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黄昏の岸 暁の天 1章1~3

2010-08-08 22:05


一章

 

   1

 大陸東部、|慶東国《けいとうこく》の首都、|堯天《ぎょうてん》の上空に黒い翼が現れたのは、慶国の国歴で三年、夏の初めのことだった。
 その日、街は|気怠《けだる》い熱気の中に沈んでいた。堯天の街の北には、巨大な山が柱のように|聳《そび》えている。その山の|麓《ふもと》、南へと|裳裾《もすそ》を引くように|下《くだ》る斜面に、街は広がっていた。階段状に連なる市街、|蝟集《いしゅう》した|鋼色《はがねいろ》の|甍宇《いらか》、縦横に延びる街路は|陽脚《ひざし》に照らされて白く、そこにとろりと湿気を含んだ暑気が|澱《よど》んでいる。
 どの建物の窓も涼を求めて開かれていたが、あいにくこの日は、|午《ひる》からぴたりと風が|熄《や》んでいた。窓も戸口も開け放したところで、流れ込んでくるのは白茶けた照り返しと熱を持った空気、そして、眠気を誘うような静かな|騒《ざわ》めきだけだった。
 この暑気に|倦《う》んだのか、夏空には鳥の姿もなかった。陽脚を避け、方々の木陰に逃げ込んでいる。犬が一匹、古びた|民居《みんか》の軒先に落ちた短く黒い影の中に|腹這《はらば》っていた。|微睡《まどろ》む彼の傍らに据えられた椅子では、老人が一人眠っている。無防備に寝入った老人の手から|団扇《うちわ》が落ちて、彼は鼻先だけを上げ、|大儀《たいぎ》そうに主人を見上げた。──その時だった。
 陽が|翳《かげ》った。彼が期待を込めて振り仰ぐと、夏空は東から流れてきた雲に浸食されようとしていた。湿った風の匂いが彼の鼻先に届き、遠雷が聞こえた。空が完全に雲に覆われ、|辺《あた》りが暗くなるまでには、いくらの時間もかからなかった。
 黒い影がぽつりと堯天上空に現れたのは、その頃のことだった。それは鉛色の雲に追い立てられるようにして東から現れ、大きく弧を描きながら|凌雲山《りょううんざん》へと接近していた。街の方々で雨を待ち、空を見上げていた人々のうち幾人かが、それを認めた。
 その翼は痛々しいほど弱っていた。白い翼を覆った羽毛は汚れて逆立ち、黒い風切羽のあちこちが欠け、裂けていた。滑空することもままならず、懸命に湿気を含んだ空気を|掻《か》く。|萎《な》えたように下降しては|羽搏《はばた》き、凌雲山へと近づいていく。
 その影を打ち落とそうとするかのように、雨滴が落下し始めた。みるみるうちに|驟雨《しゅうう》となって翼を襲い。すぐに|雨脚《あまあし》の中にその姿を|呑《の》み込んでしまった。それを何気なく見守った人々は、水煙の中に消え去る直前、その翼が凌雲山の高所に吸いこまれていくのを見たように思った。

 |杜真《としん》は巨大な門前に|佇《たたず》んでいた。|堯天山《ぎょうてんざん》の中腹、雲海にほど近い断崖の上に、その門はある。身の丈の数倍はあろうかという|壁龕《へきがん》の奥に閉ざされ門扉、その門前はかなりの広さの岩棚になっている。これが|禁門《きんもん》、堯天山に置かれた|金波宮《きんぱきゅう》の最上層、雲海の上に広がる|燕朝《えんちょう》に直結する唯一の門戸だった。
 午過ぎ、杜真が門を守る同輩と交代して門前に着いたとき、岩棚の下には熱気に揺らめく堯天の街が広がっていた。これほどの高所にあっても風はなく、|蒸《む》すような暑気が立ち込めていた。やがて頭上に雲が集まり始めた。雲は東から雲海の底を舐めるようにして這い寄ってきた。遠雷が聞こえる。時を|措《お》かず、周囲に|靄《もや》が漂い始めた。厚みを増した雲が雲海から禁門にまで降りてきたのだ。
 完全に陽が|翳《かげ》り、霧雨のような霞に岩棚が閉ざされてしまうまでには、いくらもかからなかった。今や、杜真の目の前、岩棚の先は灰色に塗り込められている。足元から濡れた涼気とともに、微かな地響きが流れ込んできた。
「振ってきたようですね」
 杜真は何となく息をついて、すぐ傍の|凱之《がいし》に声を掛けた。
 そうだな、と凱之もまた深呼吸して、|皓《しろ》い歯を|零《こぼ》す。
「これで少しは、|凌《しの》ぎやすくなるといいんだが。こうも暑くちゃ、|皮甲《よろい》の中が|蒸《む》れていけない」
 そう言って笑った|凱之《がいし》は、杜真ら禁軍|兵卒《へいそつ》五人を束ねる|伍長《ごちょう》だった。長と言っても、一伍五人の中で最も経験があり、腕が立つ者がとりあえず取り|纏《まと》め役として任じられる程度のものだから、凱之も長の立場を振り翳すようなことはない。堅苦しいところも高圧的なところもなかったが、そもそも伍長とはそういうものなのか、それとも凱之だからこそそうなのか、経験の浅い杜真には、よく分からなかった。
 杜真はこの慶国の新王が即位した翌年、兵卒として軍に入った。一年の訓練を終え左軍に配属され、正式に軍務に|就《つ》いて半年、凱之以外の伍長の下で働いた経験が杜真にはない。禁門を守るのは一|両《りょう》二十五人、一両は五伍で編成されている。他の伍長も、そして五伍を纏める|両司馬《りょうしば》も、凱之のように親しみやすい者が多かったが、人の噂に聞く限り、他の|両伍《ぶたい》ではそうはいかないものらしかった。
「|瑛州《えいしゅう》は暑いな。|麦州《ばくしゅう》のほうがましだった」
「伍長は麦州の御出身ですか?」
 杜真が|訊《き》くと、凱之は|頷《うなず》く。
「生まれも育ちも麦州だ。今の主上が即位なさる前には、麦州師にいた」
 へえ、と杜真は声を上げた。もと麦州師の兵卒は|選卒《せいえい》だという意識が杜真にはある。事実、禁軍の筆頭、左軍将軍は麦州師から抜擢されている。
「じゃあ、伍長は|青《せい》将軍を──」
 ご存じですか、と|杜真《としん》が問おうとしたときだった。断崖の先に垂れこめた灰色の幕の向こうから、唐突に黒い影が躍り出てきたのだった。
 杜真が声を上げる間もなく、それは濃霧の中から飛び出してきて、禁門の脇の岩壁に激突した。短くくぐもった声を上げ、|足掻《あが》きながら岩棚に滑り落ちる。何事だ、と|凱之《がいし》の緊張した声が上がった。露台に転倒したそれは、|痙攣《けいれん》するように二、三度|羽搏《はばた》き、悲しげな声を上げてその場に倒れた。同時にその背から人影が一つ、転がり落ちる。
 杜真は槍を構える凱之に続き、その場を駆け出していた。禁門を通行できるのは、王と|宰輔《さいほ》、王によって特に許された人々のみに限られている。そして眼前に横倒しになった騎獣は、それらの人々の誰の者でもなかった。王宮の最深部へと直結する門、どんな事情があろうとも、余人が軽々しく乗騎を寄せて許される場所ではない。
 騎獣の傍に殺到する同輩たちは、杜真と同じく殺気めいた緊張感を漂わせていた。杜真もまた、|鳩尾《みぞおち》に|痼《しこ》りを抱える気分で駆けつけた。禁門脇の兵舎に控えていた兵卒も飛び出してきて、騎獣とその騎手の周囲に|槍《やり》で壁を築いた。その段になって、ようやく杜真は騎獣と騎手を観察する余裕を得て、目を見張ったのだった。
 |巨《おお》きな犬に似た騎獣だった。銀灰色に近い白の身体に黒い頭、だが、身体を覆った毛並みは|煤色《すすいろ》に汚れて|毳立《けばだ》ち、しかも方々に赤黒い|斑《まだら》を作っていた。頭部の黒い毛も、あちこちが|毟《むしら》られたように|剥《は》げている。短めの翼を覆ったのは汚れ果てた白い羽毛、黒い風切羽も破れ、欠けてしまっている。騎獣は横倒しになったまま、その翼で力なく地を叩いていたが、それは|羽搏《はばた》くと呼ぶには、あまりに弱々しい動きだった。その脇には、翼に|庇《かば》われるようにして倒れた人影。人のほうも哀れな有様では乗騎と大差なかった。傷つき、汚れ、力尽きている。
 杜真は困惑して、凱之の姿を探した。先頭に立った凱之もまた、槍を突きつけたまま驚いたような眼差しを騎獣と人に向けていた。戸惑いを含んだ|騒《ざわ》めきが流れる。凱之は周囲を押しとどめるように片手を挙げてみせると、槍を下ろし、人影の脇に片膝をついた。
「大丈夫か」
 凱之の声に、倒れた人影が顔を上げた。それでようやく、杜真はそれが女だと分かった。長身の、しっかりした体つきで、しかも|皮甲《よろい》を着けている。いや、皮甲の残骸と呼んだほうが良いのかもしれない。汚れているばかりでなく、あちこちが裂け、欠けている──乗騎の翼と同様に。
「俺の声が聞こえるか? これはどうしたことなんだ?」
 女は|呻《うめ》きながら身を起こそうとした。その動きで、杜真は女が片腕に|深手《ふかで》を負っていることを|悟《さと》った。凱之が|躊躇《ためら》いがちに槍を上げる。
「動くな──悪いが、動かないでくれ。ここは禁門だ。素性の明らかでない人間を寄せつけるわけにはいかないんだ」
 女は目を|眇《すが》めるようにして|凱之《がいし》を見上げ、小さく頷いた。凱之は、女が腰に帯びた剣を空いた手で抜き取る。それを背後の|杜真《としん》に寄越して、ようやく構えた|槍《やり》を再び下げた。女がまた呻きながら身を起こそうとしたが、今度はそれを止めなかった。
「……お騒がせして申し訳ない」
 女は肩で息をしながら呟いて、|辛《かろ》うじて|跪《ひざまず》く。
「私は|戴《たい》国に将軍を拝命している、|劉《りゅう》と申す」
「……戴国?」
 目を丸くして呟き返した凱之を|縋《すが》るように見てから、女はその場に平伏した。
「|畏《おそ》れ多くも不遜なるは重々の承知なれど、|慶東《けいとう》国国主景王に奏上申しあげたい!」

   2

 すぐさま禁門の脇にある|閨門《くぐりど》から|こん人[#「こん人」の「こん」は門構えに「昏」Unicode:U+95BD]《こんじん》が呼ばれた。こん人は宮中の諸事を掌握する天官の一、門の傍に控えて通行する者を記録し、身元を|検《あらた》め、取次を行う。|両司馬《りょうしば》と共に駆け出してきたこん人はしかし、女と乗騎に目を留めるなり、叩き出せ、と|上擦《うわず》った声で叫んだ。
「しかし、こんな|怪我人《けがにん》を──」
 両司馬が取りなそうとするのを|遮《さえぎ》り、こん人は|居丈高《いたけだか》な声を張り上げる。
「戴国将軍だと言うが、これが将軍の|形《なり》に見えるか。第一、他国の将軍が訪ねてくる理由があるまい」
「ですが」
 黙れ、とこん人は一喝した。杜真ら兵卒は禁軍からこん人に貸与されている格好になる。所属こそは|夏官《かかん》の範疇にはいるが、この場の指揮権はこん人にあった。
「そんなことより、禁門を汚させるな」
 こん人は跪いた女に向き直り、顔を|顰《しか》めて言い放つ。
「お前も戴国将軍だというなら、衣服を改め、身分を明らかにしてから礼節に従って国府を訪ねてくるがいい」
 杜真はその瞬間、女が肩を震わせるのを見た。|弾《はじ》かれたように上げた顔には、その無惨な有様にもかかわらず威厳のようなものが|顕《いらわ》れていた。
「無礼は重々承知している。礼節を尽くす余裕があれば、勿論そうしていた」
 女は感情を押し殺したように言ったが、こん人は冷たい|一瞥《いちべつ》を投げただけで、返答をしなかった。なおも取りなそうとする両司馬を遮り、背を向ける。その刹那、女が腕を伸ばしてと真の手から槍をも[#「も」は手偏に「宛」]ぎ取った。杜真が声を上げる間もあらばこそ、女は周囲の兵卒を突き倒し、禁門に向かって疾走し始めたのだった。
 こん人は勿論、杜真も凱之も他の兵卒たちも驚きのあまり気を|呑《の》まれ、行動を起こすのが遅れた。我に返った兵卒が|血相《けっそう》を変えて女の後を追ったが、|槍《やり》の|穂先《ほさき》が女の背に達する前に黒い翼が降り立って割って入った。騎獣の背後に|庇《かば》われて、女は|閨門《くぐりど》の内側に転がり込んでしまった。
 追え、と声が交錯した。|杜真《としん》は先陣を切って走り、閨門の中に滑り込んでいった騎獣の後を追った。真っ先に脳裏を占めたのは、自分が犯した失態だった。片手に|凱之《がいし》から預かった剣を持っていたとはいえ、|迂闊《うかつ》にも女に槍を奪われてしまった。その責任を問われるだろうか、懲罰があるだろうか。
 |容易《たやす》く──と、杜真は自責の念に駆られて思う。女の計略に引っかかって。
 勿論、女は深手を負ったふりをしていたのだし、騎獣にも息も絶え絶えに振る舞うよう、仕込んでいたに違いない。戴国の将軍などと言うのも真っ赤な嘘。その虚言を真に受けたばかりではなく、下手な芝居を|鵜呑《うの》みにしてみすみす隙を作った。

(──下手な芝居?)
 禁門の内側には一|旅《ぶたい》が布陣できるほど広大な広間がある。女と騎獣はその奥にある階段へと向かって突進していた。騒ぎを聞きつけたのか、広間に隣り合う宿舎から、待機していた兵卒や官吏が飛び出してきた。
 ──下手どころではない、と女の後を追いながら、杜真は思う。芝居には見えなかった。女も騎獣も、本当に瀕死の状態に見えた。血糊は赤土でも|擦《なす》りつければそれらしく見えようが、傷ばかりはそうもいくまい。特に女の右腕は、真実|深手《ふかで》を負っているように思えた。
 現に──と、杜真は|蹌踉《よろ》めきながら階段に足を乗せた女を凝視する。今も女の右腕は動いていない。杜真の目の前で女が転んだ。やはり彼女の右腕は動かなかった。駆け寄った騎獣が助け起こそうとするように首を差し出したが、それに|縋《すが》りついたのも、槍を握った左腕だった。
 杜真は思わず、周囲に凱之の顔を探した。すぐ背後から駆けつけてきた凱之は杜真に頷く。
「いいから追え。捕らえるんだ。──殺すなよ」
 しかし、と杜真は凱之に目で訴える。広間の入り口のほうから、殺せ、と|こん人《こんじん》の甲高い声が響いていた。
「殺すな。賊だとしても問い|質《ただ》さねばならないことがある」
 杜真は|首肯《しゅこう》し、改めて女を追う。騎獣の背にしがみついた女は、一息に最上部へと達しようとしていた。前方を|遮《さえぎ》るのは巨大な門扉、あの内側はすでに雲海の上、王宮の深部になる。その外にも一両の兵卒が待機しているが、果たしてこの騒ぎに気づいているかどうか。
 ──いや、下手に気づいて様子を|窺《うかが》おうと門を開ければ、みすみす女を宮中に入れことになりかねない。
 だが、杜真が危惧したその瞬間、閨門が動いた。騎獣は女を乗せたままそれに体当たりして門の内側に転がり出ていった。
 周囲であがった狼狽する声、上方から聞こえてくる驚愕したような声と叱咤する叫び。それらを聞きながら階段を駆け上がった杜真が|閨門《くぐりど》に|辿《たど》り着いたちょうどそのとき、悲鳴のような獣の鳴き声が聞こえた。|杜真《としん》は胃の腑に拳を叩き込まれたような気がした。禁門の内側に控えた者たちに、女が討ち取られてしまったのだろうか。
 鉛を|呑《の》み込んだような気分で杜真は閨門を転がり出る。外は王宮内部の|路寝《ろしん》、広々とした露台の前方には、高い隔壁を隔て、王の居所である|正寝《せいしん》の建物が|聳《そび》えている。杜真ら兵卒は勿論、重臣である高官たちでさえ無断で立ち入ってはならない禁域。そこに続く石畳の上に、騎獣は横倒しになっている。騎獣を取り押さえるための|鉤策《かぎ》が、いくつもその身体に掛かっていた。
「いかん! 殺すな!!」
 |凱之《がいし》の声がした。騎獣を包囲していた兵卒が、驚いたように振り返った。杜真が包囲網の傍に駆け寄ったとき、いましも女の首に槍の穂先が突きつけられたところだった。槍を向けた兵士が|咄嗟《とっさ》に得物を引く。同時に女が|藻掻《もが》いた。包囲網から怒声があがる。禁門のほうからはこん人の|癇性《かんしょう》の声がしていた。殺せ、と金切り声で叫んでいる。殺せという声と、殺すなという声、なおも逃げようとする女と騎獣、取り押さえようと|狼狽《ろうばい》する兵卒──混乱も極まったところで朗々とした声がした。
「何の騒ぎだ」
 包囲網に近づいてくる姿を見て、杜真は安堵の息をついた。片手に|大刀《だいとう》を携えた大男は、夏官|大僕《だいぼく》だった。王や貴人の身辺護衛にあたる|射人《しゃじん》の所属、中でも大僕は平時に王の側近くに控え、その警護を行う。位で言えば|下大夫《げだいぶ》にすぎないが、この大僕は王の信任が特に|篤《あつ》かった。私的な場所では、常時王の側近くに控え、|小臣《しょうしん》の指揮を行う。今も、大僕の周囲には小臣が三人、従っていた。
 侵入者だ、とこん人が叫んだ。対して凱之が、来訪者だ、と声を上げた。大僕は瞬きながらその場を見渡した。
「賊か客か、どっちなんだ?」
 客ではない、と金切り声を上げたのは、やはりこん人だった。
「客を|騙《かた》って切り込んできたのだ!」
 こん人は事態の経緯をまくし立てる。その最中で大僕は言を遮るように手を振った。
「本人に訊いたほうが早そうだ」
 言って大僕は、まっすぐ女に近づいた。困惑したように道を開ける兵卒の間を縫って、杜真は女の傍に忍び寄り、女の手を離れた槍を取り戻した。その際に、杜真は見て取る。
 ──嘘や芝居なんかじゃない。
 汚れ破れた衣服を奇妙な形に固めているのは、間違いなく|血糊《ちのり》だろう。相当に前のものらしく、鉄の色に変じている。そこに|辛《かろ》うじて|纏《まと》わりついた|皮甲《よろい》の残骸、動かない右の上腕には固く|紐《ひも》が結ばれ、裂けた袖の下に見えるその先の腕は、黒く縮んでいる。──|壊死《えし》しているのだ。
 人ではないだろう。|仙《せん》でなければ、命があるはずがない。
「……あの人なら大丈夫だ」
 |杜真《としん》はそっと女に声を掛けた。石畳に身を伏せた女は|蓬髪《ほうはつ》の下から杜真を振り仰いだ。
「主上の信の|篤《あつ》い人だから」
 女が感謝するように頷いた。|呻《うめ》きながら身を起こし、大僕に向き直る。こん人は未だに何かを叫んでいたが、大僕はそれに構わず石畳に|膝《ひざ》をついた。
「あんた──この|形《なり》はいったい」
「押し入るような真似をして申し訳なく存ずる。|狼藉《ろうぜき》は幾重にもお|詫《わ》び申し上げるが、決して害意あってのことではないことをご理解いただきたい」
 女の言に、大僕は頷いた。女はほっとしたように気配を|緩《ゆる》め、深く頭を下げた。
「私は|戴《たい》国|瑞《ずい》州師の将軍で|劉李斎《りゅうりさい》と申す──」
 驚いたように口を開けた大僕を、李斎は|真摯《しんし》な目で見上げた。
「景王に是非ともお聞きいただきたい儀があって参上した。不遜は重々承知しているが、何とか|燕見《えんけん》を|賜《たまわ》りたい」
 言って李斎は平伏する。
「伏してお願い申し上げる。……なにとぞ、景王に」
 大僕は李斎を見つめ、そしてはっきりと|頷《うなず》いた。杜真のほうを見る。
「とにかく、肩を貸してやれ。どこかそのへんで休ませて──」
 言いかけた声を、当の李斎が|遮《さえぎ》った。
「休んでいる暇はない!」
「別に|捕《と》らえようってわけじゃない。あんたには休息と手当が必要だ」
 言って大僕が笑う。
「俺は大僕で|虎嘯《こしょう》という。──あんたの頼みは確かに俺が引き受けたから、とにかく休め。今、|瘍医《いしゃ》を呼んでくる」
 ならん、とこん人が声を張り上げた。
「いったい何を考えているのか! この者は許しもなく禁門に近づき、あろうことか兵卒を|蹴散《けちら》らしてここまで侵入したのだ。宮城を汚し、主上の威信に傷をつけた。さっさと引っ立てて処分せよ!」
 虎嘯は呆れたようにこん人を見た。
「そんな乱暴な。仮にも他国の将軍さんに、そんな無礼ができるかい」
「将軍などと! これのどこが将軍に見える。|騙《かた》っただけに決まっている!」
「しかしだな」
「大僕は何か勘違いしておられないか。来訪者の素性を|検《あらた》め処遇を決するのは|こん人《こんじん》の職分である。主上に目を掛けられているからと言って、他官の職務にまで口を|差《さ》し|挟《はさ》まないでもらいたい!」
「素性がどうこうという問題か!」
 |虎嘯《こしょう》に一喝され、こん人が|怯《ひる》んだ。
「これを見捨てて、主上がそんなことを許すと思うのか!?」
 吐き捨てるように言って、虎嘯は|杜真《としん》を促した。
「急げ。──その騎獣もな。手当てして休ませてやるよう、手配しろ」
 杜真は頷き、李斎の肩に手を掛けた。引き起こそうとした杜真の手を、|李斎《りさい》はしかし、やんわりと押し戻した。
「駄目です、とにかく休んで」
 李斎は|頭《かぶり》を振って、足早に立ち去る虎嘯を追おうとする。
「これ以上の無茶をしちゃ駄目だ。大僕が来なかったら、あんた──」
 分かっている、と李斎は言って杜真を見た。
「御厚情には感謝の言葉もないが、景王が王宮を汚されることをさほどにお怒りにならないのであれば、大僕と一緒に連れて行ってはもらえないだろうか」
「けど──」
「頼む。……ここで休んだら、もう景王にお会いすることはできないと思う……」
 |縋《すが》るように言われて、杜真は息を呑んだ。李斎の顔には血の気がない。唇も青紫に変わっていた。|喘《あえ》ぐように息をついているが、その合間に弱く笛の音のように|喘鳴《ぜんめい》が混じる。杜真が抱えた肩も二の腕も冷たかった。
 ──確かにこの女には、いくらも時間が残されていない。
「──大僕!」
 杜真は声を上げた。李斎の腕の下に身体を入れて支える。
「一緒に連れて行ってあげてください」
「でないとこの人は、目を閉じることもできないんです」
 言外に時間のないことを告げたのが伝わったのか、虎嘯は頷き、小臣の一人に大刀を渡すと腕を伸ばした。|縋《すが》るような貌をした女を自らの手に受け取ったのだった。

   3

 王の私室にあたる|正寝《せいしん》は、その正殿──|長楽《ちょうらく》殿を中心とする幾多の建物群によって構成されている。国によって王宮によって、それぞれに個性はあるものの、その基本的な構造は変わらなかった。ゆえに|李斎《りさい》には、自分が通されたのが正寝のどう言った場所なのか|大凡《おおよそ》、分かった。なぜなら李斎は|戴《たい》国で、臣下には本来入れないはずの正寝に入る特免を|賜《たまわ》っていたから。
 李斎は|虎嘯《こしょう》と名乗った大僕に背負われ、禁門からまっすぐに正寝へと入った。端々の建物を過ぎ、大きな|廊屋《ろうか》を通り抜けて、正面に華やかな楼閣を|臨《のぞ》む建物へと連れて行かれた。李斎にはそこが、王の自室である長楽殿から|園林《にわ》を隔てた|花殿《かでん》の、その控えの建物だと見当がついた。建物が面するの園林は広大で、しかも途中に正殿と花殿を区切るための|擁壁《へい》が築かれているものだった。正殿から花殿へとやってくるためには、その園林を|迂回《うかい》しなければならない。
 それに一体、どれだけの時間が掛かるか──李斎は絶望的な気分で思った。
 どれほど厚遇されても、李斎が正殿にまで立ち入ることは許されないと理解していた。ここまで招き入れられただけでも、破格の処遇なのだと分かっている。だが、李斎の足は力を失いつつあった。虎嘯に支えられ、|辛《かろ》うじて立ってはいるものの、今にもその場に|頽《くずお》れそうだった。それを察したのか、
「座っちゃどうだ?」
 虎嘯がそう声を掛けてきたが、李斎は首を横に振った。このうえ、そこまでの無礼はできない。自分の身なりが、およそ一国の王に対面を許されるようなものでないことは、重々承知している。李斎にとって已むを得ないことだったとはいえ、禁門を力ずくで突破してきたのも、本来なら刑死に値することだ。これ以上は増長できない。──してはならない、と李斎は了解していた。最低限の威儀だけは整えておかなければ、こうしてやってきたことの、一切が意味を失う。
 懸命に床を踏みしめていると、虎嘯が先へとやった小臣が戻ってきた。彼は虎嘯に何やら耳打ちしたが──そして、当の虎嘯は李斎の身体を支えて至近の距離にいたのだが──李斎にはその言葉を聞き取ることができなかった。先ほどから低く耳鳴りがしている。耳に入る音の全てが荒れてささくれ、ひどく聞き取り|難《にく》かった。
 景王は今、どこにいるのだろう。正殿を出たのか、あるいは李斎と会うために衣服を着替えているのだろうか。ここに|辿《たど》り着くまでに、一体どれだけの時間がかかる。
 |灼《や》けつくような気分で思っていると、虎嘯らが戸口のほうに目をやるのが見えた。開け放したままの扉の向こう、|庭院《なかにわ》に面した回廊に、小臣や女官らの集団が見えた。室内で待ちかまえていた小臣らが、戸口の道を開け、|拱手《えしゃく》するのを見て取って、李斎は僅かに期待したが、やってきた集団の中に貴人の姿は見あたらず、貴人を先導してきた様子もなかった。集団の先頭に立ち、足早に室内に入ってきたのは、官吏が平素に着ける|朝服《ちょうふく》を着込んだ若い娘、彼女の背後には、およそ|先触《さきぶ》れの姿さえ見えない。虎嘯の肩に|縋《すが》って|爪先立《つまさきだ》ち、李斎はさらにその集団の後ろを探した。
 ……もう、目が霞む。
 左腕一本にある限りの力を託し、男の肩に爪を立てても、|膝《ひざ》が崩れそうな気がした。景王がこの場に|辿《たど》り着くまであと何歩か。もはや距離ではなく、その歩数が時を争う。
 ……ここまで、来て。
 その若い女官吏は、|李斎《りさい》の身体に手を触れた。振り返ると、|緋色《ひいろ》の髪が目を射るほどに鮮やかで、しかも驚愕したような|翠《みどり》の目がさらに脳裏に|際立《きわだ》った。
「|虎嘯《こしょう》、なぜ休ませない」
 彼女は言って、李斎の僅かに残った右腕の下に肩を入れた。
「私が景王|陽子《ようし》という」
 李斎は明快な声に驚いて傍らの娘を見た。
「どんな事情があってのことか、必ず聞く。だから、今はとにかく|床《とこ》へ」
 腕から力が抜けた。李斎は崩れ落ち、そのままそこに辛うじて叩頭した。
「景王にお願いしたい儀があって参上いたしました」
「──いけない、今は」
 傍らに膝をついた景王を、李斎は見上げた。
「どうか──どうか、お願いです。戴国をお救いください……!」
 驚いたように|碧《あお》い|眼差《まなざ》しが李斎の顔に注がれた。
「慶国国主の主上に、かようなお願いをすることが|条理《じょうり》に|外《はず》れた振る舞いであることは、もとより承知しております。ですが、もはや我々には──」
 李斎は言葉を|詰《つ》まらせた。
 大陸北東、虚海の|直中《ただなか》に孤立した戴国。冬には全てが凍りつく極寒の地。そこに残された戴国の民。六年前──新王登極から年が明けて僅か、戴国は王を失った。
 王の|庇護《ひご》を失い、天の加護を失い、災厄と妖魔が|蹂躙《じゅうりん》する牢獄になった。
「戴の民には、自らを救う|術《すべ》がございません。沿岸には妖魔が|溢《あふ》れ、戴を逃れ出ることもままならず、戴の中ではなおのこと生き延びることができません」
 |憤《いきどおり》りと苦しみ。李斎の胸の内で長い間、|蓋《ふた》されてきたそれが一気に解き放たれて呼気を詰まらせる。|気道《きどう》に硬く冷えた固まりが|凝《こご》っている。
「泰王におかれましては、|兇賊《きょうぞく》の|謀反《むほん》あって、宮城を追われておしまいになりました。台輔共々、御在所も知れず、どうしておられるのかも──なれど」
 李斎はその場に身体を投げ出す。床に額をつけ、叫んだ。
「未だ|白雉《はくち》が、落ちては、おりません!」
 王は死んでいない。戴の命運は尽きていない。
「どうか──」
 吐く息が尽きた。|李斎《りさい》は息を吸い込もうとしたが、|喉《のど》は|徒《いたずら》に鳴って、それを|拒《こば》んだ。視野に|禍々《まがまが》しく暗い|斑紋《はんもん》が生じ、それが|膨《ふく》れ上がって完全に闇に閉ざされた。もはや聞こえるのは、鋭利な耳鳴りだけだった。
 助力を、と言ったつもりだったが、果たしてそれが本当に声音になったかどうか。

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