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黄昏の岸 暁の天 序章

2010-08-08 22:03


序章

 その日、大陸北東に位置する|戴《たい》国は、まだ浅い春の中にあった。山野を|覆《おお》った雪は|融《と》けやらず、草木の芽も降り積もった雪の下で眠っている。
 雲海の上も、また例外ではなかった。下界ほどの雪はないものの、|園林《ていえん》に立ち並ぶ樹木の多くは、未だ固い眠りの中にある。戴国首都、|鴻基《こうき》。|白圭宮《はっけいきゅう》の西の一郭。
 白圭宮は、湾を抱き込むようにして|馬蹄形《ばていけい》に広がる。その北西に延びた一端の、湾に面した一帯は広大な園林だった。そこには戴の|宰輔《さいほ》が住まう|仁重殿《じんじゅうでん》が接し、さらにはその台輔が州侯として政務を執る|広徳殿《こうとくでん》に接している。
 園林は|冬枯《ふゆが》れていたが、美しく配された奇岩や|閣亭《たてもの》は|凛《りん》とした姿を見せていた。寒さの中でも緑を失うことのない樹木が深い色を添えて、ようやく咲き|揃《そろ》い始めた梅の花が、|微《かす》かな芳香を放っていた。その|路亭《あずまや》の一つに、子供の影がある。白い石の柱に|凭《もた》れ、|項垂《うなだ》れた背には|鋼色《はがねいろ》の髪がかかっていた。
 この子供を、|泰麒《たいき》という。彼は戴国の|麒麟《きりん》、新王を選び玉座に|就《つ》けて宰輔となり、同時に鴻基のある|瑞州《ずいしゅう》の州侯に就いてはいたものの、まだ十一にしかならなかった。王を選ぶという大役を果たして半年、|戴国《たいこく》の重鎮であるはずの子供は、だが、このときただ一人で|園林《ていえん》にいた。
 |泰麒《たいき》が選んだ王は|鴻基《こうき》にいない。半月前、遠く|文州《ぶんしゅう》へと旅立っていった。不安で心細くてならないのは、泰麒の|主《あるじ》──|泰王《たいおう》|驍宗《ぎょうそう》が乱の鎮圧のために出ていったからだった。
 泰麒は戦に|馴染《なじ》まない。|麒麟《きりん》という獣の|本性《ほんせい》がそれを|忌避《きひ》するばかりではなく、幼い泰麒には戦乱の経験がなかった。知識でしか知らない|惨《むご》い場所へ、泰麒の主は出掛けていった。しかも──驍宗が旅立った直後から、宮中には良くない噂が広がっている。
 文州の乱は王を|弑逆《しいぎゃく》しようという企みで、驍宗は|誘《おび》き出されてしまったのだ、という。
 文州は瑞州の北、両州の間には|峨々《がが》たる山脈が|聳えている《そび》。山腹を割って|這《は》う細い山道を、驍宗は越えていかねばならなかった。その細い道の|彼方《かなた》、文州の中央部へと抜ける|隘所《あいしょ》に逆賊は控え、驍宗を待ち受けているのだと|囁《ささや》かれていた。そして昨日、実際に驍宗は|伏兵《ふくへい》に急襲を受け、地の利を得られず苦戦している──そう、|報《しら》せてくれた者があった。泰麒は不安で恐ろしく、胸の|潰《つぶ》れる思いがする。
 ──どうぞ、御無事で。
 ひたすら祈るより他に、泰麒にできることはなかった。真っ黒く胸を|蝕《むしば》む不安を、打ち明ける相手も持てなかった。泰麒の周囲にいる大人たちは、泰麒を怯えさせまいとして良くない|報《しら》せ|悉《ことごと》く隠す。弑逆の噂さえ、単なる風説にすぎない、心配する必要はないのだと言い張った。だから、この日の早朝、人を介しこっそりと耳打ちされたその凶報について、周囲の大人と話すことはできなかった。したところで例によって、そんなものは|嘘《うそ》だ、何かの間違いだと言われるに決まっている。
 公務の間を|掠《かす》め、周囲から人の絶えたのを|見計《みはか》らって|人気《ひとけ》のない場所に逃げ出してこなければ、無事を祈ることさえできない。そんなにも幼い──幼い者としてしか扱ってもらえない自分が、泰麒は情けなく腹立たしかった。
 |嫌《いや》がる|使令《しれい》を説得して、泰麒は彼らを文州へと向かわせた。せめて驍宗が無事なのかどうか、それだけでも知りたい。もしも苦戦を|強《し》いられているのなら、助けて欲しい。
 麒麟はその性、仁にして、流血を嫌い、争いを|厭《いと》うと言う。剣を以て身を守ることはでないゆえに、妖魔を使令として下し、それを自らの|戈剣《ぶき》として使う。だが、その使令を泰麒はただの二しか持ってはいなかった。|汕子《さんし》と|傲濫《ごうらん》と──その二者に行け、と命じると、それで驍宗のためにできることは終わりだった。そせめてもっと使令がいれば。あるいは、泰麒がもっと大人で、周囲の大人たちと手を|携《たずさ》え、驍宗を守るために何かをすることができれば。胸の中で繰り返しながら、その実、泰麒はこうして園林の片隅でひたすら祈っているしかないのだった。あまりに無力な自分が|悔《くや》しい。
 どうぞ、御無事で。
 何度目かに祈ったとき、背後で|微《かす》かな足音がした。振り返ると、その者[#「その者」に傍点]が立っていた。泰麒は|安堵《あんど》した。|傅相《ふしょう》でも|大僕《たいぼく》でもなかった。それは泰麒に驍宗の窮地を|報《しら》せてくれた者だから、無理に何も心配事などない|貌《かお》をする必要はないのだ。
「驍宗様は御無事なんでしょうか。何か連絡はありましたか?」
 泰麒は駆け寄りながら訊いた。その者は首を横に振る。
「僕、やっぱり使令を行かせました。ごめんなさい」
 知らせがあれば包み隠さず伝えるから、使令を驍宗の|傍《そば》に向かわせようなどという短慮を決して起こさないように、と以前、その者は言った。相手は約束を守ってくれたのに、泰麒には同じように約束を守ることができなかった。
「でも、どうしても何もしないでただ報せを待ってるなんて、できなかったんです」
 その者はうなずき、そして、すらりと腰に帯びた剣を抜いた。
 泰麒は足を止めたが、別段、|怖《こわ》かったわけではない。泰麒はその者を信頼していた。だからただ、|怪訝《けげん》に思っただけだった。
「……どうしたの?」
 泰麒は急に不安になった。その者が、ついぞ見せたことのない恐ろしげな気配を発していることに、やっと気づいたからだった。
「驍宗は死んだ」
 その者は言った。無意識のうちに|怖《お》じ|気《け》て|後退《あとじさ》ろうとした泰麒の足が|凍《こお》りついた。
「……|嘘《うそ》」
 仰ぎ見た相手は、抜いた剣を振り|翳《かざ》した。泰麒は目を見開いた。あまりのことに全身が硬直し、声を出すこともできず、棒立ちになっているしかなかった。
「使令がただの二とは身の不運」
 白く氷のように|輝《かがや》く刃が、流れるように振り下ろされた。
「……驍宗を選んだ|貴方《あなた》が悪い」
 白人が当たるのが先だったのか、あるいは泰麒が身を|捩《よじ》り、本能的にその場を逃げ出そうと──彼にできる最善の手段で逃げ出そうとしたのが先だったのか、それを判じることは当事者にも難しかったろう。
 いずれにしても、その凶刃は泰麒の──獣としての泰麒が持つ角を深々と|抉《えぐ》った。泰麒は無意識のうちに悲鳴を上げた。それは、痛みだけではなく、裏切りという名の痛みに対する叫び、同時にかけがえのない主の喪失を聞いた苦しみ、そして生命の危機を|瀕《ひん》する獣としての悲鳴だった。最大級の叫びと、その場を逃れようとする本能的な意志、泰麒はいきなりその場で溶解した。

「──泰麒!?」
 |汕子《さんし》は激烈な衝撃に高く悲鳴を上げた。汕子の|足元《あしもと》には白く凍った山野があった。文州はもう目の前、位置を確認するために、小峰に登ろうとしていたところだった。
 ──何かが、起こった。
「|泰麒《たいき》──」
 この痛みは何だろう。恐ろしい痛みと、未だ全身を駆けめぐる|痺《しび》れは。
 |汕子《さんし》は|呻《うめ》き、衝撃から立ち直るや否や、すぐさま身体を溶かして土中に滑り込んだ。それは「我」という形を地中に想起することによって起きる。
 地中には道がある。汕子にはそれが分かる。道に己を移して形のないまま、その何もない道を駆ける。──いや、駆けるという言葉はあてはまらないかもしれない。深海のように暗く、|全《すべ》てが|朧《おぼろ》に混沌とする中、ただ身体を取り巻く何かの圧力だけがある。汕子は強く前へ、と念じる。|遙《はる》か彼方、鮮明に明るい金の光を目指して。
 地脈を突き進み、海面へ浮上するようにして竜穴から一気に|風脈《ふうみゃく》に乗る。飛び出すと同時に高く舞い上がり、地上が|霞《かす》み、形状を見失うほどの速度で突き進んでいく。金の明かりは強くなる。|煌《こう》と輝いたそれがより鮮やかになり、強く視界を照らすほどになって、すぐに視野の全てを覆った。
 |黄昏《たそがれ》の金の色。薄暗い|鬱金《うこん》の闇の中に潜りこもうとした|刹那《せつな》、汕子はしたたかにそれから拒絶された。
 ──泰麒の影が。
 それは泰麒自身の気脈だ。それが恐ろしい勢いで|捻《ねじ》れ、この世の気脈から|も[#「も」は手偏に「宛」Unicode:U+6365]ぎ取られようとしている。
 ぞっと総毛立った。それは遙か以前、白銀の枝から目の前でも[#「も」は手偏に「宛」]ぎ取られていった金の実の姿にあまりによく似ていた。
 ──泰麒。
 また、失ってしまう。
 それは不安より先に絶望となって汕子に襲いかかってきた。汕子は気脈から飛び出した。目の前は|白圭宮《はっけいきゅう》、その|甍宇《いらか》が波打って見えるほどに大気は|歪《ゆが》んで、その彼方に陰鬱な色をした空が見えた。
 ──異界。
 |蝕《しょく》だ、それも|鳴蝕《めいしょく》。|麒麟《きりん》の悲鳴が招く極小の蝕。
 |揺《ゆ》らぎの中心に投げこまれたようにして遠ざかる影が見えた。|漆黒《しっこく》の獣の影。|鬣《たてがみ》が|僅《わず》か、鋭利な色に光った。
「──泰麒!!」
 揺らいだ王宮、陽炎の立った|園林《ていえん》。捻れた|路亭《あずまや》、その傍らに傾き歪んだ影。
 ──誰。
 視線で|薙《な》いで、汕子はすでに閉じようとしている「門」を見据える。迷わず飛び込み、姿を溶かして追い|縋《すが》った。
 腕が──意識の上での腕が伸びる。指先が追う。──もう少し。
 背後でいきなり気脈が絶たれた。取り巻く気脈の色が、匂いが、肌触りが変わった。異界に出たのだ。
 全身全霊で腕を伸べ、汕子は逃げる|鬱金《うこん》の影に爪を立てる。爪が掛かった。──そのようにゆ感じた。
 揺らいだ屋根、|陽炎《かげろう》の立った道、|捻《ねじ》れた|樹木《じゅもく》。大きく波打ったそれらが一気に形を整える。と同時に汕子は辛うじて鬱金の影の中に滑り込んでいた。
 ──泰麒──!

 それは見る者があれば、目を疑うような光景だったに違いない。小さな畑の間に古い建物が並ぶ、小さな集落だった。その中を|緩《ゆる》やかに蛇行しながら|貫《つらぬ》いたアスファルトの細い道。四月の鮮やかな陽光が降り注いで、アスファルトの表面に小さく|陽炎《かげろう》を生じていた。
 その陽炎が大きく揺らいだ。文字通り炎がいきなり勢いを増したように|膨《ふく》れ上がり、濃く|凝《こご》った。その大きさは大人の背丈ほど。そこに薄く影が浮かび、するりと人影がはき出された。まるで小さな段差に|躓《つまず》いたようにしてまろび出た子供の影は、二、三歩つんのめって、はたりと止まる。
 アスファルトの上に立った子供の、背後で陽炎が融け落ちた。後には|長閑《のどか》な春の景色があるばかり。
 空は明るい薄青。絹雲が青を|滲《にじ》ませている。どこか高いところで|雲雀《ひばり》が鳴いていた。渡る風は弱く|温《ぬる》い。畑の菜の花を揺らし、|畦《あぜ》の|薺《なずな》を揺らしてアスファルトの表面を|撫《な》で、子供の肩を超えるほどに伸びた髪を軽く散らした。
 子供は、ぼんやりと|佇《たたず》んでいた。──いや、何も見ていず、感じていないのかもしれなかった。|瞬《まばた》きすらない目が正面に向けられたまま、背後からの緩い風に押されたように足が動いた。一歩を踏み出すと、次の一歩が前に出る。彼は機械的に足を動かし始め、やがてそれが滑らかな歩みになった。
 ほんの僅かあるいて、彼はいきなり瞬いた。ふと我に返った、というふうだった。足が止まる。彼は周囲を見渡して、激しく瞬く。
 小さく整えられた畑や田圃と、点在する古い建物。間には真新しい家も見える。どこにでもある田舎じみた小さな集落。
 彼は一つ首を傾げた。まだどこか、|夢現《ゆめうつつ》の|貌《かお》をしていた。彼の行く手、小道が道路と交わったすぐそこに白と黒の|鯨幕《くじらまく》が見えていた。
 ──彼は|虚海《きょかい》を越えてしまった。

 

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