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色んなことにやんややんや言う感じ
4
──耳鳴りがしている。
いや、あれは風の音だと、李斎は思う。|戴《たい》の冬、戸外に吹き荒れる|凍《こご》えた|風音《かざおと》だ。現にひどく寒かった。
強い風が巻いている。身を切るほど鋭利に冷えた風。木立も山も川も、|唸《うなり》りを上げる風に|曝《さら》され、白く|凍《い》てついている。川の表面は凍りに覆われ、雪が厚く降り積もる。大地もまた凍結した雪の下、街路の至る所には雪が吹き|溜《だ》まり、強い風が表面を|浚《さら》って白く冷たい雪片を巻き上げていく。
戴は大陸から切り離され、大海の中に孤立する。冬には北の海から刺さるような風が吹きつけてきた。|里櫨《まちまち》は雪の中に|蹲《うずくま》り、家々は扉を閉ざし、窓を閉ざす。──だが、そうやって何重にも外界から切り離された小さな空間の中には、|温《あたた》かな灯が|点《とも》っている。人々はそこで肩を寄せ合い、ささやかな──外界に比べればあまりにもささやかな|温《ぬく》もりを分け合う。
炉に|点《とも》された炎、取り囲んだ人々の体温、|火炉《ひばち》に|載《の》せられた大鍋からは湯気が立ち昇り、それは雪道に凍えた見ず知らずの来訪者にも振る舞われた。戴の冬は厳しいが、同時に温もりにも満ちている。時にそれは色鮮やかな花の形を取ることもあるのだと、李斎は飛びこんできた子供の姿を見て思った。
「──李斎、これを」
そう言って差し出されたのは、赤や黄の色暖かな色をした花々だった。弱い|陽脚《ひざし》が辛うじて射しこむ冷えた室内に、明るい温もりが点ったようだった。外では|滲《し》み入るような風の音がしていた。戴は冬に入ったばかり、なのにもう山野をうっすらと雪が覆い始めていた。
この季節に、これだけ鮮やかな花の咲こうはずもない。李斎は驚いて、それを差し出した客人を見た。自分の顔よりも大きな花の束を抱えた子供の笑みは、花の色よりもいっそう明るく、温かかった。
「お祝いなんです。李斎が州師の将軍になったって聞いて、それで、嬉しくて」
そう言って輝くように笑ったのは、|泰麒《たいき》だった。年は当時、まだ十。
「私に下さるのですか?」
「勿論です。そのために|驍宗《ぎょうそう》様──主上にお願いして、いただいてきたんです」
言ってからその幼い宰輔は、|含羞《はにか》んだように|俯《うつむ》く。
「あのね、僕の生まれた|蓬莱《ほうらい》では、お祝いにお花をあげるんです。こちらでは、そういうことは、あまりしないんだって言われたんだけど、僕、どうしても|李斎《りさい》には花束をあげたかったんです。引っ越したばかりのお|家《うち》だから、お花があると余計に立派に見えるんじゃないかと思って」
まあ、と李斎は笑った。|賜《たまわ》ったばかりの官邸、その|客庁《きゃくま》だった。新王|驍宗《ぎょうそう》の登極から一月余り、李斎は|瑞州師《ずいしゅうし》中軍の将軍に任ぜられ、住居を|白圭宮《はっけいきゅう》にある官邸に移したばかりだった。|宰輔《さいほ》と言えば、王に次ぐ国の柱、同時に李斎の所属する瑞州師を|束《たば》ねる瑞州州侯でもある。その宰輔が直々に官邸を訪ね、こうして花を贈ってくれる、それが|勿体《もったい》なくも|嬉《うれ》しく、同時に誇らしかった。
下官に花を|生《い》けさせ、それを客庁の|供案《かざりだな》に置くと、それだけで室内が数段明るく、温かくなったように思われた。入ったばかりで|馴染《なじ》みが薄く、どこか|余所余所《よそよそ》しい官邸に、自分の居場所ができたように思えた。
「まことにありがとうございます。台輔にこんなに目を掛けていただけるなんて、李斎は本当に幸せ者です」
「僕こそ、とっても嬉しいんです。僕はまだこんなだし、|政《まつりごと》のことも軍のことも、ちっとも分からないし、だから李斎が州師の将軍になってくれて、すごく心強いです」
言ってから、大きな椅子にちょこんと座った宰輔は頭を下げる。
「ええと、これから|宜《よろ》しくお願いします」
「そんな──宰輔が頭をお下げになるなんて」
宰輔に位で先んずるものは、ただ王師かいない。勿論、州師将軍にすぎない李斎が頭を下げられるなど、普通ではありえないことだった。
「これは|叩頭《こうとう》じゃなくて、|会釈《えしゃく》だから大丈夫なんです。本当はいけないんだけど、僕、癖でついやってしまうんです。そしたら驍宗様が、仕方ないっていってくださったんで、だからええと──李斎も仕方ないって思ってくださいね」
そうします、と李斎は笑いを噛み殺した。この小さな宰輔は、異国で生まれた。伝説で、東の果てにあるという|蓬莱《ほうらい》──そこで生まれ、育ってきたのだ。だから一風変わったところがあったけれども、総じてそれは李斎にとって心地良いものだった。好ましく柔らかく、そして温かい。
「本当はね、もっといっぱいあるんですよ」
泰麒は上気した笑顔を李斎に向けた。
「お花だけじゃあ、あんまりだって、|正頼《せいらい》がお祝いをたくさん用意してくれたんです。でも僕にはとても持ちきれないから、それはちゃんと運んでくれるんですって」
正頼は、もと驍宗軍の軍吏で、革命に当たって泰麒の|傅相《ふしょう》に任じられ、同時に瑞州|令尹《れいいん》を兼ねる。人当たりの良い好人物だが、驍宗配下の文官の中でも、逸材中の逸材として名高かった。
「正頼と二人で、すごく頭を|捻《ひね》ったんです。何がいいかって。|驍宗《ぎょうそう》様が、宝庫の中のものを好きに持っていっていいって言ってくださったから、かえって大変だったんです。なにしろ目が回るほどいろんなものがあるんですから」
「そんな──|勿体《もったい》ない」
「驍宗様が構わないって。驍宗様の分も、お祝いを選ぶように言われたんです。驍宗様と僕と、正頼と。三人分だからどっさりあります。驚かないでくださいね」
|李斎《りさい》は喜色をいっぱいに浮かべた小さな麒麟に、感謝の眼差しを向けた。
「本当に、李斎は|果報者《かほうもの》です。心からお礼を申し上げます」
李斎は真実、幸福だった。王と宰輔からここまで目を掛けられ、李斎の将来は洋々として|拓《ひら》けていた。朝廷は急速に整い、民は新王を歓迎している。民の未来もまた、明るいものに思われた。国も民も幸せになる──李斎はその時、心底そう思っていた。
まさかその僅か数ヶ月の後に、全てが崩れ去ろうとは、夢にも思っていなかった。
貴賓を迎え、官邸の一室には温かな光が点っていた。だが──戸外には寒々しい風が吹いていたのだ。李斎の周囲は光に満ち、何の翳りもなかったが、それでも戸外で吹き荒れる風のあることを失念すべきではなかった。
それは全てを凍らせる。国も、山野も、街も、人も。
確かにあの日も、外では風音がしていた。しんしんとした冷気を乗せ、何もかもを凍えさせる機会を|窺《うかが》っていたのだ。|禍々《まがまが》しい風音が|耳朶《じだ》の奥に滲み入り、|不穏《ふおん》な|耳鳴《みみな》りを|奏《かな》でていた。輝かしい気分に包まれ、李斎はそうと意識していなかったが、邸内のそこここに寒気が|貼《は》りつき、足先は凍え、指先は冷え切っていた。寒く、四肢は重く、感覚は遠く、刺すような冷気だけが生々しく──今のように。
……とても、寒い。
凍えて死に絶えてしまう、自分も、国も──民も。
(……寒い)
「……お気がつかれましたか?」
おずおずとした声が聞こえた。──聞こえたように李斎は思った。
凍りついたように重い|瞼《まぶた》、|眉間《みけん》に力を込めて、ようやく目を薄く開いた。|睫《まつげ》に|遮《さえぎ》られて暗い視野に、心配そうな娘の顔が見えた。
「良かった……!」
娘は言って、顔に冷たいものを当てた。芯から寒く、|悪寒《おかん》が走った。──ひやりとしたその刺激は、自分の顔に当てられている。そう、自分は……。
「──景王」
我に返った。|李斎《りさい》は|咄嗟《とっさ》に|呟《つぶや》いたが、それはおよそ自分の耳にも音としては聞こえなかった。目を見開き、娘の顔を探る。赤い色が見えない。
「ああ、どうぞ、休んでください。駄目です、まだ起きては駄目」
言われて、李斎は自分が起きあがろうとしていたことにやっと気づいた。
──では、まだ命があったのだ。
冷たい|掌《てのひら》が、李斎の手を包んだ。その冷ややかさは李斎をひどく|安堵《あんど》させた。こんなに寒く、凍えているのに、娘の氷のような手が快い。
「ここは、|慶《けい》国、|堯天《ぎょうてん》の|金波宮《きんぱきゅう》です」
娘は大きな目を李斎に|据《す》え、ゆっくりと噛んで含めるように言う。
「|貴女《あなた》は、|辿《たど》り着いたの。いつでも主上がお会いになります。だから、安心して目を閉じてください」
「……私……は」
「もう、大丈夫ですから、眠ってください、ね?」
言って娘は李斎の手を取って、喉元に触れさせた。李斎の手を包むようにして、|喉《のど》の下の|窪《くぼ》みにある丸いものを|握《にぎ》らせる。それは娘の手よりいっそう冷ややかで、さらに李斎を安堵させた。身体が燃えるようで、それで|悪寒《おかん》がして苦しいのだと、やっと分かった。
「まだ眠らないといけないわ。……大丈夫、陽子は|貴女《あなた》を見捨てたりしない」
陽子、と口の中で繰り返したが、下は|膠《にかわ》で口腔に貼り合わされたようだった。
「今はいないけど、何度も様子を見にきたの。貴女のことは、とても心配しているから、今は眠っても大丈夫。もう、大丈夫なの」
李斎は|頷《うなず》く代わりに眉根の力を抜いた。自然に|瞼《まぶた》が落ちてきた。風音が聞こえる。寒々しいこの音は、戸外で吹き荒れる寒風なのだろうか、それとも単なる耳鳴りなのだろうか。
眠っては駄目だ、と李斎は心の中で呟く。
(……景王に……会わなければ……)
──李斎、それだけは駄目。
風音の合間に聞こえる声は、悲痛な声音をしている。思い浮かぶ彼女の|貌《かお》は今にも泣き出しそうな表情をしていた。
──なんて浅ましい、恐ろしいことを。
そうだな、と李斎は|虚空《こくう》に向かって頷いた。
(非道だと言うことは、分かっているんだ……|花影《かえい》)
5
「|戴《たい》に新王が登極したのは、今から七年前の秋のことです。──新王の名は|乍驍宗《さくぎょうそう》」
淡々とした声が室内に響いた。
|積翠台《せきすいだい》と呼ばれる建物だった。内殿の最奥に設けられた|書房《しょさい》の一郭、こぢんまりとした室内には、下界ほどではないものの、やはり夏に独特のとろりとした|暑気《しょき》が|澱《よど》んでいた。裏に面した窓の向こうには|苔《こけ》と|羊歯《しだ》に覆われた|翠《みどり》の岩肌が迫り、そこに白く細い滝が落ちて、翠の|木漏《こもれ》れ日と共に、露台の下に小さく広がる澄んだ池へと注ぎ込んでいる。開け放した窓からは夏鳥の声と重なり、その水音と涼気が流れ込んでいた。
「先王の時代にあっては禁軍の左軍将軍を務め、王の信任も|篤《あつ》く、軍兵からも領地の民からも|慕《した》われ、その名声は他国にも鳴り響くほどだったとか。このため、次の王は|乍《さく》将軍ではないか、という風評が、先王が|斃《たお》れた直後からあったようです」
「|傑物《けつぶつ》だったんだな……」
陽子は感嘆と──半ば|羨望《せんぼう》を込めて|呟《つぶや》いた。そのようですね、とさらりと答えたのは、六官の長、|冢宰《ちょうさい》の|浩瀚《こうかん》だった。
「先王亡き後もよく朝廷を支え、周囲の期待も高かった。その期待を受けて、|黄旗《こうき》が|揚《あ》がるや否や|黄海《こうかい》に入って東岳|蓬山《ほうざん》に向かい、|昇山《しょうざん》して|泰麒《たいき》の選定を受け、|登極《とうきょく》しています。いわゆる、|飄風《ひょうふう》の王ですね。
「飄風の王?」
「最初の昇山者の中から出た王のことです」
王は|麒麟《きりん》が選ぶ──麒麟を通じて天が選び、天命を下すのだと言われている。麒麟は世界中央、黄海にある蓬山で生まれ、育つ。王を選定できる年齢に達すれば、国中の|祠廟《しびょう》にそれを示す旗が掲げられ、それを見て王たらんとする者は黄海に入り、蓬山へと向かう。そこで麒麟に対面して天意を|諮《はか》ることを昇山と言った。
「|疾風《しっぷう》のように登極した王、ということなのですが、同時に飄風は|朝《ちょう》を終えず、とも申しまして、勢いの強いものはすぐに衰えるもの。飄風の王というものは、傑物かその逆かのどちらかしかない、と言われます」
「ふうん……」
「もっとも泰王の場合は、それまでに十年以上の歳月がかかっておりますから、飄風の王とは言えないのですが。何でも、泰|台輔《たいほ》は主上の|御同胞《ごどうほう》だとか」
ああ、と陽子は頷いた。
「|胎果《たいか》なんだ、私と同じく。そう|延《えん》王に聞いたことがある」
陽子は東の海の|彼方《かなた》、|蓬莱《ほうらい》で生まれた。ただし、蓬莱とは東の海上、遙か遠くにあるとされる伝説にのみ言う楽園だから、陽子の|出自《しゅつじ》が本当にそこにあるわけではない。こちらとあちら──そのように呼ぶしかないような気が、陽子にはしている。どらちにとっても、互いは夢幻の国、実在はしない世界だ。だが、稀にその両者が交わることがある。
陽子は、その|稀《まれ》な接触の中であちらに流れ、こちらに戻ってきた。──そういうことになっている。納得はしているが、実感はなかった。なぜなら、陽子があちらに流されたとき、陽子はまだ卵の中にいたからだ。こちらの世界においては、人は|卵果《らんか》と呼ばれる木の実から生まれる。あちらとこちらが交わった|折《おり》、陽子の入った卵果があちらへと流されたのだ、ということになっていた。陽子の生命は存在したが、まだ誕生はしていなかった。身出生の生命は、誕生すべく女の胎内に|辿《たど》り着いた。そしてそこで出産された。ゆえにこれを|胎果《たいか》と呼ぶのだが、もちろん陽子には卵果の中にあった記憶などありはしない。ごく普通に父母の子として生まれ、育ったとしか思えなかった。──それが実は違っていた。本当はこちらに生まれるはずだった、そして実はお前こそが王なのだ、と言われて連れ戻されても、|御伽噺《おとぎばなし》の中に|拉致《らち》されたとしか思えなかった。
実感などまるでない。──けれども、そもそも「誕生」とは、そういうものなのかもしれなかった。今ここに自分がいるのだから、そうなのだろう、と納得するしかない。そのように陽子も納得するしかなかった。あちらから戻り、|景王《けいおう》として立って二年、今ではあちらのほうが夢幻のように思える。日本という奇妙な国で、生まれ育った──そんな夢を見ていたのだ、と。
「|泰麒《たいき》は幾つなんだっけ……」
陽子が呟くと、これには背後にいた|景麒《けいき》が答えた。陽子をこちらに連れ戻し、玉座に押し上げた|慶《けい》の|麒麟《きりん》。
「泰王が登極された当時、十歳でいらしたと思いますが」
「泰王即位が七年前……ということは、ちょうど私と同じくらいの歳なんだ……」
ひどく奇妙に感じがした。陽子の見ていた夢──それを共有する者がいる。あの幻の国、ひょっとしたら幻の都市のどこか。陽子が幼い子供だった頃に、同じく幼い子供として、泰麒がそこに存在していた、という不思議。夢の中で出会った子供が、陽子の現実の中に現れ、|冢宰《ちょうさい》と|宰輔《さいほ》の口を通して事実として語られているような。
世界には、少なくとも二人、他にも胎果がいることを陽子は知っている。慶の北にある大国、|雁《えん》の王と宰輔がそれだった。五百年にも及ぶ大王朝、それを築いた延王と|延麒《えんき》。二人は共に胎果だったが、彼らの語る故国は陽子にとって夢の中で見た夢に等しい。歴史の授業で、あるいは物語の中で幻想として知っていた古い「日本」。それは、同じ夢幻ではあっても、別の夢だ。陽子は延王、延麒の|後《うし》ろ|盾《だて》を得て登極し、そこまでの波乱の中、ずっと二人の世話になっていたが、そのときに同じ夢の中から現れたのだ、というこの奇妙な感覚を感じたことは一度もなかった。
……あの夢の中の街角で、ひょっとしたらすれ違ったかもしれない彼。
その彼が|戴《たい》国の麒麟で……と陽子は思う。泰王を選び、王朝を築き、そして|李斎《りさい》──あの|満身創痍《まんしんそうい》の女将軍は、彼らのために生命を賭して|金波宮《きんぱきゅう》へとやってきた。
「どうかなさいましたか?」
景麒が眉を|顰《ひそ》め、陽子はそれで我に返った。
「ああ……いや、何でもない。すごく変な感じだな、と思って」
陽子は苦笑する。|浩瀚《こうかん》もまた、どうしたことか、という|貌《かお》で陽子を見ていた。
「|済《す》まない、浩瀚。──それで?」
|泰麒《たいき》は、と浩瀚は陽子のほうを見ながら言って、そして書面に目を落とした。
「|蝕《しょく》によって|蓬莱《ほうらい》に流されておしまいになりました。|胎果《たいか》としてお生まれになり、その後、蓬山にお戻りになったのですが、それが十年後のことです」
「十年後? 十年後で十歳?」
「ですが?」
浩瀚に問い返され、陽子は首を振った。──では、|泰果《たいか》が流されたとき、流れ着いた胎の中には、すでに生命が存在していたのだ、と内心で驚いていた。泰麒の器はその時、もうすでに母親の胎内に存在していた。心音を刻み、動いていたのだ。そこへ泰果が流れ着き、宿った。では、それまで胎内にあったはずの生命はどこへ行ったのだろう?
泰麒に弾き飛ばされてしまったのだろうか。そうやって居場所を奪うことで、誕生したのだろうか──自分も。そう思うとひどく奇妙で後ろめたい気分がした。それとも、そこにあった生命と胎果とを別物のように考えること自体が、そもそも間違いなのだろうか。この問いばかりは、この世界の人々に言っても答えてはもらえまい。
なおも不思議そうに陽子を見ている浩瀚に、陽子は改めて首を振った。
「いいんだ。続けて」
「……泰麒がお戻りになると同時に|戴《たい》では黄旗が揚げられ、昇山が開始されて、すぐさま泰王が登極なさいました。その当時の記録が慶にも残っています。|鳳《ほう無が戴国|一声《いっせい》を鳴いて、新王が登極したことを伝えている。記録によれば、その後、台輔が非公式に|慶賀《けいが》のため戴をお訪ねになったとか」
驚いて陽子が振り返ると、景麒は無言でこれを|肯定《こうてい》した。
「じゃあ、戴と国交があったんだ……」
国交というわけでは、と景麒は呟く。
「蓬山に胎果があった頃、私もまだ蓬山におりましたのです。泰麒が流された蝕の時にも、蓬山におりました。後に、泰麒が蓬山に戻られてから私も蓬山に戻ることがあって、その時に泰麒とはお会いしました。……その御縁で」
へえ、と陽子は不思議な気分で呟いた。──夢の中の子供が、目の前の麒麟と会っている。
「それで彼女──李斎は慶を訪ねてきたんだろうか。泰麒と面識のある景麒を頼って?」
これには景麒も首を傾げた。
「それは──どうなのでしょう。私自身は、|劉《りゅう》将軍にお会いしたことはありませんが」
「泰王とは?」
「お会いしました。確かに尋常の方ではないとお見受けしましたが」
|浩瀚《こうかん》も軽く首を|傾《かし》げる。
「台輔が個人的に二度お訪ねになった以外には、これと言った交流はなかったようです。事実、|慶《けい》も以後はいささか波乱がございましたから、台輔は泰王の即位礼にもいらしていない。官の間で慶賀の使節を送るかどうかが審議された様子もございません。公式に使節を差し上げるほどの国交はなかった、ということでしょう」
肯定するように|景麒《けいき》は頷いた。
「ともかくも、新王は即位なされた。──ところが、半年ほど経って戴から勅使がございました。泰王は亡くなられた、と」
陽子は瞬く。
「勅使なのか? ……|鳳《ほう》は? 王が位を退けば、鳳は戴の|末声《まっせい》を鳴くはずだろう?」
「左様です。王が即位すれば|白雉《はくち》が|一声《いっせい》を鳴き、王が位を退けば末声を鳴く。鳳はこれを伝えて鳴くはずなのですが、鳳はこのとき鳴いていないのです。現在に至るまで、鳳が戴国末声を鳴いたことはございません。つまり、どう考えても泰王が亡くなられ、あるいは位を退かれたとは思えないのです」
陽子は組んだ|膝《ひざ》に|頬杖《ほおづえ》をつく。
「似たような話を、以前、延王から聞いたな……。泰麒は死んだと伝えられる、けれども死んだとは思えない、と。泰麒が死ねば蓬山に次の麒麟が実るはずだが、その麒麟の入った果実──|泰果《たいか》が実った様子がないとか」
「はい。勅使の書状によれば、亡くなったのは泰王だけ、泰台輔については触れられておりません。ですが、これを境に、泰台輔に対する風聞は、ぱったり聞こえなくなりました。同時に戴から|荒民《なんみん》が流れてくるようになった。泰台輔は亡くなったという風説もございますが、鳳が台輔の|登霞《とうか》を鳴かない以上、これは誤りだと考えるべきでしょう。後に、新王即位という噂が流れてきました。これに際しては、勅使は勿論、鳳の告知もございません」
「荒民は何と言っている」
「諸説あるようです。|偽王《ぎおう》が立った、と言う者もいれば泰台輔が次王を選ばれた、と言う者もあります。単に泰王が亡くなられ、空位になったと申す者もいるのですが、最も多いのは、宮中で|謀反《むほん》あって、泰王は|弑《しい》され、泰台輔もまた兇賊の手に掛かった、と」
自国のことであっても、王宮内部のことはなかなか外部に伝わりにくい。全ては風聞で広がっていくしかなく、ために正確な情報が民に伝わることは滅多になかった。
陽子は息を吐いた。
「どう考えても、泰王と泰麒が死んだとは思えないな。李斎は、泰王は宮城を追われた、と言っていた。きっとそう言うことなんだろう。つまりは偽王が立ったという。偽王が謀反を起こし、泰王、泰麒は、共に宮城を追われた。
「だと思われます。もっとも、偽王とは正当な王がいない──|空位《くうい》の場合に、天命を得たと偽って立つ者ですから、この場合、厳密には偽王とは言えないのですが」
「ああ、そうか。正当な王はいるわけだから」
「そういうことですね。ともかくも、|劉《りゅう》将軍は|瑞州師《ずいしゅうし》の将軍だったわけですし、瑞州は戴国の首都州です。劉将軍は王宮の中枢にいたことになりますから、戴の内情について最も正確な情報をお持ちであることは確かでしょう。集めた情報との食い違いもございませんから、将軍が虚偽を申し立てたとは考え|難《にく》いようですし」
陽子はちらりと、|浩瀚《こうかん》をねめつけた。
「それは、|李斎《りさい》の言を疑っていた、ということか?」
「確認してみただけでございますが?」
さらりと返され、陽子は一つ溜め息をついた。
「まあ、いい。李斎は助けて欲しいと言っていたが、具体的には何をどうすればいいのか分からないな。単に偽王が立ったというだけでは……」
「左様でございますね。泰王がどうなさっておられるのか、泰麒はどうなさったのか、せめてそのくらいのことは分かりませんと」
「李斎に訊くのが一番早いんだが。……|瘍医《いしゃ》は何と言っている?」
浩瀚は軽く眉を|顰《ひそ》めた。
「それが、まだ何とも言えない、と」
「そうか……」
「台輔にお聞きしたところでは、泰王、泰台輔は、延王、延台輔と御縁がおありだとか。しかも|雁《えん》には、戴からの|荒民《なんみん》が最も多く流れ込んでいます。とりあえず劉将軍の件を|報《しら》せて、何か分かることがあれば教えて欲しい旨の親書を、雁国の夏官、秋官に向けて送っておきましたから、近々、返答があるでしょう」
陽子が頷いたとき、|側仕《そばづか》えの書記官である|女史《じょし》が積翠台に入ってきた。李斎が目を開けた、と言う。|慌《あわ》てて陽子は花殿へと向かったが、その時には李斎は再び目を|瞑《つむ》ってしまっていた。同じく呼ばれ、駆けつけた瘍医は、とりあえず李斎の容態に希望が持てることを告げた。
「|宝重《ほうちょう》の|碧双珠《へきそうじゅ》もございますから、近々好転するやもしれません」
「そうか……」
陽子は頷き、病み衰えた女将軍の顔を見下ろす。
「こんな姿になってまで……」
国を救うために、満身創痍になりながらやってきた彼女。
──何とかしてやりたい。
自分に何ができるかは、分からないけれども。
救ってやりたい。この将軍も、戴も──そして、泰麒も。
6
|李斎《りさい》は|眉間《みけん》に力を込めた。再び眠りに滑落していきそうな自分を鼓舞して、ようよう|瞼《まぶた》を持ち上げると、男の横顔が|間近《まぢか》にあった。
「なんか|譫言《うわごと》を──」
男は耳を寄せていた動きを止めて李斎のほうを見、そして大きく笑む。
「ああ、目を開けた」
その顔には見覚えがあったが、どこで見た顔なのか、李斎は思い出せなかった。男の肩越し、娘が駆け寄ってきて顔を覗かせたが、やはりこれも見覚えがあるような気がするばかり。
誰だろう、こんな顔が|白圭宮《はっけいきゅう》の中にあっただろうか。
思い出そうとしたが、|眩暈《めまい》がした。息苦しかった。ひどく身体が熱を帯びていて、全身のどこもかしこも痛んだ。
「大丈夫か? 俺が分かるか?」
本当に心配そうに言われ、李斎は思い出した。
──そう、ここは戴ではない。ここは慶。自分は辿り着いたのだ。
「|虎嘯《こしょう》だ。……分かるか?」
李斎は|頷《うなず》いた。徐々に視野が広がり、澄んできた。天井の高い|牀榻《ねま》の中にいるのだと分かった。天井が高いだけでなく、広い。枕辺には黒塗りの|卓子《つくえ》があり、男はその脇に座って李斎の顔を覗き込んでいる。
「虎嘯……殿」
「うん。大したもんだ。……よく頑張ったな」
男は瞬く。感極まっているように見えた。虎嘯の背後に立って李斎を覗き込んでいた娘も|袖《そで》を|目許《めもと》に当てた。
驚いた。生きている。
李斎は軽く両手を|翳《かざ》した。左手はそれに|応《こた》えて視野の中に現れたが、右手は現れなかった。目線をやると、夜着の袖が厚みもなく|衾《ふとん》の上に投げ出されていた。
虎嘯はなぜだか申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「さすがに右腕は駄目だった。……命があっただけでも、嘘のような話だ。辛いだろうが、失望せんでくれ」
李斎は頷く。右腕は失ったのだ。妖魔に襲われて深手を負い、|縛《しば》り上げて止血しているうちに|腐《くさ》っていった。──勿論、そこに腕があるはずもない。堯天に|辿《たど》り着いたとき、すでに触れればも[#「も」は手偏に「宛」]げて落ちそうになっていた。そのまま落ちたか、あるいは手当のために切り落としたのだろう。
だが、別段、心は動かなかった。利き腕を失えばもはや将軍職は|務《つと》まらないが主を救うことのできなかった将軍がどうして臣下を名乗れるだろう。もう、必要ないのだ。
|虎嘯《こしょう》は|李斎《りさい》の首の下に手を入れて、頭を軽く持ち上げる。娘が|口許《くちもと》に|湯呑《ゆのみ》を|宛《あて》がった。何かが口の中に|僅《わず》かに流れ込んできた。それほど甘く、|馨《かぐわ》しいものを初めて口にしたように思ったが、すぐにそれは舌に|馴染《なじ》んで、水に過ぎないと分かった。
湯呑を離して、男は笑う。
「もう、大丈夫だな。本当に良かった」
「……私は……」
「お前さんがどうしてあんな無茶をしたのか、それはようく分かった。あんたは言って、倒れたんだ。よくぞ陽子がいてくれた」
「景王は──」
「|瘍医《いしゃ》が許せば、すぐにでも連れて来てやる」
李斎が頷くと、虎嘯は手を離して立ち上がる。
「|鈴《すず》、この人を頼むな。瘍医を呼んでくるついでに、陽子に耳打ちしてこよう」
「うん。早くしてあげてね」
枕辺を去っていく虎嘯を目線で見送り、李斎は|牀榻《ねま》の天井を見上げた。
「私は……どれくらい時を無駄にしたのだろう……」
「そんな言い方をするものじゃないわ。たくさん眠るのが必要だったんだから。──前に一度、目を開けてから三日よ。倒れてから、もう十日近くになるわ」
「……そんなに……」
目を閉じただけのつもりだったのに、そんなに眠っていたのか。それほどの時間を無駄にしてしまったのか。
その時間が胸に苦しくて、李斎は喉に手を当てた。その指先に丸く|滑《なめ》らかなものが触れる。目をやって握ると、首に丸い珠が掛けられている。
「それは、本当は主上しか使ってはいけないものなの。陽子ったら──」
言いかけ、娘はくすりと笑った。
「主上ったら、冬官を|脅《おど》して、|貴女《あなた》のために使わせたのよ」
「私の……ため?」
「慶国秘蔵の|宝重《ほうちょう》なんですって。本当に、貴女はいろいろと運が良かったの。倒れたのが他の場所や他の王宮なら、助からなかったかもしれないわ」
「そうか……」
|李斎《りさい》には、それを喜んだものなのかどうか分からなかった。
──花影《かえい》。
目を閉じると風の音ばかりが聞こえる。指先に珠の手触りが冷たく、その寒さが別れた友人の|貌《かお》を思い起こさせた。
──花影、|辿《たど》り着いてしまった……。
李斎よりも十ばかり年上の、穏やかな|面差《おもざ》しをした女官吏。明晰だが優しく、恐がりに見えるほど慎重だった。最後に姿を見たのは、戴国南部の|垂《すい》州。そこで李斎は花影と別れ、ただ一人で慶を目指した。
──李斎、それだけは駄目。
花影は風の中、身を震わせながら、李斎に言った。柔らかな声だったが、毅然とした調子だった。花影の顔にも声音にも、断固とした拒絶が漂っていた。李斎は悲しかった。花影にだけはせめて理解してもらいたかった。
「なんて浅ましい、恐ろしいことを」
垂州の丘、李斎と花影は追っ手を逃れ、垂州候を訪ねようとしていた。垂州首都、|紫泉《しせん》。その紫泉に|聳《そび》える|凌雲山《りょううんざん》を目前にした丘の上には、春と花ばかりの冷たい風が強く吹いていた。振り返れば、丘の|麓《ふもと》には小さな|廬《むら》が見える。廬を取り巻いた農地は荒れ果て、そこに悲しく二、三の|冢墓《はか》が作られ、供養を受けることもなく放置されていた。
丘を登る前、李斎と花影が立ち寄ったその廬には、すでに住人が残っていないようだった。その代わりに、荒れ果てた故郷を捨て、少しでも他国に近い場所へと逃げだそうとやってきた旅人が|僅《わず》かに数人、崩れかけた家の中で暖を取っていた。李斎と花影はそこで旅人に|白湯《さゆ》を恵んでもらい──そして、その噂を聞いたのだった。
慶国に|胎果《たいか》の王が立った、と。
「まだ、お若い女王だそうです。港町にいた親戚の若いのに、去年だったかに聞いたんですけどね。年の頃は台輔と同じくらいとか……」
力なく言った女は、満身創痍だった。垂州は妖魔の|巣窟《そうくつ》だった。戴の全土を覆った粛正の風も、垂州だけは避けて通る、と言われていた。実際のところ、彼女らは|里《まち》を捨て、一丸となって逃げてきたのだが、わすが半月の行程で、これだけしか残らなかった、と言っていた。彼女の腕の中には|襤褸布《ぼろぬの》で包まれた子供がいたが、その子供は、李斎らが最初に見て以来、ぴくりとも動かない。
「もしも台輔が御無事だったら、あのくらいの年頃だろうという話ですよ」
李斎は白湯の礼を言ってその廬家を出たが、|一縷《いちる》の希望を見つけていた。
「御歳十数の女王、……|胎果《たいか》」
表に|繋《つな》いだ乗騎の|手綱《たづな》を取りながら李斎が呟くと、花影が|怪訝《けげん》そうに振り返った。
「それがどうかしましたか?」
「花影、どう思う? 景王はさぞ故郷が懐かしいだろうな?」
「|李斎《りさい》?」
「故郷の|蓬莱《ほうらい》が懐かしく、故郷に縁あるものが|慕《した》わしいだろう。そう思わないか?」
李斎の声は弾んでいたかもしれない。花影は何を言いたいのか分からない、という|貌《かお》をしていた。
「|台輔《たいほ》も|胎果《たいか》であらせられた。お歳の頃も近い。景王が台輔のことをお聞きになれば、ぜひとも会ってみたい、助けたいとは思われないだろうか。しかも慶には、|雁《えん》の|後《うし》ろ|盾《だて》があると、さっきの女が言ってたじゃないか」
|花影《かえい》はぽかんとした。
「まさか、慶に助力を願うと? ……そんな」
「なぜ、いけない」
「だって李斎──王は国境を越えられません。武をもって国境を越えることは即ち、|覿面《てきめん》の罪を意味します。他国のために兵を|割《さ》くなど、ありえません」
「けれどさっき、花影だって聞いただろう? 延王は慶に手を貸した。景王は雁の兵を借りて乱れた国に入ったと言っていた」
「それは事情が異なります。雁には景王がおいでだったわけでしょう。延王が国境を越えられたわけではないと思います。あくまでも景王が、雁の|王師《おうし》をお借りになって、自国にお戻りになった。……けれども戴には、主上がおられないのですよ」
「しかし」
「|才《さい》国|遵帝《じゅんてい》の故事をご存じないのですか」
「遵帝の故事?」
「才国遵帝はその昔、|範《はん》に荒廃あることを憂えて、範の民を救済するため王師をお出しになりました。その結果の、|非業《ひごう》の|登霞《とうか》です。天は、たとえ民を救うためであろうと、王師をもって国境を越えることをお許しにはならなかったのだ、と言われています。だのに遵帝の|轍《てつ》を|踏《ふ》む王がおられましょうか」
李斎はうつむき、そしてふと顔を上げた。
「そうだ……景王は胎果だ。ひょっとしたら遵帝の故事を知らないかも」
「なんて浅ましい、恐ろしいことを」
花影は白く|窶《やつ》れた顔を驚愕と嫌悪に|歪《ゆが》めた。
「戴のために慶を沈めるというのですか? 今、貴女はそう言ったも同然なのですよ」
「それは……」
「駄目です。李斎、それだけは駄目」
では、と李斎は吐き出した。
「どうするんだ、この国を」
|李斎《りさい》は握りしめた手綱で丘の麓を示した。
「あの|廬《むら》を見ただろう。あそこにいた人々を見ただろう。あれが|戴《たい》の現状なんだ。主上の行方が知れない、|台輔《たいほ》の行方が知れない、泰を救ってくれるお方が、この国のどこにもおられない!」
李斎は探した──この数年間。反逆者と呼ばれて追い立てられながら、その行方を捜し続けた。だが、|泰麒《たいき》は勿論、|驍宗《ぎょうそう》の姿を発見することもできなかった。その足跡を|辿《たど》ることさえ。
「春が来たというのに、耕されている農地がどれだけあった。この秋に収穫が得られなければ、民は飢えて死ぬしかないんだ。早く実りを得なければ、また冬がやってくる。冬が来る度に三|廬《ろ》は二廬に、二廬は一廬にと減ってきたんだ。今度の冬が過ぎて、どれだけの民が生き残る。あと何度、戴は冬を越えられると思う!」
「けれども……だからといって、|慶《けい》に罪を|唆《そそのか》して良いということにはなりません」
「戴には誰かの助けが必要なんだ」
|花影《かえい》は拒むように顔を|逸《そ》らした。
「……私は|堯天《ぎょうてん》に行く」
李斎が|呟《つぶや》くと、花影は|悼《いた》むような眼差しで李斎を見返してきた。
「お願いだから、それだけはやめて」
「|垂《すい》州候のところに逃げ込んでも、自分たちの安全が買えるだけだ。それすらも確かじゃない。これまでと同じように、垂州も病んでいるかもしれず、今後病んでしまうのかもしれない。また、逃げ出すだけの結果になるかも」
「李斎」
「……これしか道がないんだ……」
「では──ここでお別れです、李斎」
花影の胸の前で組まれた指が震えていた。今にも泣き出しそうな花影の顔を見つめ、李斎は頷く。
「……仕方ない」
李斎は王宮で花影と巡り会った。そこで|友誼《ゆうぎ》を得て、共に宮城を追われた。数年を経て、やっと再会したのはこの冬のこと、花影の出身地、|藍《らん》州でのことだった。藍州で一冬を何とか|凌《しの》ぎ、さらに追っ手を逃れ、南に隣接する垂州へと二人、辿り着いた。
花影はじっと李斎を見つめる。やがて、袖で顔を押さえ、|微《かす》かな|嗚咽《おえつ》を|漏《も》らした。
「垂州は妖魔の巣窟です。南に向かい、沿岸に近づくほど酷くなる一方だと……」
「分かっている」
花影は袖で顔を覆ったまま頷いた。再び顔を上げたときには、気丈な表情が浮かんでいた。藍州の|州宰《しゅうさい》を経て、六官の一、秋官長|大司寇《だいしこう》にまで登り詰めた能吏の|貌《かお》だった。その貌で一礼し、花影は李斎に背を向けた。
──確かに浅ましいことだ、と李斎も思う。
景王が|遵帝《じゅんてい》の故事を知らなければいい、故郷に縁あるものを|懐《なつ》かしみ、情に流されて|戴《たい》を救おうと|起《た》ってくれることを期待している。起てば、|慶《けい》は沈む。王師が国境を越えた途端に景王は遵帝の|轍《てつ》を|辿《たど》るのかもしれなかった。だが、それでも慶の王師は残される。せめて一軍なりとも李斎の手の中にあれば。
|酷《ひど》いことをしようとしている。
花影はあくまでも李斎を|拒《こば》もうとするかのように、背を向けたまま丘を|紫泉《しせん》に向けて下っていった。振り返ることも、歩みを緩めることもしない。それを見送り、李斎は乗騎の手綱を取った。心細げに李斎と花影の後ろ姿を見比べる|飛燕《ひえん》の顔を覗き込む。
「泰を救おうと|足掻《あが》く|愚《おろ》か者は、私だけになったな……」
李斎はその艶やかな黒い首の毛並みを|撫《な》でた。
「お前はあの方を覚えているだろう?」
飛燕の鼻先に当てた額の中に|甦《よみがえ》る声。
──李斎、と高く嬉しげな声で。まろぶように李斎を目掛けて掛けてきて、そうして必ず、飛燕を|撫《な》でてもいいか、と。
「お小さい御手を覚えているな? お前は大層、台輔が好きだった……」
くうん、と小さく飛燕が泣いた。
「私と一緒に、戴で最後の愚か者になってくれるだろう? ……行ってくれるか、飛燕」
飛燕はその|漆黒《しっこく》の目で李斎を見返し、そして何の声も|漏《も》らさずに、ただ身を|屈《かが》めて乗騎を促した。李斎は飛燕の首筋に顔を埋め、そして|鞍《くら》に飛び乗る。手綱を握って|紫泉《しせん》のほうを見ると、人影がひとつ、心細げに立って李斎のほうを見つめていた。
(……花影)
──戴のために慶を沈めるというのですか?
李斎は|牀榻《ねま》の天井にむなしく視線を漂わせた。そこに思い描く|貌《かお》には、嫌悪感と李斎に対する|侮蔑《ぶべつ》が濃く浮かんでいる。
(……けれども私は、そのために来たんだ)
そして|辿《たど》り着いたばかりか、生きながらえてしまった──当の景王に救われて。
李斎は|堪《たま》らず、目を閉じた。
(だからこれは、きっと運命なんだろう……)
※
|汕子《さんし》は深く息を吐いた。|辺《あた》りに立ち込めた|鬱金《うこん》の|闇《やみ》。狭いようでいて果てがないようでもある「どこか」。
──間に合った。
今度は離れずに済んだ。失わずにいられた。|朦朧《もうろう》とするほどの|焦燥《しょうそう》が通り過ぎて息を吐くと、|安堵《あんど》のあまり呆然としてしまった。
我に返ったのは、いきなり鬱金の闇のどこからか、声がしたからだった。
「──これは」
|僅《わず》かに驚いた調子の声に、汕子は我に返った。
「|檻《おり》だ」
「──|傲濫《ごうらん》」
|蹤《つ》いてきていたのか、あの混乱の中を。感嘆半ば、檻、と問い返そうとして、汕子もそれに気づいた。
馴染んだ泰麒の影の中だ。それが実際にはどこにあるのか、汕子にも分からない。鬱金の闇の落ちたどこか。上もなく下もなく果てがあるようでないようで。
汕子ら妖は獣や人のようには眠らない。だから知らないが、知っていれば夢の中のようだ、と思っただろう。漠然と「どこか」だと分かる。実際にどこで、どんな場所なのかは分からない。鬱金の闇が落ちているのか、それとも弱い鬱金の光が射しているのだろうか──それさえも。
だが、その「どこか」が狭い。明らかに狭いと感じる。何か恐ろしく硬いもので閉ざされているのを感じる。それはあながち金の光がいつもに比べ、恐ろしく弱いせいばかりではない。
──檻だ、確かに。閉じ込められている。
「これは……」
|呟《つぶや》いたが、|喉《のど》を呼気が通った感触はない。ただ思っているだけ、呟いているつもりになっただけかもしれなかった。
「この|殻《から》は何だ」
傲濫の声──これまた、声のような気がしているだけなのかもしれない──は困惑を|滲《にじ》ませている。
「殻……」
|泰麒《たいき》だ、と直感した。泰麒であるものが、ひどく|頑《かたく》な印象を与えるもので包まれているのだ。汕子は試しに意識を外に向けてみる。普段なら「どこか」を抜けた汕子の意識は泰麒を取り巻いた気脈に触れるはずだが、それは|粘《ねば》るような抵抗に|遮《さえぎ》られた。
「影から出られない……?」
いや、不可能ではない。強く強く念じれば、なんとか抵抗を突破できるだろう。だが、ひどく消耗しそうな予感はした。それは並大抵ではない気力を要することで、しかもかなりの苦痛を伴うに違いない。
しかも、と汕子は周囲を見渡した──つもりになった。
光が薄い。|泰麒《たいき》の気が小さい。眩しい輝きは感じられず、どこからか雨降るように降り注いでくる気脈の糸が恐ろしく細い。
「閉ざされている……」
|傲濫《ごうらん》の声に、汕子は背筋を|粟立《あわだ》てた。
麒麟は妖の一種だ。妖たちの、獣や人の|範疇《はんちゅう》を超えた力を支えるのは、天地から恵まれる気力だ。その、注ぎ込んでくる気力が細い。使令は気力を食う。なのにそれがこんなにも頼りない。
注ぎ込んでくる入り口が細いのだ。泰麒をとりまく気脈が弱いというよりも、泰麒がそれを取り込むことができない。──角が、欠けている。
──|身喰《みぐ》いだ。
汕子たちが泰麒の気力を食えば、その分泰麒が|損《そこ》なわれる。注ぎ込まれる気力だけでは、汕子らの命脈を保つには足りない。
──敵がいるのに。
泰麒を襲った敵だ。突然の泰麒の|転変《てんぺん》。そして、|鳴蝕《めいしょく》。鳴蝕の起こし方など、泰麒は知らないだろう。それは麒麟に天与の物だが、泰麒は麒麟の力をよく理解できていない。本能的に鳴蝕を起こすほどのことがあったのだ。それが角が大きく損なわれていることと無関係であるはずがなく、その重大事が選りに選って汕子と傲濫が|驍宗《ぎょうそう》の許へと向かっている最中に起こったことである以上、それ自体も仕組まれたことに違いなかった。
何者かが故意に汕子を泰麒の側から引き離したのだ。そうしてその隙に泰麒を襲った。麒麟が死ねば王もまた|斃《たお》れる。謀反だ、と汕子は呟いた。
──しかし、誰が?
汕子は確かに蝕の最中、ひとつの人影を見ていたが、それが誰かを見て取ることはできなかった。おれが襲撃者だったのだろうか。あの者が謀反の首謀者だったのだろうか。噂通り驍宗を文州に|誘《おび》き出し、さらには泰麒を|唆《そそのか》して汕子らに驍宗の許へと向かわせた。結果、汕子らが離れて無防備になった隙を突き、泰麒を襲ったと言うことか。だが、敵は泰麒の襲撃に失敗したのだ。少なくとも泰麒を|弑《しい》すことはできなかった。敵はそれを察して再び泰麒を襲撃しに来るかもしれない。なのに、汕子らは存分に動くことができない。
どうする、と|鬱金《うこん》の闇の中から|傲濫《ごうらん》の声がした。
「眠っていなさい」
眠っているのが最も気力を食わない。無防備にはならない、獣の眠りだ。意識を解放して周囲の刺激を感じながら、身体を休めている。
「決して注意を怠らないように。──敵が追ってくるかもしれない」
彼は|朦朧《もうろう》としたまま、|鯨幕《くじらまく》に導かれて一軒の家に辿り着いた。門の周囲から玄関先にかけては、黒衣に身を包んだ人々が集まっていた。菊の匂いと|抹香《まっこう》の匂いが立ち込めている。それらの人々が彼に気づいた。驚いたような声、駆けつける大人たち、その人垣の向こうから、やはり黒衣に身を包んだ一人の女と男が現れた。泣き崩れる女の背後、菊に縁取られた老婆の写真が見え、そして彼はようやく祭壇の置かれたその建物がなんなのかを理解した。それが自分の「家」であることを。
──今までどこに。
──どうしたの、何があったの。
──一年も経って。
大勢が一時に上げる声が、波のように打ち寄せてきた。危うく溺れそうになった彼を岸辺に引き戻したのは、強い爪の痛みだった。彼の前に膝をつき、泣き|縋《すが》る女の爪が両の腕に食い込んでいる。
「……お母さん?」
彼は瞬いた。なぜ母親はこんなにも泣いているのだろう、と不思議に思った。なぜこんなに大勢の人がいるのだろう。どうしてみんな声を張り上げているのだろう。この白と黒の幕は何だろう。なぜ祖母の写真が、あんなところに飾られているのだろう。
首を傾げる彼の顔を覗き込んだのは、すぐ近所に住む女だった。
「今までどこにいたの」
「……今まで?」
問い返した瞬間、彼の脳裏をあまりにも多くのものが|過《よぎ》ぎったが、それらは全て、彼がそうと認識する前に消えていった。後には深い空洞が残った。その空洞の奥底には、雪が舞っている。大きく重い雪片、それが舞い落ちる中庭。
彼は中庭に|佇《たたず》んでいたはずだ。祖母に叱られ、庭に出された。そして──。
「なんで僕、こんなところにいるの?」
彼が周囲の大人に訊いた瞬間、彼の中で重い蓋が落ちた。獣としての彼に所属した一切のものは、失われた角と一緒に固く封印されてしまった。
「こんなところって──」
女は彼の方を|揺《ゆ》する。
「覚えてる? あなたは一年も行方が分からなかったの。お母さんもお父さんも、みんな死ぬほど心配して」
「僕が?」
だって、ついさっきまで中庭にいたのだ、と指さそうとした腕に、いつの間にか伸びた髪が触れた。彼は自分の髪を不思議な気分で|摘《つま》んだ。
きっと、と傍にいた老人が目頭を押さえた。
「お祖母ちゃんが呼び寄せなすったんだよ。最後に一目、会えるようになあ」
言って老人は、周囲の者たちを見た。
「さあ、しばらく家族だけにしてやろう。出棺の前にちゃんとお別れさせてやらねえと」
そうだ、と肯定する声に促され、彼は依然として泣いている母親と一緒に家の中へと連れて行かれた。
こちらにおける彼の時間は、このときを境に再び動き始めた。同時にそれは、彼自身ももう覚えていない、もう一人の彼──泰麒にとっての長い喪失の始まりだった。