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色んなことにやんややんや言う感じ
二章
1
|李斎《りさい》の背に|靠枕《まくら》が|宛《あて》がわれた。
「苦しくないですか?」
|訊《き》いてきた|女御《にょご》は、|鈴《すず》という一風変わった名だと、李斎はこれまでに学んでいた。結局、李斎は、先に目覚めたときにも、景王に会うことができなかった。|瘍医《いしゃ》の手当を受けている間に再び寝入ってしまったからだ。
その後も何度か目覚めたが、瘍医はまだ面談はならない、と言った。その禁がようやく解けたのがこの日──さらに二日後のことだった。
「……お手数をかける」
久々に半身を起こした。思ったよりも身体は|萎《な》えているようで、靠枕に|凭《もた》れていても息が弾んだ。|臥牀《しんだい》を出ることは、瘍医が許さなかった。このため、李斎は|牀榻《ねま》に客を迎えることになったのだった。
|鈴《すず》が顔を|拭《ぬぐ》って髪を整えてくれ、薄い|襖《うわぎ》を掛けてくれた。|李斎《りさい》の世話は、この|女官《じょかん》が一人で請け負っているようだった。景王は|登極《とうきょく》から間がなく、ゆえに宮中の人手が少ないのかもしれなかったし、ひょっとしたら李斎は信用されておらず、万が一李斎に反意あったときのために、あえて女官を一人に限っているのかもしれなかった。
|身繕《みづくろ》いを終えところに、三人の客人が入ってきた。最初に|牀榻《ねま》に足を踏み込み、李斎の枕許に腰を下ろしたのは、忘れようのない|緋色《ひいろ》の髪。──景王陽子だった。
「……具合はいかがだろう?」
「お陰様で命拾いをしたようです。心からお礼を申し上げます。一方ならぬご配慮を賜った上、このような|不躾《ぶしつけ》な|有様《ありさま》で御前を汚します無礼をひらにご容赦ください」
「そんなことは気にしないでもらいたい。心痛も多いだろうが、まず養生をして欲しい。そのために及ばぬながら、できるだけのことはさせてもらう。必要なものがあれば、何なりと言ってもらって構わない」
年の頃は十六、七、もの慣れないふうの若い女王の言葉には、誠意が|溢《あふ》れていた。もっと頼りなくやわやわとした人柄を想像していた李斎は、どこか武人風の景王のありように意外なものを感じた。──そう、|泰麒《たいき》とは趣が違う。李斎は、同じ|蓬莱《ほうらい》の出身だというだけで、根拠もなく泰麒のような人物を想像していた自分に、この時初めて気づいた。
「……ありがとうございます」
「少し、話を聞かせてもらって構わないだろうか? 苦しければ、そう言ってもらいたいのだけど」
「いえ。私のほうが|奏上《そうじょう》したいことがあって、参じたのですから」
「女性の|牀榻《ねま》に無礼かとは思ったが、立ち会いを許してもらいたい。こちらは小国の|冢宰《ちょうさい》で|浩瀚《こうかん》と申す。そしてあたらが、|景麒《けいき》」
言われて李斎は、ここでも泰麒を基準に全てを把握していた自分に気づき、苦笑せねばならなかった。──そう、金の髪なら麒麟に決まっている。だが、泰麒の麒麟は黒麒だった。|磨《みが》いた鋼のような髪の。
「お噂はかねがね伺っておりました、景台輔」
李斎が言うと、景麒ははっとしたように李斎を見る。李斎は笑って見せた。
「台輔から……泰麒からよく。私は幸い、台輔には親しくしていただいたので。とてもお優しい方で、たくさん親切にしていただいたのだ、と台輔は始終言っておられました。台輔は景台輔のことをとてもしたっていらっしゃるふうで」
李斎が言うと、景麒は困惑したように視線を|逸《そ》らし、同時に、景王は驚いたように景麒を振り返った。
「……何か? 失礼なことを申し上げましたでしょうか」
いえ、と|景麒《けいき》は口の中で|呟《つぶ》き、陽子は笑う。
「とんでもない。珍しいことを訊いたので驚いただけだ。……それで、その|泰麒《たいき》なのだけども。|戴《たい》で何が起こったのか聞かせてもらいたい」
はい、と|李斎《りさい》は|頷《うなず》いた。
「……何から申し上げれば良いのでしょう」
戴の先王は|諡号《しごう》を|驕《きょう》王という。百二十四年の|治世《ちせい》を|布《し》いた王だった。
驕王は華美を好み、|奢侈《しゃし》に|耽溺《たんでき》した人物だったが、政治に於いては一線を守った。遊興に|耽《ふけ》る相手を宮中に召し上げ、|美姫《びき》を|後宮《こうきゅう》に集めて国庫を|湯水《ゆみず》のように|蕩尽《とうじん》したものの、それらの者に官位を与え、政に関わらせることは絶対になかった。|寝《しん》に於いては暗、|朝《あさ》に於いては明、と言われる所以である。
事実、施政者として賢明だったかどうかはさておき、朝廷に於ける驕王は、少なくとも|暗愚《あんぐ》の王ではなかった。慣例を重んじ道義と秩序を重んじ、急激な変化や改革を嫌って穏やかで堅実な治世を築いた。その治世の末期、国庫は|破綻《はたん》し国は困窮したものの、他国に比べ、国政の腐敗は最小限で食い止められたといっていい。|間隙《かんげき》を|窺《うかが》うようにして品性|卑《いや》しい官吏が王朝を食い荒らしていたし、驕王が|斃《たお》れて以後、それは|甚《はなは》だしく拡大したのだが、それでも戴は良く踏みとどまった方だと言えるだろう。州侯や官吏、軍人には条理の分かった人材が良く残っていた。
その最たるものが、|驍宗《ぎょうそう》だった。驍宗はそもそも禁軍将軍、先王の信任も篤い寵臣の一人だった。彼は国政を|知悉《ちしつ》しており、彼に崇敬を寄せる人材を多数、持っていた。|余州《よしゅう》にも名高い驍宗軍、その|麾兵《ぶか》と|軍吏《ばくりょう》たち。驍宗は泰麒の制約を受けて登極した。朝廷は|速《すみ》やかに整い、戴は新しい時代に向けて滑り出した。
──驍宗には玉座に対する備えがあったのだ、と言われる。
それは一面、真実だった。
驍宗は先帝の天命が遠からず尽きることを早くから理解していた。新王が即座に立つにせよ立たないにせよ、その後の波乱が避けられないことを見越しており、大きく傾いた戴を支えるために、それなりの人材が必要であることを理解していた。驍宗は麾兵を育て、軍吏を育てた。驍宗所領の|乍《さく》県は「小さな戴」だった。そこに配置された文官武官は、一回の県吏に過ぎなかったにもかかわらず、国政というものを理解しており、戴の国情を旧六官よりも詳細に把握しており、驕王朝の末期からすでに国政の端々に入り込んで、傾く王朝の防波堤の役割を果たしていた。
当時、驕王の命数が尽きつつあることを理解していた者は多かったろう。李斎もまた、驕王の朝が大きく傾き、沈みつつあることを分かっていた。遠からず完全に沈む、李斎はそう確信していたが、確信していた──それだけだった。王が|斃《たお》れた後に何が必要で、そのために今、何をする必要があるのか考えてみたことがなかった。だが、|驍宗《ぎょうそう》だけはそうではなかった。そこが自分と──自分と同様の者たちと驍宗との、圧倒的な差だ、と|李斎《りさい》は思う。
驍宗が朝廷へと送り込み、傾く朝廷を支えさせ、驕王が倒れて後は、沈みゆく国土を支えさせてきた麾下たちが新王朝の柱となり、驍宗の朝廷は革命から僅かにして堅固な態勢を築いた。新王登極の後には朝廷が甚だしく混乱し、六官諸侯に適材を配置するまでにかなりの期間を要するものだが、驍宗に限ってそれはなかった。通常に要する歳月を思えば、驍宗の朝廷は一夜にして整ったといっていい。前代未聞の出来事だった。
──そして事件は驍宗が登極して半年ほど後に始まった。戴国北方の|文《ぶん》州で、大規模な暴動が勃発したのだった。
2
「──文州に内乱とか」
|李斎《りさい》が内殿にはいると、すでに|主《おも》だった寵臣たちはその場に|揃《そろ》っていた。召集に応え、内殿に駆けつけた李斎の第一声を受け、口を開いたのは夏官長|大司馬《だしば》の|芭墨《はぼく》だった。
「文州は元々問題の多い土地柄ですからな」
芭墨は言って、白いものの混じった|髭《ひげ》を|扱《しご》いた。
戴国北部──|瑞《ずい》州の真北に位置する文州は、冬の寒さの厳しい土地柄だった。冬に寒いのは北東に広がる|承《じょう》州も同じだが、承州は耕地に恵まれてもいたし、森林も豊富だった。対する文州は急峻で耕地に乏しく、森林にも恵まれない。辛うじて点在する|玉泉《ぎょくせん》が民の生活を支えていたが、その玉泉も、永年それに民が群がり続けたせいで枯渇し始めていた。寒く貧しい──文州はそういう土地で、政治は行き届かず、人心も|荒《すさ》みがちだという|専《もっぱ》らの噂だった。現に文州では、再々、内乱が起こっている。生活に困った民が堪えかねて蜂起することも多かったが、むしろ玉泉、鉱泉を取り仕切る|質《たち》の悪い|土匪《どひ》──土着の|匪賊《ごろつき》が、利権争いや私怨から暴動を起こし、それが乱に発展することの方が多かった。
「州侯が|更迭《こうてつ》されて、押さえが緩んだ、というところでしょう。何しろ、先の州侯は匪賊の頭目のような兇漢でしたからな。残虐粗暴なことでは、匪賊の上を行く。ならばこそ、押さえも|効《き》いたのですが」
李斎は頷いた。先の文州候は冷酷で|悪辣《あくらつ》な人物で、ただでさえ貧しい文州を食い物にしてきた男だったが、そんな男にも取り柄はあったらしい。
「州侯が替わって押さえが緩み、匪賊が増長したということなのでございましょうな。乱と言うより、匪賊が県吏と悶着を起こして暴動になったということのようでございます。とはいえ、勢いに乗って県城を占拠し、付近の|里櫨《まちまち》にまで手を出しているという話ですから、放置するわけにもまいりますまい」
「調子づかせるわけにはいかん。国という押さえのあることを分からせてやらねばな」
野太い声で言ったのは、禁軍左軍の将軍、|巌趙《がんちょう》だった。巨躯[#「躯」は旧字体で作りの「メ」部分が「品」]には闘志のようなものが|漲《みなぎ》っていたが、特に緊張感は見えなかった。それはこの場の誰にも言える。──彼らはもとより分かっていたのだ。
新年にかけて、戴では大規模な粛正があった。これは|悪辣《あくらつ》な官吏を一掃すると共に、巨悪の下で機会を|窺《うかが》っていた|兇賊《きょうぞく》を|誘《おび》き出す布石でもあった。悪名高い文州候、これを|更迭《こうてつ》すれば文州の押さえは緩み、|土匪《どひ》がいずれ動きだすだろうことは、その時点から予測されていた。
「慎重に構えると、連中は国を|舐《な》めてかかるぞ。それだけは、あってはならん。早急に行って蹴散らし、|王師《おうし》の恐ろしさを叩き込んでおかねばな」
「勿論、土匪は押さえねばならんが、早急にと言うのはどうか。時期は考慮を要すだろう。今少し放置すれば、文州各地の土匪も期に乗じて[#原文ママ「期に乗じる」は「機に乗じる」の誤用?]悶着を起こすだろう。追随してくれれば|一網打尽《いちもうだじん》にできようし、そのほうが国の|睨《にら》みを印象づけるには効果的だ。だが、機を逃せば野火は拡大する。|鎮火《ちんか》に手こずれば国の威信は下落する」
巌趙は呆れたように|芭墨《はぼく》を見た。
「相変わらず血も涙もない親父だな。賊どもは県城付近の|里櫨《まちまち》にまで手出しをしておるんだろうが。そこで暮らす連中のことも考えてやれ」
「なんの。血や涙があれば夏官や軍吏になど、なるはずがなかろうて」
「それもそうか」と、巌趙は巨体を揺すってあっけらかんと笑った。
「|勅伐《ちょくばつ》を行うなら早いほうがいいだろう」
ごく冷静に口を|挟《はさ》んだのは|英章《えいしょう》だった。禁軍中軍の将軍で、英章も巌趙と同じく、かつては驍宗軍の|師帥《しすい》だった。驍宗軍には名うての|麾兵《ぶか》が幾人もいたが、英章はその中で最も若い。
「私もご老体と同じく血も涙もない部類だけど、出兵するなら早い時期を|推《お》すね」
当てこするように英章は言って、真実血も涙もなさそうな貌を|顰《しか》めた。
「雪が|融《と》け始めたら面倒だ。足許が緩むだけではなく、周辺の雪が融けると山に逃げ込まれてしまう。文州の山は玉泉の坑道で穴だらけだ。そこに潜り込まれるとやっかいなことになる」
確かに、と同意する声が上がった。李斎も内心で、その通りだと感じていた。一旦、坑道に潜り込まれてしまえば、追撃は容易ではない。文州の匪賊を今後押さえていくためにも、だらだらと追撃戦を長引かせるわけにはいかなかった。迅速に平定し、国の威信を示すことで匪賊を押さえる。そうでなくては、わざわざ王師を出す意味がない。
意向を|諮《はか》るように、その場にいた者たちの視線が驍宗に集まった。
「……英章に任せよう。中軍を出して鎮圧にあたる」
共に異論を口にしようとした巌趙と芭墨を、驍宗は目線で制した。
「英章の意見を採るというわけではない。時期の問題、威信の問題、今後の土匪制圧、そういった|些末事《さまつじ》は、今は関係がない」
「些末事と仰いますか」
|英章《えいしょう》は|気色《けしき》ばんだが、|驍宗《ぎょうそう》はあっさりと頷いた。
「考慮に値せぬ。ここで何よりも問題にせねばならないのは、|土匪《どひ》ではなく民だろう。土匪を討伐し押さえることより、民に国の|庇護《ひご》あることを得心させるほうが断じて先だ」
李斎は、はっとしたし、他の者も同様に息を呑んだのが分かった。その場にいた全員が恥じ入ったように黙りこんだ。
「英章、中軍を率い、文州師を組み込んで土匪を討て。勝たずとも良いが、県城からは一掃せよ。中軍には堅城を開放してからも、しばらく文州に留まってもらう。文州師に手を貸して、都市の防備を厚くせよ。無理に土匪を深追いすることはない。それよりも、国がついている以上、もはや土匪を恐れる必要はないのだと民に理解させ、人心を安んじることのほうを優先せよ」
|畏《かしこ》まりました、と英章は殊勝だった。英章ばかりでなく、驍宗麾下の者たちは、驍宗の言に全幅の信を置いている。どんなに朝議が荒れても、驍宗が決を下せば|速《すみ》やかに意思が統一されていく。──そういうものだと、李斎はここに至るまでに学んでいた。
英章は最短の時間で中軍を整え、文州へと|発《た》った。県城を開放し、ひとまず乱を平定したと|報《しら》せが届くまでに一月、そしてちょうどその頃、文州の別の場所でも土匪が乱を起こしたことが報されたのだった。
それは総計三箇所、他でも|小競《こぜ》り|合《あ》いが頻発していた。突発的な暴動が飛び火したと言うよりも、組織的な内乱の様相を呈してきた。さらに半月のうちに事態は拡大し、最初に起こった県城の占拠が、文州全体に及ぶ内乱の一環であったことが明らかになった。|霜元《そうげん》率いる瑞州師左軍が派遣され、さらには禁軍右軍の半数を率いて驍宗自身が文州に向かった。各地で散発した暴動が互いに連携して動き、乱の中心が文州中部にある|轍囲《てつい》という県城の付近に移動していったからだった。
──轍囲は、驍宗ゆかりの街だった。
驕王の統帥する王師六軍、その将、六人のうち、半数が不敗を誇っていたが、驍宗は不敗の将軍ではなかった。
驕王の|寵《ちょう》篤《あつ》い左軍将軍に一敗地をつけたのが轍囲だった。
それは驕王治世の末期、轍囲は王の|搾取《さくしゅ》に堪えかねて、公庫を閉ざした。税の徴収を|撥《は》ね|除《の》けたのだった。文州師が殺到してこれを開けさせようとしたが、周辺の住民が轍囲に結集して籠城し、抵抗を続けた。ついには王師が出陣、事態の収容にあたったのが驍宗だった。
驍宗は|轍囲《てつい》に到着し、左軍一万二千五百兵をもって轍囲を包囲した。そして、同じく轍囲を包囲した州師を|悉《ことごと》く後方へと退がらせたのだった。
同行した|巌趙《がんちょう》、|英章《えいしょう》を|首《はじ》めとする師帥たちは、勿論これに異を唱えた。州師二軍で開放することのできなかった轍囲を、禁軍一軍でいかにして開放しようというのか。
無茶だ、と|気色《けしき》ばむ巌趙を、瑛州は鼻先で|嗤《わら》った。
「ずいぶんと謙遜したものだね。──勿論、無茶じゃない。州師二軍で成らぬものなら、我々にとって手応えがあって良い加減だろう。けれども、多少時間が掛かることは避けられない。帰途の最中で雪に遭うことだけは願い下げだ」
確かに、と同意したのは、後の瑞州師左軍将軍──当時、師帥の|霜元《そうげん》だった。
「後背の山が雪に閉ざされれば、物資も人も満足に行き来できません。文州に我々を春まで養うほどの|蓄《たくわ》えがあるはずもなし、冬が来る前に|凱旋《がいせん》しなければなりません」
「物資は|乍《さく》県から運ばせる。義倉を開け、山道が雪に降り込められる前に冬越しできるだけの準備をせよと、|正頼《せいらい》には命じてある」
それは侮辱だ、と英章は腰を浮かせた。
「いくら手こずっても、春までかかろうはずがない。|驍宗《ぎょうそう》様は我々をそこまで|侮《あなど》っておいでか」
「侮っているつもりはない。だが、最悪、ここで冬を越すことになる覚悟だけはしておいてもらいたい」
「それほど手こずるとお思いなら、州師を呼び戻してあの|腑抜《ふぬ》け|共《ども》の手を借りればよいでしょう。もっとも足を引っ張るだけかもしれませんがね」
「州師の手は借りない。州師には付近の|里櫨《まちまち》の民を連れて非難してもらう。いくら義倉を開けたところで、付近の民まで養うことはできぬ。飢えた民の横で我々だけが食い足りるわけにもいくまい。かといって、兵の食い|扶持《ぶち》を削るわけにはいかぬ。生命に関わり、士気に関わる」
「では、さっさと轍囲を落としてしまえばいい。四方から焼き払ってしまえば三日で済みますよ。州師の手を借りれば半月、|烏合《うごう》の衆でも|盾《たて》の代わりくらいはなるでしょう」
「英章、我々は何のためにここに来た?」
「逆賊を討伐するためです」
「なぜ、逆賊なのだ?」
驍宗に問われ、英章は答えに|窮《きゅう》した。無論、逆賊であることは間違いない。王の宣旨に刃向かった以上、逆徒と呼ばれることは避けられない。──だが。
「冷夏があった。文州はこれから厳しい冬を迎えるが、冬を越えるための物資に乏しい。宣旨のまま公庫の中身を差し出せば、民は飢えて死ぬしかない。だから拒んだ、違うのか?」
英章は顔を上げた。
「主上に逆徒を討てと言われました。王が逆賊というのだから、我々にとっては逆賊です。禁軍とはそういうものでしょう」
なるほど、と|驍宗《ぎょうそう》は薄く笑む。
「──お前は主上の飼い犬か。では訊くが、そもそも王とは何だ?」
|英章《えいしょう》は黙り込んだ。
「|轍囲《てつい》の民が他所の民を害するというなら、万民のためにこれを|誅殺《ちゅうさつ》するにやぶさかではない。轍囲の民が|賦役《ふえき》を拒めば、その|皺寄《しわよせ》せは他の県里に及ぶ。ゆえに轍囲を開放し、公庫を開かせることにもやぶさかではない。──だが、それ以上のことが必要なのか?」
幕営の中に沈黙が降りた。
「勅命をもって轍囲を開放し、公庫を開けさせる。──ただし、轍囲の民を一人たりとも傷つけてはならぬ」
驍宗は宣じた。
「兵士は剣を携行してはならぬ。|盾《たて》のみは許すが、これを振り翳して民を打つことがあってはならない」
盾は堅牢な木によって作らせ、内側には|鋼《はがね》を貼ることを許したが、外にこれを貼ることを許さなかった。|血気《けっき》|逸《はや》って盾をもって|殴《なぐ》りかかる者があったときに、対する民を|慮《おもんばか》って、盾の外には厚く綿羊を貼らせた。綿は白のまま、もしも|命《めい》に|背《そむ》いて盾を武器として使い、民に怪我をさせ、この綿に一点たりとも血が付けば厳罰に処すと宣じた。
|捕《と》らえた者は説得し、開放する。轍囲に戻ってもよかったし、そのまま|里櫨《まちまち》に帰ってもよかった。
「重税に|喘《あえ》ぐ民の気持ちは分かるが、天下の|宣旨《せんじ》が軽んじられれば、国はたちまちあるべき姿を失う。苦役を|厭《いと》うて|治水《ちすい》を拒否する風潮が|蔓延《ひばこ》れば、すなわち民がたちまち困る。轍囲が税役を拒否すれば、その負担は他県に及ぶ。──それを呑み込んで、公庫を開けてはもらえないだろうか」
ある者は里櫨に帰り、ある者は轍囲に戻って意を伝えた。最初は|猜畏《さいい》に|囚《とら》われていた民も、驍宗軍の戦意ないことを呑み込むにつけ、やがては驍宗の意を|慮《おもんばか》るようにになった。
包囲から四十日、王師は県城を開かせようと攻めては敗退することを繰り返し、綿羊は|依然《いぜん》として白いまま、一点の汚れもない。ひたすら開放を迫る王師に対し、轍囲の民は要求を|突《つ》き返し、これを|鴻基《こうき》に伝えて王の意を|諮《はか》ることが続けられた。互いが譲歩を余儀なくされた。驍宗の兵は勝たなかったが、決して負けることがなく、籠城した民はこのまま公庫を閉ざし続けることの不可能を悟らざるを得なかった。一方、王も、自らの禁軍が決して勝てない事実に、譲らざるを得なかった。
ついに四十一日目に城門が開いた。戦果としては勝利ではない。
|驍宗《ぎょうそう》は初雪の舞う山道を越え、鴻基に戻って敗北を伝えた。民の万打に対し、一打も|能《あた》わず、と。──ただし公庫は民の道義を知る心によって解放された。|轍囲《てつい》の民は天道を守ったのだ。
結果、徴収が完遂されたので、この敗北に対しては不問に処された。
これより後、轍囲の|盾《たて》、という言葉が対の北方に流布するようになった。あるいは白綿の盾ともいう。轍囲の盾なくば信じず、などと、誠意の証、ほどの意で伝えられる。
驍宗と轍囲は真義によって結ばれている。轍囲が戦乱の渦中に落ちこんで、驍宗がこれを看過できるはずがなかった。驍宗は|霜元《そうげん》と共に、二万近くの兵を率いて文州に向かった。|李斎《りさい》は泰麒の肩を抱いて、それを見送った。
「……驍宗様は、無事に戻ってらっしゃいますよね?」
不安そうに見上げてきた幼い麒麟に、李斎は確信を|込《こ》めて頷いた。
「大丈夫ですよ、台輔」
李斎の確約は、しかし|嘘《うそ》になった。
後から考えてれば──と李斎は思う。乱は最初から轍囲を中心として巻きこむべく周到に用意されていたのだった。それは単なる土匪の暴動などではなかった。土匪を組織し、計略を授け、影から指揮する指があった。その指の持ち主は、驍宗が轍囲を無視できないことを、十分に見越していたのだった。
驍宗はそのまま二度と、鴻基には戻ってこなかった──。
3
「──李斎?」
|怪訝《けげん》そうな声に、李斎は我に返った。見ると、案ずるように景王陽子が李斎の顔を覗き込んでいた。何をどう説明すればいいのか、言葉を|探《さが》しているうちに、李斎は自信の記憶の中に深く入り込んでしまっていたらしい。
「気分でも悪いのか? ……だったら」
いいえ、と李斎は首を振った。
「申しわけありません。いろいろなことを思い出してしまって……」
李斎が言うと、分かる、と言いたげに陽子は頷く。
「戴に何が起こったか、というお尋ねでしたか。……突き詰めて言えば、謀反があったのです。主上は地方の乱に引きずり出され、そこで行方が分からなくなりました」
李斎は簡単に経緯を説明する。
「……詳しいことは私にも分かりません。後に聞いたところでは、主上は轍囲の近くにまで辿り着かれ、そこに陣営を設けました。そして襲撃を受けた。その乱戦の最中にお姿が見えなくなり、以来消息が知れないままになったとか」
「それ以上のことは、全く?」
「多分……というのも、その時文州にいて事態の詳細を知る者と、私はとうとう会うことができなかったからです。私以外の者も、詳細を問いただすことができたのかどうか。捜索が行われたのかどうかも分かりません。ひょっとしたら、それはできないままだったのかも。……というのも、主上のお姿が消えた、と報せがあったとき、朝廷は混乱の最中で、組織立って何かができる状態ではなかったのです」
「なぜ?」
「……蝕です」
それは驍宗が文州に旅立った、半月ほど後に起こった。その前日、国府には文州に向かった|霜元《そうげん》から|青鳥《しらせ》が届いていた。|驍宗《ぎょうそう》らは無事に山を越えた、と。山を越えてしまえば、|轍囲《てつい》までは数日の距離、事実、その数日後に再び青鳥が届いて、轍囲手前の郷城、|琳宇《りんう》に到着し、そこに陣営を設けたと報せがあった。
「無事にお着きとか」
そう言って、|安堵《あんど》したように笑ったのは、たまたま|路《ろ》門で出会った地官長の|宣角《せんかく》だった。
路門は|燕朝《えんちょう》の南に|聳《そび》える。三層の楼閣を持つ、人の身の丈の十数倍はあろうかという巨大な建物だった。南北に開いた門扉に挟み込まれた白い広間の中央に、同じく白い大階段が下る。これが雲海の下へと続いていた。
「今後も御無事でいて下さればよいのですが。……もっとも、将軍でいらした主上に対して心配申し上げるのも、失礼な話なのかもしれませんけどね」
そうですね、と李斎は宣角に笑いかけ、共に路門を下ろうと足を踏み出した──その時だった。
低く、微かに地響きがした。李斎は、何の音だろうと足を止めた。何も聞こえなかったのか宣角が、周囲を見回す李斎を不思議そうに振り返った。
「いま、何か──音が」
李斎が言うと同時だった。──山が震えた、と李斎は思った。まるで足許の大地──王宮を支える|凌雲山《りょううんざん》が音を立てて身震いをした、そんなふうに。ゆらりと世界が揺れ、巨大な路門が|捩《ねじ》れ歪む音を立てた。驚いて見開いた視野が|翳《かげ》った。視線を上げる間もなく、目の前に路門の瓦が雪崩を打って振ってきた。
実際──その時、山が震えたのだった。もしも王宮を上空から|俯瞰《ふかん》する者があれば、雲海に浮かんだ島の中央、湾をなす水の岸辺に丸く高い波が立ち、それが同心円状に広がっていくのが見えただろう。岸辺に近い宮城の一角から雲海の海面が高く盛り上がり、急激に落ちる。一方、岸辺では、それと同じく建物が揺すられ、悲鳴を上げながら崩壊していく。
王宮の一角に何者かが巨大な|一槌《いっつい》を加えたようだった。その一撃に揺すられたように風が巻き、突風となって四方へと吹き出していく。太陽が色を失い、|銅《あかがね無の色に|翳《かげ》った空は一瞬のうちに|錆《さ》びて赤みを帯び、それが|凝《こご》って|瘴気《しょうき》のように渦巻き始めた。
──これは、なに。
|李斎《りさい》は呆然と、その場に座りこんでいた。土煙の向こうに広がるこの異常な空は。大地は未だに|蠕動《ぜんどう》を繰り返している。もはや揺れるわけではなかったが、地の底で何かが身動きするような震動が、床の上についた両掌から伝わってきていた。
「──蝕、だ」
悲鳴じみた声が間近でした。振り返ると、土まみれになり、同じく路門の石畳に倒れ伏した|宣角《せんかく》が顔を上げたところだった。
これが、という思いと、なぜ、という思い。李斎は蝕に遭遇するのは初めてだった。同時に聞いたことがある──雲海の上に蝕は起きない、と。
宣角が身を起こした。彼の足許にまで散乱した瓦の破片が押し寄せている。歩み出したほんの二、三歩、あれがなければ、今頃は二人とも瓦の下だった。
「李斎、|台輔《たいほ》は」
切羽詰まった声で訊かれ、李斎は跳ね起きた。地鳴りはまだ続いている。少なくはない数の人間が倒れた周囲では悲鳴や|呻《うめ》き声がしていたが、今はそれに構っている余裕がなかった。
泰麒はどこだろう。午後の政務に|就《つ》くには少し早い。外殿はとっくに出た頃合いだが、正殿に設けられた自室に戻るほどの余裕はなかろう。仁重殿ではないだろうか。
「大丈夫、台輔のお側には大僕が」
言った李斎の腕を宣角は掴んだ。汚れた顔が真っ青になっている。
「李斎、知らないのですか? 天上では本来、蝕は起こらないのです。起こったとしたら鳴蝕──台輔が起こされたとしか」
李斎は掛け出した。
「李斎!」
「宣角、怪我人を頼みます」
背後に叫んで、瓦礫を一足飛びに駆け抜け、路寝へと走る。李斎も聞いたことがある。麒麟はごく小さな職を起こすことができるのだと。それを鳴蝕というのか。──だが、|蓬莱《ほうらい》で育った泰麒は、果たして鳴蝕を起こす術など知っていただろうか。
李斎は蓬山で泰麒に出会った。実を言えば、李斎は驍宗が昇山したその時、自信も昇山していたのだ。そしてそこで出会った泰麒は、転変──麒麟の姿になることもできず、使令も持っていなかった。蓬莱で生まれ育った泰麒には、麒麟のなんたるかがよく分かっていなかったのだ。本能とも呼べるそれらの力が目覚めたのは、いずれも泰麒が切羽詰まった時、ならば今も、何かがあったのだ。
|土埃《つちぼこり》の臭いと裂けた木の臭い。|熟《う》れて|腐《くさ》りかけた太陽、|錆《さ》びて|翳《かげ》った空、|蠢《うごめ》く|赤気《せっき》、そして不穏な音色で続く地鳴り──|李斎《りさい》は、どうしても不吉な予感を抱かないではいられなかった。何か悪いことが起こった。それも、|途轍《とてつ》もなく悪いことが。
実際、建物の被害は、仁重殿に近づくにつれ、次第に激しくなっていった。州庁の門は完全に横倒しになっていた。囲い込む隔壁はあちこちが壊れ、その向こうに見える建物も大きく傾き、あるいは倒壊している。石畳の石が浮き、あるいは完全に裏返り、随所に亀裂の入ったそこに一面、|瓦礫《がれき》がぶちまけられている。仁重殿のある一郭が見えた。そこにある建物の多くが、今や瓦礫の山になり果てていた。
地鳴りはいつの間にか|熄《や》んでいた。代わりにあちこちから|呻《うめ》き声と悲鳴が聞こえる。薄日が射した。見ると、空の|禍々《まがまが》しい赤が薄らいでいた。
やがて、人々が集まり始めた。兵卒が多く召集され、瓦礫という瓦礫を取り除いて泰麒の姿を探したが、どこからも小さな麒麟の姿は発見できなかった。仁重殿の正殿の西、雲海に面した露台と|園林《ていえん》は、|跡形《あとかた》もなかった。建物も樹木も根こそぎ倒され、その上に攪拌された土砂と瓦礫がつもり、しかもそこに高波が打ち寄せて何もかもを雲海へと|浚《さら》っていった傷跡だけが残っていた。船が出され、騎獣が引き出された。園林を掘るようにして彼らは小さな宰輔の姿を探した。だが、その日以来、泰麒の姿が見つかることはなかったのだった。
捜索が続けられる一方、一羽の鳥が急を報せるために文州へ向けて放された。それが文州に辿り着く以前に、その文州から別の鳥が飛んできた。|青鳥《せいちょう》が運んできた書簡には、驍宗の姿が消えた、とあった。
|牀榻《ねま》の中には沈黙が降りていた。李斎は首に掛かった珠を|縋《すが》るように握りしめた。
「それきり主上の消息は知れません……|台輔《たいほ》の消息もです」
「李斎、苦しいのだったら」
陽子は止めようとしたが、李斎は目を閉じて首を横に振る。
「王宮は混乱を極めました。組織立って主上と台輔の行方を捜すことができず……」
李斎は|喘《あえ》いだ。陽子は|慌《あわ》ててその手を握った。
「──大丈夫か?」
陽子の問いに、大丈夫です、と李斎は答えたが、声は|忙《せわ》しない息づかいに途切れた。また風の音がする。あの──耳鳴りの音。風の中で、花影の声がする。駄目、と。
「……もういい。今日はここまでにしよう。とにかく」
李斎は声のするほうへ手を差し伸べた。──伸べて、改めて気づく。李斎には利き腕がない。李斎はこれだけのものを失った。今になって苦悶が押し寄せてきた。
「……助けてください」
珠を握っていた手を放し、伸ばした。その手を握る温かな手がある。
「……お願いです、戴を」
「分かっている」
隣室にいた|瘍医《いしゃ》が駆け込んでくるのが聞こえた。ここまでに、という彼の声を、|李斎《りさい》は深まりゆく暗黒と罪悪感の中で聞いた。