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色んなことにやんややんや言う感じ
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その件以来、|李斎《りさい》は|花影《かえい》と親しくなった。|驍宗《ぎょうそう》の臣としては新参の花影と、花影ほどには新参でないが麾下とも言えない李斎、同じ女だが方や文官で方や将軍という、似たようで似ていない居所が、互いに心安かったのかもしれない。
相変わらず花影は迷い子のような顔をしていた。特に|泰麒《たいき》が|漣《れん》へと向かい、本格的に|冬狩《とうしゅ》が始まると、いかにも|憂鬱《ゆううつ》そうで、危うげなものさえ感じさせた。
多くの官吏がその罪によって刑場に引き出されていった。最終的に罪を定め、罰を下すのは花影だ。そして花影の裁きは甘い、と批判する声が関与する官の間で上がっていた。人を裁かねばならない、心を鬼にして裁いても、影で手ぬるいと言われる──その一方で、民や事情を知らない官吏たちは声を揃えて秋官を責める。先王の許で専横を|恣《ほしいまま》にしてきた|佞臣《ねいしん》たちをどうして放置するのか、|咎《とが》めもなく野に放すのか、と厳しい批判が上がっていた。花影はそれらの苦痛に憔悴しきっているように見えた。
「なぜ私が秋官なのです。李斎、私には主上のお考えが分かりません」
花影は、連日の激務でほとんど住居のようになった|大司寇《だいしこう》府で泣いた。慰める言葉も持てず、李斎は夜の外殿へと出た。雲海の上は下界よりも暖かいはずだが、それでも深夜の|庭院《にわ》は霜で凍りつくほど寒い。穏やかな風が吹いていた。李斎はその中に血の臭気を嗅いだように思う。実際のところ──王宮の中でそんな臭いがする道理もないのだけれど。
官吏を捉え秋官に引き渡し、そして刑場へと引き出し、場合によってはその|骸《むくろ》を秘密裏に処分するのは、李斎らの努めだった。秘しておかねばならないゆえに、李斎はそのために選んだ最低限の|麾兵《ぶか》と共にその任に当たっている。少数でのことだから、李斎自身も手を汚さないわけにはいかなかった。場合によっては死体を埋める穴さえ掘る──その汚臭が身体に染みついているような気がする。
李斎はそれでもいい。武人だから慣れている。だが、花影は。
李斎は何となく内殿のほうへと向かい、そして正寝へ続く門殿を見やって足を止めた。王師六将軍は、いつでも正寝へ立ち入って良いと|驍宗《ぎょうそう》の免許を受けている。だが、驍宗に会って何をどう訴えればよいのだろう。心を決められず、結局李斎はすごすごと戻り、内殿の|園林《ていえん》で戻る気力も失って|路亭《あずまや》の片隅に座りこんだ。
──花影が哀れだ。
肩を|窄《すぼ》め、溜息を落としていると、背後から声が掛かった。
「疲れているようだな」
その声に居ずまいを正す。振り返ると、驍宗だった。
「いえ──そういうわけでは」
坐ってもいいか、と問われ、|李斎《りさい》は無言で一礼した。
「寒くないのか?」
「……冷えます」
とても寒々しい気分がしていた。この気分に比べれば、|石案《つくえ》に降りた霜などは冷たいうちに入らない。
「李斎は|花影《かえい》と、このところ親しいとか」
|驍宗《ぎょうそう》に言われ、李斎はその場から逃げ出したいような気がした。花影に対しては、いずれ|叱責《しっせき》があるだろう。だが、今それを李斎に言って欲しくはなかった。
「ずいぶん気安いと聞いているが」
「……はい」
「では、李斎から一度、訊いてもらえるだろうか。──少し、役目を離れてみるか、と」
李斎は目を見開いた。
「それは……花影を更迭するということですか」
まじまじと見返すと、そうではない、と驍宗は苦笑した。
「働きに不満があるわけではないが、花影には過大な負担をかけているようだ」
「……花影は負担に思っているわけではないと思います。それが努めですから」
言ったのは、|大司寇《だいしこう》から降ろされるということは、花影が驍宗の朝廷から弾き出されることを意味するからだ。官吏にとってそれは堪え難い挫折だ。
「懸命に努めをこなそうとしています。……批判の声もあるようですが、多分、花影は元々あまり秋官に向いていないのでしょう」
だろうな、と驍宗は言う。李斎は震えた。寒いのではなく、腹立たしかった。
「お分かりになっていたのなら、なぜ花影を秋官にお命じになったのですか」
「……大司寇は、たいそう罪人に甘いとか」
「ええ、ですから向いてないと」
「だからこそ適任だと思ったのだが」
李斎は気勢を|殺《そ》がれて言葉を失った。
「罪人に甘い花影であれば、良い重石になってくれるだろうと思ったのだ。だが、花影にしてみれば|堪《たま》るまい。よほど辛いようなら、役目を返上して構わない。|春官《しゅんかん》か|地官《ちかん》か──そのあたりに席を用意しようと伝えてくれるか」
では、と李斎は思った。驍宗は自分の行う改革が急峻すぎることを理解しているのだ。
「人を裁き、罰することは、得てして歯止めが利かなくなるものだ。坂を転がるように加熱していく。だが、今はとにかくやらねばならない。だから、向いてない秋官のほうが向いていると思ったのだが」
「……ええ……確かに」
「だが、花影は辛いようだ。せっかくの有能な官吏を、こんなことで|潰《つぶ》すのは忍びない。私から|退《しりぞ》いても良いと勧めれば、花影は叱責だと思うだろう。花影と親しい李斎の口から先に伝えてもらったうえで、花影と話し合ったほうが良いと思う」
李斎はふと、肩の重荷が外れたような気がした。深々と息を吸い、吐いた。
「……もう少し、ゆっくりと進めることはできないのでしょうか。花影は武官ではありません。いろんなものを懸案して、慎重に事を進めるのが本分です。そうすれば花影も少し、落ちつくと思うのですが」
「とりあえず、|蒿里《こうり》が戻ってくるまでに、|大凡《おおよそ》の見当をつけておかねばならない。蒿里が漣を出たと|青鳥《しらせ》が来た。残された時間は半月しかない」
「どうしても、台輔のいらっしゃらない間でなければならないのですか?」
「そう思っている」
「ですが──戻っていらしてから、お耳にはいることもあるのでは。粛正の事実がある以上、それがいずれ伝わることは止められません。後からお聞きになれば、いっそうお心を痛められるのではないでしょうか。それよりも事前に耳に入れて差し上げたほうが」
|麒麟《きりん》は、と|驍宗《ぎょうそう》は苦笑した。
「民意の具現だという。──ならば、民の目から隠すべきことは、麒麟の目からも隠すべきだろう」
「そうでしょうか。……いえ、確かに台輔にとっては、見たくも聞きたくもない種類のことでしょうが。ただ、民の目から隠す、というのはどうでしょう。民が粛正の事実を知れば恐れるのは確かでしょうが、驕王の許で加虐に荷担した者には懲罰が必要です。民は自らを虐げてきた者たちが罰されたことを知りたいのだし、だからこそ今も、秋官は何をしているのか、という声を上げております。不満の声はともかくも、知らせてやらなければ、民も区切りをつけられないのでは」
王朝には終わりがある。王が|斃《たお》れた瞬間がそれだ。だが、民の苦難には区切りがない。終わったという明確な境目がないのだ。傾いた王朝は民に苦難を強いる。王が斃れた後の朝廷は官吏の専横を許す。新王が登極しても、当初は波乱に満ちているものだ。民の苦難は、即位礼を境に終わるわけではなかった。人心のためにどこかで悪しき時代は終わったのだ、という区切りが必要だし、それに最も適した機会は即位礼から続く王朝初頭の一時期だろう。新王が即位し、先王の時代の病巣が取り除かれる。両者が一対となって、民に苦難の時代が終わり、全てが正される時代が来たのだと知らしめる。
「そうなのかもしれない」
「では──」
「だが、私は蒿里にこれを見せたくない。あれはまだ小さい。しかも流血を恐れる。麒麟だから」
「台輔のお気持ちをお考えになるのでしたら、御自身がいない間に恐ろしい出来事があったこと、それをお知りになったときのお気持ちを考えて差し上げるべきではないでしょうか。後からその事実を知り、何もできなかったこと、何もさせないために国を出されてしまったことをお知りになってしまったら、台輔は」
出過ぎか、と|李斎《りさい》は思ったが、|驍宗《ぎょうそう》は頷いた。
「さぞ悲しむだろうな。……だが、そういうことではないのだ」
李斎は首を傾けた。
「|蒿里《こうり》は時に、私に対して|怯《おび》えるふうを見せる。私にはそれが、民の不安に見える」
李斎ははっとして驍宗を見返した。
「|麒麟《きりん》は民意の具現だという──それは、こういうことなのではないかと思うことがある。戦乱や流血を恐れる、それが民というものではないのだろうか。先王は文治の王だった。文治の王ゆえに、その末世にもさほどに|惨《むご》い振る舞いがあったわけではなく、ただずるずると腐敗してきた。そこで人心を|刷新《さっしん》するには武断の王が立つのが最も効果的なのだろうが、民は同時に不安だろう。武断の王は果敢だが、道を逸すれば怖い。──怖いという不安を、蒿里の眼差しが|映《うつ》しているように見える」
この人は──と、李斎は思い、その先の言葉を見失った。今の気分をどう表現すればいいのか分からない。|並外《なみはず》れている、とも言える。あるいは、常態を逸している、とも。あの小さく愛らしい子供を、そんな目で見ているのか、という気がした。
「私は今回のこれを、蒿里に見せたいとは思わない。──ならばきっと、民の目からも隠すべきなのだろう。それを量るために蒿里の存在はあるのだと思う。民の信任は、まだあれほどに小さい……」
はい、と李斎は頷いた。同時に、やはり驍宗は違う、と感じていた。
李斎の目には、麒麟はただ小さく|稚《いとけな》い子供に見えていた。新王を選ぶという、大任を果たしたばかりの無力で非力な子供に。だが、驍宗にとってはそうではないのだ。泰麒は依然として重大で巨大な何かの具現であり、愛玩して良しとすることは許されない何かなのだ。勿論、そうに決まっている。泰麒は子供ではない──麒麟だ。いつもこうやって説明されて初めて、分かっていて当然のことに気づく。
「今回のことは、蒿里には知らせない。民にも、だ。可能な限り秘密裏に迅速に行い、何が起こったのかを決して|悟《さと》らせてはならぬ」
「……|畏《かしこ》まりました」
李斎が一礼すると、驍宗は頷き、立ち上がった。李斎はそれを見送り──そして|花影《かえい》の許へと戻った。花影は先ほどとは別の意味で泣き崩れた。気が緩んだのだと思う。ひとしきり泣いて、花影はどこか晴れ晴れとしたように笑う。
「李斎が、主上は自分とは違う、と言っていたのがよく分かりました。そう──私にも納得の仕方が分かったような気がします」
「私も改めて再確認しました」
李斎はそう、苦笑した。
以来、花影からは肩の力が抜けたように見えた。花影と驍宗の麾下との間にあった温度差のようなものが|均《なら》され、花影は驍宗の麾下に見えるようになった。
その前後の頃からだったと思う。似たような変化が、あちこちで見受けられるようになった。
ちょうど花影が不安を|漏《も》らしたのと時期を同じくして、あちこちで表立って不安の声が聞こえるようになっていた。花影と同じく驍宗のやり方に|馴染《なじ》まない者、性急さに不安を覚える者は、李斎が想像した以上に存在したようだった。だが、その声が減っていった。
少しずつ、朝廷はひとつに|纏《まと》まっていった。──そのように見えた。
李斎にはそれが怖かった。
李斎の不安を言葉にすることは難しい。|強《し》いて言うなら、極めて|優《すぐ》れていることは、極めて悪いことと実は同じなのではないか、という不安だった。突出しているのはどちらも同じ、ただ突き出るその方向が逆だと言うだけのことなのでは。極めて|獰悪《どうあく》な王が災厄を招くように、驍宗もまた災厄を招きはしないだろうか。
朝廷はとりあえず落ちつき、纏まりを見せている。驍宗の武断に対する危惧、性急さに対する不安や果敢なやり方に対する|畏《おそ》れは、とりあえず取り除かれたということのようだった。泰麒が戻ってくるまでに、問題のあった官吏の整理も済んだ。その巨悪が取り除かれたことで動きだすであろうと思われるあらゆるものには監視がつけられ、用意がなされた。麾下とそうでない者の間にあった温度差、それに由来する|軋轢《あつれき》も治まったように見えた。
これで問題はないはずだ──にもかかわらず、李斎は何かを見落としている、という不安を抱かずにいられなかった。
他にも何か災厄の種子が水面下に隠されてはいないか。
李斎にはそんな気がしてならなかったし、事実、その者は滑らかに見える水面下から、ほとんど唐突に現れたのだった。
※
彼が自分の身に起こったことを把握するまでには、かなりの時間がかかった。
彼は平たく言うならば、神隠しに遭っていたのだ。祖母に叱られ、中庭に出され、彼はそこから|忽然《こつぜん》と消えた。消えた瞬間のことは、彼自身覚えてはいなかった。まるでうとうとと|微睡《みどろ》んでいたような曖昧な空隙の後、彼は家に戻ってきた。この間に一年以上の時間が流れていたが、彼にとってその時間は存在せず、存在しないものの内容を説明することは不可能だった。
警察が呼ばれ、医者が呼ばれた。後に彼は児童カウンセラーの間を転々とすることになった。失われた時間を埋めようと、大人たちは必死になったが、彼は何一つ思い出すことができなかった。
彼にとって、段差は存在しなかった。雪の中庭から祖母の葬儀の日の玄関先へ、|曖昧《あいまい》な箇所はあっても、全ては一繋がりになっているように思えた。段差は世界のほうにあった。祖母は死亡し、弟はいきなり大きくなっていた。学校の同級生たちは一学年上になり、ひとつ下だったはずの弟が同級生になった。──だが、彼の周囲の人々にすれば、世界に段差は存在しまい。彼こそが段差そのものだった。彼と周囲の人々は、このことによって、決定的なずれを生じた。根本的な何かが|齟齬《そご》を起こし、もはや|噛《か》み合うことができなくなってしまったのだった。
そして、周囲は勿論、彼自身も気づかぬまま、彼の喪失は始まった。彼は、自分がこちらで一日を過ごすたび、別の世界で一日が失われていくことに気づかなかった。そればかりでなく、こちらにおける彼自身──彼の中に固く封印されてしまった獣としての彼自身もまた、日一日と損なわれていくことに、やはり気づくことができなかった。泰麒の身体は、|蝕《しょく》と当面の|治癒《ちゆ》とで生気を使い果たしていた。だが、それでもなお、治癒は進んだはずだった。長い年月をかければ、角の再生さえ不可能ではない。本来ならば。
どうした、と彼に声を掛けたのは父親だった。
「食べないのか?」
父親は息子の、動きを止めた|箸《はし》を見やった。母親は食卓に向かい、途方に暮れたように|夕餉《ゆうげ》を見つめる息子を|撫《な》でて、取りなすように|微笑《わら》った。
「そういえば、お肉は嫌いだったわね。すっかり忘れてた。お母さんが悪かったわ」
「甘やかすのは、やめなさい」
ぴしゃり、と父親の声は冷たい。
「それは、お母さんがお前の身体のために良かれと思って用意したものだ。世の中には食べるものに事欠いている子供もいる。好き嫌いをいうことは、二重に良くないことだ。──偏食直しなさい」
「いろいろあったんですもの、疲れているのよね?」
母親は彼の肩を抱き寄せる。そうすることで、懸命に段差を埋めようとしていた。
「|脂《あぶら》っこいものは辛いんだわ。いいのよ、残しても」
「|駄目《だめ》だ」
父親の声はさらに冷たい。
「特別扱いはやめなさい。これからこの子にはいろんなことがあるだろう。人が同情してくれるのもいない間だけ、これからはなんだかんだと陰口を叩かれることになる。むしろ厳しくしてやるほうがこの子のためだ」
「でも……」
言い差した母親を無視して、父親は彼を見据える。
「分かったな」
「……はい。ごめんなさい」
彼は頷いた。|箸《はし》を動かして懸命に食事を続けた。
──もちろんこれが、彼の治癒を決定的に損なうことになるとは知らず。
|汕子《さんし》は|微睡《まどろ》みの中で、ぴくりと肩を動かした。半ば眠ったまま、|僅《わず》かに顔を上げる。彼女を包んだ|鬱金《うこん》の闇の中に、微かに血の臭いが流れ込んできたように思った。
──何だろう、これは。
半ば眠った意識の隅で思う。微かな異物。不快で、不安感を呼び起こす何か。
汕子はしばらく首を|擡《もた》げ、|頑《かたく》なな殻の向こうの気配を|窺《うかが》い知ろうと努めていたが、釈然としないまま、それを|諦《あきら》めた。
……何でもないようだ。
気のせいだったかもしれない。気にしすぎだ。さほどの大事が当面、起こるはずがない。汕子はそう自分に言い聞かせる。
汕子は、泰麒は危機に際して本能的に蝕を起こしたことを理解していた。兇賊から逃げようとして|蝕《しょく》を呼び、実際に逃げおおせた。泰麒は門を抜けたし、抜けてしまった以上、ここは異界だ。かつて泰麒がまだ金色の果実だった頃、流された異界。だが、突発的なあの危機に際して、泰麒の無意識は極めて妥当な選択を行った。泰麒は、かつて流されていた頃、見知った人々のいる場所へと本能的に逃げたのだ。かつて泰麒に胎を貸した女と、その夫。そして二人の間の子供と。いわば仮の親と仮の兄弟、確かにここならば、兇賊の手は届くまい。泰麒は自らを守ってくれる場所を選んだのだ。
……だからここで、良くないことなど起こるはずがない。
敵は泰麒を追ってくるかもしれない。だが、泰麒を捜すことは難しいことだと、かつて泰麒の入った果実を失った|汕子《さんし》は、身に|沁《し》みて知っている。たとえ捜し出せたとしても、それにはかなりの時間がかかるはずだし、汕子はただ外部からの襲撃だけを気にしていればいいはずだった。
だから、大丈夫だ、と汕子は自分に言い聞かせながら眠りに落ちる。そして、どれほどにか時間が経ってから、また異物感を感じて目を覚ました。何度かそれを繰り返し、そして汕子はその不快な刺激を無視できなくなった。
──これはいったい、何。
汕子は顔を上げる。汕子の目は|鬱金《うこん》の闇を|彷徨《さまよ》い、必死に異物感の|所以《ゆえん》を探ろうとした。
「……毒だ」
闇のどこからか、|傲濫《ごうらん》の声がした。それで汕子はやっと悟った。そうだ、間違いない。毒ではないが──毒のような|穢濁《あいだく》を盛られている。
「なぜ」
汕子は|呟《つぶ》いた。仮の親ではないのか。|泰麒《たいき》はここを安全だと判じて逃げてきたはずだ。にもかかわらず、彼らは泰麒に危害を加えようとしている。
やめさせなければ──自らに課した禁を破り、殻から飛び出そうとした汕子を、どこからか響く声が押し留めた。
「|囚《とら》われたということか? 奴らは看守か?」
傲濫の言に、汕子ははたと気づいた。──そういうことなのかもしれない。
「まさか、敵はここまで見越していたの?」
泰麒がここに逃げ込むことを知っていて、あらかじめ仮親たちを取り込んでおいた──そういうことなのだろうか?
「でも、彼らは積極的に危害を加える気はなさそうだわ」
「しかし、穢濁を盛られている」
「敵の気配はどこにもないわ。単に泰麒の力を恐れ、抑えようとしているのかも」
それはあり得る──傲濫は闇の底から同意した。
「ならば|穏和《おとな》しく|囚《とら》われている限り、命までも取られることはないだろう」
「抵抗すれば、敵に引き渡されてしまうかしら」
かもしれない、と傲濫は呟いた。
汕子はひどく思い迷った。このまま虜囚になっているべきか、それとも看守を倒して泰麒を解放するべきか。だが──それをすれば、汕子たちが泰麒の気力を大きく|削《そ》ぐ。それでなくても角がなく、入ってくる気脈が細い。いずれあるかもしれない敵襲に備えてここは耐え、力を蓄えておくべきなのかもしれなかった。たとえ看守の手から逃れても、泰麒には逃げ込む場所がない。少なくとも、こちらにそんな場所があるかどうかは、汕子にも分からなかった。勿論、戴には危険で戻れない。唯一安全だといえるのは世界中央、|蓬山《ほうざん》だが、泰麒には再度、蝕を起こす|術《すべ》がなく、汕子らにもそれはできない。それをすれば、それでなくても|儚《はかな》い泰麒の気力を食い尽くすことになるだろう。帰れない以上、汕子には泰麒を逃がしてやる場所の当てがなかった。逃げ込める場所を探している間に二度三度と襲撃を受ければ、それを|凌《しの》ぎきることができるかどうか|心許《こころもと》なく、もしも凌ぎきることができたとしても、|汕子《さんし》たちが気力を喰うことで、泰麒自身をのっぴきならぬほど損なう可能性があった。
穏和しく囚われている限りは、襲撃を受けずに済むのかもしれない。命を取るほどでもない毒ならば、ここは見過ごすべきなのかも。
「……泰麒には、この世界において庇護が必要だ」
|傲濫《ごうらん》は遠くからそういう。
「たとえ牢獄の庇護、看守の庇護でもないよりはましだ。いつぞやの騒ぎを見たろう」
汕子は頷いた。泰麒を取り囲んだ人間たち。精神的に責め立て、身体的にも、調べると称し、怪しげな器具を使って圧迫を与えた。警察とか医者とか言う連中から隔絶されるのであれば、今は虜囚の身を耐えるべきなのかもしれない。──そう、確かにこんな庇護でも、ないよりはましだろう。
「できるだけ辛抱してみましょう……敵の出方を確かめないと」
注意だけは怠らないことだ、という秘かな声と共に、傲濫が眠りに落ちる気配がした。