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黄昏の岸 暁の天 5章1~2

2010-08-08 22:15


五章

 

   1

 陽子が|蓬山《ほうざん》から戻ると、|正寝《せいしん》で|女史《じょし》が待ち受けていた。
「陽子──妙なお客様があるのだけど」
「客?」
 首を傾げると、|祥瓊《しょうけい》は頷く。陽子が蓬山へ向けて旅立って間もなく、国府へ陽子を訪ねてきた者があったという。
「|氾《はん》王が裏書きなさった|旌券《りょけん》を持った使者がやってきて、陽子に会いたいと言っているようなの。陽子はいなかったので、とりあえず|堯天《ぎょうてん》の|舎館《やど》で待ってもらっているのだけど。これが使者の残していった氾王からの親書」
 陽子は首を傾げながら、それを受け取った。慶は過去、|範《はん》と国交を持ったことがない。ひょっとしたら、|延王《えんおう》|延麒《えんき》が連絡を取ってくれた例の件についてだろうか。
 親書を開くと、ほのかな方向と共に、すばらしく流麗な文字が出てきた。その手跡といい、涼しげな墨の色と、ごく|淡《あわ》い|藍《あい》の紙色との取り合わせといい、品格と美しさを感じさせたが、陽子は深呼吸をして身構えなければならなかった。|祥瓊《しょうけい》がそっと陽子の顔を覗き込む。
「……読もうか?」
「いい……頑張ってみる」
 陽子は四苦八苦して、親書に取り組む。それは型通りの時候の|挨拶《あいさつ》に始まり、|不躾《ぶしつけ》に使者を|遣《つか》わした非礼を|詫《わ》びるもののようだった。延王から|報《しら》せを受けたこと、協力は惜しまないことを述べたうえで、頼みたいことがある、と書いてあった。戴からやってきた将軍が、慶に逗留しているということだが、是非とも将軍に面会をさせてもらいたい、と。
「李斎に会いたいと言っているみたいなんだけど。|舎館《やど》に使いをくれ、と言ってるのかな。あるいは舎館にいる使いと会わせてくれと言ってるのか……」
 陽子が手紙を差し出すと、祥瓊は|瞬《まばた》いた。
「違うわ。将軍を舎館に|遣《つか》わして欲しいと言ってるのよ。個人的に会いたいだけだから、重大なことにはしないでもらいたいって──あら、じゃあ」
 祥瓊は目を見開いた。
「……じゃあ、氾王御当人が、堯天の舎館までいらしてるんだわ」
 そんな、と陽子は呟いた。
「それはものすごく失礼なことなんじゃあ」
「普通はね。でも、当の御本人が、重大なことにはしないでもらいたいって言ってるんだから。あくまでも個人的に将軍に会いたいってことのようよ」
「なんで?」
「理由は書いてない。……これは私的なことだから、自分が来ていることは見て見ぬふりをしといてくれ、将軍にも身元は言わずにおいてもらえるとありがたいって書いてあって、それで終わり」
「と言われても、李斎はまだとても、|舎館《やど》を訪ねていける状態にはないんだが」
「そういってみるしかないわね。こちらからも使者を|遣《や》って、事情を説明するしかないんじゃないかしら。|台輔《たいほ》と|冢宰《ちょうさい》に相談してみたほうがいいと思うわ」
 陽子は頷き、慌てて|景麒《けいき》と|浩瀚《こうかん》に相談をした。とりあえず事情を説明して、|氾《はん》王自身に|金波宮《きんぱきゅう》まで足を運んでもらうしかあるまい、ということになって、秘かに|祥瓊《しょうけい》に舎館まで行ってもらうことになった。李斎はまだ動けない、李斎が治るまで待ってもらうわけにもいかないので、失礼ながら金波宮までおいでいただきたい、と親書を持たせたのだが、この親書を作るのが、ひと騒動だった。
「そんな、どこにでもあるような紙を使っちゃ、駄目」
 祥瓊は断固として言って、氾王からの親書を示す。
「これを見れば分かるでしょ。すごく趣味の良い方なんだから、滅多なものを差し上げるわけにはいかないわ」
「そんなことを言ったって、私はそもそも字が下手だし」
 陽子は筆を使って文字を書くことに慣れていない。お粗末な字だという自覚はある。
「だからこそ、心配りをする必要があるの。そのへんにある紙に書き|殴《なぐ》ったら、|塵芥《ごみ》みたいなものじゃない」
「……そこまで言うか?」
「言いますとも。だからってあんまり気取った紙を使うと、かえってみっともないことになるわよね。飾り気のない気の利いたものでなくちゃ。探してくるから、陽子はそこで字の練習をしてて」
 溜息をつきながら、陽子は祥瓊の作ってくれた手本を写し、そして彼女が探し出してきた紙に何度も書き直しながら清書をした。それを携えて祥瓊は宵の街に出て行き、戻ってきたのは夜、祥瓊は何とも奇妙な貌をしていた。
「どうだった?」
「ああ……うん。明日、国府をお訪ねくださるそうです。公式の賓客ということになると時間も手間もかかるし迷惑もかけることになるから、くれぐれも個人的な客として扱ってくれ、って」
「そうか。……で、|氾《はん》王はどういう方だった?」
 氾王はその在位三百年、南の奏、北東の雁に次ぐ大王朝だった。
 |祥瓊《しょうけい》は何とも言えない表情のまま、|上目遣《うわめづか》いに天井を見る。
「……趣味はとても良い方だったわ……一応ね」
 は、と問い返す陽子に、祥瓊は引きつった笑みを向ける。
「まあ……会えば分かるわよ」

 範からの来客があると国府から報せが上がってきたのは、予定通りその翌日、陽子は蓬山行きの間に|溜《た》まった雑事を片づけていた最中だった。取るものもとりあえず、外殿へと向かう。外殿の傍らには殿堂があって、来客をそこに一旦、留め置くことができるようになっている。その|堂《ひろま》の中にはいると、中には二人の人影が待っていた。一人は二十代終わりの背の高い貴婦人、もう一人は十五、六の少女だった。どこと言って特徴のないその少女の顔を見て、陽子は一瞬、足を止めた。どこかで見たことのある顔のように思ったからだ。
 その少女は、陽子が以前、慶であった少女にどこかしら似ていた。もちろん、当人であるはずがない。なぜなら、その少女は死んでしまったのだから。だが、僅かに胸が痛んだ。似ている、と思うと切ない。
 少女は|膝《ひざ》をつき、そんな陽子を不思議そうに見てから、|拱手《きょうしゅ》した。
「突然のご無礼にもかかわらず、拝謁を|賜《たまわ》りまして、深くお礼を申し上げます。ここに|範《はん》の主上からのお使いをお連れしました」
 言って少女は、背後に同じく膝をついた人物を見やる。では、これが氾王その人だろうか──背筋の伸びる思いで、一礼したその人物を見て、陽子は少し驚いた。特に華美なところはなく、一見して質素にすら見える身なりの|麗人《れいじん》だったが、よくよく見れば、身につけた|襦裙《きもの》も|花鈿《はなかざり》もさり気ないものの見事な代物だった。だが、どう見ても、そのすらりとした長身の持ち主は男にしか見えなかった。似合っているのは確かだし、なるほど、祥瓊の言うように趣味の良い人物ではあるのだろうが──目線のやり場に困っていると、少女は微笑む。
「とにかく主上からのお言葉をお伝え申したく存じますが」
 陽子はそれを、人払いして欲しい、という意味だと受け取って頷いた。|こん人[#「こん人」の「こん」は門構えに「昏」Unicode:U+95BD]《こんじん》を振り返る。
「とにかく|大行人《だいこうじん》に命じて、お客様をお迎えするように。それと──」
 言いかけたところで、少女が顔を横に振った。
「いいえ。……|畏《おそ》れながら、あまり仰々しいことにならないように、と主上からくれぐれも言い遣っております。どうぞ、官の皆様を騒がせないでくださいまし」
「しかし」
「お願い申し上げます。私が主上からお叱りをいただいてしまいます」
「……では、失礼ながら、私的なお客様としてお招きする。お二方はどうぞ、こちらへ」
 こん人が|咎《とが》めるような声を上げたが、陽子はそれを|一瞥《いちべつ》して黙らせた。外殿から奥へと少女を導く途中、こん人が聞こえよがしに、範は礼儀知らずだ、と呟くのが聞こえた。
「……臣下の|躾《しつけ》が行き届かず、申し訳ない」
 陽子が|詫《わ》びると、少女は笑む。
「景王は主上におなりになったばかりなのですから」
 なにやら奇妙な──と、陽子は思った。特に取り立てて人目を引く容姿ではないのだが、奇妙に人を|惹《ひ》きつける華やぎが、この少女にはある。|瑛《えい》州の片隅で死んだ慶の少女にはなかったものだけれども。
「……どうかなさいましたか?」
「いえ……知り合いに似ている気がして」
 左様ですか、と少女は微笑む。もう一方の「使者」は黙って少女の背後に控えていた。特に表情を動かすわけでもなく、先ほどから一言も口を開かない。押しつけがましくはない奇妙な存在感があって、しかも立ち居振る舞いは流れるように優美だった。多分、この人物が氾王のはずなのだが──と、困惑した気分で陽子は二人を連れ、内殿へと向かった。その途中で景麒に会う。外殿へと駆けつけるところのようだった。
「ああ、景麒──こちらは」
 陽子は言いかけ、言葉を途切れさせた。景麒は珍しく、ぽんとしていた。
「主上……こちらは」
「ああ、氾王のお使いで」
 にこりと笑んで、少女が一礼する。|呆気《あっけ》にとられていたふうの景麒が慌てて|膝《ひざ》をつくのを見て、陽子はぎょっとした。
「では、氾台輔であらせられますか」
 は、と声を上げそうになった陽子を、少女は制す。秘め事をするように口許に指を当てた。陽子は改めて少女を見た。少女の長い髪は艶やかに黒い。どう考えても麒麟のそれではなかった。背後に控えた長身の人物が、初めてちらりと笑った。
「どこへお連れいただけるのでしょう?」
 少女が屈託なく言うので、陽子は|慌《あわ》てて、内殿にある|園林《ていえん》のほうを示した。
 広大な|園林《ていえん》には内殿に付属する書房が続き、その反対には客殿が続く。園林のそこここには|路亭《あずまや》や楼閣が建ち、起伏に富んだ園林に隠れ家のような佇まいを見せている。陽子は少女をそのうちのひとつに案内し、そして小臣らを退がらせた。それを見て取って、少女は襟に手をかける。見えないかぶり物を落とし、衣を脱ぎ捨てるような動作をする。鮮やかに明るい透けるような金の髪が現れた。
 唖然とする陽子に向かい、彼女は一礼する。
「驚かせてしまって御免なさい。改めて御挨拶いたします。|氾麟《はんりん》でございます」
 彼女はもう、陽子の知っている如何なる顔とも似ていなかった。それどころか、陽子はこの少女のように美しく、愛らしい容貌をした者を知らなかった。彼女が何かを脱ぐようにした両手には、今、薄い|紗《しゃ》のような衣が抱えられている。
 ああ、と彼女は声を上げた。
「|蠱蛻衫《こせいさん》と言うんです。この身なりでは官を騒がせてしまいますから、主上から借りてきました。でも、景王をすっかり驚かせてしまったみたい。誰かに似ておりました?」
「ああ……ええ」
「では、それは景王にとって大切な方なんですね」
 氾麟は花のように笑う。
「これはそういうものなんです。見ている人にとって好ましいように見えるんだそうです。私が鏡を見ても、ぜんぜん変わったようには見えないんですけどね。……けれども、台輔には、やっぱり通りませんでした」
「麒麟の気配が見えましたから」
 言って景麒は溜息をつき、一礼をした。
「もかくも、御挨拶を申し上げます。お初にお目もじ|仕《つかまつ》ります」
「はい。こちらこそ」
 ぺこりと頭を下げ、氾麟は手近の椅子に勢いよく腰を下ろした。
「景王はお名前をなんておっしゃるの?」
「陽子と……」
「じゃあ、陽子って呼びます。あたしは結構、おばあさんだから、景王もいっぱい知っててややこしくて。景麒には|字《あざな》はないの?」
「ございません」
「あら、可哀想に。私は今のところ|梨雪《りせつ》です。でも、主上は気まぐれでわたしの字を変えるので、いつまでこの字でいるのか分からないんだけど。……ねえ?」
 少女は言って、傍らに|佇《たたず》んだ人物を見上げる。陽子は、やはり、と頷く。景麒が驚いたように口を開けた。
 くすり、とその人物は笑う。
「範国国主、|呉藍滌《ごらんじょう》と申す」
 はあ、と陽子は頷き、我に返って、慌てて席を|勧《すす》めた。
「申しわけありません。どうぞお掛けください。……すっかり失礼をしてしまったのではないでしょうか」
 なんの、と彼は笑う。氾麟は鈴を転がすように笑った。
「こんな訪ね方をしたんだから、礼にそぐわないのは当たり前です。無礼をしたのは、こちらなのだから気にしないで」
 言って彼女は小首を傾げる。
「本当に陽子こそ、気を悪くしないでもらえると嬉しいのだけど。主上は、是非とも戴からいらしたという将軍様に会いたいんですって。公式にお訪ねしても時間もかかるし、|朝《ちょう》をお騒がせもしてしまうから、こんな形になっちゃったんです」
「それは一向に構いませんが──|李斎《りさい》に、ですか?」
 陽子が氾王を見ると、彼は頷く。
「雁から聞いた話によれば、瑞州師の将軍だとか。まだお体の具合が|宜《よろ》しくないということだが、お会いできるかえ?」
「はい……まだ遠出できるような状態ではないのですが、床払いも済んでおりますし、今は萎えた手足を動かす訓練をしているところで」
「私がどこの|何某《なにがし》だかは、あえて言わずとも宜しい。病人を驚かすのは、本意ではないからね。ただ、範からの客人だと言うことで面会させてもらいたい」
 陽子は頷いた。
「こちらに連れて参ります」
「よい。一私人が訪ねるのであれば、こちらから足を運んで当然だろうから。案内してくりゃるかえ」
 はい、と陽子は氾王を促す。氾麟は椅子に座ったまま、景麒の衣服を握ってひらひらと手を振った。

   2

 陽子が太師の邸を訪ね、|庭院《なかにわ》に入ったとき、|李斎《りさい》はちょうど|桂桂《けいけい》に手を引かれているところだった。すっかり|萎《な》えていた李斎の足も、助けを借りれば前に進むようになっていた。昨日にはとりあえず|飛燕《ひえん》に|跨《またが》ることもでき、李斎は少し|安堵《あんど》している。
「──陽子」
 入ってきた陽子を認めて、桂桂は笑った。
「見て、もうずいぶん歩けるようになったんだよ」
「のようだな。無理はさせてないか?」
「大丈夫だよ」
 陽子は頷き、李斎に客だ、と伝えた。李斎は陽子の背後に目をやる。陽子の後ろに続いたのは奇矯な身なりの人物だったが、李斎は彼の容貌にどこか見覚えがあるような気がした。
「桂桂、少し外してくれ」
 陽子が言うと、桂桂は|拘《こだわ》りなく|頷《うなず》く。
「じゃあ、飛燕の世話をしてくるね。昨日李斎に、身体の拭き方を習ったんだよ」
 そうか、と陽子は笑って桂桂を見送った。そして改めて李斎を振り返る。
「範からのお客人だ。李斎にお会いになりたいと言うことだから」
 言って陽子は李斎の腕の下に肩を入れる。李斎はありがたく肩を借りて|堂室《へや》へと戻ったが、その間も、範から来たという客人の顔をどこで見たのか思い出そうとしていた。
「具合は宜しいようだね」
 李斎が勧めた椅子に腰を下ろして、彼は言う。李斎は一礼した。
「はい。……失礼ですが?」
「私は範から来た。そなたに見てもらいたいものがあってね」
 言って彼は、鉄色の麻に黒で|瀟洒《しょうしゃ》な|刺繍《ししゅう》を施した|単衫《ひとえ》の|懐《ふところ》から、小さな布包みを取り出した。|卓子《つくえ》の上に広げたそれには、腰帯の断片が載せられていた。皮で作られた帯に、|燻《いぶ》したように黒銀に輝く帯飾りが並べて留めつけられている。帯の端につけられた金具には、疾走する馬が見事な造作で彫りこまれていたが、肝心の長さ自体は両手の指を広げたほどしかなかった。帯は途中で断ち切られ、しかも断面の皮には赤黒いものが染みついている。
 それを目にして、思わず李斎は立ち上がり、そして均衡を崩して危うく転倒しそうになった。
「──これは」
「李斎?」
「そなたは瑞州師の将軍であったと聞く。そなたに見覚えのある品かえ?」
 あります、と李斎は声を張り上げた。
「これを……どこで」
「範で。戴から届いた玉の中に交じっていたらしい」
「戴からの……」
 これは、と李斎を支えた陽子が問うた。
「主上のものです。間違いありません。これは──」
 言いかけて、李斎は気づいた。未だ名乗らない客人の顔に見覚えがある。そう、確かに見たのだ、他ならぬ驍宗の即位礼で。
 李斎は陽子の手を離れ、その場に|膝《ひざ》をついた。
「これは貴方様から即位のお祝いにお贈りいただいたものだと聞いております」
 そう、と氾王は頷く。
「驚かしたくはなかったが、気づかれたか。……よい。立って坐りなさい。身体に|障《さわ》ろう」
 言って氾王は|怪訝《けげん》そうにしている陽子を見た。
「範は古くから戴と国交がある。もっとも、私は先の泰王が嫌いでね」
「……は?」
「とにかく趣味が悪いのだもの。私はどうあっても、金銀を貼った|甲冑《よろい》を着て喜ぶような|輩《やから》とは馴れ合う気にはなれなくて」
 氾王は本気で嫌そうに顔を|顰《しか》める。
「けれど、驍宗は悪くなかった。即位の儀にお邪魔したのだけれど、無骨だが趣味は悪くなさそうだったからね。それに泰麒はいいねえ。あの|鋼《はがね》色の|鬣《たてがみ》は私の好みだったよ」
「……はあ」
 陽子が目をぱちくりさせていると、氾王は笑う。
「そうやってお会いする程度の付き合いはあった、ということだね。というのも、範には玉泉は勿論、玉を産出する山がなくてね。けれども玉や金銀の加工にかけては、範は十二国一を自負している。加工する材料となる玉は戴から届く。その荷の中から、これが見つかった」
 言って彼はその金具を手に取る。
「ご覧。疾走する馬の鬣の一本一本まで彫られておるであろ。これは私が、泰王即位のお祝いに、冬官の中でも最も腕のいい彫師に細工させたもの。慶賀のためにお送りした品の中の一つに違いない。これだけの細工はもちろんのこと、銀をこのように美しいまま|燻《いぶ》して留め置く技術は範の冬官にしかない。戴からの荷の中にこれを見つけたものは、それを察して冬官にこれを送り、冬官がわたしの許に届けてきた」
 跪いたままの李斎は、氾王を見上げた。
「これは……これは、どこからの荷に」
「文州じゃな。文州は|琳宇《りんう》から届いた|礫《いしくれ》の中に交じっておった。琳宇で当時、石を荷出している鉱山はひとつしかなかったと聞いておるが」
「はい──ええ、そうです」
 答えた李斎に頷いて、氾王は陽子を見る。
「戴の上質な玉は、玉泉から出る。山の中に水脈があって、そこに種を浸しておくと育つ。その水脈が通っている場所には、|砂礫《されき》を巻き込んだ玉の層が帯状にできる。それを掘り出したものを、飾り石として加工するのだが、これはわざわざ玉だけを選別してきたりはしないのだね。山から掘り出して切り欠いたままの石を、文字通りの玉石混淆で送ってくる。そこから石を選別し、良いところを切り出すのは匠の仕事、匠は山の石を一|鈞《きん》幾らで買いつける。その荷の中にこれが交じっていたそうな」
「よく……こんなものが」
「全くだねえ。文州は玉の産地じゃが、他に産物がないために、ほとんどを掘り尽くしてしまったとか。僅かに出る良い玉は驕王の手に渡ってしまい、範に送られてくるものは礫ばかり、それさえ年々減っていた。ことにこの数年は、その礫さえ入っては来ない。もはや全く荷が動いていないのでね。これは、戴から泰王が亡くなられたと、怪しげな勅使が来て──二年もしてから届いたのだったか。その頃から荷が止まるようになったから、ぎりぎりで届いたというところだね。よくぞ間に合ったものだよ」
「……切れています」
 陽子の言葉に、氾王は頷く。
「これは刃物で切った傷じゃと、冬官の意見は一致している。表は勿論、帯の裏にも血痕が|滲《し》みついておろう。……つまりはそういうことなのだねえ」
「誰かが泰王を斬った……」
「それも後ろからだよ。よほどの変事があったのであろうと案じていたが、肝心の泰に連絡をしても、|凰《おう》は答えず、国府からも変事がなかった。今回、|雁《えん》から連絡をもらって初めて事情が分かった」
 これは、と氾王は帯を布で包む。
「そなたに進ぜよう。切れてはおるが、泰王が|身罷《みまか》られたわけではないと聞いて|安堵《あんど》した。私の手許に戻ってきたのも奇縁であろ。泰王が自らの所在を報せてきたようでないか?」
 はい、と李斎は頷きながら、その包みを押し頂いた。
「奇跡的な|縁《えにし》で、そなたら戴の民と泰王はまだ繋がっている。……|諦《あきら》めるでないぞ」
 ありがとうございます、と言った言葉は|嗚咽《おえつ》で声にはならなかった。

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HN:
さささ!
年齢:
37
性別:
女性
誕生日:
1987/05/22

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