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黄昏の岸 暁の天 6章4~6

2010-08-08 22:18


   4

「|泰麒《たいき》はおそらく、角を失っていると思う」
 神と人の間に住まう|狭間《はざま》の女はそう言った。蓬山に辿り着いた、その翌日のことだった。
「……それは、どういうことなんだ? 何を意味する?」
 六太の問いに、|玉葉《ぎょくよう》は眉を|顰《ひそ》めた。
「そなたら麒麟の麒麟たる|所以《ゆえん》は、角にあると考えられるがよかろう。そなたらは、二形の生き物なのじゃ。麒麟が人に化けているのでもなく、人が麒麟になるのでもない。人と獣の二つの形を持っている。じゃが、泰麒には角がない。獣としての泰麒は形を失った。封印されてしまったと考えるのが正しかろう」
「じゃあ残った人としての泰麒は?」
「延台輔の言う通り、|只人《ただびと》だと考えるのが良いと思う。泰麒は|転変《てんぺん》できず、蝕を起こすことも天命を聴くこともできぬ。すでにある|使令《しれい》は泰麒の一部じゃから、失われることはないが、新たに使令を下すことはできぬ」
「連れて戻ることはできるか?」
「通常の蝕で只人を通すことはできぬ。蝕に巻き込まれて流れて来てしまうことはあるが、これは不足の事柄。意のままにすることはできぬ。付近にいれば、偶然巻き込まれる確率は増すが、確実に虚海を越えられるとは限らんようじゃの」
「何とかする方法はないのか?」
 ない、と玉葉は声音を低くした。
「蝕は摂理の中にはないのじゃ。天の意志で起こることではないゆえ、天が自在に支配することは叶わぬ。そんなことができていれば、みすみす|泰果《たいか》やそなたを|蓬莱《ほうらい》に流してしまうようなことはなかった」
「そりゃそうだ……」
 六太は息を吐いた。
「では、これはどうだ? 誰か王が渡って、泰麒を一旦仙籍に召し上げる」
「たとえ仙に召し上げたところで、伯以上の位を持つ仙でなくては、虚海を渡ることはできぬ。前にも言ったように伯位を超える位を新たに設けることは許されぬ」
「じゃあ、どうしろってんだ? そこに泰麒がいるんだぞ? 泰麒の肩には泰王と──ひいては戴の民の命がかかっている。なのに見捨てろと言うのか!?」
 |玉葉《ぎょくよう》は深い溜息をついた。
「泰麒には角がない。あの器はすでに閉ざされておる。天地の気脈から切り離された麒麟が、生き延びることのできる年限はあと幾らもないであろう、というのが、上の方々の見解だの。自ら|正《ただ》されるのを待て、と」
 黙って控えていた|李斎《りさい》は、思わず腰を浮かせた。
「それは死ぬのを待て、ということですか!?」
 玉葉は顔を|逸《そ》らす。
「そもそも、その上の方々とはいったい誰なのです」
「さて……」
「それは天帝諸神のことですか? そんな方々がいて、泰麒が|身罷《みまか》られ、再び|泰果《たいか》が|生《な》り、戴に新しい麒麟と王が立つのを待てと|仰《おっしゃ》るのですか──仁道をもって国を治めよと言ったその口で!」
 玉葉は沈黙する。
「それでは泰麒はどうなるのです? 泰麒にどんな罪があったというのですか。泰王は|如何《いかが》です。天帝が自ら泰麒を介して玉座に就けた王なのではないのですか。その王に|罪咎《つみとが》なく死ねと仰るのですか。残される民はどうなるのです。戴の民は六年というもの、阿選の圧政を耐えてきました。このうえ、泰麒が亡くなられるのを待てと言うのですか。そして新しい泰果が実って|孵化《ふか》し、さらに新たに王が選ばれるまで待てと? それは何年後のことなのです!」
「それは……」
「五年ですか、十年ですか? ──|玄君《げんくん》、戴はそんなに保ちません。それとも天は、新王が登極するまでの間、戴から妖魔を追い払い、冬の厳しさを和らげてくれるのですか」
「李斎……」
 |延麒《えんき》が李斎の腕を引く。李斎はそれを|振《ふ》り|解《ほど》いた。
「天帝は王に、|仁道《じんどう》をもって国を治めよと言われたのではないのですか。それが天綱の第一だったはず。にも|拘《かか》わらず、その王の上におわす方々が、仁道を踏みにじると仰るのですか。かくも|容易《たやす》く民を見捨て、仁道を踏みにじる方々が、これまで道を失った王を裁いてきたのか!!」
 玉葉は深く重い溜息を|零《こぼ》した。
「天には天の道理がある。|玉京《ぎょっけい》はその道理を通すことが全てなのじゃ」
「では、その玉京とやらにお連れください。私の口から天帝諸神に懇願します」
「それはできぬ。……李斎、|妾《わらわ》とて、泰麒を|不憫《ふびん》には思う……」
「では、泰麒をお助けください!」
 玉葉は憂いを込めた目で李斎を見た。
「泰麒を連れ戻って、それからどうするのかえ? 泰麒の使令はどうやら道理を失っている様子、そのまま泰麒の傍に留め置けば、妖魔のごとき災いを為そう。たとえ連れ戻っても使令は泰麒から引き離さねばならぬ。じゃが、使令すら|失《な》くせば、泰麒は身を守る術さえないのじゃえ? 王気も見えぬ。泰麒がいたからといって、泰王を捜せるものでもない」
「それでも、戴には台輔が必要です」
「諸国は泰を助けることができぬ。兵をもって|阿選《あせん》とやらを討つことは叶わぬ。連れ戻したところで泰麒は孤立無援じゃ。泰を救いたい、救わねばならぬという意志と、なのに何一つできぬという己の間で|苦吟《くぎん》せねばならぬ。──その結果がどうなるであろうな? 転変もできず使令もない麒麟に何ができるのかえ? みすみす兇賊に討たれる以外に?」
 私がおります、と李斎は叫んだ。
「使令に代わって、命に代えても台輔はお守りします。……いいえ、私ではとても使令の代わりになどならないでしょう。ですが、戴には台輔を待っている民がいます。台輔がおられれば、民は台輔の元に馳せ参じるでしょう。私一人の手では及ばずとも、多くの民が台輔をお守りいたします」
「それで阿選が討てるかえ? 何もできない泰麒が一人加わっただけで討てるものなら、とうにそなたら、討っておろ?」
「玄君ともあろうお方が、そのような愚かをおっしゃるのですか!」
「李斎」
「台輔に何ができるか、そんなことがそもそも関係あるとでもお思いか。台輔は麒麟です。その台輔に阿選を討てるはずがなく、戦においてどんな働きもなさることができようはずがない。それでも台輔は必要です──分からないのですか? 台輔がそこにいるかいないか、それが民にとって……私たちにとって、どんなに大きなことなのか」
「じゃが……」
「台輔は、私たちの希望なのです。玄君。台輔も主上もおられない戴には、|些《いささ》かの|煕光《きこう》もない。何をしてくださるかは、今は問題ではありません。戴の民には、希望のあることを納得するために台輔の存在が必要なのです……」
 玉葉はあらぬほうを見る。しばらく苦吟するように奇岩の間から射し入る光の帯を見詰めていた。
「……延麒」
「はい」
「|雁《えん》の三公の誰かを、一時、罷免できるかえ」
「一時なら」
「泰麒の戸籍を雁に用意しや。泰麒にはもともと戸籍がないが、戴の|荒民《なんみん》ということで体裁だけが整えば良い。しかる後に、延王君を渡らせよ。仙籍に入れて|三公《さんこう》に|叙《じょ》す」
「麒麟を雁の国民にできるのか?」
「してはならぬ、という文言はないの。自国の麒麟は戸籍に含まれぬ、とはあるが、他国の麒麟についての言及はない。三公についても同様じゃ。その国の民でなければならぬとあるが、それが他国の麒麟であってはならぬという記述はない」
 玄君、と李斎は歓喜の声を上げた。だが、玉葉は振り返らなかった。
「礼は言わないほうが良かろう。泰麒だけを連れ戻っても、何の解決にもならぬ」
「泰麒は?」
 口を挟んだのは陽子だった。
「泰麒には角がないという──それは、どうにもならないのですか?」
「場合による。こればかりは泰麒に会ってみなければ分からぬ。連れ戻ったら、一度ここへ連れて来や。|治癒《ちゆ》が叶うようなら手を貸そう。いずれにしても、使令は一度引き離さねばならぬ。必ず連れてくるよう」
 玉葉は|頷《うなず》き、李斎らを見た。
「……天には|理《ことわり》があり、この理を動かすことは誰にもできぬ。是非を言うても始まらない。全ては理があってこそ成り立っておるのだから。天もまた条理の網の中、民に非道を施すことなど許されぬ──それだけは、天も地も変わりはない。それを決して疑わぬよう」
 李斎無言で、ただ頭を垂れた。

   5

 李斎が待ちかねた言を聞いたのは、蓬山から戻ったその日のことだった。
 |蘭雪堂《らんせつどう》に駆け込んできた|廉麟《れんりん》は、|蠱蛻衫《こせいさん》を脱いで声を上げる。
「李斎──いました!」
 李斎は凍りついた。待ちかねた報せを受け、嬉しいより恐ろしくて身体が動かない。
「使令たちが、泰麒のお姿を発見しました。|傲濫《ごうらん》と|汕子《さんし》と──確かに」
 ああ、と李斎は呻く。残された左手で胸を押さえ、そして顔を上げた。
「それで、泰麒は」
「御無事です。私が行ったときには、すでにその場を立ち去っておられましたが、気配を|辿《たど》ることができました。あの建物の中におられます。使令を残しましたから、二度と見失うことはありません」
 李斎は天を仰いだ。不思議にも、天に向かって謝辞が|漏《も》れた。──そう、天が存在するものなら、過ちもあろう、不備もあろう。だが、それを正すこともできるのだ。過たない天はそれを正すこともない。
 それで、と|氾麟《はんりん》が声を上げた。
「|尚隆《しょうりゅう》が迎えに行くのね? どうするの?」
 妖でなく、しかも二形を持たない王は、|呉剛環蛇《ごごうかんだ》を|潜《くぐ》ることができない。神とは言ってもその塑形は人でしかない。
「どのみち戻りは泰麒が一緒だ。呉剛の門を開く」
「……大きな蝕になるね」
 仕方なかろう、と尚隆は呟く。
「できるだけの司令を使って、災異が最小限に留まるようにする。それでどの程度のことができるかは分からぬが、とりあえず宗王に願って、あちらの三国からも使令を借り受けている。あとは|鴻溶鏡《こうようきょう》か。使える限り裂いて、できるだけのことをするしかあるまい」
 氾麟は頷く。
「それで──いつ?」
 氾王の声に、尚隆は短く答えた。
「明日」

 どこで門を開くかが、慎重に検討された。虚海の果てが望ましく、それも陸地からできるだけ離れるに越したことはないが、遠く離れていれば被害を|免《まぬが》れるというものでもないところが|蝕《しょく》の度し難いところだった。
「これが本当の、運を天に任せるってやつだ」
 六太が言って使令を呼ぶ。騎獣は虚海を越えられない。使令が尚隆を運ぶ。
「──|悧角《りかく》、頼んだぞ」
 悧角にそして、景麒から借り受けた|班渠《はんきょ》、最も足の速いこの二騎を連れ、半日をかけ、できるだけ大陸から遠ざかる。気脈に|隠伏《いんぷく》した無数の使令がそれに従う。
 |清香殿《せいこうでん》の露台からそれを送り出した六太は、ようやく息を吐いた。蓬山で陽子らと別れ、まっすぐ雁へ駆け戻り、玉葉に言われた通り|采配《さいはい》して書面を整え、|御璽《ぎょじ》を|携《たずさ》えて戻ってきたのが今朝のこと、ようやくこれで、全ての準備は整った。
「……お疲れ」
 |欄干《らんかん》に|顎《あご》を乗せていると、背後から声がする。振り返ると、陽子が立っていた。
「かつてないくらい、よく働いた……。陽子はいいのか、公務に行かないで」
「さすがに今日は手につかないみたいだ。身が入ってないと言って、|浩瀚《こうかん》に叩き出されてしまった」
「あらま」
「もっとも、同じことを私が今朝、やったんだけどね。|景麒《けいき》に」
 六太は声を上げて笑う。
「まあ、そうだろうな。景麒に|懐《なつ》いていたからな、ちびは。景麒も弟のような気分がしてたんじゃないのか。奴にしては驚くべきことに、よく面倒をみていたようだから」
 景麒が、と陽子は目を丸くする。
「珍しいだろ?」
「……仰天するほど珍しい」
 軽く笑い合った時だった。慌ただしく|氾麟《はんりん》が駆けてくる。何気なく振り返った六太は、氾麟のその|貌《かお》から、良くない報せなのだと悟った。
「──どうした」
「様子を確認に行ってた|廉麟《れんりん》が戻ってきて。泰麒は、こちらを覚えていない、って」
 |莫迦《ばか》な、と六太は|呟《つぶや》き、|蘭雪堂《らんせつどう》に駆けつける。中ではそそけだった顔色をした廉麟と景麒、そして|李斎《りさい》が棒を呑んだように立ち尽くしていた。
「廉麟──」
「延台輔、泰麒が……」
「会ったのか? 覚えないってのはどういうことだ」
 廉麟は青白い貌で首を横に振る。
「泰麒は? |穢瘁《えすい》はそんなにひどいのか」
「ひどいのは確かです。でも、御無事です……ええ、とにかくまだ命はおありです。けれども泰麒は、こちらのことを覚えていらっしゃいません。ご自分が何者で、使令たちが何で、何が起こっているのか──まるで」
 くそ、と延麒は吐き捨てる。
「角か。──そういうことだったのか!?」
「そう……角がないせいなのかも。延台輔……どうすれば」
「どうするもこうするも」
 記憶があろうとなかろうと、呼び戻さないわけにはいかない。あのままにしておけば、泰麒の寿命は知れている。しかも度を失った使令がいる。あちらに置いておいても災いを成すだけ、真に開放されてしまった|饕餮《とうてつ》が、何をやらかすかは想像もつかない。
「尚隆に|報《しら》せは」
 私が、と氾麟が言う。
「残った使令に追いかけさせたわ。|遁甲《とんこう》できるから、すぐに追いつくと思う」
 よし、と延麒は|呟《つぶや》く。
「とにかく、泰麒はこちらに連れ戻さないといけない。本人が嫌がるなら、|攫《さら》ってでも。あとは……もう知るもんか。ひょっとしたら角さえ治してもらえれば、それで思い出すかもしれない」
 言って延麒は李斎を見る。
「それでもいいな? 覚悟できるな?」
 はい、と李斎は痛々しいほどに白い顔で頷いた。

   6

 ──その夜、|蓬莱《ほうらい》と呼ばれる国の|遙《はる》か海上、海面に落ちた月影に異変が起こった。
 四方に陸の光は見えない。見事に|凪《な》いで|疵《きず》ひとつない海面が、敷き延べたように広がっていた。船の姿は勿論、生き物の姿さえも見えなかった。ただ、その中央にぽつんと、白い石のように月の影が落ちている。
 |縮緬皺《ちりめんじわ》を刻む水面に|映《うつ》り、|歪《ゆが》んでは|砕《くだ》ける月の影が、ふいに|膨《ふく》れて真円を描いた。
 その真円の光の中に、突然、水面下から黒い影が|躍《おど》り出た。無数の影は宙に舞い上がり、そこで一旦、動きを止める。その下方で月の影は細り、元の形を取り戻すと、再び波にその形を砕かれた。気脈が乱れる。それはそのまま気流の乱れと化して、怒濤となって海を泡立て始めた。
 現れ出た使令たちは遠い岸を目指す。|鴻溶鏡《こうようきょう》によって分かたれた妖魔、黄海から召集された妖魔を含め、それは未曾有の数に昇った。彼らは粛々と岸辺へ打ち寄せ、そしてそこで声を上げた。|唸《うな》りを上げる風の中、ここに、という彼らの叫びが、さらに逆巻く風を誘う。迎えられる者をその岸辺に呼び寄せる声、迎える者を呼び寄せる声、それらが風音に混じって浜辺に渦巻く。それはやがて、岸辺からはひとつの影を、荒れ狂う海上の彼方からは、ひとつの騎影を呼び寄せた。
 岸辺に|彷徨《さまよ》い出てきたほうは、風雨の中に混じる声なき声が、自分を呼んでいることを自覚していた。彼の中で長く封じられてきた獣の本性に、それは届き、響いた。何と言っているのか分からない。なぜ呼ばれるのかも分からない。──けれども、来いと言っている。
 ……迎えが、来る。
 長く彼の本性に伸し掛かっていた重い蓋は、動こうとしていた。|奇《く》しくも、それを動かしたのは、彼を捜す者たちが残していった見えない金の糸だった。彼を求めて|彷徨《さまよ》う者たちは、それと意図しないまま彼の周囲に、|蜘蛛《くも》の巣のように軌跡を張り巡らせていたのだった。それは彼の、今や|漆黒《しっこく》に染まった影の中に、細く金の命脈を辛うじて注ぎ込んだ。
 そして、ついにその蓋をこじ開けたのも、やはり彼を捜していた者だった。|廉麟《れんりん》は、間違いなく岸辺に辿り着いた彼を見届けた。ふと|蠱蛻衫《こせいさん》を取り、|転変《てんぺん》してみる気になった理由は彼女自身にも分からなかった。彼女はただ、かつて会った自分を訴えたかったのかもしれないし、貴方は麒麟なのだ、と訴えたかったのかもしれない。彼女自身は、その行為が彼にとってどんな意味を持つのか分かってはいなかった。人として蓬山に呼び戻され、麒麟と呼ばれながらそれを自覚できず、麒麟が如何なる者かも真に理解はできなかった彼が、始めて[#入力者注:「始めて」は「初めて」の誤用?]それを受けとめたのが景麒による転変であったことなど知る由もない。それは、彼が「彼」から「泰麒」へと成り変わった瞬間の、ひとつの象徴だった。
 廉麟が金の軌跡を残してその場を駆け去った時、彼は思い出していた。
 ──泰麒である自分を、戴を──王を。

 風は雨を含んで夜の岸辺へと突進する。それに押し流されるようにして彼方から騎影が|辿《たど》り着いた。それが吹き寄せられたのは、灰色の陰鬱な海岸だった。波頭が|千切《ちぎ》れて|礫《いしくれ》のように飛散する中、ひとつの影が|汀《みぎわ》に立ち尽くしていた。
 |尚隆《しょうりゅう》はただ、|悧角《りかく》の背からその影を見下ろした。見下ろされた者も、ただ尚隆を見上げてきた。
「──泰麒か」
 問われたほうは、明らかに震えた。
 |見《まみ》えたのは、虚海の彼方、共に胎果で故国での姿を知らない。たとえ泰麒が虚海の彼方を覚えていても尚隆が分かるはずもなく、また尚隆も泰麒と分かるはずがない。──ただ、濡れた髪が巻き上げられて|昏《くら》い光を弾き、それが尚隆にこの者特有の希有な色を想起させた。そして、その漆黒の双眸が。|勁《つよ》いものの|撓《たわ》められた、その、色。
「泰麒、と言って分かるか」
 相手は頷いた。口は開かない。尚隆は悧角の背に騎乗したそのまま、有無を言わさず手を伸べた。指を相手の額に|翳《かざ》す。
「──延王の権をもって太師に|叙《じょ》す」
 言うや否やの|弾指《だんし》、とっさに目を|瞑《つむ》って一歩を|退《さが》った相手の、空を|掻《か》いた腕を握って|悧角《りかく》の背に引きずり上げる。自らは飛び降り、その獣の背を叩いた。
「悧角、行け!」
 それは体を|翻《ひるがえ》し、波頭に切り崩される|汀《みぎわ》を残し、逆巻き押し寄せる風を切り裂いて疾走し始めた。見送った尚隆の足許で|班渠《はんきょ》が促す。その背に飛び乗り、そして尚隆は背後を振り返った。疾走する班渠の背から視線で岸を|薙《な》ぐ。
 押し寄せる波に|翻弄《ほんろう》されている岸と、岸に向かって広がる街と。すでに国はなく民もなく、ましてや知人の一人もない。──ならばそれは、まぎれもなく異国だ。
 故国を時間の中に沈め、現れた異国に彼は軽く目礼をする。
 ──国と人との|弔《とむら》いに代えて。

 東から雲が押し寄せる。風が吹いて、未明の|堯天山《ぎょうてんざん》の峰を洗う。雲の|鈍色《にびいろ》に黒く一点が現れて、六太は思わず爪先立った。それは一点から二点に分かれ、風に吹き押されるようにして飛来し、峰にぶつかるような速度で到達すると、広大な露台の奥へと弧を描いて舞い降りた。走り寄る先にあるのは、人影を背に乗せた使令の一対、人影の一方が使令とともに駆け寄る人々を振り返り、そしてもう一方は使令の背に伏したままその場に傾いて落ちた。
 景麒は我知らず、六太と先を争う|体《てい》で駆けつけ、そして足を止めた。六太もまた|蹈鞴《たたら》を踏む。短く|呻《うめ》くような声を発した。
 白い石の上に落ちた人影は周知の年齢よりも僅かに|少《わか》い。硬く目を閉じた土気色の顔にはおよそ生気がなく、あまりにも衰弱の色が濃い。石の上に散った鋼の髪は、景麒らにすれば無惨に思えるほど短く、投げ出された腕も病んだ色をはっきりと|顕《あらわ》して細かった。見るからに痛々しく、助け起こしたくは思っても、それ以上一歩たりとも傍に寄ることができない。──圧倒的な屍臭。
「……ちび、なのか……?」
 言いながら六太は僅かに退る。景麒もまた、無意識のうちに退った。
 厚く濃く|怨詛《えんそ》が|泰麒《たいき》を取り巻いている。それは押し迫る壁のようにして、景麒らを排除する。濃厚な血の臭いと吐き気のするような屍臭、|凝《こご》ったような怨詛で、それが目に見えないのが不思議なほどだ。
「……どうして、こんな」
 六太は呟いて、根負けしたように数歩逃げた。景麒は辛うじてその場に踏みとどまったが、それ以上は断固として近寄ることができなかった。
「あれが、|泰麒《たいき》か?」
 景麒は振り返る。陽子に頷いて、肯定を伝えた。陽子は軽々と、その見えない障壁を突き抜けていく。その後をまろぶように|李斎《りさい》が追った。
「ねえ、これは何なの!?」
 主に|縋《すが》ったままの氾麟が叫ぶ。
「こんなの|穢瘁《えすい》じゃない──血の|穢《けが》れなんかじゃないわ! これは泰麒自身に対する怨詛じゃないの!」
 

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