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色んなことにやんややんや言う感じ
6
夏は秋へ向かって|滑《すべ》り落ちようとしていた。だが、|蘭雪堂《らんせつどう》の中は、依然として重苦しい倦怠感に支配されていた。いくら探しても|泰麒《たいき》の所在が分からない。|傲濫《ごうらん》の気配だけは顕著だったが、それは麒麟が残す明らかな|光跡《こうせき》に比べ、あまりにも|曖昧《あいまい》で|掴《つか》み所がなかった。六太が持ちこんだ地図は無為に|塗《ぬ》り|潰《つぶ》されていく。
「傲濫の居場所さえ分かれば、そこに泰麒がいるということではないのか?」
|尚隆《しょうりゅう》は訊いたが、これに対する麒麟たちの返答は否、だった。
「そんな簡単なことだったら、とっくに見つけてるわよ、お|莫迦《ばか》さん」
肩を|窄《すぼ》め、|氾麟《はんりん》は呟く。
「……いることは分かるわ。とても嫌な感じがするから。そちらのほうに近づこうとするとさらに嫌な感じが増すから、そちらのほうがより近いんだってことは分かるんだけど」
「では、より近いと感じるほうへ向かっていけばいいだけのことだろうが」
あのね、と氾麟は尚隆を見上げる。
「傲濫が柱のように動かなければ、それで確かに探し出せるでしょうよ。嫌がる使令や、不本意ながら逃げよう逃げようとする自分の本能が余計な雑音を入れなければ、さらに簡単。でも、傲濫は動いているの。しかも力が増したり減ったりするの。多分、傲濫が起きているときと眠っているときとでは、気配の強さが違うんだと思うわ。だから、一生懸命、威圧感の強いほうを捜していても、見失っちゃうの。見失ったのは遠ざかったせいなのか、傲濫が眠ったせいなのか分かんないの!」
氾麟は我知らず、足を踏みならした。蓄積した疲労が、氾麟を苛立たせている。
「俺に当たるな」
「尚隆なんかに当たったら、私のほうが壊れちゃうわよ!」
氾麟は声高く言って、小走りに蘭雪堂を出て行った。呆れて見送る尚隆の顔に、ぺしと|扇子《せんす》が投げつけられる。
「そこん山猿。うちの|嬌娘《ひめ》を|虐《いじ》めるでない」
尚隆は氾王の放った扇子を|忌々《いまいま》しげに拾った。
「|貴様《きさま》な……」
「|台輔《たいほ》たちは最善を尽くしている。最善を尽くしているのにままならぬ──一番それが腹立たしいのは誰だえ? ただ見守っているだけの私やお前が、つべこべ口を挟むようなことではないよ」
氾王に言われ、尚隆は押し黙った。
「特に|梨雪《りせつ》は、|傲濫《ごうらん》とやらの気配に|怯《おび》えているんだよ。|其許《そこもと》の小猿と違って繊細にできているからねえ」
「単に臆病なだけだろう。傲濫は別に|泰麒《たいき》から解き放たれたわけではあるまい」
「獣は危険に敏感なものだよ。獣としての本性が、危険を拒むのだから仕方あるまい。|胎果《たいか》の麒麟と違って、獣としての性がそれだけ強い。本人にもどうにもならないのだから責めるでない」
言って氾王は、|廉麟《れんりん》と|景麒《けいき》を見る。
「お二人も、無理はなさらぬよう。今日はもう休まれてはいかがか。こうも連日では身体が持たぬであろ。特に景台輔は御公務の合間を|縫《ぬ》ってのことゆえ」
そうですね、と廉麟が溜息を落とした。意向を伺うように見つめられ、景麒もまた頷く。どこか後ろ髪を引かれる様子で|蘭雪堂《らんせつどう》を退出していった。
「確かに……かなり疲れているようだな」
景麒を見送って尚隆は呟く。氾王は同意した。
「|呉剛環蛇《ごごうかんだ》を使ってとはいえ、消耗するようだからね。……どれ、私は|嬌娘《ひめ》を|慰《なぐさ》めて寝かしつけてこよう」
|裳裾《もすそ》が立てる|衣擦《きぬず》れを残し、氾王が堂を出て行くと、後には尚隆と廉麟が残された。立ち去る|素振《そぶ》りのない廉麟を見やり、尚隆は首を傾げる。
「寝ないのか?」
「……はい。休む前にもう一度だけ|潜《くぐ》ってみます。どうぞ延王はお気遣いなく」
「忌々しいが、範のあれの言うことが正しい。何より廉台輔の負担が最も大きい。このままでは身体が保たぬ。休んだほうが良かろう」
|呉剛環蛇《ごごうかんだ》を使う限り、その出入りには廉麟が必ず立ち会わねばならない。同行する麒麟たちは交代でできるが、肝心の廉麟は休む間がない。
「私はさほどでもありませんから」
「嘘は言わぬことだ」
廉麟は薄く微笑む。
「……本当のところは、異国に流されておしまいになった泰麒のことを考えると、眠ることができないのです。いったい何が起こったのか、今頃どうしておられるのかと、そればかりが気になって……。頭では、もう大きくおなりだろうと思うのですが、どうしても、あんなにお小さくて|稚《いとけな》くていらしたのに、と思えて」
「廉台輔は泰麒にあったことがおありか」
「はい。二度だけ──それも一度は、泰麒が蓬山に戻ったときのことで、|汕子《しんし》[#ふりがな原文ママ「しんし」→「さんし」の誤植]に呉剛環蛇を提供しただけなのですけど。もう一度は、戴に異変のあった直前です。わざわざ蓬山でのことの、お礼を言いに漣までいらしてくださったんです」
あのときの様子が忘れられない。その直後に不幸があったのだと思うと、|真摯《しんし》に別れを惜しんでくれたことまでが切なかった。漣からはあまりに遠い国のこと、二度と会うことはないのかもしれないとは思ったが、こんな形の別離を想像したわけではなかった。
「主上も、とても心配なさっていました。特に、泰麒が泰王と別れることは不幸なことだ、とおっしゃって」
「──不幸なこと?」
「泰麒はとても泰王を|慕《した》っておられる様子でしたから。泰王のお役に立って、王に喜んでもらえることが、泰麒が心から望むことだったんです。主上は、私がいなければ王宮に自分の居場所がないように、泰麒も泰王に喜んでもらえなければ居場所を見つけられないのだろうと言ってらっしゃいました。私もそうなのだろうと思います。……いいえ、たとえそうでなくても、麒麟が主と離れることは、とても不幸なことです」
「そんなものかな……」
「私たちは、王がお側にいなければ生きていられないのですもの」
王との別離は身体を裂かれることだ。麒麟は国のためにあり、民のために存在すると言うが、実状はそうではない──と、廉麟は思う。
「国のため、民のためにあるのは、むしろ王です。私たちはその王のためにあります」
廉麟は顔を|覆《おお》う。
「王のものなんだもの……」
温かい手が、|項垂《うなだ》れた廉麟の肩を叩く。
「手伝えることはあるか?」
廉麟は顔を上げる。
「図面を……地図を見ていていただけますか?」
「承知した」
廉麟は微笑んで|孤琴斎《こきんさい》へと戻り、そしてこの日何度目か、銀の蛇の尾が作る|幽光《あかり》の中へ|潜《くぐ》った。潜って出た先は、緑も山もない石ばかりの荒涼とした街だった。海はあっても岸辺は|堰《せ》き止められ覆い隠され、まるでその存在を|疎《うと》まれているように見える。
街自体が巨大な空洞のよう、こんな所に──と感じてしまうのは、廉麟がこちらの住人ではないからだろうか。痛ましい気分で、先ほどまでの捜索の続きにかかる。頼りになるのは|傲濫《ごうらん》の気配──それを忌避しようとする自分の中の|怯懦《きょうだ》だけだった。
無人の夜道を見渡し、より進みたくないほうを選ぶ。傲濫は多分、目覚めている。先ほど、気配を見失い、捜索を|諦《あきら》めた時よりも気配が強くなっていた。分かりやすいが、そのぶん身体が怖じける。無意識のうちに、そちらへ行くのを避けようとする。それを強いて抑え、あえて恐怖と嫌悪を誘うほうへと向かい、そして堪えかねて廉麟は|膝《ひざ》をついた。
「台輔……廉麟様」
おろおろと|什鈷《じゅうこ》が飛び出してきた。大丈夫、と|微笑《ほほえ》み、起きあがろうと地についた手、そこに廉麟は、やっとそれを見つけた。|蜘蛛《くも》の糸のように細い金の|燐光《りんこう》。それは弱く、しかも細く、今にも溶け消えてしまいそうだった。だが、その輝きの儚さで分かる。これは、泰麒だ。まるで病んででもいるかのような暗い光。廉麟たちが残した軌跡の|残滓《ざんし》では絶対にあり得ない。
廉麟は顔を上げたが、高い建物の間に敷き延べられた道には、これより他に何の光も見えなかった。まるで足跡のように──あるいは|血痕《けっこん》のようにぽつんと残された光跡。
「……何があったのですか?」
漣で会った泰麒の姿と、今ここに残る淡い光跡と。それはあまりに遠く隔たっている。
「……でも、間違いなくここにおいでなのですね」
その光はあまりに淡く、いつ残されたものとも分からない。光跡が途切れてしまい、行き先を|辿《たど》ることもできない以上、この街のどこかにいるのだと、すでに分かっていたことを確認したに過ぎなかった。だが、やっと見つけたそれは、廉麟の苦行を|報《むく》いるに足りた。
「必ず、見つけて差し上げます。……待っていてくださいましね」
そっと触れた指の先、それは廉麟自身の気配に負けたように溶け消えていった。
※
闇は|錆《さ》び付いていく。赤褐色の乾いた血の色に染まった闇は、|汕子《さんし》の身体にも|錆《さび》色の|濁《にご》りをまとわりつかせていく。
同時に汕子は、|焦《あせ》りを強くしていった。
──私の|泰麒《たいき》が。
まるで毒のように何かを盛られている。蓄積したそれはどこかの時点から、泰麒の命脈をも|蝕《むしば》み始めた。日々それは細くなる。このままでは死んでしまう。──失われてしまう。
殺してやろうか、と|歯噛《はが》みする音が錆色の闇のどこからか聞こえた。
「やめて。とりあえず世話をする者が泰麒には必要なのだから」
「|虜囚《りょしゅう》だ」
「虜囚である間は殺されはしない……」
「だが、毒を盛られている」
分かっている、と汕子は爪で胸元を裂く。色素のない肌に|掻《か》ききられた数条の傷、赤いものが|滴《したた》って流れ落ちていく。
──死んでしまう。殺されてしまう。
|焦《あせ》りは、それでなくても病んだ汕子の意識をさらに|狭隘《きょうあい》にする。今や汕子には、こちらの世界に住む人間の全てが、敵に見えていた。看守の住む牢獄、牢獄を取り巻き、泰麒を監視し、事あるごとに危害を加えようとする彼ら。
ひとつ報復を行うごとに、闇は|錆《さ》びつき汚濁を深くしていく。それは泰麒の命脈を|損《そこ》ない、汕子をも汚染していく。もはや汕子には虚海のこちらとあちらの事情さえ判然としない。
分かっているのは、敵がいる、ということだけだった。|驍宗《ぎょうそう》を|弑《しい》そうとし、玉座を奪おうとする誰か。その誰かは今や、泰麒の命までも取ろうとしている。
──それだけは、絶対に許さない。
振り返ってみれば、すべてはこちらとあちらの段差に|躓《つまず》いた汕子のささやかな誤解から生じた。汕子は、泰麒をとりまく世界が根底から変化したことを、ついに理解できなかった。泰麒を庇護せんがための報復は、新たな迫害を生み、やがてそれは新たな敵意と憎悪を呼び寄せることになった。迫害は激化した。同時に汕子らの報復もまた激化していった。苛烈を極める報復が、さらなる迫害を招き、次第にそれは加速度的に拡大していった。
もはや泰麒は世界に敵するものであり、憎悪される対象だったが、汕子はそれをも理解できなかった。報復によって流された血の|穢《けが》れ、押し寄せる|怨詛《えんそ》は泰麒の影をさらにどす黒く染めていった。それは汕子の──なにより|傲濫《ごうらん》の、妖としての本性を開放する。力だけが増大し、それと反比例するように彼らの理性は侵蝕されていった。
|破綻《はたん》はもう目前にあった。