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黄昏の岸 暁の天 2章4~

2010-08-08 22:08


   4

「……どう思う?」
 |花殿《かでん》を出ながら、陽子は背後の二人に問うた。その一方は無表情に沈黙し、もう一方は、どうと言われましても、と答えた。
「とりあえず、泰王と泰台輔が行方不明になられた経過は分かりましたが」
 そうではなく、と陽子は苦笑した。
「彼女は|戴《たい》を救って欲しいと言っている……それをどう思う?」
 |浩瀚《こうかん》は少しだけ眉を|顰《ひそ》めた。
「李斎殿が具体的に何を求めていらっしゃるのかによります。そもそも、今の|慶《けい》に何ができるのか、という問題もございますし」
 浩瀚がそう言ったところで、|景麒《けいき》が足を止め、一礼した。景麒は州庁での執務中に呼び出されてたから、そこへ戻らなければならない。それを見送り、浩瀚もまた|冢宰府《ちょうさいふ》へ戻るべく正寝を退出していった。
 誰も彼も、李斎にばかりかまけてはいられないのだ、と内殿へ戻りながら陽子は思う。こうしている間にも、慶は動いている。それも自身も問題を抱えながら。
 浩瀚の言う通りだ。助けるというのは簡単だが、実際問題として、陽子に何ができるのか。陽子自身、登極してやっと丸二年が過ぎたところだ。不慣れでしかも──こちらの事情に|疎《うと》い|胎果《たいか》の王、ろくに文書を読むこともできず、政務の多くは浩瀚と景麒に頼っている。彼らが負担してくれたぶん空いた時間で、|太師《たいし》に教えを請い勉強している、という有様だった。他国に施すことができるほどの余裕は、陽子には勿論、国庫にも朝廷にもなかった。
 考え込みながら内殿を西へと向かうと、ちょうど|廊屋《ろうか》を、|皮甲《よろい》を着けた人物がやってくるところだった。
「ああ、──|桓たい《かんたい》[#「桓たい」の「たい」は「鬼」+「隹」Unicode:+9B4B]」
 桓たいは陽子に気づいて足を止め、軽く|拱手《えしゃく》する。これが慶の禁軍将軍だった。
「ちょうど良かった」
 陽子が言うと、桓たいは軽く身を引く。
「お相手なら勘弁してください。たった今、小臣を|扱《しご》いてきたばかりなんで。このうえ主上の、すとれすとやらの発散相手にされては身が|保《も》ちません」
 陽子は軽く笑った。
「そういうことじゃない。疲れているんなら、ちょっと休んでいかないか?」
 はい、と頷く|桓たい《かんたい》を、内殿奥の書房へ連れて行く。公務の合間に休むことのできるここが、陽子の昼間の|住処《すみか》だった。
「……寄せ集めの王朝だな」
 陽子がそこで茶を|淹《い》れながら|呟《つぶや》くと、桓たいはきょとんとする。陽子は苦笑した。──|戴《たい》を救うも何も、むしろ慶のほうが救われたいところだ。肝心の王は執務より先に読み書きを習わねばならない有様、小臣の半数は元々市井にいた侠客たちで、だから規律も本格的な戦闘術も、何もかも仕込まれねばならない。仕込むほうも人手が足りず、禁軍の左軍将軍が直々にやってくる有様だ。
「小臣の訓練までさせたんじゃあ、桓たいも苦労だな」
「いえ。まあ、俺は別に。将軍ってのは、戦がなきゃ暇なものなんで」
 陽子は笑った。それは真実でないと分かっている。陽子は最初、この世界に来て軍の規模の大きなことに驚いたが、内実を知って納得した。こちらには警察というものが存在しないのだ。|警邏《けいら》も犯罪者の取り締まりも、秋官の指揮を受けて軍が行う。そればかりか、公の土木事業もまた軍の管轄になるのだった。民を徴用するまでもない事業では、官の指揮のもと、懲役に課せられた罪人と軍が工事を行う。王宮や都市の警備、貴人の警護と、戦のあるなしに|拘《かか》わらず軍は忙しい。
「|些少《さしょう》ながら|褒美《ほうび》を|遣《つか》わす」
 陽子が言って茶器を差し出すと、桓たいは笑ってそれを押し頂いた。
「御酒ではないようですが、有り難く」
 ひとしきり笑って、陽子は桓たいに問いかけた。
「桓たいは泰王を知っているか? 有名な方だったようだが」
 ああ、と桓たいは頷く。
「面識は当然、ありませんが。噂ぐらいなら。|乍《さく》将軍でしょう、以前の」
「李斎は知っているか? もともと承州師の将軍だったということだが」
「いえ、さすがにそこまでは。──ああ、そう言えば、あの方の乗ってきた騎獣は元気になったようですよ」
「そうか、それは良かった」
「そうだな、俺は|劉《りゅう》将軍のことは存じあげなかったんですが、騎獣を見ると優れた方なんだろうという気がしますよ。騎獣のほうの主人に対する忠義が|篤《あつ》いし、騎獣自身もとてもよく馴らされている。馴らし込む、と言うですが。よほど良く面倒を見て、しかもきちんと主人として立つ──そうでないと、ああも馴らし込むことはできませんからね」
「へえ……」
「ただ、名前を聞いたことはないな。もともと、他国の将軍の名前なんて伝わってくるようなものじゃないですから。|乍《さく》将軍は別格でしょう。そういうことだと思いますが」
 ははあ、と|桓たい《かんたい》は心得た|貌《かお》をする。
「乍将軍と自分を引き比べたでしょう、今」
「比べてもしかたがない。あちらは傑物のようだから」
「本当に傑物だったら戴が荒れるわけがないでしょうに」
「それを言っては酷だろう。泰王が荒らしたわけじゃないんだから。どうやら何か変事があって消息が知れないようだな。それを本人の落ち度にするわけにはいかないだろう?」
 桓たいは少しばかり生真面目そうに首を傾ける。
「その変事とは?」
「|謀反《むほん》があったようだ。偽王が立って、泰王も泰台輔も行方が知れない。分かるのはそこまでだな、|李斎《りさい》がまだ本調子でないから」
 そうか、と桓たいは|呟《つぶや》いて、考え込むふうだった。陽子もまた、考え込んでしまった。詳細は分からないが、李斎が慶を頼ってくれたことは分かる。泰を救うために必死であることも。だが、慶は寄せ集めの朝廷だ──何をしてやる余力もない。
「結局のところ、評価ってのは他人が下すものですからね」
 桓たいが呟いて、陽子は彼を振り返った。
「……うん?」
「結果を見て他人が貼り付けるものでしょう。たとえ偶然にせよ、戦で全焼すれば常勝の将軍と言われる。常勝の将軍と言えば、優秀な将のように見えますけど、無能だけれどもたまたま負けたことがない、ってこともあるんじゃないんですか」
「泰王は過大に評価されていると?」
「ああ、そういう意味じゃありません。……ただ、勝てそうもない戦いは同輩に押しつけ、勝てる戦にだけ出てりゃ、常勝将軍になるのは容易い、ということです。常勝でありさえすれば、世間は負け知らずの将軍だと|褒《ほ》めるし、一旦、常勝無敗の将軍だと評価されてしまうと、優秀な将に違いない、立派な人物で傑物だろうという思い込みが一人歩きを始める」
「それは……そうだろうが」
「けれども評価は結果を言い表したものでしかないでしょう。傑物という言葉は、乍将軍の──泰王の結果に対する評価であって、泰王の内実を示す言葉ではないと思うんですが。それで言うと、泰王は戴を荒らした時点で傑物でなくなったという言い方はできるんじゃないかな。……なんにせよ、他人と自分を比べてみても仕方ない。引き比べるのはどうしたって、他人への評価と自分の内実という比較にならないものになるに決まってるんですから」
 なるほど、と陽子は苦笑する。
「……まあ、比べてみなくても、主上も良い王ですよ」
「へえ?」
「俺に言わせれば、行方不明になんかならずに玉座に収まっていて、ついでに半獣をちゃんと召し抱えてくれるのが良い王ですからね」
 そう、半獣の将軍は澄まして言った。陽子は笑い、そして、
「桓たい……もしもお前を戴へやったら、偽王を討てるか?」
「御冗談を」
 桓たいは|慌《あわ》てたように手を振った。
「そんなに弱いのか、我が禁軍は?」
「そういう問題ではありません。そもそも兵を出せるほどの余裕が慶にあるはずがないでしょう。軍を動かすってのは大変なことなんですよ。一軍だって一万二千五百人ですよ。兵卒がそれだけいて、派兵ということになれば、これに軍吏と馬や騎獣がつく。それだけの大所帯が、いったいどれくらいの飯を食うか、想像がつきますか?」
 陽子はきょとんとした。
「そうか、食事か……」
 仮に一万三千人として──と陽子は思う。故国流に一人当たり一食に米を最低一合と考えると三食で三合、それが一万三千人で、最低限の米だけでも一日当たり三万九千合。
「想像もつかない量だな。一食ハンバーガー一個と考えても一日三万九千個か……」
「は?」
 なんでもない、と陽子は苦笑した。
「だから各地の夏官が|兵站《へいたん》を持っているわけです。地方に乱があって派兵される時には兵站から補給を受けられる。しかし、それが他国の話で、しかも謀反の最中だというのなら、まず兵站は当てにできないでしょう。全部持っていかないといけないわけです。どうやって運ぶか以前に、そもそもそれだけの食料を一時に用意できますか?」
「慶では無理だろうな……」
「国中の兵站を空にして掻き集めようにも、そもそも兵站自体が最低限のものしか蓄えられないでいる有様ですからね。しかもそれだけの荷と兵を運ぶ船が慶にはありません。どうやって戴に行くんです?」
「なるほど……」
「そもそも他国に兵をやろうということ自体、慶では不可能です。第一、太綱に他国へ侵入しちゃいけないと決められているでしょう」
「侵入ではないだろう。別に戴を占領しようというわけじゃないんだから」
 |桓たい《かんたい》は首を傾げる。
「そうか……そういうことになるか」
「おまけにそれを言い出したら私はどうなる? 私は|雁《えん》国の王師に偽王を倒してもらって、堯天に入ったんだぞ」
「それもそうですね」
「できるのは、|泰《たい》王と|泰麒《たいき》を捜すことぐらいか……」
「お二人の所在は」
「全く分からないようだ。──どうだろう? 捜索なら飛行できる騎獣を持った|空行師《くうこうし》が一|両《りょう》あればどうにかならないか?」
 桓たいは首を傾げる。
「二十五騎じゃ無理でしょう。せめて、一|卒《そつ》は欲しいところですね。百騎あれば、手分けして捜索ができますから」
「空行師が一卒か……」
 それならば不可能ではないのだが。だが、感は賛同すまい。慶の内部ですら事欠いているときに、何事だと言うだろう。陽子は|頬杖《ほおづえ》をつき、しばらく考え込んだ。
「……やはり、王が玉座にいる、いないは大きいだろうな」
 陽子が呟くと、桓たいは表情を引き締めた。
「そうですね、かなり。泰王がどういう人物かはさておき、王が行方知れずでは戴の民は大変でしょう。しかもあの国は冬が厳しいところなので。こういう言い方は何ですが、亡くなったほうがまだしもかもしれません」
「亡くなったほうが?」
「王が亡くなったのであれば、いずれ次の王が立つわけですから。民はそれまでの期間を堪え忍べばいいと言う話でしょう。愚王の場合だっていずれは天が玉座を取り上げてくれる。それまでと、次王が立つまでの間を堪えればいい。亡くなってもおられず、しかも玉座にいないというのは、ある意味で最悪のことかと」

   5

 |李斎《りさい》は夜半、|微《かす》かな話し声で目を覚ました。
「……すごーくお腹が空いてたの」
「そう思ったわ。お茶も持ってきたから」
「嬉しい。一緒に食べていく?」
 他愛のない会話に、李斎が軽く首を起こすと、枕辺にいた|女御《じょご》が、驚いたように振り返った。|牀榻《ねま》の入り口からは、娘が一人、身を乗り出すようにして顔を出している。
「ごめんなさい。起こしてしまいました?」
 いいえ、と李斎は首を振り、
「ひょっとして、お食事も|摂っておられないのか? 私のせいで?」
 李斎が問うと、|鈴《すず》は大きく手を振る。
「ちょっと、──ちょっと機会を|逃《のが》しただけなの。|祥瓊《しょうけい》が夜食を運んできてくれたから、大丈夫です」
「食べていらしてください。私は大丈夫ですから」
 李斎が言うと、祥瓊と呼ばれた娘が、鈴に笑った。
「さっさと片づけてきなさいよ。その間、私がここについているから」
 うん、と頷いて、鈴は|牀榻《ねま》を出ていく。入れ替わるようにして、祥瓊が李斎の枕許に腰を下ろした。
「とんでもないことでお騒がせして申しわけありません。私は|女史《じょし》で、祥瓊と申します」
「……いや。こちらこそ、|女御《にょご》には大変なご迷惑をおかけしているようだ。私はもう、付き添いなどなくても大丈夫ですから」
「それは李斎様がお決めになることではなく、|瘍医《いしゃ》が決めることでしょう?」
 そう言って、祥瓊は笑む。
「お気になさらないでください。こちらこそ、人手が足りなくて、十分なお世話ができず、申し訳ない限りです」
「そんな……女御にはよくしていただいています」
 言って、李斎は何となく目を逸らした。
「景王にも……景王は、とても誠実なお人柄のようにお見受けする」
「|生真面目《きまじめ》で、|莫迦正直《ばかしょうじき》なのは確かかしら」
 くすりと祥瓊が笑うので、李斎は意外に感じて振り返った。
「|金波宮《きんぱきゅう》の方々は……ずいぶん景王に対して気安くていらっしゃる」
「すっかりすういう気風になっちゃったみたいです。威儀も何もなくて、呆れてしまわれるでしょう?」
「いや……」
「泰王は、ずいぶん御立派な方だと伺っています。……今は行方が分からないとか。さぞご心配でしょうね」
 はい、と李斎は頷いた。
「戴の民もどんなにか苦しいでしょう。しかも戴は冬の厳しいところだし……」
「戴をご存じか?」
 いいえ、と祥瓊は首を振る。
「けれど、私は|芳《ほう》の出身なので。芳の冬もとても厳しいんです。ひとつ何かが|巧《うま》くいかなくても、全部冬にその|皺寄《しわよ》せがきて、それが命に関わってしまうんです。戴は、そんな芳よりずっと冬が厳しいと聞きました」
「そう……そうです」
「芳も今は空位なのですけど、戴とは事情が違います。芳の亡くなった王は、国を荒らした方でしたし……」
 言って|祥瓊《しょうけい》はどこか寂しそうに微笑む。
「だから空位になって、民は少し救われた面もあるのですけど。でも、泰王はとても人望の篤い方だったと聞いています。そんな王を失くされるなんて」
「はい……」
「|謀反《むほん》があったとか。……王朝の最初はどうしても、それまでに自分が|掴《つか》んでいたものを失うまいと、|焦《あせ》った|佞臣《ねいしん》が暴れるものだから……」
「……それは、どうなのでしょう」
 |李斎《りさい》が呟くと、祥瓊は首を傾げる。
「確かに王朝の初期はそういうものでしょう。空位に乗じて専横していた者たちは、新王の即位に焦るものです。けれども私には、謀反の理由がそれだったとは思えない……」
「──? では?」
 分からないのです、と李斎は答えた。焦った官吏が謀反を起こしかねないことなど承知していたし、李斎らも十分に警戒していた。
「なぜ……あんなことになったのか……」

 ──主上は大変な賢帝におなりかもしれません。
 感動したように言ったのは、李斎が承州から同行してきた側近の|師帥《ぶか》だったか。
「三公も、こんなに素早く王朝が整った例はないって、感心しておられたそうです」
「だろうな」
「兵卒も、大変な王が立ったもんだって大喜びです。民も歓迎しているようですしね」
 李斎は笑って頷いた。|驍宗《ぎょうそう》はその出自が武人であっただけに、兵卒の人気が高い。|驕《きょう》王は文治の王で、兵卒は比較的冷遇されてきたから一層だった。同時に、登極した驍宗が真っ先に驕王の|御物《ぎょぶつ》を処分し、冬に向けて各地の|義倉《ぎそう》に備蓄を送ったことで、民も大いに喜んでいた。戴の冬は厳しく、食料と炭の備えが尽きれば即座に生命に係わる。驕王の浪費によって空になった義倉に物資が運び込まれ、民は歓声を上げている。
「新しい、いい時代が来たんだって感じです」
 そう言って師帥は笑った。
 李斎もまた、同じように感じていた。民の喜ぶ声が聞こえる。市中に出ても、|王師《おうし》に対する民の泰王は温かく、新王に対する思いの丈が知れた。民のみならず、宮中を行き交う官吏もまた生き生きとした表情をしていた。
 だが──疾走する|車駕《くるま》は|軋《きし》みを上げるものだ。州師将軍として朝廷に加わり、|李斎《りさい》は晴れやかであるはずの朝廷のそこここに、奇妙な|翳《かげ》りがあることに気づいた。その正体を理解したのは、|冬至《とうじ》の|郊祀《まつり》が終わった頃のことだった。

「近々、台輔には|漣《れん》に行ってもらう」
 |驍宗《ぎょうそう》は側近を集めてそう言った。
「漣までは往復で|一月《ひとつき》余り、その間に|冬狩《とうしゅ》を行う」
 李斎は最初、言葉を額面通りに捉えた。新年の前後は重大な公務が少ない。その間に大規模な狩猟を行うのだろう、と。確かに朝廷は整いはしたが、ずいぶんと|暢気《のんき》なところのある方だ、と内心で驚いたのを覚えている。同様に思ったのだろう、集まった者たちの間に、困惑したような空気が流れた。それを破ったのは、禁軍の将軍を務める|阿選《あせん》だった。阿選は妙に低い声で問うた。
「──獲物は」
「|豺《いぬ》だ」
 短い言葉に、李斎はぎくりとした。
「先王の許で|政《まつりごと》を私し、専横を極めた|狡吏《かんり》を処断しなければならない。|迂闊《うかつ》に野に放すわけにはいかぬ。解き放てば処分を恨んで|火種《ひだね》になる可能性が高く、連中が悪辣な手段をもって|溜《た》め込んだ私財は、これからの戴になくてはならないものだ」
 粛正のことを言っているだと気づいて、李斎は|慄然《りつぜん》とした。同種の感慨を|滲《にじ》ませた、|呻《うめ》きとも溜息ともつかない|騒《ざわ》めきが室内に満ちた。
「|郊祀《まつり》が終わって、あとは新年を迎えるばかりだ。そこに使節が立って漣へ行く。禁軍、瑞州師の主だった将軍もそれに同行するとなれば、連中はおそらく気を緩めるだろう。そこを一網打尽に処断する」
「──その間、台輔を国外へお出しになると?」
 阿選の問いに驍宗は頷く。
「これは|蒿里《こうり》には見せないほうがいいことだろう」
「しかし、後々お耳に入りませんか」
「入れないようにする。これからここで話すことは、蒿里には勿論、この件に関与しない誰に対しても|悟《さと》られてはならぬ」
「では、内々に処断を行うと……?」
 そんな、と李斎は声を上げそうになった。|賊臣《ぞくしん》の整理が必要なのは分かる。だが、罪を明らかにして公に処罰するのでなければ、それは一種の私刑だ。
「勿論、全てに置いて正式な手順を踏む。ただし、その一切は伏せておかねばならない。この件に係わる官府は、担当する官を厳選して組織せよ。それ以外の官吏には、一切これに係わらせてはならない。|蒿里《こうり》が戻ってきたときには、全てが終わっている。すこしばかり官吏の顔ぶれが変わっており、何となく人数が減ったような気がするだけだ」
 それでは泰麒を|騙《だま》すようなものではないか──言いかけて李斎は思い直した。確かに|麒麟《きりん》にとっては、知らないで済んだほうが幸いなことなのかもしれなかった。麒麟はその性、仁にして、流血を嫌い、|非道《ひどう》を|厭《いと》うと言う。事実、血の|穢《けが》れによって|病《や》むことさえあった。だからこれが泰麒に対する驍宗の温情であることは確かなのだろう。
 無理にも納得しようとした李斎だったが、あの、と声を上げた者があった。先頃|大司寇《だいしこう》に就任したばかりの|花影《かえい》だった。
「それで|宜《よろ》しいのですか? ──畏《おそ》れながら、台輔は|聡《さと》くていらっしゃいます。妙に隠すよりも、本当のところを申し上げたほうが」
 ならぬ、と驍宗の返答は短く、|反駁《はんぱく》の余地がなかった。
 続いて計画の概要を聞かされて、李斎はさらに寒気に似たものを感じた。|悪辣《あくらつ》な官吏を一気に掃討する、その恐ろしいほどの迷いのなさ。そう──もともと|驕王《きょうおう》の寵臣であり、それ以後も麾下を朝廷の端々に入れていた驍宗にすれば、誰が何をしており、何をしていなかったのか、問題のある官吏は誰で、どう処罰すべきなのかは了解済みの事柄だったのだろう。驍宗は登極したときから、誰をどう排除してそれをどう埋めるかの図面を、すでに持っていた。そして、それらの|佞臣《ねいしん》が取り除かれたときに何が起こるかも、驍宗は十分に予測できているに違いない。事実、この|冬狩《とうしゅ》は、国賊を取り除くだけではなく、そのことによって雌伏した敵を揺すり起こし、洗い出そうという|奸計《かんけい》の一環だった。逆臣や|邪《よこしま》な野心を押し殺してきた者、巧妙に悪行を隠してきた者は、粛正を見て調子づき──あるいは|焦《あせ》り、動き始めるだろう。
 この方は、と李斎は驍宗を見た。
(新王が登極して十数年は──下手をすれば数十年はかかることを、一年で片づけてしまおうとしている)
 ふいに|悪寒《おかん》を感じた。それまで李斎は、驍宗に対して何の不安も抱いてはいなかった。人望篤い名将、李斎自身も驍宗の|為人《ひととなり》を高く評価していたし、尊敬の念を感じていた。だが、この時初めて、不吉な予感とでも言うべきものを感じたのだった。
 それは決して驍宗の計画に不安を覚えたのでも、王としての力量に不安を覚えたのでもなかった。ただ──これほどにも強い光輝は、それだけ濃い影を落とさないではいられないだろう、と思わずにはいられなかった。
 そして、それから少し経ってからだったと思う。花影が李斎の自邸を突然、訪ねてきた。細かな雪の降りしきる夜のことだった。

   6

「雪になりましたねむ
 官邸の|客庁《きゃくま》に案内されてきた|花影《かえい》はそう言って、|李斎《りさい》に一礼した。
「お寒かったでしょう」
 李斎は|火炉《ひばち》の傍の椅子を勧めた。
「にもかかわらず、拙宅までお出ましいただき、恐縮に存じます」
 とんでもない、と李斎に向かって花影は首を振った。
「こちらこそ、突然おじゃまして申しわけありません。李斎殿と一度、ゆっくりお話しさせていただきたかったのです。唐突に思い立ち、|不躾《ぶしつけ》な使いを出しましたのに、快諾をいただけて嬉しく思います」
 光栄です、と李斎は笑って、家人に用意させた|酒肴《しゅこう》を勧めたが、花影はどこか上の空の様子だった。白い顔には心細げ表情が浮かび、しかも寒々しげに見えた。見える歳の頃は四十半ば、外見に置いても実年齢に置いても花影は李斎より年上だったが、にもかかわらずこのときの花影は、迷い子のような顔をしていた。単純に李斎と|誼《よしみ》を得るために訪ねてきたようには到底、見えなかった。
「失礼ですが、花影殿はどうして私をお訪ねくださったのですか?」
 花影は、物思いから覚めたように李斎を見た。
「ああ……いえ、これという用があったわけではないのです。本当に一度、ゆっくりお話をしてみたくて……」
 花影は言ったが、最前からろくに|喋《しゃべ》ってはいなかった。それに自らも気づいたのか、花影は恥じ入ったように俯く。
「わざわざお時間をいただいて、お宅にまで押し掛けるようなことではありませんね。……とんだ失礼を」
 李斎は首を傾ける。
「|明《あ》け|透《す》けな奴よ、とお思いにならないでいただきたいのですが──ひょっとして、花影殿には、何かお悩みがおありですか?」
 花影は胸を突かれたように顔を上げ、そしてふいに、泣きそうに顔を|歪《ゆが》めた。
「失礼な申しようでしたら、お許しください。私はどうも、婉曲な言い廻しというものに|疎《うと》くて」
 いいえ、と花影は首を横に振った。
「とんでもありません。失礼は私のほうです。実を言えば、ろくにお話もしたことのないお方を訪ねて、何をどう申し上げたものか、考え込んでおりました。単刀直入に訊いていただけて、救われた心地がいたします」
 言って微かに笑い、|花影《かえい》はやはりどこか頼りなげな様子で酒杯の縁を指で撫でた。武人の|李斎《りさい》とは違い、きちんと手入れされ、磨かれた爪が無骨な陶器の縁を|滑《すべ》る。微かに震えているようにも見えた。
「お寒いようですが。もっと|火炉《ひばち》を持ってこさせましょうか?」
「いいえ。決して寒くは」
 言って、花影は震える指先に気づいたのか、|慌《あわ》てたようにその指先をもう一方の手で|握《にぎ》りこんだ。
「……寒いのではありません。李斎殿、私は怖いのです」
「怖い?」
 花影は頷き、李斎をまっすぐに見る。心の底から|怯《おび》えている|貌《かお》だ、と李斎は思った。
「主上が登極なされ、王宮は目まぐるしく変わりました。本当に何という方でしょう──こんなに早く朝廷が整うなど、聞いたことがございません」
 李斎はあえて同意せず、黙って先を待った。朝廷の端々で始終聞く|褒《ほ》め言葉だが、微かに震えを含んだ声音からして、花影がそれを決して喜んでいるわけではないことは明らかだった。
「……こんなに急で良いのでしょうか」
 花影は、ぽつりと|零《こぼ》した。
「……急?」
「朝を|革《あらた》めることは必要です。旧悪を廃することも。けれども、それはこんなに急がねばならないことなのでしょうか。もっと、ゆっくり時間をかけて、十分に吟味して|穏《おだ》やかに変わっていくのでは、なぜいけないのでしょう……?」
「──性急すぎると?」
「そんな気がしてならないのです。いいえ、決して主上を批判しようというわけではないのですが。ただ、私自身、自分のやっていることが恐ろしくてならないのです。どうしても何かを失念している気がします。忘れてはならない何かを置き去りにしているような気がして仕方がないのです。何もかもがこんなに急速に変わっていっていいものだろうか──と、どうしても」
 李斎は頷いた。無理もない、という気がしていた。
 花影はもともと、|藍《らん》州の|州宰《しゅうさい》で、情理に篤い名宰相だと言われていた、と聞いている。何度か顔を合わせた限りでは、確かに慈愛深く、礼節を重んじる穏やかな人柄のようで、思慮も深く、|目配《めくば》りも利いていた。驍宗が六官長の一に抜擢したのも頷けるが、ただ、あれで|大司寇《だいしこう》が|務《つと》まるのか、という声も李斎の耳には聞こえてきていた。秋官の主たる仕事は、法を整備し罪を裁き、社会の安寧を築くことにある。秋官は同時に外交の官でもあったが、花影は秋官にしては情けが深過ぎはしないか、と危惧する声が確かにあった。
 秋官は|秋霜烈日《しゅうそうれつじつ》の官、刑罰や威令、節操に厳しいこと、秋の霜や夏の激しい|陽脚《ひざし》が草木を枯らすにも似ることからこう言う。確かに、|李斎《りさい》の目の前に座っている女は、迷い子のように頼りなげで、彼女のどこからも、秋官としての厳しさ激しさのようなものは感じられなかった。
「……私はずっと、地を治め、民に福利を施すことでやってきました。人に罰を与えることには慣れていないのです。慣れの問題ではないことは、重々承知しております。努めとあれば、果たすだけ──けれども、私は秋官には|凡《およ》そ向かない人間だからこそ、これまで私に秋官になれと命ずる方がいなかったのではないかと思うのです」
 なのに、と|呟《つぶや》いて、|花影《かえい》は視線を落とした。再び、震える指先が酒杯の縁を|彷徨《さまよ》い始めていた。
「これから、たくさんの官吏を裁かねばなりません。それも、短期間のうちに一気にやってしまわなければ。私は怖いのです。たとえ罪人とは言え、人を裁くのにこんなに性急でいいのかと……」
 李斎は微笑む。
「どうぞ、御酒を。少しは身体が温まります」
 頷いて言われるままに酒杯を口に運ぶ花影を、李斎は見守った。
「……花影殿が不安にお思いになるのも無理はないのかもしれません。確かに朝廷は目まぐるしく変わっていますし、旧悪の処断は新王朝につきものですが、これほど|一気呵成《いっきかせい》に行おうという例はないでしょう。主上は呆れるほど思い切りの良い方です」
 李斎が苦笑してみせると、花影も僅かに口許を|綻《ほころ》ばせる。
「我々武人は、期を重んじます。ここだという決断の|為所《しどころ》があり、その時には迷わず果敢でいなければならぬと、そんな風に考えるものなんです。戦に於いては、慎重に吟味して決を下す余裕などないことが多い。なまじ慎重に構えれば、みすみす好機を逃す結果になりかねません。ですから、主上の決断は納得できるのです。確かにここが好機なのだし、行動を起こすべき時なのだ、ということは分かりますから」
 言って李斎は微笑んで見せた。
「もっとも、自分でも同じように決断できるかと言われると、それは疑問なのですが。事が事だけに迷い、ぐずぐずと時間をかけて泥沼を作ってしまう結果になるのじゃないでしょうか。そこが私などのいたらないところです」
「では、李斎殿は不安を感じたりなさらないのですね?」
 李斎は|僅《わず》かに返答に詰まったが、多分それは花影に気づかれずに済んだと思う。
「……不安に思うようなことはありません。よくぞここまで一気に決断なさる、と驚嘆はいたしますが。きっと、主上には迷わず決を下せるだけの確信がおありなのでしょう。それおありになるのであれば、一気に旧悪が取り除かれるのは、決して悪いことではありますまい。朝廷が早く整えば整うほど、民が潤うことも早くなるのですから」
「それは……ええ、分かります」
 |花影《かえい》は俯く。
「ですが、その確信が……私には、どうしてそこまで迷わずに確信を抱くことがおできになるのか、それが見えないのです。決して、主上を信じないわけではないのですが……」
「花影殿は、主上とはこれまで」
「いいえ。何の御縁もございませんでした。お噂だけは聞いておりましたけれども」
 言って、花影はやっと微笑んだ。
「ですから、秋官長に就けと宣旨を戴いたときには、本当に驚きました。私のような者の存在をどうしてご存じだったのかと──」
「主上はそういう方ですから」
「|李斎《りさい》殿は、以前からの|麾下《ぶか》でいらしたのですね?」
「麾下といえますかどうか──」
 李斎が|驍宗《ぎょうそう》に出会ったのは、|蓬山《ほうざん》でのこどった。驍宗と同じく|昇山《しょうざん》した李斎は、そこで初めて噂に聞こえた|乍《さく》将軍に会ったのだった。昇山のために|黄海《こうかい》に入る者たちは、ほとんどが集団を作り、隊列を組んで黄海を越える。だが、驍宗はその集団の中にいなかった。|手勢《てぜい》だけを連れて黄海に入り、独自に蓬山へと向かったからだ。
「ですから、蓬山に到着してから、初めてお目に掛かったのです」
「まあ……でも、隊列を離れて黄海を往かれるなんて、危険なことではないのですか?」
「本来は危険なことなのですが。ただ、主上にとってはさほどのことでもなかったのでしょう。後に聞いたところでは、主上は驕王の頃、三年ほど仙籍を返上し、禁軍を退いておられたことがあったとか。その時に黄海に入ってらしたのだそうです。黄海には騎獣を捕まえることを|生業《なりわい》にする者がいるのですが、その者たちの|徒弟《でし》におなりだったそうですよ」
「……徒弟、ですか? 禁軍の将軍が」
 花影は驚いたように目を丸くする。李斎は軽く笑った。
「そういう方なんです。何でも騎獣を自分で捕まえて、|馴《な》らせるようになりたかっのだとか。昇山の時にも狩りをなさりたかったということで、隊列の中にはおられませんでした。ですが、昇山するために驍宗様が我々と同時に黄海に入った、とは聞いておりましたし、だとしたら自分の出る幕はなさそうだ、と思ったものです」
 李斎が苦笑すると、花影は口許を押さえた。
「ひょっとして、失礼なことをお訊きしてしまいましたでしょうか」
「一向に。……ですから麾下というわけではありません。けれども蓬山では、幸い、驍宗様と台輔、お二人に心易くしていただきました。それが御縁で目を掛けていただけるようになったのです」
 禁軍の将軍と州師の将軍、身分の差はあったが、|麾兵《ぶか》だったわけではない。なのでむしろ同輩のように接してもらった。|驍宗《ぎょうそう》が登極してからは早々に|鴻基《こうき》に招かれ、驍宗の麾下の者たちとも引き合わされた。中には昇山の時に同行していて、すでに顔見知りだった者もいたし、|瑞《ずい》州師の将軍に抜擢されてからは、ごく自然に麾下の者たちと肩を並べてきた。
「こうして、改めて申し上げると妙な気がしますね。私自身も、主上の麾下であるような、ないような」
「そうだったのですか……」
 |花影《かえい》は軽く息を吐いた。
「では、私の直感もあまり|侮《あなど》ったものではないのですね。──いえ、どこかしら|李斎《りさい》殿は麾下らしくない気がしていたのです。もともと主上に従ってきた、そういうのとは、少しばかり違うように感じられて」
「そうですか?」
「ええ。ですから今日も李斎殿をお訪ねしてみようと……。他の方々には、怖いなどとは、とても言えなくて。何が怖いことがあるのだ、と一蹴されてしまいそうな気がしたのです。ただ、李斎殿は少し違うような気がして。同じ女だからなのかもしれませんが」
「嬉しく思います」
 李斎はそう答えた。花影の言い分は不当ではない。驍宗の麾下だった者たちは、長い間、驍宗の側近くに仕え、驍宗の|為人《ひととなり》も考え方もよく分かっている。これまでに|培《ちつか》われた篤い信頼があり、太く|縒《よ》り合わされた|絆《きずな》があった。その繋がりがあまりに強固だから、時折、疎外感を感じることがある。李斎でさえそうなのだから、花影は一層そうだろう。自分だけが異分子で、違和感を抱いているという感触を持っていて当然なのだろう、と思う。
「怖いのは、心細いせいなのかもしれません」
 花影は苦笑まじりにそう|零《こぼ》した。
「主上が何かおっしゃると、李斎殿を|首《はじ》めとする皆様は、それだけで意を察したように了解なさる……そういう気がするのです。自分だけが主上の意図を理解できない。何もかも呑み込んだふうの皆様の顔を、おどおどと見回しているうちに、皆様、分かり切ったこととして先に進んでしまわれるんです。いつもいつも、置き捨てられるようで……」
「皆が主上の意を了解しているわけではないと思いますが」
「……そうなのですか?」
「ええ、多分。私などでは、主上のお考えが分からないこともあります。けれども、主上がそうおっしゃるのだから、それでいいのだ、と──そう思っているだけなのです」
「信頼していらっしゃるのですね」
 花影の声音は、少しばかり寂しげで、同時に何かを危惧する響きを伴っていた。
「少し違うかもしれません。別に無条件に信じているわけではないつもりです。巧く言葉にできないのですが……私と主上は違うのです」
「違う?」
「私は主上と最初にお会いして、|器《うつわ》が違うとは、こういうことなのだ、と思ったことがあります。何というか──物事を見る目が違うのです。私などには考えもつかないような場所から物事を見ている」
 |花影《かえい》は少し考え込み、そしてふいに思い当たったように顔を上げた。
「私は|驕王《きょうおう》の治世が長くはないことを分かっていましたが、だからと言って、その先の必要のことなど考えてみたことがありませんでした。──そのように?」
「ああ、そうです。恥ずかしながら、私もそうなのです。梟王の治世の長くないことは分かっていました。戴はこれから荒れるだろう、不逞の|輩《やから》が専横を開始するだろう、未来の予測はできました。けれども、その先には考えが及ばなかった。──考える必要を感じなかった。と言うより、要不要すら念頭になかったのです」
「分かります」
「主上のなさったことを見れば、そうだ、と思う。国は傾く。ならばその傾きを止める人材が必要なのだし、それだけの人材を育てるにも、要所に配するにも時間がかかる。国を憂うなら用意しておくべきだったと、今になればあまりに明らかなのですが、当時は不思議なほど、それを考えてみることがなかったのです。予測はしていたのに、その先は、存在しないかのように念頭になかった」
 花影は|俯《うつむ》く。
「けれども、主上には見えていた……」
「そういうことなの゛と思うのです。そして、それが器量の差というものだと。私の考えが及ばなかった、足りなかった──どれも言葉は正しくありません。考えるきっかけがあれば、私にも分かったことでしょう。だが、私にはそのきっかけを見いだすことができなかった」
 言って李斎は、自分自身に向けて頷いた。
「ですから、主上の意が見えないときにも、きっとそうなのだろうと思うのです。私には見えない何かが見えていて、主上には確信がおありなのだろうと。明らかな疑問、明らかな|過《あやま》ちを感じれば、私も異論を申しますが、特に疑問はない、過ちも感じない──けれどもよく分からない、そう言うときには、そう思って納得しています。結果が出たとき、なるほど、こういうことだったのかと私にも分かるのでしょう」
 そうですか、と花影は心許なげに頷き、そうして改めて不安そうに李斎を見る。
「では、台輔についてもそうお思いですか?」
 ──痛い所を突かれた、と李斎は思った。
「それは……」
「これからの波乱を台輔のお耳に入れたところで、お心を痛めるだけだ、ということは分かるのです。ですが、そう決めてかかり、国外へ追いやってしまうのは強引に過ぎないでしょうか。ご自身がおられない間に、粛正が行われたことを台輔が知ったら。粛正の事実にお心を痛められるだけではなく、それに際してご自分が何もできなかったこと、助命や温情を嘆願する余地もなかったことに傷つかれはしないでしょうか」
 |李斎《りさい》は沈黙した。──|泰麒《たいき》の性格から考えて、何もできなかった自分を責めるのではないかという気が李斎はしていたし、同時に、それをさせないために自分は国を出されたのだと気づけば、いっそう傷つくのではないかという気がしていた。
「私には、台輔のお気持ちを言い訳にしていながら、主上の選択は台輔の心情を置き去りにするもののように見えます。……主上のなされようは、全てそのように思えてならないのです……」
「|花影《かえい》殿」
 花影は悲しげに笑った。
「……結局、批判を口にしてしまいましたね……。私にはそう見えるのです。主上は心服する臣下だけを引き連れて、強引な改革を急ごうとしているように思えます。台輔のお気持ちが置き去りにされているように、多くのことが置き去りにされている、と感じる……」
 ではその置き去りにされているものとは何だ、と問うたところで、花影には答えられないのだろう、という気が李斎にはした。花影はただ、この急激な変化そのものが恐ろしいのではないだろうか。多分、花影の危惧には確たる根拠があるわけではない。|驍宗《ぎょうそう》に対する不安ではない、驍宗が作る急流に乗って流されている自分が怖いのだ。同じような不安を感じている者は多いだろう。急激な変化を好まない──それどころか本能的に恐怖心を抱く人間はいるものだ。同様に、驍宗の果敢さ、迷いのなさに|怯《おび》える者もいるだろうし、意味もなく反発する者もいるだろう。
 ──こういう形で|軋《きし》む。
 王に対する反意は、普通ならば自らの処遇への不平、政治手腕に対する危惧、あるいは王の|為人《ひととなり》への不安から生じるものだ。だが、花影は自信の処遇に不平があるわけでも、驍宗の手腕に危惧を抱いているわけでもない。花影の言は、驍宗の為人に対する不安のようにも聞こえるが、多分、それは真実の全てではない。根源に横たわるものは花影自身の中に存在している。急激な変化に対する無条件の恐怖心。
 強い光輝が落とす濃い影。驍宗の落ち度ではなく、驍宗への直接的な不満でもない。ならば分かりやすく、読みやすい。前もって手当てをすることも可能だが。
 それはどこにどういう形で潜んでいるか分からない。その読み難さが怖い、と辞去していく花影を見送りながら、李斎はそう思っていた。
 

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