の子供が一人だった。
「こちらは|雁《えん》国の|延《えん》王、延台輔であらせられる」
李斎は驚いて、その主従を見比べた。
「雁国のお方が……なぜ」
「泰王、泰台輔とは御縁があったと伺っている。──それで、李斎、昨日の続きなのだけれども。実際のところ、戴は今、どういう状態なのだろう」
李斎は残された手で胸を押さえた。
「とても酷い状態です。何よりも主上と台輔がおられないのですから」
李斎が答えると、碧の目がひたと李斎を見る。
「戴の|荒民《なんみん》の中には、泰王、台輔は弑されたという者もいるとか。その犯人は、瑞州師の将軍だとも」
李斎は目を見開いた。
「違います──それは誤解です!」
「確認しただけだ。落ち着いて」
跳ね起きようとした李斎を、陽子は押し戻す。
「違うのです。確かに私は、長く大逆の罪人として追われてはおりましたけれども。ですが決して、そのようなことは」
「……分かったから」
覗き込んでくる景王の目には、気遣う色が浮かんでいた。李斎は息を吐く。緊張からか|安堵《あんど》からか、|痺《しび》れるように強い倦怠感が押し寄せてきた。
「……私が弑した、あるいは、他の誰かが私を操っていたのだとして、何度も追撃の命が出されました。ですが、それは違うのです……」
|李斎《りさい》は片手で胸に下がった珠を握る。
|驍宗《ぎょうそう》が文州へと向かった当時、李斎ら残された|王師《おうし》は|鴻基《こうき》の防備を任されていた。防備だけではない。王師には果たさねばならない役目が無数にあった。李斎らは、文州に向かった兵卒のぶんも、それらの職務を遂行せねばならなかった。
──その最中、ひとつの噂が王宮の端々で|囁《ささや》かれるようになっていた。日々忙殺される李斎は、長くその噂を聞かなかった。早朝から深夜まで、鴻基を開けた軍兵のぶんも駆け回り、疲れ果てて官邸に戻ったある夜、|花影《かえい》が不安げな顔をして待っていた。
「ずいぶん待たせたとか」
下官に花影が来て帰宅を待っていたことを聞き、李斎は恐縮して|客庁《きゃくま》に入った。春はまだ浅く、深夜の|堂屋《ひろま》は底冷えがしていた。そこに下官も連れず、一人でぽつんと待っている花影の姿は、いかにも寒々しく、しかも心細げな印象を与えた。
「使いをくれれば、早めに戻ったのに」
李斎が言いながら客間に入ると、花影はほっとしたように笑った。
「──とんでもありません。お忙しいのに、ごめんなさい」
留守居の者が気を利かせて酒肴を出してくれていたようだが、花影がそれに手をつけた様子はなかった。待っていた花影の緊張した様子、李斎を認めたときの貌、──何か良くない話なのだな、と李斎は悟った。
「李斎は、妙な噂があるのを聞きましたか」
「──噂?」
「ええ。私は軍事に|疎《うと》いので、どう受けとめて良いか分からなくて……」
花影は言って、ひたと李斎の目を見上げる。
「……主上がお出ましになったのが、文州で|轍囲《てつい》だというのは、出来過ぎではないか、という声があるのです」
「出来過ぎ──?」
ええ、と花影は不安そうに両手の指を組んだ。
「轍囲は主上と深い縁のある土地です。単なる乱なら主上が自らお出ましになるようなことは考えられない、そこが轍囲だったからこそ、主上はお出ましになったのだと、言う者がいるのですが」
「それは……確かにそうだろうけど。|巌趙《がんちょう》、|阿選《あせん》、|英章《えいしょう》と、禁軍の将の誰をとっても、|土匪《どひ》の乱を鎮圧するのに役不足ということはない。実際、主上は最初、英章をお出しになったわけだし。乱が拡大して、いささか英章一人の手には余る風向きになってきたのは確かだけれど、ならば他の誰かを遣れば済むこと、あえて主上がお出ましになる必要などない。なのに阿選の軍を|割《さ》いてまで手勢を作られ、自ら率いてお行きになったのは、そこが轍囲だからだということは確かだと思うが」
言いながら、|李斎《りさい》自身も、言われてみれば確かに出来過ぎだ、という気がした。そこが|轍囲《てつい》だからこそ、|驍宗《ぎょうそう》自ら出陣することに疑問を覚えなかったが、こうして言葉にしてみると、何か不自然な臭いがする。
|花影《かえい》は得心したように、ひとつ頷いた。やはり暗い表情だった。
「新年の|冬狩《とうしゅ》による混乱、それに乗じて問題が吹き出すことは予想されていたことです。文州の|土匪《どひ》は、中でも最も懸念されていたことでしたし、実際に真っ先に文州で動乱の起こったことには何の不思議もありません。ですが、それが選りに選って轍囲を巻きこんだことを考えると、そもそも文州で動乱が起こったという当たり前のことも、当たり前|過《す》ぎて|可怪《おか》しい、と」
「……いわれてみれば、確かにそうかもしれない。そこが文州で、中でも轍囲で、だからこそ主上がお出ましになることに誰も疑問を覚えなかった。逆に言えば、主上を引っ張り出すには、文州で轍囲であるのが自然だ、ということになる」
何者かが、故意に驍宗を引きずり出した──。李斎はそう思い、不安そうな花影の顔を見返した。
「まさか……これは、主上に対する大逆の一環だと」
「そう考えられますでしょう? けれども、逆だという声もあって」
「逆? 逆というのは一体──」
「私に巧く説明できるかどうか……」
花影は少しの間、言葉を探すようにしてから、
「もしも主上に対し、逆心を持つ誰かがいたとします。とはいえ、王宮の中におられる主上に対し危害を加えるのは至難の|業《わざ》、ですが主上を王宮から出すことができ、戦地のような混乱した場所に連れ出すことができれば、またとない機会が生まれることになります。だから逆賊は乱を起こし、主上を|誘《おび》き出すことにした。けれども、おまりに唐突な乱では主上の疑念を招きます。しかも乱があったからといって必ず主上が自らお出ましになるというものでもありません。そこで文州の土匪を使った。文州で乱が起こることは、いかにも自然なことだからです。しかも文州には轍囲がある。主上と轍囲の強い信義関係を考えると、轍囲に何かがあったときには、主上が自ら助けに向かわれることが十分に予想されます。だからこそ謀反を企んだ誰かは、あえて文州を使い、轍囲を使った」
「それは大いにあり得る」
「けれども、これは逆から見ることもできます。轍囲なら主上がお出ましになる可能性が高い──これは、返して言えば、轍囲に何かあれば、主上が宮城を|空《あ》けられても不自然ではない、ということです」
「……よく」
分からない、と言おうとした|李斎《りさい》を、|花影《かえい》は押し留める。
「つまり、全ては主上のお考えではないか、ということなのです。主上は何らかの理由で宮城をお空けになりたかった。だからといって、朝廷が整ったばかりのこの時期、あえて出られる理由がございません。そこで|轍囲《てつい》を使ったとは考えられないか、と」
「轍囲に危難があれば主上がお出ましになっても不自然ではない──それは分かるが、なぜ主上は花影も言うようにこの時期、あえて宮城を開ける必要があるんだ?」
「|冬狩《とうしゅ》の……続きではないかと」
花影は低く言った。李斎はまさか、と笑った。
「確かにこの時期、主上が乱の鎮圧に向かわれ──宮城を空けられれば、逆心のある者は|何某《なにがし》かの行動を起こすかもしれないな。けれども、私はそんな計略など聞いてない」
「ええ、私もです。……ですから、これは私たちを試すものなのではないか、と。あるいは……最悪の場合、私たちを処断するための」
そんな、と李斎は声を上げた。
「あり得ない」
少なくとも李斎は、驍宗に対し、いかなる逆心も抱いていない。抱いていると誤解されるような振る舞いもなかったつもりだった。李斎はむしろ、驍宗の|麾下《ぶか》と巧くやってきた。驍宗自身とも──そして、誰より泰麒とも。
花影は身を縮め、顔を|歪《ゆが》める。
「……そう思いたいのです、私も。ですが、残った者の顔ぶれを見よ、と言われると」
「残った者?」
「禁軍では、|巌趙《がんちょう》殿、|阿選《あせん》殿の二名。そして|瑞《ずい》州師では、李斎殿、|臥信《がしん》殿の二名ですね。このうち巌趙殿、臥信殿は、主上の軍で|師帥《しすい》を努めてこられた方々です。対する阿選殿は驕王の時代、禁軍の右軍を任されてきた方、李斎殿は承州師の将軍でした。|麾兵《ぶか》の将軍が二名で二軍、そうでない者が二名で二軍。このうち、主上は阿選殿の軍から半数を|割《さ》き、文州に連れて行っておしまいです。つまり、阿選殿は力を半分に|削《そ》がれた──」
「それは邪推だろう」
「乱の平定に何よりも深い関わりを持つのは、まず|夏官《かかん》、そして武器を用意する|冬官《とうかん》です。夏官長大司馬は|芭墨《はぼく》殿、冬官長|大司空《だいしくう》は|琅燦《ろうさん》殿。どちらもやはり主上の麾兵です。主上が王宮を空けられれば、台輔だけが残されることになりますが、その台輔の間近に控えたのは州|令尹《れいいん》の|正頼《せいらい》殿、そして天官、天官長|太宰《たいさい》の|皆白《かいはく》殿も、やはり主上の麾下です。麾下でないのは、秋官の私、春官長の|張運《ちょううん》殿、そして地官長の|宣角《せんかく》殿で、私たちはほとんど乱の平定には関わりを持っておりません。詳しいことも聞かされてはいないし、聞く必要もない……」
「|冢宰《ちょうさい》がいる。軍を動かすにあたって冢宰が関与しないということはあり得ないが、冢宰の|詠仲《えいちゅう》殿は驍宗様の麾下にあったわけではない。もともと|垂《すい》州候で──」
いって、|李斎《りさい》は首を横に振った。
「そう──邪推だと思うな。そもそも主上は将軍だったお方、もともと主上に心を預けていたのも驍宗軍の出身者だ。だから主上に関わりの深い人間ほど、軍務に近いところにいることになる。その出自から考えれば当たり前のことだろう? 乱の平定に関与する者は|麾兵《ぶか》であり、そうでない者は新参だというのは、計略あってのことではなく、適所適材を考えた結果、なるべくしてそうなったと考えるべきだ」
「そう……考えていいのでしょうか」
|花影《かえい》は不安そうに指を額に当てた。
「|噂《うわさ》を耳に入れてくれた者からそれを聞いて、私はぞっとしました。……正直言って、私には身に覚えがありましたから」
「花影」
「いえ、逆心がある、ということではないんです。ただ、私は最初、なかなか主上のお考えに|馴染《なじ》めませんでしたから。何もかも性急すぎるように思えて、とても不安だった。疎外感もありました。心細くて不安だった。……李斎のところに泣きつきに来るぐらいに」
李斎は頷いた。
「今は納得しています。性急だとは思いますが、性急に過ぎるとは思いません。不安に思うこともなくなりました。主上のなさることには、必ず信を置くに足る理由があるのです。けれども、一時、不安だったのは確かで、それは余人にも見えていたことでしょう。主上に批判的であり、否定的だと受け取られてもしかたのない態度だったのかもしれません。そういう誤解があっても無理はない──そう思うと……」
「けれど……」
「春官長の|張運《ちょううん》殿もそうです。以前はずいぶん、主上に批判的な声を上げておられましたし、|冢宰《ちょうさい》の|詠仲《えいちゅう》殿も、以前はずいぶん不安そうにしておられたのを知っています。そして、|阿選《あせん》殿や|巌趙《がんちょう》殿、それに李斎、あなたにも、とかくの噂が」
「噂ですか……私の?」
ええ、と花影は青ざめた唇を震わせる。
「阿選殿は、驕王禁軍の中で主上とは双璧といわれたお方です。その一方が王になり、その一方が臣下となる。それが面白いはずはない、と」
「そんな。──まさか、その伝で私も?」
「はい。こんな事を耳に入れて、不快だと思われるでしょうが。李斎は、主上と一緒に昇仙したでしょう。やはり、それで主上が選ばれたのは、快くあるまい、という声があるのです。巌趙殿は元々驍宗軍の麾下ですが、そもそもは禁軍に名だたるお方で、禁軍将軍に空席ができたとき、巌趙殿こそがそこに就かれるのではと思われていた、とか。それが蓋を開けてみると、異例の若さで主上がお入りになった。巌趙殿はずっと驍宗軍におられたけれども、実は含むところがあったのではないか、と」
「そんな──そのように邪推すれば、どんな人間にも罪を作ることができる」
「私もそう思います……これは悪意に過ぎないと」
「それ以上だ。確かに台輔は私の目の前で主上を選ばれたが、私はそれを|悔《くや》しいと思ったことはない。腹立たしかったに違いないという|輩《やから》は、自信ならば腹立たしい、許せない、目の前で|誉《ほま》れを横取りしていった者を憎むだろう、だから私もそうに違いない、と言っているのだろう。それは他者も自己のような卑劣漢に違いないと、そういう」
言いかけ、|李斎《りさい》は口を|噤《つぐ》んだ。結局のところ、人は自己を基準に他者を推し量るしかない。自分なら痛いから痛かろうと思う|惻隠《そくいん》の心と、それは同じ種類の者だ。自己を基準に他者を量ること自体は否定できない。──あとはもう、本人の有りようの問題に過ぎない。
「……悪い。そう……確かに、そんなふうに思う者がいても不思議はないのかも。人の目はそういうものなんだろう。だが、私は主上に害意など抱いていないし、それは主上もご存じだと思う。それは|阿選《あせん》も|巌趙《がんちょう》も同様だと私は思うが。主上は阿選に対しては常に敬意を払っておられるし、巌趙に至っては、家族も同然に思っておられるようだ。兄と言えば語弊があるが、ごく親しい年上の者として頼みにもしているし、巌趙も主上を誇りにしているように見受けられる」
「……そうですね」
「主上が私たちを処分するために、宮城をお空けになったとは考えられない。第一、主上は台輔を残しておいでだ。もしも|冬狩《とうしゅ》の続きなのだとすれば、台輔を残しておかれるはずがない」
「そう──そうですね」
花影は、ほっとしたようにやっと笑みを見せた。
「ただ……私たちの誰かにお疑いがあって、動向を見る、そういうことはあるかもしれないけれども。こればかりは、ないとは言い切れないな。ただ、その場合にも、台輔を残してらっしゃることが気になる。やはりむしろ、何者かに誘き出されたと考えたほうが……」
「ええ……」
花影は言って、硬い表情を見せた。
「主上はもう文州にお入りになった頃でしょうか。何事もなければ良いのですけど」
李斎は頷いた。
「巌趙たちにも耳打ちしておこう。主上がお戻りになるまで、耳をそばだてておいたほうが良さそうだ」
翌日、巌趙は李斎の話を聞いて高らかに笑った。
「いろんなことを考え出す奴がいるもんだな」
「まあ──悪意ある者は、他者の中に悪意を見るものだ」
|阿選《あせん》はそう言って苦笑する。対して、溜息をついたのは|臥信《がしん》だった。
「どうして、そこに私の名前だけないのかなあ。|驍宗《ぎょうそう》様を|妬《ねた》むまでもない小物だと思われてるんだったら、がっかりだな」
|李斎《りさい》は軽く笑った。昨夜、花影と話をしているときに感じた不安が、彼らの軽やかな振る舞いを見ると、|杞憂《きゆう》のように思われた。
「実際、小物だから仕方あるまい」
「やっぱり、そんなにひどいですかね」
言って笑った|臥信《がしん》はしかし、傭兵家としては傑物だと李斎は評価している。王師の訓練で手を合わせるのが一番苦手な相手だった。堅実でまっとうな戦をする|巌趙《がんちょう》、|霜元《そうげん》に対し、臥信は奇計奇策の将だ。坑道を読み|難《にく》く、油断がならない。それは|英章《えいしょう》も同様だったが、英章の陰に対し、臥信の詐術には奇妙な明朗さがあった。
「どうせ疑うなら英章を疑ったほうがいいのじゃないか。俺は常々、何だって英章の奴が驍宗様の寝首を|掻《か》く気にならんのか不思議だ」
巌趙の言に、臥信も頷く。
「全くです。そのうえ、何だって|正頼《せいらい》と馬が合うのか」
「正頼には取り柄というものが一分もないから、足蹴にするのに気が|咎《とが》めなくていいと、英章は言っていたぞ」
李斎は笑って口を挟んだ。
「正頼も似たようなことを言ってましたよ。英章は腹の底まで真っ黒だから、白か黒か悩まなくていいので楽なんだそうです」
「……なんだ。似たもの同士なんだ」
まあ、と失笑しながら阿選が口を挟んだ。
「用心は必要だろう。確かに、文州で轍囲は出来過ぎだ」
ぴたりと巌趙が笑みを引き、頷いた。阿選は驍宗の麾下ではないが、巌趙らからも一目を置かれている。李斎は一度、新兵の訓練で手合わせをしたことがあったが、|怜悧《れいり》な用兵──という言葉があるとすれば、そういう将だという気がしていた。李斎は驍宗と手を合わせたことはないが、聞くところに寄れば驍宗と阿選は将としても似ているらしい。双璧と言われてきた所以だろう。
巌趙は太い腕を組む。
「……それとなく文州と|誼《よしみ》ある者を調べさせておいたほうがいいかもしれん」
「驍宗様に耳打ちしておくべきですよ。青鳥を飛ばしておきましょう」
3
その日の夕刻だった。所用があって|李斎《りさい》が州府に向かうと、|府第《やくしょ》の|庭院《にわ》に|泰麒《たき》が駆け出してきた。左右を見渡しながら回廊を降りてきた泰麒は、李斎を認め、声を上げて駆けてくる。いつもならあどけなく笑って駆け寄ってくるものが、この日は何かに追われているかのような表情をしていた。
「李斎──捜していたんです」
言って駆け寄ってきた泰麒は、しがみつくようにして李斎の手を|掴《つか》んだ。
「|驍宗《ぎょうそう》様が大変だというのは、本当なんでしょうか」
「大変──とは?」
「驍宗様がお出かけになったのは、|謀《はか》られたからで、文州では驍宗様を倒そうとする悪い人たちが驍宗様を待ちかまえているんだって──」
「まさか」
李斎は無理にも笑ってみせる。
「そんな|法螺話《ほらばなし》を誰がお耳に入れました? 驍宗様は、暴動を|鎮《しず》めに行かれただけですよ」
李斎が言うと、泰麒は身を引いた。いっそう表情が硬かった。
「|正頼《せいらい》もそう言ってました」
「そうでしょう? 何も心配なさることは──」
言いかけた李斎に、泰麒は首を振る。
「李斎も正頼も|嘘《うそ》をついてます。僕が子供だから、心配させまいとして、そう言うんです」
李斎は困惑し、その場に|膝《ひざ》をついた。泰麒の顔を正面から覗き込む。
「李斎は嘘など申し上げませんよ。……なぜ嘘だなどとおっしゃるのです?」
「六官で話し合って僕には知らせないことにしたんだって、|琅燦《ろうさん》が教えてくれました」
李斎は眉を|顰《ひそ》めた。|花影《かえい》が六官を召集して、李斎らと同様の話し合いを持ったことは知っている。そこで、この件を泰麒に知らせたものかどうか、話題に出ただろう事も推測できた。本来州師を動かすには泰麒の承認が必要だが、今のところは|令尹《れいいん》の正頼が実務を代行していたし、そもそも、まだ海のものとも山のものとも知れない噂話、憶測の域を出ないものなのだ。ここで泰麒の耳に入れ、不安を抱かせる必要もなかろう、という結論に達しただろう事は予想がつく。──それを、冬官長の琅燦が、あえて耳に入れた、ということなのだろうか。
「正頼に訊いても、何の心配もないって言うんです。ちょっとした暴動で、驍宗様が出ていったのも、戦うためじゃなくて、民や兵を励ますためなんだって。危険なことは何もないから心配しなくても大丈夫だって──琅燦が、そう言うだろう、と言った通りに」
|李斎《りさい》は立ち上がり、|泰麒《たいき》を|庭院《にわ》の外へと促した。嫌がる泰麒に低く、
「ここは誰が来るものか分かりません。台輔のそんな様子を見たら、官が誤解してしまうでしょう」
「でも……」
李斎は、微笑む。
「宰輔が官を不安にさせるような振る舞いをなさるものじゃありませんよ。とにかくお部屋までお送りしましょう」
俯いた泰麒の手を取り、|正寝《せいしん》のほうへと抜けていきながら、李斎はできるだけ明るい調子で話をした。驍宗が王宮を空けたのを不安に思って、いろいろな憶測を流す者がいること、その中には確かに、全ては驍宗を文州に誘き出そうという奸計だという噂もあること、けれどもそれは噂に過ぎないこと。そんな噂で官が浮き足立てば、いろいろと|障《さわ》りが出てくるから、どうしたものか、六官や将軍たちは相談をしていたこと。
「暴動が起こったことは事実ですし、だから御旅行に行かれるように安全だ、というわけにはいかないかもしれません。ですが、文州には先に|英章《えいしょう》も入っておりますし、|霜元《そうげん》も一緒です。もともと驍宗様は、それはお強い将軍だったんですから、心配なさってはかえって失礼ですよ」
「でも、英章はとても手こずっているって。それで驍宗様に助けを求めてきたんでしょう?」
李斎は、これには本当に目を丸くした。
「思ったよりも暴徒が多くて、英章が手こずっているのは確かですけど、助けを求めてきたなんてことはありません。主上が霜元を連れて行かれたのは、民や兵を勇気づけて、早く文州を安全にしようと考えられたからですよ」
「……本当?」
李斎は笑って頷いた。泰麒はほっとしたように息を吐いたが、やはり不安そうな顔をしていた。気を引き立てようと、李斎はあれこれと話題を探したが、泰麒はどこか上の空で、正寝の宸殿が見える頃には、すっかり押し黙ってしまっていた。李斎を信じるべきかどうか、迷っているのだという気がした。
「……やはり李斎のいうことは、信用なりませんか」
柔らかく訊くと、泰麒は困ったように李斎を見上げてくる。
「分かりません。……僕、どう考えたらいいのか分からないんです」
言って俯いた横顔は、依然として固かった。
「僕は子供で、だから誰も特別扱いしてくれるんです。いろんなことを、僕には見せないようにしたり、話さないようにしてる。話しても、僕では難しすぎて分からないって事をみんな分かってて、分からないのを僕が気にしたらいけないと思って、言わないでいてくれるんです。いつもそうだって知っているから、李斎のいうことが本当なのか分からない」
「……|台輔《たいほ》」
「もしも|琅燦《ろうさん》の言うことや、下官の噂話のほうが正しかったとしても、|李斎《りさい》は違うって言うんだろうな、って。心配させたら可哀想だからって、違うっていってくれるんだと思うんです。……|正頼《せいらい》も、他のみんなも」
言って|泰麒《たいき》は、切なげな息を吐いた。
「僕が子供だから、仕方ないんです。……でも、僕だって|驍宗《ぎょうそう》様のことが心配です。遠い危険なところにお出かけになってしまったんだから。僕は驍宗様がお|怪我《けが》をなさったり、危険な目に遭われるのは嫌です。もしも大変なのだったら、助けて差し上げたい。きっと僕には何もできないに決まってるんだけど、それでも、僕に何かできることはないか、一生懸命考えて、できるだけのことをして……」
泰麒は言葉を切った。目に涙が浮かんでいる。それと同時に、強い落胆のようなものが全身から漂っていた。
「……僕はそれが、自分のお仕事なんじゃないかと思うんです。みんなにしたら、きっと余計なことなんだろうけど……」
李斎は微かに胸が痛むのを感じた。泰麒は事実として、まだ幼い。だからこそ、周囲の者は、この心優しい子供に辛い思いをさせまい、悲しませるまいとして心を|砕《くだ》く。それは泰麒に対する情愛でしかないのだが、当の麒麟にしてみれば、子供だからと|爪弾《つまはじ》きにされることと何ら変わりないのかもしれなかった。──驍宗なら|報《しら》せるのだろうか。李斎はふと疑問に思った。
「そういうことではないんですよ……泰麒」
李斎は言ったが、泰麒は李斎の手を放し、門殿へと駆け込んでしまった。思い溜息をついてそれを見送り、李斎は|踵《きびす》を|返《かえ》す。まっすぐに冬官府へと向かった。
|琅燦《ろうさん》はまだ冬官府に残っていた。下官に会いたい旨を告げると、しばらくして正庁へと招き入れられた。琅燦はそこで、大量の文書と書籍に埋もれていた。
「適当に坐る場所を探してくれる?」
琅燦は本から目を上げずに手を振る。見える歳の頃は十八、九の小娘、六官の長にはおよそそぐわない外見だったが、恐ろしく博識で、冬官長|大司空《だいしくう》として、これ以上の人材はないことは確かだった。冬官は百工を有する、と言う。冬官長大司空の下には、|匠師《しょうし》、|玄師《げんし》、|技師《ぎし》の三官があって、国のための物品を作り、呪具を作り、新しい技術を探す。三官は、それぞれ無数とも言える工匠を抱えているが、琅燦とどの工匠とを会話させても、およそ話が通じないということがない、と聞いていた。
「……台輔に、なぜあんな事をおっしゃったのです」
李斎が言うと、琅燦はやっと顔を上げた。そのことか、という|貌《かお》をした。
「耳に入れておいたほうがいいと思ったからだな」
「まだ根拠も何もない噂話に過ぎません。それを──」
「耳に入れて、|徒《いたずら》に泰麒を心配させるな、って言うわけだ? でも、驍宗様が|謀《はか》られた可能性があることは事実なんじゃないの?」
「可能性にすぎません」
「あり得るってことでしょうが。それが本当なら大事だし、宰輔が知らないじゃすませれないと思うけどね」
「しかし」
|李斎《りさい》が言いかけると、|琅燦《ろうさん》は顔を|顰《しか》めて本を閉じる。椅子の上に片膝を立てて、頬杖をついた。
「私に言わせると、あんたらは甘すぎるんだよね、|麒麟《きりん》さんに。ちやほやしたい気持ちは分かるけど、事は国のことなんだから、程度ってもんがあるでしょうが。ひょっとしたら地方の乱どころじゃなく、大逆の可能性がある。それを一国の宰輔が分かってなくてどうするんだ。宰輔には宰輔としての役割があるでしょうが。年齢なんか関係ない。州師を動かすのにだって宰輔の|允可《きょか》が必要なんだからね」
「それは……ですが」
「そんな怖い貌で押し掛けてこられるようなことじゃないよ。私は|理《り》を通しただけ。|条理《じょうり》を曲げているのは、そっちのほう」
李斎は押し黙った。琅燦の言は間違ってはいない。
「これでもし、主上に何かあったら、どうするわけ。台輔は小さいけど、無能でも無力でもない。そうやって一事が万事、台輔を憐れんで庇うのは、台輔を侮ることと一緒なんじゃないの。主上に危険があって、それを救うために台輔にできることがあるんだったら、やってもらわないといけない。やらせてあげないのは、かえって酷だと思うけどね」
泰麒のひどく落胆した様子が|甦《よみがえ》った。
「……そうですね」
うん、と琅燦は満面の笑みを浮かべる。
「李斎は物わかりが早い。たいへん、|宜《よろ》しい」
李斎は思わず苦笑した。
「琅燦殿は、これが|弑逆《しいぎゃく》だと思っておられますか」
李斎が問うと、琅燦は不意に表情を硬くして膝を抱え込んだ。
「……それが分かればね」
琅燦は深い息を吐く。
「分かってからでは間に合わないかもしれない。文州までは遠いから。|空行師《くうこうし》を使っても数日はかかるだろう。いざというとき、頼りになるのは戴国秘蔵の|宝重《ほうちょう》とやらなんだけど、あれを使えるのは王か麒麟──泰の|国氏《こくし》を持った者だけだ。宝重を使えるのも台輔。そして多分、切羽詰まったとき、一番確実で、当てになるのは、台輔の|使令《しれい》だ」
|李斎《りさい》は、はっとした。|琅燦《ろうさん》は|悪戯《いたずら》っぽく上目遣いに李斎を見る。
「私に言わせると、あんたらがなんだって台輔をああも非力な子供みたいに扱うのか分からない。いるんでしょ、|饕餮《とうてつ》が」
「……それは……ええ」
麒麟は妖魔を使令として使役する。泰麒は不幸にして|蓬莱《ほうらい》で生まれ、育った。そのせいで無数に持っていていい使令をただの二しか持っていない。一方は麒麟の養い親となる|女怪《にょかい》で、これは使令の数のうちには入らないといっていい。厳密に言えば使令は一。唯一の使令が饕餮だった。ほとんど伝説の域にいる強大な妖魔。
「化け物中の化け物だよ、饕餮は。それが|憑《つ》いている子供を非力と言うんだったら、私たちなんか、みんな赤ん坊みたいなもんじゃない」
言って琅燦は目を細め、どこともしれない宙をひたと見据えた。
「言いようによっちゃあ、饕餮以上の化け物なんだよ……あの麒麟さんは」