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黄昏の岸 暁の天 6章7

2010-08-08 22:18


  7

 泰麒は|速《すみ》やかに蓬山へと運ばれた。例によって門前で待っていた|玉葉《ぎょくよう》は、抱え降ろされた姿を見て、眉を|顰《ひそ》めた。
「なんと……」
 呟くように言って絶句する。
「どうなのでしょう──治りますか」
 李斎は問う。泰麒は|蓬莱《ほうらい》では自分の足で歩き、|悧角《りかく》にも騎乗したと|尚隆《しょうりゅう》は言うが、こちらに戻ってからというもの、ただの一度も目を開けていない。玉葉に従う女仙たちによって抱え降ろされた泰麒は、今も土気色の顔をして、深い昏睡に落ちているように見える。
 玉葉は膝をつき、その憔悴した顔を痛ましそうに見下ろした。
「角がない……穢れがある。にもかかわらず、まがりなりにも成獣しておられるのは、さすがは|黒麒《こっき》と言うべきか」
 |呟《つぶや》いて、顔を上げる。玉葉は李斎と陽子、そして尚隆、三者の顔を見比べた。付き添ってきたのはこの三者だけ、麒麟は誰一人、|蹤《つ》いて来ることができなかった。
「……これは、|妾《わらわ》の手には負えぬ。|王母《おうぼ》にお|縋《すが》りするしかないであろ」
 三者が同時に玉葉の|面《おもて》を見返した。
「王母? 王母とは……ひょっとして|西王母《せいおうぼ》のことですか?」
 李斎の問いに、いかにも、と玉葉は頷く。
「王母ならば泰麒を助ける術をお持ちかもしれぬ」
「西王母が……おられるのですか? 実際に?」
「無論、おられるとも」
 来や、と声を残し、玉葉は廟へと向かう。そこにはかつて陽子も尚隆も足を踏み入れている。中には壇上に王母と天帝の像があるだけだ。無数の文様が彫りこまれた壇上、|白銀《しろがね》の|屏風《へいふう》を背に|設《しつら》えられた白銀の御座、そこに坐った白い石の人物像、四方の柱間に掛けられた|珠簾《みす》が、その胸元までを隠している。
 玉葉はその像に一礼し、さらに建物の奥へと向かった。段の奥にある壁の左右には白い扉がある。そのうちの左側にあるひとつを玉葉は叩いた。そうしてしばしを待つ。やがて扉の向こうから、ちりんと|璧《いし》を打ち合わせるような音がした。玉葉は扉を開ける。|廟堂《びょうどう》の大きさから考えて、その扉の向こうなどあるはずもないのに、扉の奥には白い堂が続いている。
 玉葉にはいるよう促され、陽子は扉を抜けた。
 そこは堂であって堂ではなかった。白い床の広さは廟堂のそれほど。中央に壇があって白銀の御座があることは変わらなかったが、|珠簾《みす》は上げられている。
 まるで同じ|堂室《へや》が二つあるようだった。だが、こちらには天上がなく、奥の壁がなかった。玉座の背後で純白の壁を作っているのは、いかほどの高さがあるとも分からない大瀑布だった。いったいどこへ流れ落ちていくのか、辺りは水煙にけぶり、振り仰いでみても遙か|彼方《かなた》から白い光が射してきているとしか分からない。その白々とした明かりが落ちる玉座の一方に、一人の女の姿があった。玉葉に|倣《なら》って|跪拝《らいはい》しながら陽子らは彼女を|窺《うかが》い見る。
 ──これが、西王母。
 尚隆でさえ、その姿を見るのは初めてだった。真の神は決して下界と交わらない。他の二者にいたっては、その女神が実在することさえ知らなかった。
 |碧霞玄君《へきかげんくん》の美貌は衆目の認めるところであろう。それに対し、西王母の容姿には|愕然《がくぜん》とさせられる。──醜いわけではない。あまりにも|凡庸《ぼんよう》だったのだ。
 泰麒を運んできた女仙たちが、彼女の足許にその身体を下ろした。目線だけを向け、彼女はゆったりと坐したまま、身動きひとつしなかった。
「……見苦しいことよね」
 声はひたすら無機的で抑揚を持たない。
 玉葉は深く一礼した。
「御覧ぜられます通り、|拙《せつ》の手には負えません。王母のお力にお|縋《すが》りしとうございます」
「よほど憎まれ怨まれたと見える。自身への|怨詛《えんそ》でかくも病んだ麒麟など例がなかろうな」
 その声に何の情感も窺えないのは、音もなく落ちる瀑布が声音の微妙な|彩《いろど》りを吸い取っていくからなのかもしれなかった。あるいは最前から、全く動かない身体、動かない表情のせいなのかもしれない。
「使令が道理を失い、暴走したようでございます。泰麒自身の|罪咎《つみとが》ではございません。角を失い、病んだ泰麒には、猛り狂った使令を押し留める力がなかったのでございます」
「……使令は預かる。清めてみよう」
「泰麒は」
 沈黙が落ちた。彼女は動きを止めた。|李斎《りさい》には王母が、彫像に変じてしまったように見えた。彼女の背後に落ちる水煙だけが動いているものの全てだった。それは純白の粉が流れ落ちているようにも見える。あるいは舞い上がっているようにも。
「お見捨てにならないでください」
 李斎の声に、王母の眉だけがぴくりと動いた。
「戴にはこの方が必要です」
「病を取り除いても、何ができるようになるわけでもない。──お前、その身体で兇賊を討つことができるかえ」
 情感もなく言われ、李斎は失われた右の上肢を|握《にぎ》りしめた。
「……いいえ」
「泰麒もお前のようなもの。もはや何の働きもできぬ」
「それでも──必要なのです」
「何のために?」
「泰が救われるために」
「なぜ、お前は戴の救済を願う」
 問われて、李斎ははっと言葉に詰まった。
「それは……それが当然だからです」
「当然とは?」
 李斎は口を開きかけ、そして言葉を見失った。そもそも自分は、なぜこうまでして泰を救いたいと思っているのだろう?
「泰王や泰麒が恋しいかえ? 自身のいた|朝《ちょう》が恋しいか?」
 ──それもあった、と李斎は思う。勿論、李斎は驍宗を崇敬していたし、泰麒を|愛《いと》しく思っていた。その二人から重用される自分が誇らしく、そういう自分を一員として受けとめてくれていたあの場所が恋しかった。
 だが、李斎とて分かっている。失われたものは取り返せはしないのだ、と。李斎は多くの|麾兵《ぶか》を失った。朝廷で|誼《よしみ》を得た官の多くも失っている。確か天官長の|皆白《かいはく》は行方が分からないままになったと聞く。|冢宰《ちょうさい》の|詠仲《えいちゅう》も傷がもとで死亡したと聞いた。そして地官長の|宣角《せんかく》、夏官長の|芭墨《はぼく》が後に処刑されたらしいことを、李斎は噂で知っている。垂州で別れた花影はその後どうなったのか──これについては恐ろしくて、とても考えてみる勇気を持てなかった。
 失われてしまった人々、六年の歳月。実際、と李斎は王母の足許を見た。そこに横たわっている泰麒は、もう|稚《おさな》いばかりの子供ではない。幼かった泰麒は、もうどこにもいないのだ。
「それとも阿選を許せないか?」
 それは勿論のことだ、と李斎は思う。阿選は少なくとも泰麒の信を知りながら、泰麒を襲ったのだ。玉座を奪い、戴を苦難の底に突き落とした。多くの民が阿選のために失われた。こんな非道が許されていいはずがない。阿選がこのまま玉座に在り続けると言うことは、道や善意や、慈愛や誠意、そんなものに重きを為して生きてきた、全ての人々の生が根底から否定されることだ。
「自身の汚名を|雪《そそ》ぎたいか? それとも戴が恋しいか?」
 李斎には答えられなかった。どれも違う、と思えた。
「……分かりません」
「ただただ嫌じゃと駄々を|捏《こ》ねる|童《わらべ》のようじゃの」
 そういうことでは──ない。李斎は目を上げる。白いばかりの空間は嫌でも戴の、雪に降り込められた国土を思い起こさせた。
 無数の雪片がひたすらに降って山野も|里櫨《まちまち》も覆い尽くしていく。全ての音は彩りを吸い取られ、世界は無音のまま昏睡にも似た停滞へと落ちていく。
 李斎は確かに、汚名を屈辱だと感じた。李斎の名を汚した阿選に怒り、そうやって善なるものを踏みにじる阿選に報復を誓った。天が正さないのであれば、自分が正してみせる、と思ったのも確かだ。そして、その機会を|窺《うかが》い、承州を転々とするうちに、李斎は多くの知古や理解者を失った。何重にも傷つけられた李斎の思いは、阿選を倒すことでしか|癒《いや》されない──そう思っていたこともあったように思う。
 だが、それらの思いは、ひとつ冬を過ぎるごとに雪の中に吸い取られていった。
「私にも、なぜなのかは分かりません……」
 李斎は瀑布から漂う水煙を目で追った。廃墟から立ち昇る雲煙にも似た。
「ただ……戴はこのままでは滅びてしまいます……」
「滅びてはならぬかえ?」
「はい。……それだけは嫌です。堪えられません」
「なぜ?」
 なぜなのだろう──李斎は考え、ふと口を突いて出てきたのは、李斎自身にとっても意外な言葉だった。
「なぜなら、もしも戴が滅びるのなら、それは私のせいだからです」
「──お前の?」
「うまく言えません。そういう気がするのです」
 勿論、戴のこの荒廃において、李斎が何かをしたということではない。
「もしも戴が滅びたら、私は多くのものを失います。……|懐《なつ》かしい戴の国土も、そこにいた人々も、それらに|纏《まつ》わる記憶も、何もかも。けれども、それよりももっと大事なものを失ってしまう気がする……。私はきっと、失ったものを懐かしみ、喪失に泣く前に、自分を憎んでしまうでしょう。呪い──怨む。絶対に許すことができません」
 李斎は息を吐いた。
「そう……駄々のようなものなのかもしれません。結局のところ、私はその時の苦しみから逃れるために|足掻《あが》いているんです。ただ──自分の気持ちを救うためだけに」
 李斎は台輔を見つめ、そして壇上に目を転じた。
「……台輔に何を望んでいるわけでもありません。奇蹟などは望みません。こうして奇蹟を施すことのできる神々ですら戴をお救いはくださらないと言うのに、どうして台輔にそれを望むことができるでしょう」
 ぴくりと女神の眉が動いた。
「けれども、戴には光が必要です。それさえなければ、戴は本当に|凍《こお》って死に絶えてしまいます……」
 王母はやはり声もなかった。如何なる表情もなく、じっと双眸を何もない宙に据えている。やがて彼女は、泰麒の方へ視線をやった。
「……病は|祓《はら》おう。それ以上のことは、今はならぬ」
 彼女は言って、機械的な動作で片手を上げた。
「|退《さが》りゃ。……そして、戻るがいい」
 言った途端、轟音を立てて玉座の前に瀑布が流れ落ちてきた。全ては水煙に呑み込まれ、声を上げる間もなく|蹈鞴《たたら》を踏む間もなく、目を閉じて気づくと、そこは廟堂の裏に広がる石畳の上だった。緑に覆われた山腹に、がらんとした石畳が広がり、穏やかに雲海から寄せる波の音がしている。
 李斎は|慌《あわ》てて周囲を見た。女仙たちに囲まれた泰麒、唖然としたような陽子と尚隆──ただ玉葉だけが、石畳の上に平伏していた。深々と叩頭した玉葉は、身体を起こす。李斎を振り返った。
「連れて戻られるがよい。泰麒はしばらく寝ついておられようが、王母がああ|仰《おっしゃ》りあそばした以上、この|穢瘁《えすい》は必ず治るゆえ」
 李斎は玉葉を見返す。玉葉の|臈長《ろうた》けた面には、委州の──驍宗の郷里で会い、永久に別れた少女と同じ種類の憂いが深い。
「……それだけなのですね?」
 玉葉は無言で頷いた。
 

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