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2025-05-06 01:17

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黄昏の岸 暁の天 4章3~5

2010-08-08 22:14


  3

 |李斎《りさい》の許に陽子がやってきて、泰麒を捜すことになった、と|報《しら》せてくれたのは、夕餉の最中のことだった。
「諸国からどれくらいの協力が得られるのか、どのくらいで泰麒を見つけることができるのかは、やってみないと分からないけど。とりあえず、ほんの一歩だけ、前に進むことになったから」
 感謝の言葉もない李斎に笑って、彼女はあたふたと|客庁《きゃくま》を出ていった。こうして戴のために時間を割いてくれている分、陽子は深夜まで自国の処置に追われている。
「……なんて、有り難い」
 |呟《つぶや》いた李斎に、良かったね、と声を掛けてきたのは、給仕のために客庁へやってきていた|桂桂《けいけい》だった。
「たくさんの王様が協力してくれるんだったら、きっと見つかるね」
「絶対よ」
 きっぱりと言ったのは|鈴《すず》で、これに対し、李斎はぼうっと頷くしかなかった。なにひとつ前進せず、ただただ絶望と戦うしかなかった六年もの歳月に比べ、何という進展だろう。
 ……やっと戴は救われ始める。
 それを思うと、喜びでその夜は眠れなかった。|臥牀《しんだい》の中で何度も陽子の言葉を|反芻《はんすう》していた夜半、その喜びは唐突に不安へと変わった。……もしも、それでも泰麒が見つからなかったら。
 見つかるかもしれないと思うと、喜びが深かっただけに、それが失望に転じたときのことを考えると恐ろしくてならなかった。陽子を疑うわけではない。ただ、李斎は思うままにならない時間をあまりにも長く過ごしてきた。期待は裏切られ、希望は|悉《ことごと》く|潰《つい》える。──そうでなかった|例《ためし》はない。
 泰麒が無事に戻ってくるなんて、そんな喜ばしいことが本当に起こるものだろうか。見つかることなどないのではないか、捜している間に泰麒に何事かが起きるのではないか──考え始めると、今度は不安で眠れなかった。
 胸の息苦しさに堪えかね、李斎は苦労して臥牀を降りた。李斎の容態が少しばかり落ち着き、ようやく鈴は|不寝番《ねずのばん》をやめて自室に|退《さ》がることができるようになっていた。手を借りることはできない代わりに、|牀榻《ねま》を出たことを|咎《とが》められることもない。
 |萎《な》えた身体を家具や壁で支えながら伝い歩き、李斎は長い人家を掛けて堂室の扉を開けた。少し夜風を入れたかっただけなのだが、扉を開けると、それで力尽きてその場に坐り込んでしまった。こんなにも身体が萎えている、と思うと、焦燥感に襲われた。
 ……たとえもし、泰麒が戻ってきたとしても、それからどうすればいいのだろう。
 泰麒がいれば、王気を頼りに|驍宗《ぎょうそう》を捜すことができるかもしれない。だが、そのためには泰麒を連れて戴へと戻らなければならなかった。そんなことが自分にできるのだろうか。こんなに弱った身体で、しかも利き腕を失って。これでは泰麒を守ってやることすらできない。戴には妖魔と兇賊が|跋扈《ばっこ》しているというのに。──身体が萎えたことで、心が萎えているのかもしれない。あるいは、戴を抜け出し、安全な王宮の中で保護されていることに身も心も|安堵《あんど》してしまったのかも。振り返ると戴は恐ろしい場所に思えた。そこに自分が泰麒を抱えて戻ることなど考えられない──。
 李斎は回廊に座りこみ、|鬱々《うつうつ》とした気分で壁に|凭《もた》れかかっていた。軒の先、|庭院《なかにわ》には月の光が落ちている。どこかで|物寂《ものさび》しく虫が鳴いていた。
 泰麒が戻ってきても、そこからどうすればいいのか分からない。泰麒が本当に戻ってくるとは信じられない。泰が救われることはないような気がする。……根拠もなくそう思えてならない。いつの間にか、失望に対して心の準備をすることに|馴染《なじ》んでしまっている。
 ……だって、ずっとそうだった。
 戴を災異が襲うようになったのは、驍宗が姿を消して何年目のことだろうか。世に言う、王の|郊祀《まつり》が世界の理を整えるのだ、と。阿選は郊祀をしたろうか。それとも正当な王の郊祀でなければ、世界が整うことはないのか。
 いずれにしても、戴は荒れ始めた。それは、玉座が空位であったとき以上だった。
 驍宗を失って何度目かの夏、李斎は驍宗を捜して文州に入った。秘かに、阿選に所在を掴まれないよう、|伝手《つて》を頼り、知古の庇護を受けながら文州に入り、|轍囲《てつい》に向かった。驍宗はその手前、|琳宇《りんう》の陣営から消えたのだ。
 琳宇はもともと、文州随一の玉泉を持つ街だった。最古の玉泉、|函養山《かんようざん》を|首《はじ》め、周囲には大小の玉泉が点在し、鉱山の麓にはそれぞれの門前町が築かれていた。それらの玉泉はしかし、ほとんどが掘り尽くされ、今では端々に残った泉から玉を取り出していると聞いていた。その泉さえ、このところ、急激枯れている、と。それも災異の一環なのか、李斎には分からない。
 琳宇近郊と言うだけでは、あまりにも|曖昧模糊《あいまいもこ》としている。あるいは轍囲の民なら驍宗の行方を知っているかもしれない、轍囲の民が驍宗を|匿《かくま》う可能性は十分にあると李斎は踏んだが、行ってみると、轍囲という街自体が消失していた。|煤《すす》けた|瓦礫《がれき》だけを残し、轍囲は置き捨てられていた。もちろんその瓦礫の中に、生きている人間の影はなかった。ただ、焼け残った祠廟の祭壇に、|荊柏《けいはく》の白い花が捧げられていた。あるいは轍囲の生き残った民が、一目を恐れ夜陰にでも|紛《まぎ》れて驍宗の無事を祈願に来ているのかもしれない。
 祠廟の隣には、炎に|炙《あぶ》られ、まるで立ち枯れたかのように|里木《りぼく》が悄然と立っていた。その寂しい風景は、否が応でも国の柱を失った戴の|寄《よ》る|辺《べ》なさを李斎に自覚させた。
 李斎自身も夜陰に紛れ、人混みに身を滑り込ませて隠れていなければならなかった。市井を忍び歩くようにして、驍宗の行方を知る者はいないか、あるいは|英章《えいしょう》、|臥信《がしん》やその軍勢の行方を知る者はいないか訪ね歩いたが、成果はほとんど得られなかった。辛うじて、琳宇の郊外で戦闘が起こり、|土匪《どひ》と禁軍が正面から対決したが、その戦闘以来、禁軍がひどく浮き足立ち、土匪が攻めてきても戦闘に応じないようになった、と聞いた。おそらくは、それが驍宗が姿を消したときなのだ、と思う。
 戦闘のどさくさに|紛《まぎ》れ、王を討つ──普通ならあり得ることだが、驍宗に限っていえばそれは考え難かった。驍宗は剣客として聞こえている。なまじな相手では驍宗を討ち取ることはできまい。ただ、驍宗は|阿選《あせん》の軍を率いていた。驍宗がうかうかと阿選を信じ、阿選の|麾下《ぶか》を信じていたなら、戦闘の最中、驍宗の身の回りは阿選の麾下ばかりだったはずだ。多勢に無勢で討ち取られ──あるいは|捕《と》らわれることも考えられるが、驍宗はそこまで阿選を信用していただろうか。あえて阿選の手勢を|割《さ》き、半数を文州に連れてきたことを思えば、驍宗は最初から阿選を疑っていたようにも見える。
 方々の戦場、方々の廃墟を訪ね歩きながら夏を過ごし、その夏の終わりに雪が降った。煤でも含んでいるのか、灰色のべたつく雪は、不吉の前兆としか思えなかった。事実、その年の冬は厳しかった。大量の雪が降り、雪に備えた北方の家でさえ、雪の重みに堪えかねて倒壊するほどだった。
 寒く雪の多い冬に続き、乾いた夏がやってきた。戴には稀な暑い夏になった。農地は干上がっていった。なのにまた冬が来る──。
 その翌年からだったと思う。頻繁に妖魔が現れるようになったのは。空位が続いた戴のこと、それまでも皆無ではなかったが、それが目に見えて増えた。古老は、王が無事であるなら、妖魔が現れるはずなどないと言う。驍宗死んだのだ、と確信を込めて言われるようになったのは、この頃からだ。
 民は今頃、どうしているのだろうか、と李斎は|庭院《なかにわ》の夜空を仰いだ。李斎がこうしている今も、戴の民は苦しんでいる。夏が終わろうとしている。戴に恐ろしい冬がやってくる。
 ……救ってください。
 李斎は今も、衝動的に、叫んで|縋《すが》りたい気分になることがある。景王を知り、周囲にいる人々を知れば知るほど、それが恐ろしい罪深いことだと身に|沁《し》みて分かる。それを分かっていてもなお──。
「……けれども、他に|術《すべ》がない……」
 阿選の凶行を止める者が必要だ。妖魔を討伐し、冬を越えるための物資を恵んでくれる力が。それが得られなければ、戴はもうあと何年も保たない。今年か、来年か、あるいはその先か。いずれにしてもある冬が通り過ぎ、雪が融けるとその下から、最後の戴の民が凍って姿を現すのだ。
「そんなところで、どうなされた?」
 声がして振り返ると、庭院の入り口に老爺が一人、立っていた。
「いえ……何でも」
 太師の|遠甫《えんほ》だった。ここは遠甫の邸なのだから、当然のことなのかも知れないが、ここに移って以来、遠甫までも頻繁に李斎を見舞ってくれる。慶の──少なくとも景王の周囲にいる人々は、誰もがとても暖かい。それを思うたび、陽子に縋って兵を出してくれ、訴えそうになる自分が恐ろしい。
「起きておられても|宜《よろ》しいのか?」
「ええ……もう」
 ひたひたと歩いてきた遠甫は、李斎が腰を下ろした回廊の|階《きざはし》に腰を据えた。
「泰台輔を捜すために、延帝がお力を貸してくださるとか」
「……はい」
「にしては、|憂鬱《ゆううつ》そうでいらっしゃる」
 そんなことは、と李斎は|呟《つぶや》いたが、勿論遠甫には通じなかっただろう。
「左様でございましょうな。捜して簡単に見つかるものとも限らず、たとえ見つかったとしてもその後の課題は山積しておる。台輔が戻られれば泰王をお捜しすることは容易くなるかもしれないが、そのためには台輔に戴へお戻り願わねばならず、場合によってはそれで本当に台輔を失ってしまう可能性もある」
 はい、と李斎は|首肯《しゅこう》した。
「泰王をお捜しするにも、手勢は必要、しかし戴で、それだけの人員を見つけることは難しかろうと聞いておりまする。なんとか手勢を見つけても、泰王をお捜ししているその間にも民には苦難が伸し掛っておる」
「……冬が来ます。初雪が降るまでに、もう何ヶ月もありません」
「思うてみれば、戴は辛い国じゃな。露天で冬を|凌《しの》ぐ|術《すべ》がない」
「本当にそうです。……慶の冬は暖かいのでしょうね」
「戴に比べればな」
 李斎は悄然と|項垂《うなだ》れた。
「暖かい国があって、そうでない国がある……。戴も慶のようだったら、どんなに良かったでしょう。せめて人が身を寄せ合い、互いの体温で冬を乗り切れるようだったら。どうして世界には、暖かい国と、そうでない国があるのでしょうか」
「そうじゃの」
 李斎は月を仰ぐ。
「天帝はなぜ、戴のような国をお作りになったのでしょうね……。せめて人肌で乗り切れる程度の冬なら──あまりに不公平です」
「それは言うても|詮方《せんかた》あるまい」
 ですが、と李斎は唇を|噛《か》んだ。
「世界は天帝がお作りになったのではないのですか。ならばなぜ、天帝は戴のような国をお作りになったのです。あれほど無慈悲な冬のある──私が天帝なら、せめて気候だけでも恵まれた国を作ります。冬に凍ることも夏に乾くこともない、そういう世界を」
 ふむ、とだけ遠甫は応える。
「民が飢えていれば恵みを施します。偽王に苦しんでいれば偽王を討ちます。それでこその天、なのではないのですか?」
「それは……どうじゃろうな」
「なぜです? 天は王に仁道を以て国を治めよと|仰《おっしゃ》いました。なのになぜ、仁道のために兵を出すことを罰されるのです? 驍宗様を玉座に据えたのも天です。天帝が驍宗様こそが王者だとして、自ら玉座を勧めたのではないのですか。なのになぜ、天は王を守っては下さらないのです」
 |遠甫《えんほ》は沈黙する。
「天帝は本当においでなのですか? おいでならなぜ、泰を救ってくださらないのです。血を吐くような戴の民の祈りが聞こえませんか? まだ祈りが足りないと|仰《おっしゃ》るのですか? それとも戴を滅ぼすことが、天のお望みなのですか?」
「李斎殿……」
「天帝がおられないのなら、それも結構。救済すら恵んでくれない神になど、いて欲しいとも思いません。けれど、おられないのなら、なぜ兵をもって国境を越えてはならないのです? それを罰するのは誰ですか? 罪と見定め、罰を下す者がいるなら、なぜその者は、阿選を罰してはくれないのです!」
 震える片手の上に、温かな手が載せられた。
「……お気持ちは分かります。じゃが、激されてはお身体に|障《さわ》る」
 李斎は息を呑み、そして吐き出した。
「……申しわけありません。取り乱しました……」
「お気持ちは分かりますとも。我らは所詮、天の摂理の中で生きておる。……そこにありながら、関与できない……理不尽なものでございますな」
「……はい」
「ですが、ここは人の世でございます。天のことなどお気になさるな。どんな摂理があろうとも、その中で生きていく|術《すべ》は見つかるもの。少なくとも、慶の主上はそのために心を|砕《くだ》いておられる」
「はい。……失礼を申しました」
「そうお悩みにならんことじゃ。……誰もまだ、戴を見捨ててはおりませぬ」
 李斎は頷いた。月はただ無情に下界を見下ろしている。

   4

「よう」
 そう|暢気《のんき》な声を上げて、|六太《ろくた》が|正寝《せいしん》の陽子の許へやってきたのは、彼と尚隆が一旦|雁《えん》に戻ってから、十日ほどのことだった。
「……今回も突然のお越しですね。よくここまで」
 入ってこれたものだ、と陽子が言外に含ませると、六太はにっと笑う。
「前にも来たしな。さすがにこの髪だと、どこの誰だとは|訊《き》かれないや。……でも、陽子のとこの門番は話せるな。|凱之《がいし》とか言ったか、見知り置いてやってくれ」
 陽子は軽く溜息をつく。
「神出鬼没であらせられる」
「俺はそれが身上なんだ。……というわけで、陽子にも出掛ける用意をしてもらいたい。大至急だ」
「出掛ける?」
「そう。諸国に話が通った。|恭《きょう》と|範《はん》、|才《さい》、|漣《れん》、|奏《そう》の五国が協力してくれる。うちと慶を併せて七国だ。|芳《ほう》と|巧《こう》は空位だからそもそもの数のうちには入れられないし、|柳《りゅう》と|舜《しゅん》からは|色好《いろよ》い返答はもらえなかった。
 陽子は軽く腰を浮かせた。
「五国……」
「とにかく、できる限りの手を使って、|崑侖《こんろん》と|蓬莱《ほうらい》に捜索隊を出す。奏が|誼《よしみ》の深い恭、才と協力して崑侖を引き受けてくれた。俺たちは範、漣と協力して蓬莱を受け持つ。範と漣からは台輔を雁に寄越してもらえるよう手筈が整っている。慶にしなかったのは、慶の国庫に負担を掛けるのはどうかと思ったからなんだが、気を悪くするかな?」
「勿論、雁で結構です」
 うん、と六太は笑って、
「至急ということにはしているものの、中には漣の|御仁《ごじん》もいる。日程の調整は今やってるところだが、遠路駆けつけてくることを考えれば、まだ少し先になるだろう。その間に一緒に行って欲しいところがある」
「私に……? どこへ」
 蓬山だ、と六太は答えた。
「蓬山、ですか?」
 蓬山は、世界中央黄海にある麒麟が生まれる聖地だ。陽子も一度だけ行ったことがある。新たに登極した王は、そこで天啓を受けることになっている。
「蓬山に行って何を……?」
 陽子が首を傾げると、
「ヌシに会うんだ」
「ヌシって……まさか、|碧霞玄君《へきかげんくん》?」
 碧霞玄君は蓬山に住む女仙たちの|主《あるじ》だが、陽子は玄君にあったことがなかった。
「そ。何しろ、これからやろうとしていることには前例がないからな。これも何かの勉強だし、そもそもの発起人は陽子なんだから、陽子を連れて行けと尚隆に言われている。蓬山まで飛べる騎獣があれば、荷物は最低限でいい。急いでくれ。客人が揃う前に戻って来なきゃならない」

 陽子は|慌《あわ》てて準備をした。後事を|浩瀚《こうかん》に|委《ゆだ》ね、景麒から使令を借りた。てっきり陽子は、禁門から出立するかと思ったのだが、それをいうと、六太は笑った。
「下から行ったんじゃあ、どれだけ掛かるか分からない。雲海の上を一気に行く」
 陽子は瞬いた。蓬山の山頂部は|凌雲山《りょううんざん》の常で、雲海の上に突出している。しかしながら蓬山の山頂には、無人の祠廟以外、何もなかったように記憶していた。少なくとも、人が住んでいる様子はなかった。
「まあ、行ってみれば分かる」
 言われて、陽子は景麒から借りた|班渠《はんきょ》に騎乗した。そこからひたすらに飛んで一昼夜、騎乗したままうとうととして目覚めた早朝、金剛山の山頂が群島のように並ぶ海域を抜け、日没が近づこうという頃にようやく五山の姿を認めた。
 蓬山は五山東岳、山頂には白く壮麗な廟堂が建つ。その門前に舞い降りる前に、陽子は|佇《たたず》んでいる人影に気づいた。|玲瓏《れいろう》とした女が、飛来する騎獣を仰ぎ見ている。
「……な?」
 六太が笑う。なるほど、行けば分かる、と言うはずだ──陽子はそう思った。陽子は|碧霞玄君《へきかげんくん》の顔を知らないが、待ち受けた人物の身なりから、それが玄君自身であることは想像がついた。
「毎度のことながら、わざわざのお出迎え、恐れ入ります」
 真っ先に降り立った六太がそういうと、その女は軽く声を上げて笑った。
「それはこちらの申すこと。延台輔にはいつもながらの唐突なお越し、ほんに台輔はいつまで経ってもお変わりにならぬ」
「ま、俺はそれが身上だ。──玄君に紹介したい」
 六太の言に、彼女は|涼《すず》やかな眼差しを陽子に向けた。
「こちらは景王のようにお見受けいたす」
 陽子は驚き、玉葉の顔を仰ぎ見た。
「よく……ご存じで」
「蓬山のヌシじゃからの」
 玉葉は軽く声を上げて笑う。
「紹介が済んだところで、取り急ぎ、相談したい。……ついでにちょいと休ませてもらえると嬉しいんだがなあ」
 彼女は笑って、祠廟のほうへと六太を促す。扉のない門の向こうには白い石畳の広い|庭院《なかにわ》、ただし、それを囲む|墻壁《へい》も回廊もなく、ただ、一郭に赤い小さな祠だけがある。正面は正殿だが、玉葉はそこへは向かわず。朱塗りの祠の前に立った。扇で扉を一つ叩き、開く。陽子がかつて通ったときの記憶では、そこには|玻璃《はり》の階段があったはずだが、今は白い階段が下へと延びていた。
 驚いている陽子を振り返り、六太は苦笑する。
「気にするな。この人はどっちかというと、化け物の部類だ」
 |玉葉《ぎょくよう》は涼しげな笑い声を上げ、陽子らを中へと促した。
 禁門と同じ理屈だろう、さして長くはない白い階段を下りると、同じく白い建物の中だった。床に降りて振り返ると、閉まったはずの扉がない。そこには白い壁があるだけ、八角形の建物の、その他の面には壁が無く、緑に|苔生《こけむ》した岩肌が迫っている。
「こちらへ」
 玉葉が案内したのは、ほど近い宮だった。奇岩に囲まれた広々とした建物の中に入ると、すでに茶器と軽食が用意されている。|蓬廬宮《ほうろぐう》に住まうはずの女仙の影はどこにもない。
「とりあえず人払いをしておいたが、それで|宜《よろ》しゅうござったろうか」
「本当に察しのいいことで感心するよ。──単刀直入に訊くが、蓬山では、戴の事情をどこまで知っている?」
「再三、雁から|泰果《たいか》はないかと問い合わせがあったゆえ、泰麒の御身に何か|宜《よろ》しからぬことがあったことぐらいは想像がつく」
「それ以外は?」
「泰王が御座におられぬようじゃな」
「それで全てだ。戴に偽王が立った。泰王も泰麒も行方が知れない。泰王は戴を出ていないようだから|如何《いかん》ともしがたいだ、泰麒だけでも捜したいと思っている。泰麒は鳴蝕によってあちらに流された可能性が高い」
 玉葉は黙って茶器に湯を注いでいる。
「ただし、俺だけの手には余る。諸国に助けを借りようと思っている。そのうえで泰麒を捜し、こちらに連れ戻す。戻してそれで、戴に帰して終わりにはできまい。戴には冬に備え、物資が必要だ。偽王の目を逃れ、泰麒に泰王を捜してもらうにしても、それなりの人員と|後《うし》ろ|盾《だて》が要る」
「……国同士が、相互の付き合いを越えて、一致して事に当たった例はないようじゃえ」
「|理《ことわり》に触れるか」
「さて……。泰麒を捜して連れ戻すまでは良かろうが、その先は|如何《いかが》なものかの。これはおそらく理に触れよう」
 しかも、と玉葉は|蓋《ふた》をした茶器を六太の前に進めた。
「泰麒が流され、今に至るも戻っておられないことを考えれば、泰麒はこちらに戻ることができぬと思ったほうが良かろう。如何なる事情があってのことかは分からぬが、もしも事情ではなく、何らかの理由でそれが適わぬとすれば、その|障碍《しょうがい》を如何にして取り除くか、という問題もござろう」
「そうなんだ。……どうだろう?」
「ふむ……」
 呟いたきり、玉葉は黙り込む。しばらくの後に、頷いた。
「何にせよ、このままでは泰麒が|不憫《ふびん》じゃ。……確認してみよう」
 頼む、と六太が言うや否や、玉葉は立ち上がる。
「本日はゆるりと休まれるが良かろう。女仙を|捕《つか》まえていずれの宮なりともお好きにお使いなされ。明日の|午《ひる》にはお目に掛かる」

   5

 立ち去った玉葉を見送ってから、陽子は困惑して六太を見た。
「これは……どういうことなんだ?」
「どういう、と言われても。見ての通りだ。今回の件は、なにしろ前例がない。どうすればいいのか分からないし、だから相談したんだが」
 それは分かるが、と陽子は|口籠《くちご》もった。陽子の胸にある釈然としない感じを、どう言い表していいのか分からなかった。
「玄君はどういう方なんだろう?」
「ご存じの通り、蓬山のヌシだ。玄君が女仙を|束《たば》ねている」
「その玄君に相談してどうなるんだ?」
「答えを与えてくれる。だから来たんだぜ?」
「なぜ玄君が答えを知っているんだ?」
 ああ、そうか、と六太は溜息をひとつついた。
「陽子には呑み込んでおいてもらいたいことがある」
 六太は言って、陽子を見据える。
「この夜には天の定めた|摂理《せつり》がある」
「それは知っているが……」
「漠然と分かっている、だろ? これは、そういうことじゃないんだ。摂理という枠組みが世界には、ある」
 陽子は首を傾げた。
「それは天が所与のものとして人に授けた──あるいは、人に課した絶対的な条理だ。これは誰にも動かすことができない」
 よく分からない、と言いかけた陽子を制するように、六太は軽く手を振った。
「いいか。この例を挙げるのが、一番分かりやすいだろう。今、俺たちの前には|覿面《てきめん》の罪という問題が立ちふさがっている。兵をもって国境を越えてはならない、という条理が泰を救おうとすると邪魔をするんだ。実際に過去、王師が国境を越えた例がある。|遵《じゅん》帝の故事がその例だ。遵帝は王師を範に向かわせた。その結果、遵帝も|采麟《さいりん》も突如として|斃《たお》れた。遵帝はその日、格別の不調もなく、平生通りだったという。それが外殿を出ようとしたところで唐突に胸を押さえ、|階《きざはし》を転がり落ちた。官が|慌《あわ》てて駆け寄ったとき、遵帝の身体からは血が流れ出て石畳を小川のように這っていたという。驚いて助け起こすと、遵帝の身体は海面のように変じ、押さえれば皮膚から血が滲み出した。遵帝はすでに絶命していた」
「そんな……」
「斎麟はもっと酷い。遵帝に変事が起こったことを報せようと、官が采麟の宮殿に駆けつけると、そこにはもう采麟の残骸しか残っていなかった。使令が彼女を食い散らした後だったんだ」
 六太は顔を|顰《しか》め、|卓子《つくえ》の上で指を組む。
「これが尋常の死でないことは確かだ。王がそのようにして死ぬなんてことはあり得ない。同時に、使令がそうも唐突に麒麟を喰うなどということもあり得ない。麒麟を喰うのは使令の特権だが、場所を構わず荒らすことはない。どの麒麟もそれなりに息を引き取るし、遺体は棺に入れられ、|殯宮《もがりのみや》に安置される。殯の間、棺の置かれた堂《ひろま》は封印され、殯が済むと出されるわけだが、その頃には棺の中はほぼ空になっている。──そういうものなんだ」
 陽子は軽く喉元を押さえた。当の麒麟から麒麟の末路を聞くのは、胸が痛む。
「尋常でないことが起こった。しかも遵帝には位を失うような落ち度がなかった。仁道に篤い徳高い王で、遵帝が王師を範に向けたことにしても、誰も疑問には思わなかった。遵帝は範を苦しめるために王師を向けたわけではない。他国にも鳴り響く慈悲深い王が、慈悲によって民を救うために王師を範に向かわせたんだ。官も民も、それを指示しこそすれ、非難したりはしなかった。にもかかわらず、遵帝と采麟の末路はそれだった。何の予兆もなく、王や宰輔が死に際して通るべき段階は全てすっ飛ばされた。明らかに、尋常のことではなかったが、最初、誰もそれと王師の行動を結びつけたりはしなかった」
「延麒は遵帝とは……?」
「面識はない。遵帝は俺が生まれるより遙か以前にいた王だが、|宗《そう》王会ったことがある、と言っておられた」
「|奏《そう》の……」
「宗王が登極して間がない頃、遵帝は盛んに奏を支援したらしい。そして唐突に斃れた。現在の宗王が登極なさった頃、|才《さい》は治世三百年、南に著名な大王朝だった」
 延麒は茶碗を揺らし、覗き込む。
「なぜ遵帝が倒れたのか、その理由は誰にも分からなかった。そしてその後、新たに王が登極したが、その時には|御璽《ぎょじ》の国氏が変わっていた。そこで初めて、遵帝は罪によって|斃《たお》れたのだ、ということが明らかになった。これには先例があったからだ。かつて戴の国氏も、|代《たい》から|泰《たい》へと変わっている。これは時の代王が、|失道《しつどう》によって|麒麟《きりん》を失い逆上し、次の麒麟の生誕を|阻《はば》もうとして蓬山に乱入、女仙の全てを虐殺して|捨身木《しゃしんぼく》に火を掛けた、それ以来のことだと言われている。他にも似た例があって、国氏が変わるのは王に重大な罪があった場合だと知られていた。そしてここで初めて、王師が国境を越えたことで遵帝は罪に問われたのだと了解されたわけだ」
「それに匹敵する罪……」
「そういうことだな。たとえ仁のためであろうと、兵をもって国境を越えてはならない、という条理があることが、その時に理解された。兵を他国に派遣することは、その理由如何に拘らず罪なんだ」
「ちょっと待ってくれ。その条理を定めたのは、いったい誰なんだ? 天帝?」
「分かるもんか。俺たちに分かるのは、そこに条理がある、ということだけなんだ。実際、天綱には、兵をもって他国に侵入してはならぬ、と書いてある。この文章は、間違いなく天の条理を書き写してあるんだ。世界には条理がある。それに背けば罪に当たり、罰が下されることになる」
「でも、遵帝の行為を罪だと認めたのは誰なんだ? 罰を下したのは? 誰かがいるはずだろう?」
「とは限らないだろ。たとえば王と宰輔はその登極に当たり、|階《きざはし》を登る。陽子も登ったろう。天勅を受ける、というあれだ。それまで知らなかったはずのことが、頭の中に書き込まれる。そのときに、王と宰輔の身体の中に、条理が仕込まれた、と考えることもできる。天の条理に背けば、あらかじめ定められた報いが発動するよう、身体の中に仕込まれていると考えれば、少なくとも遵帝を見守り、その行為の正否を判じ、罰を下す決断をした何者かの存在は必要ではなくなる」
「御璽は?」
「同様に御璽に仕込まれていると考えることはできるだろ?」
「それでも問題は同じなんじゃないのか? 全てを仕込んだ──仕込むべく用意したのは誰なんだ?」
 さてなあ、と六太は宙を仰いだ。
「天帝がそれだ、と俺たちは説明するわけだが、実際のところ、俺は天帝に会ったという奴を知らないんだよな……」
 陽子は頷いた。
「私もだ……」
「天帝がいるのかどうかは知らない。だが、世界には条理がある。これは確かだ。そして、それは世界を網の目のように覆い、これに背けば罰が発動することも確かだ。しかもこれは事情を|忖度《そんたく》しない。|遵帝《じゅんてい》が何のために兵を出したのか、その行動の是非なんかは問題じゃないんだ。いわば天綱に書かれている文言に触れたか触れなかったか、ただそれだけの、自動的なものなんだよ」
 陽子は軽く身震いをした。足許から|悪寒《おかん》が|這《は》い昇ってくる。
「そのもう一つの証左が、俺たちが陽子を助けた、あの件だ。行為だけを言うなら、|雁《えん》の王師は尚隆の指示によって国境を越えた。どう考えても|覿面《てきめん》の罪に当たるはずだ。確かに陽子は雁にいたが、陽子は別に俺たちに援助を求めてきたわけじゃない。偽王を討ちたいから助けてくれと言ったわけじゃなかった。単純に対応に困って保護を求めてきたのを、俺たちが取り込み、景麒だけでも偽王の手から取り戻す必要がある、と言って説得した。形としては景王が雁の王師を使ったという体裁を整えたが、それは体裁だけのことで、実状は遵帝の行った行為と何ら変わりがなかったことは、当の俺たちが一番よく知っている。──だが、条理はそれでも構わない。ただ景王が雁にいる、それだけの体裁が整っていさえすれば罰は発動しないんだ」
「しかし……それは|可怪《おか》しくないか?」
「可怪しいとも。ちょうど悪党が、法の裏をかくやり方に似ている。確かに、天綱には兵をもって他国に侵入してはならぬ、とは書いてある。だが、他国に兵を貸してはならぬ、とは書かれていない。同時に、景王がそれを望めば、もはや侵入とは言えないだろう。王師の先頭に景王がいれば、それは確実に侵入という表現には当たらない。──驚いたことに、それで通るんだ」
「そんな……」
「それがいいとか悪いとか、そんなことを言っても仕方がない。この世はそういうものだ、と呑み込むしかない。だが、ものがそういう性質のものであるだけに、時々解釈に困ることがある。……実際のところ、俺たちがああして王師を貸したのは陽子が初めての例じゃない。俺たちは天の条理がものすごく教条的に動くことに気づいていたし、ならば当の王がいれば条理には触れないのではないかという結論に達していたが、最初の例の時にはひどく迷った。こんな裏をかくようなやり口が通るのか、自分たちでも疑問だった」
「……なのにやってみたのか?」
「まさか」
 六太は顔を|顰《しか》める。
「そんな|博打《ばくち》ができるもんか。──だから、今回のように玄君にお伺いを立てたんだ」
「玄君に」
「そう。ここ、蓬山の主は玄君だ。一説によれば|王夫人《おうふじん》が主だとも言うが、実際に女仙を|束《たば》ねるのが玄君であることを、少なくとも俺は知っている。蓬山で生まれたわけじゃないが、蓬山で育ってきたからな。では、蓬山で住まう女仙を仙に任じたのは誰だろう?」
「それは……玄君じゃないのか? 少なくとも王ではないだろう」
「その通りだ。蓬山の女仙を|飛仙《ひせん》と呼ぶ。それは、どの国の王が任じたわけでもなく、ゆえにどの王に仕えるわけでもないからだ。実際、蓬山の女仙はどの国の仙籍簿にも載っていない。王とは別の世界で、別個に仙籍に入れられ、玄君に仕えている」
「それでは、十三番目の国がある、ということにならないか? 少なくとも玄君は王に匹敵する立場にあるわけで」
「そういうことになるだろう? だが、ここは明らかに国じゃない。国土はあっても民がいない。しかもこの国土を|統《す》べる王には麒麟がいない。そもそも、玄君は蓬山を統べるわけじゃない。蓬山には|政《まつりごと》というものが存在しない」
「……では、ここはいったい何なんだ?」
「天の一部だよ。少なくとも、俺はそう思っている」
「……天」
「そう考えるしかないんだ。|蓬廬宮《ほうろぐう》は、ただ麒麟のためにだけ存在する。麒麟を育て送り出し、王を生産するために存在しているんだ。しかもいずれの国にも属さず、独自に存在していながら国ではない。飛仙とは、天によって任じられた仙のことだ。その飛仙を任免する権を持った誰かは、確実に天に所属している」
「では……玄君は」
「それが分かんないんだよな」
 六太は溜息をついた。
「あんたが仙を任じるのか、なんてことを|訊《き》いて、真正面から答えてくれるような親切な御仁じゃないからな。ただ、玄君でなければ、玄君の上位に仙を任じる権を持った誰かがいる。それは王夫人かも知れないし、他の誰かなのかも知れない。いずれにしても、その誰かに玄君は仕えている。つまりは天も組織化されているんだ。天という機構があり、その末端に女仙はいて、玄君はそれを|束《たば》ねている」
「天がある……」
「神の世界があるんだと思う。伝説では天帝は|玉京《ぎょっけい》におられ、そこで神々を束ね、世を整えるという。本当に玉京があっても、俺は驚かない。ただし、俺は|寡聞《かぶん》にして神と会ったという者を知らない。伝説でなら聞いたことはあるが、どうやら神は人に接触しないんだ。求めて神に会う方法はない」
 だが、と六太は言った。
「ただひとつ、ここだけは常に人と接する。玄君に聞けば、少なくとも天の意向を問うことはできる。実際に玄君が意向をどうやって確認してくるかは知らないが。ともかくもここが唯一の接点であり、玄君は唯一の窓口になり得る人物なんだ」
 

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