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黄昏の岸 暁の天 3章1~3

2010-08-08 22:10



三章

 

   1

 その日、陽子が午前の朝議を終えて内殿に戻ると、自室で一羽の鳥が陽子を待っていた。それは|鸞《らん》と呼ばれる鳥、官府の間でやりとりされる|青鳥《せいちょう》のようなものだった。青鳥は文書を運ぶが、鸞は人語を記憶して直接言葉を運ぶ。鸞は|鳳凰《ほうおう》や|白雉《はくち》などのいる|梧桐《ごどう》宮にしかおらず、所有する王を発信人にするか受取人にすることでしか使えない。鸞はいわば、王の親書だった。いずれの国の鸞であるかは、その尾羽の色で識別できる。
 陽子は鸞を見て、少しばかり目を見開き、そして銀の粒を与えた。鳥は明朗な男の声で、正午に禁門を開けるよう、ただそれだけを言って|嘴《くちばし》を閉じた。陽子は軽く苦笑し、正午きっかりに禁門へと降りる。門前で待つと、予告通りに二頭の|すう虞《すうぐ》[#「すう虞」の「すう」は「馬」偏に「芻」の字。Unicode:U+9A36]が飛来してきた。
「……遠方より、唐突なお越し、痛み入ります」
 乗騎を降りた二者を苦笑混じりに迎えると、上背のある男のほうが、軽く眉を上げた。
「分かることがあれば報せてくれと、慶から使いがあったと思ったのだが」
「延王自らご報告をいただけるとは|冢宰《ちょうさい》も想像だにしていなかったでしょう。おかけでお迎えする官は今、|天手古舞《てんてこまい》です」
 陽子は笑って、客人の今一方、金の髪をした少年の方を向いた。
「延台輔も、お久しぶりです」
 うん、と笑った|延麒《えんき》|六太《ろくた》は、すでに禁門へと向かっている。
「……で、その|戴《たい》の将軍ってのは? 話はできるか?」
「なんとか」
 陽子は二人の賓客を王宮へと案内しながら、|李斎《りさい》が駆け込んできた経緯を問われるままに話し、現在は動かすこともできず、|正寝《せいしん》の一郭を病床として|宛《あて》がっていることなどを説明した。
「|瘍医《いしゃ》はとりあえず、動かしてもいいだろうと言っているので、もう少し世話の行き届く場所に移ってもらうことにした。目が覚めていれば、話もできるようだが、あまり長時間はどうだろう。昨日も、話の途中で具合を悪くしてしまったし」
「では、戴の様子は分からないのか」
「最低限のことは聞いたと思うけど。──ああ、|浩瀚《こうかん》」
 内殿の入り口では浩瀚が待ち受けていた。背後には景麒と|太師《たいし》の|遠甫《えんほ》の姿も見える。出迎えた彼らと書房の一郭、|積翠台《せきすいだい》へと向かった。
「李斎に寄れば、泰王も泰麒も行方不明だ、ということらしいんですが」
 のようだな、と腰を下ろした延王|尚隆《しょうりゅう》は頷く。
「再度、調べてみたが、やはり|蓬山《ほうざん》に泰果はないようだ。つまり、泰麒は死んでいない。鳳も鳴いていない以上、泰王が死んだということも考えられない。戴からの|荒民《なんみん》に聞いたところでは、諸説ある中で、謀反があった、というのが、最も可能性が高いようだ」
「李斎の説明でもそう言うことのようです。泰王は乱を鎮圧するために出て、そのまま消息を絶ったということですが、詳細は分かりません」
「……出陣した先で何かがあったのだろうな。死んではいないが無事でもない。どこかに囚われているのか、あるいは、暗殺者につきまとわれて潜伏を余儀なくされているのか。いずれにしても、戴は逆賊が牛耳っていて、泰王はそれを討って玉座を取り戻したくても、それができない、ということなのだろう。──泰麒はどうしたと?」
「やはり詳細は不明ですが、行方が分からない、ということのようです。……何でも蝕があったのだそうです。王宮で|鳴蝕《めいしょく》があって、|白圭宮《はっけいきゅう》に甚大な被害が出たとか」
「……鳴蝕があった?」
 不審そうに声を上げたのは六太で、深刻そうな表情をしていた。
「ええ。それ以後、泰麒の姿は見えない、瓦礫の中を探し回ったのだけれど、ついに発見できなかった、と|李斎《りさい》は言っていました」
「嫌な感じだな……それは」
 |六太《ろくた》は頷いた。
「|鳴蝕《めいしょく》があったということは、泰麒の身に何か異変があったということなんじゃないのか。よほどのことでなければ、鳴蝕なんか起こすはずがないし」
「そうなんですか?」
 うん、と六太は頷く。
「鳴蝕があって姿が消えた、と言うより、何か異変があって、|切羽詰《せっぱつ》まった泰麒が鳴蝕を起こしてしまった、と言うべきだろうな。下手をすると、泰麒はこちらにはいない……」
「では、あちらに?」
「断定はできないけどな。異変があって、それから逃れるために蝕を起こし、あっちに逃げ込んだ、と考えるのが一番順当なんだろう。ただ──それだけのことなら、戻ってくるだろう、普通。六年も戻ってこないところを見ると、まだ何かあるんじゃないのか」
 陽子は頷き、そして、尚隆を見た。
「こういう場合は|延王《えんおう》、どうなるのです?」
「どうなる、とは」
「ですから──もしも泰王が亡くなっていれば、泰麒の次の王を選ぶわけですよね? もしも泰王が無事でも、泰麒が死んでいれば、泰王もじきに後を追うことになる。その場合には蓬山に泰果が|生《な》って、新しい戴の麒麟が生まれ、新しい王を選定する」
「そういうことだが」
「けれども泰麒は死んでいない。次の麒麟の生まれる道理がありませんね? しかも泰王も死んだとは思えない。ゆえに泰麒が無事でも次の王の先帝をする必要がない」
 尚隆は頷く。
「それで全てだ。泰王も泰麒も存命なのだから、理屈の上では戴に政変はない」
「けれども大量の|荒民《なんみん》が流れてくるくらいです、戴は今、|酷《ひど》い状態なのでは」
「だろうな。少なくとも沿岸に妖魔が出没しているのは確かで、かつては多かった荒民も、このところ、ほとんどない」
「偽王が立って、正当な王による|郊祀《まつり》もやみ、国が荒れたということなのでしょうが、これを是正する方法はあるのですか?」
「正当な王がいる以上、偽王とは言わないが──まあ、そう言ってもいいのだろうな。この場合、戴の民が立つ、と言うのが、唯一の方法になる。泰王、泰麒がどうなったのかは分からないが、とりあえず諸侯と民が力を合わせて偽王を討つ。これで理を正すことはできる」
「けれども、泰王が死んだと勅使が来てから、すでに六年です。決起して偽王を討つだけの余裕があれば、とっくにそうしているのでは。それができないからこそ、李斎は|満身創痍《まんしんそうい》になってまで、私を頼ってきたのではないんですか」
「……かもしれぬ」
「とにかく、こうして延王に来てもらっても、ほとんど有効といえる情報がない。結局のところ、戴の状況というのは、そういう状況ですよね。選りに選って|燕朝《えんちょう》で蝕が起こり、甚大な被害が出たことすら伝わっていない。これは中央にいた官吏や、事情に明るくて当然の重臣、首都の民などはほとんど脱出できていない、ということの|証《あかし》なのでは。李斎がその唯一の例外です。つまりはそれだけ、戴の状況は|酷《ひど》い」
 これには尚隆も、そして六太も沈黙した。
「李斎も、戴の民には自分たちを救う手段がない、と言っていました。とにかく、せめて人を|遣《や》って泰王と泰麒の捜索だけでも──」
 陽子が言いかけると、それだ、と尚隆は声を上げる。
「戴について分かったことなど、あの程度だ。それならばわざわざ伝えに来るまでもない。俺はそれを止めにきた」
「それ?」
「いいか。何があっても、王師を戴に向かわせてはならぬ」
 陽子は瞬く。
「……どうしてです?」
「どうしてもだ。そういうことになっている」
「私は延王の助勢を受けて慶に戻ったのだと思いましたが?」
 それは違う、と彼は語気を強くした。
「お前が、俺に助勢を求めてきたのだ。国を追われた景王が|雁《えん》に保護を求めてきた。俺は王師を貸したにすぎん」
「……それは|詭弁《きべん》に聞こえます」
「詭弁でも何でもいい。それが天の|理《ことわり》なのだ。そもそも、軍兵を率いて他国に入るのは|覿面《てきめん》の罪という。王も麒麟も数日のうちに|斃《たお》れる大罪だということになっている」
 陽子が困惑して室内を見渡すと、太師の|遠甫《えんほ》がこれに頷いた。
「|遵《じゅん》帝の故事がございましてな。ご存じですかな?」
「いや」
「昔、|才《さい》国に遵帝という王がおられたのです。その時代、隣国の|範《はん》で王が道を失い、多くの民が苦しめられておりました。範の民を哀れまれた遵帝は、|王師《おうし》を範に向かわせたのでござります。とはいえ、他国の王を|討《う》つわけにもいかず、範の高岫山に近い|里櫨《まちまち》に駐留させ、国を逃げ出そうとする民を保護し、連れ出そうとしただけのことじゃったのですが。ところが、王師が国境を越えて数日の後に麒麟は|斃《たお》れ、遵帝もまた|身罷《みまか》られた。天がお許しにならなかったのでございます」
「しかし、それは……」
 |尚隆《しょうりゅう》は首を振る。
「天のすることに|是非《ぜひ》を言っても|致《いた》し方ない。たとえ侵略でなく、討伐でなく、民の保護のためであろうと、軍兵を他国に向かわせてはならない、ということなのだ。心情的には非がなくとも、これは天の|摂理《せつり》から言えば大罪、──しかも、遵帝の後、才の国氏は|斎《さい》から|采《さい》へと変わった」
 言って、尚隆は一同を見渡す。
「遵帝が|登霞《とうか》なされて、通例通り、|御璽《ぎょじ》から斎王御璽の印影が消えた。次の王が登極したところ、御璽の印影は采王御璽に変わっていた、ということだ。御璽を変えたのは天の|御業《みわざ》、つまりはそれだけの大罪だったということだ。国氏が変わるなどということは、滅多にあることではない。その|滅多《めった》にないことが起こるほどの罪だった」
「では、見捨てろと」
「そうは言ってない。ただし、困っている者がいるのだから助けてやれば良い──というような、簡単なことでないのは確かだ。事は慶の国運に|係《かか》わる。くれぐれも早まるな」
「見捨てろと言っているのも同然です。延王は李斎がどんな酷い状態で|金波宮《きんぱきゅう》に駆け込んできたのか知らない。あれほどまでして頼ってくれた者を、保身のために捨て置けと言うんですか」
「勘違いするな。お前は慶の国主であって、戴の国主ではない」
「しかし」
 尚隆は片手を|挙《あ》げる。
「|荒民《なんみん》の中には、こういう者もいる。泰王は|弑《しい》された、泰麒もまた弑された。そして、それを行ったのは、瑞州師の|劉《りゅう》将軍だ、と」
「……まさか」
「泰王も泰麒も、死んだと思えぬ以上、単なる噂の域を出ない。だが、荒民が逆賊の名として挙げたのは劉将軍が最も多かったことは覚えておく必要がある。

   2

 |李斎《りさい》はこの日、やっと|瘍医《いしゃ》の許しを得て、居座っていた|正寝《せいしん》から寄宿先を移ることになった。とはいえ、李斎はまだ足腰が立たず、|輿《こし》に乗せられて運ばれるままになるしかなかった。|虎嘯《こしょう》の先導によって連れて行かれたのは内殿にほど近い宮殿のひとつで、簡素な|園林《ていえん》に面する|客庁《きゃくま》に運ばれ、|榻《ながいす》に|降《お》ろされると、隣の|臥室《しんしつ》から子供が一人、駆け出してきた。
「お帰りなさい。準備は全部できているよ。僕一人で、ちゃんとやれたからね」
 そうか、と|虎嘯《こしょう》は笑い、子供の肩に手を置いた。
「|桂桂《けいけい》という。俺の弟分だ。これから|女御《じょご》と一緒に、あんたの世話をしてもらうことになると思う。──桂桂、この人が戴国の将軍様だ。|李斎《りさい》殿という」
 子供は|曇《くも》りのない笑顔で李斎を見た。
「大変なお|怪我《けが》だったんでしょう? もう|痛《いた》みませんか?」
「ええ──お世話を駆けて申し訳ない、桂桂殿」
 李斎が言うと、子供はくすぐったげに笑った。
「呼び捨てでいいです。僕は|奄《げなん》みたいなもんなんです」
 言って子供は、あ、と声を上げ、虎嘯を振り仰いだ。
「夏官の人が来て、|厩舎《うまや》に騎獣を置いていったよ。本当に僕が世話をしてもいい?」
「李斎がいいと言ったらな。あれは李斎の騎獣だ」
 へえ、と桂桂は期待と賛嘆に満ちた顔で李斎を見る。
「……騎獣?」
 李斎は虎嘯を見返した。
「では、|飛燕《ひえん》が?」
「ああ、騎獣のほうはすっかりいいようだ。一度、顔を見せてやりたかったんだが、正寝に騎獣を入れるのに天官が反対してな」
「何とお礼を申し上げたらいいのか……」
「俺に礼を言う筋合いじゃないさ。それより、軽々に世話をさせてもいいかね? と言っても桂桂は騎獣の世話をしたことはないんで、あんたにいちいち采配してもらわなきゃならないんだが」
「もちろんですとも」
 李斎が言うと、桂桂は、小さくやった、と声を|漏《も》らした。
「それよりお客にお茶もないのか?」
 虎嘯が言うと、桂桂は飛び上がる。そうだった、と明るい声を残して堂を出ていった。
「……失礼だが、あの子は虎嘯殿の?」
「いんや。俺とは赤の他人だ。身寄りをなくして、陽子が世話しているんだ」
「陽子……景王が?」
「そう。世話をすると言っても、実際に面倒を見ている暇があるはずはない。それで俺が預かっているんだがな」
「では、ここは虎嘯殿のお宅だろうか」
「さて。どういうことになるんだろうな」
 李斎が瞬くと、
「多分、ここは|太師《たいし》の邸宅ということになるんだと思うが。太師府の裏なんだ。|府第《やくしょ》の一部だったんだが、太師の|遠甫《えんほ》が特に許されてここに住んでる。ここで寝泊まりしてもいいって事になってるんだ」
「では、太師が|虎嘯《こしょう》殿の縁者……」
「いや、やっぱり赤の他人だ」
「……失礼だが……それはどういう」
 |李斎《りさい》が首を傾げたとき、|桂桂《けいけい》が茶器を抱えて駆け戻ってきた。
「虎嘯、陽子が来ているよ」
「陽子が?」
「うん。李斎様に会いたいって言ってるんだけど、お通ししてもいいのかしら」
 虎嘯は李斎を問うように見る。
「勿論……どうぞ」
 頷いて、虎嘯と桂桂が退出し、代わりに|堂室《へや》に入ってきた客人は五人、景王を筆頭に、昨日も会った景麒と|冢宰《ちょうさい》、そして顔を見たことのない男と金の髪の子供が一人だった。
「こちらは|雁《えん》国の|延《えん》王、延台輔であらせられる」
 李斎は驚いて、その主従を見比べた。
「雁国のお方が……なぜ」
「泰王、泰台輔とは御縁があったと伺っている。──それで、李斎、昨日の続きなのだけれども。実際のところ、戴は今、どういう状態なのだろう」
 李斎は残された手で胸を押さえた。
「とても酷い状態です。何よりも主上と台輔がおられないのですから」
 李斎が答えると、碧の目がひたと李斎を見る。
「戴の|荒民《なんみん》の中には、泰王、台輔は弑されたという者もいるとか。その犯人は、瑞州師の将軍だとも」
 李斎は目を見開いた。
「違います──それは誤解です!」
「確認しただけだ。落ち着いて」
 跳ね起きようとした李斎を、陽子は押し戻す。
「違うのです。確かに私は、長く大逆の罪人として追われてはおりましたけれども。ですが決して、そのようなことは」
「……分かったから」
 覗き込んでくる景王の目には、気遣う色が浮かんでいた。李斎は息を吐く。緊張からか|安堵《あんど》からか、|痺《しび》れるように強い倦怠感が押し寄せてきた。
「……私が弑した、あるいは、他の誰かが私を操っていたのだとして、何度も追撃の命が出されました。ですが、それは違うのです……」
 |李斎《りさい》は片手で胸に下がった珠を握る。

 |驍宗《ぎょうそう》が文州へと向かった当時、李斎ら残された|王師《おうし》は|鴻基《こうき》の防備を任されていた。防備だけではない。王師には果たさねばならない役目が無数にあった。李斎らは、文州に向かった兵卒のぶんも、それらの職務を遂行せねばならなかった。
 ──その最中、ひとつの噂が王宮の端々で|囁《ささや》かれるようになっていた。日々忙殺される李斎は、長くその噂を聞かなかった。早朝から深夜まで、鴻基を開けた軍兵のぶんも駆け回り、疲れ果てて官邸に戻ったある夜、|花影《かえい》が不安げな顔をして待っていた。
「ずいぶん待たせたとか」
 下官に花影が来て帰宅を待っていたことを聞き、李斎は恐縮して|客庁《きゃくま》に入った。春はまだ浅く、深夜の|堂屋《ひろま》は底冷えがしていた。そこに下官も連れず、一人でぽつんと待っている花影の姿は、いかにも寒々しく、しかも心細げな印象を与えた。
「使いをくれれば、早めに戻ったのに」
 李斎が言いながら客間に入ると、花影はほっとしたように笑った。
「──とんでもありません。お忙しいのに、ごめんなさい」
 留守居の者が気を利かせて酒肴を出してくれていたようだが、花影がそれに手をつけた様子はなかった。待っていた花影の緊張した様子、李斎を認めたときの貌、──何か良くない話なのだな、と李斎は悟った。
「李斎は、妙な噂があるのを聞きましたか」
「──噂?」
「ええ。私は軍事に|疎《うと》いので、どう受けとめて良いか分からなくて……」
 花影は言って、ひたと李斎の目を見上げる。
「……主上がお出ましになったのが、文州で|轍囲《てつい》だというのは、出来過ぎではないか、という声があるのです」
「出来過ぎ──?」
 ええ、と花影は不安そうに両手の指を組んだ。
「轍囲は主上と深い縁のある土地です。単なる乱なら主上が自らお出ましになるようなことは考えられない、そこが轍囲だったからこそ、主上はお出ましになったのだと、言う者がいるのですが」
「それは……確かにそうだろうけど。|巌趙《がんちょう》、|阿選《あせん》、|英章《えいしょう》と、禁軍の将の誰をとっても、|土匪《どひ》の乱を鎮圧するのに役不足ということはない。実際、主上は最初、英章をお出しになったわけだし。乱が拡大して、いささか英章一人の手には余る風向きになってきたのは確かだけれど、ならば他の誰かを遣れば済むこと、あえて主上がお出ましになる必要などない。なのに阿選の軍を|割《さ》いてまで手勢を作られ、自ら率いてお行きになったのは、そこが轍囲だからだということは確かだと思うが」
 言いながら、|李斎《りさい》自身も、言われてみれば確かに出来過ぎだ、という気がした。そこが|轍囲《てつい》だからこそ、|驍宗《ぎょうそう》自ら出陣することに疑問を覚えなかったが、こうして言葉にしてみると、何か不自然な臭いがする。
 |花影《かえい》は得心したように、ひとつ頷いた。やはり暗い表情だった。
「新年の|冬狩《とうしゅ》による混乱、それに乗じて問題が吹き出すことは予想されていたことです。文州の|土匪《どひ》は、中でも最も懸念されていたことでしたし、実際に真っ先に文州で動乱の起こったことには何の不思議もありません。ですが、それが選りに選って轍囲を巻きこんだことを考えると、そもそも文州で動乱が起こったという当たり前のことも、当たり前|過《す》ぎて|可怪《おか》しい、と」
「……いわれてみれば、確かにそうかもしれない。そこが文州で、中でも轍囲で、だからこそ主上がお出ましになることに誰も疑問を覚えなかった。逆に言えば、主上を引っ張り出すには、文州で轍囲であるのが自然だ、ということになる」
 何者かが、故意に驍宗を引きずり出した──。李斎はそう思い、不安そうな花影の顔を見返した。
「まさか……これは、主上に対する大逆の一環だと」
「そう考えられますでしょう? けれども、逆だという声もあって」
「逆? 逆というのは一体──」
「私に巧く説明できるかどうか……」
 花影は少しの間、言葉を探すようにしてから、
「もしも主上に対し、逆心を持つ誰かがいたとします。とはいえ、王宮の中におられる主上に対し危害を加えるのは至難の|業《わざ》、ですが主上を王宮から出すことができ、戦地のような混乱した場所に連れ出すことができれば、またとない機会が生まれることになります。だから逆賊は乱を起こし、主上を|誘《おび》き出すことにした。けれども、おまりに唐突な乱では主上の疑念を招きます。しかも乱があったからといって必ず主上が自らお出ましになるというものでもありません。そこで文州の土匪を使った。文州で乱が起こることは、いかにも自然なことだからです。しかも文州には轍囲がある。主上と轍囲の強い信義関係を考えると、轍囲に何かがあったときには、主上が自ら助けに向かわれることが十分に予想されます。だからこそ謀反を企んだ誰かは、あえて文州を使い、轍囲を使った」
「それは大いにあり得る」
「けれども、これは逆から見ることもできます。轍囲なら主上がお出ましになる可能性が高い──これは、返して言えば、轍囲に何かあれば、主上が宮城を|空《あ》けられても不自然ではない、ということです」
「……よく」
 分からない、と言おうとした|李斎《りさい》を、|花影《かえい》は押し留める。
「つまり、全ては主上のお考えではないか、ということなのです。主上は何らかの理由で宮城をお空けになりたかった。だからといって、朝廷が整ったばかりのこの時期、あえて出られる理由がございません。そこで|轍囲《てつい》を使ったとは考えられないか、と」
「轍囲に危難があれば主上がお出ましになっても不自然ではない──それは分かるが、なぜ主上は花影も言うようにこの時期、あえて宮城を開ける必要があるんだ?」
「|冬狩《とうしゅ》の……続きではないかと」
 花影は低く言った。李斎はまさか、と笑った。
「確かにこの時期、主上が乱の鎮圧に向かわれ──宮城を空けられれば、逆心のある者は|何某《なにがし》かの行動を起こすかもしれないな。けれども、私はそんな計略など聞いてない」
「ええ、私もです。……ですから、これは私たちを試すものなのではないか、と。あるいは……最悪の場合、私たちを処断するための」
 そんな、と李斎は声を上げた。
「あり得ない」
 少なくとも李斎は、驍宗に対し、いかなる逆心も抱いていない。抱いていると誤解されるような振る舞いもなかったつもりだった。李斎はむしろ、驍宗の|麾下《ぶか》と巧くやってきた。驍宗自身とも──そして、誰より泰麒とも。
 花影は身を縮め、顔を|歪《ゆが》める。
「……そう思いたいのです、私も。ですが、残った者の顔ぶれを見よ、と言われると」
「残った者?」
「禁軍では、|巌趙《がんちょう》殿、|阿選《あせん》殿の二名。そして|瑞《ずい》州師では、李斎殿、|臥信《がしん》殿の二名ですね。このうち巌趙殿、臥信殿は、主上の軍で|師帥《しすい》を努めてこられた方々です。対する阿選殿は驕王の時代、禁軍の右軍を任されてきた方、李斎殿は承州師の将軍でした。|麾兵《ぶか》の将軍が二名で二軍、そうでない者が二名で二軍。このうち、主上は阿選殿の軍から半数を|割《さ》き、文州に連れて行っておしまいです。つまり、阿選殿は力を半分に|削《そ》がれた──」
「それは邪推だろう」
「乱の平定に何よりも深い関わりを持つのは、まず|夏官《かかん》、そして武器を用意する|冬官《とうかん》です。夏官長大司馬は|芭墨《はぼく》殿、冬官長|大司空《だいしくう》は|琅燦《ろうさん》殿。どちらもやはり主上の麾兵です。主上が王宮を空けられれば、台輔だけが残されることになりますが、その台輔の間近に控えたのは州|令尹《れいいん》の|正頼《せいらい》殿、そして天官、天官長|太宰《たいさい》の|皆白《かいはく》殿も、やはり主上の麾下です。麾下でないのは、秋官の私、春官長の|張運《ちょううん》殿、そして地官長の|宣角《せんかく》殿で、私たちはほとんど乱の平定には関わりを持っておりません。詳しいことも聞かされてはいないし、聞く必要もない……」
「|冢宰《ちょうさい》がいる。軍を動かすにあたって冢宰が関与しないということはあり得ないが、冢宰の|詠仲《えいちゅう》殿は驍宗様の麾下にあったわけではない。もともと|垂《すい》州候で──」
 いって、|李斎《りさい》は首を横に振った。
「そう──邪推だと思うな。そもそも主上は将軍だったお方、もともと主上に心を預けていたのも驍宗軍の出身者だ。だから主上に関わりの深い人間ほど、軍務に近いところにいることになる。その出自から考えれば当たり前のことだろう? 乱の平定に関与する者は|麾兵《ぶか》であり、そうでない者は新参だというのは、計略あってのことではなく、適所適材を考えた結果、なるべくしてそうなったと考えるべきだ」
「そう……考えていいのでしょうか」
 |花影《かえい》は不安そうに指を額に当てた。
「|噂《うわさ》を耳に入れてくれた者からそれを聞いて、私はぞっとしました。……正直言って、私には身に覚えがありましたから」
「花影」
「いえ、逆心がある、ということではないんです。ただ、私は最初、なかなか主上のお考えに|馴染《なじ》めませんでしたから。何もかも性急すぎるように思えて、とても不安だった。疎外感もありました。心細くて不安だった。……李斎のところに泣きつきに来るぐらいに」
 李斎は頷いた。
「今は納得しています。性急だとは思いますが、性急に過ぎるとは思いません。不安に思うこともなくなりました。主上のなさることには、必ず信を置くに足る理由があるのです。けれども、一時、不安だったのは確かで、それは余人にも見えていたことでしょう。主上に批判的であり、否定的だと受け取られてもしかたのない態度だったのかもしれません。そういう誤解があっても無理はない──そう思うと……」
「けれど……」
「春官長の|張運《ちょううん》殿もそうです。以前はずいぶん、主上に批判的な声を上げておられましたし、|冢宰《ちょうさい》の|詠仲《えいちゅう》殿も、以前はずいぶん不安そうにしておられたのを知っています。そして、|阿選《あせん》殿や|巌趙《がんちょう》殿、それに李斎、あなたにも、とかくの噂が」
「噂ですか……私の?」
 ええ、と花影は青ざめた唇を震わせる。
「阿選殿は、驕王禁軍の中で主上とは双璧といわれたお方です。その一方が王になり、その一方が臣下となる。それが面白いはずはない、と」
「そんな。──まさか、その伝で私も?」
「はい。こんな事を耳に入れて、不快だと思われるでしょうが。李斎は、主上と一緒に昇仙したでしょう。やはり、それで主上が選ばれたのは、快くあるまい、という声があるのです。巌趙殿は元々驍宗軍の麾下ですが、そもそもは禁軍に名だたるお方で、禁軍将軍に空席ができたとき、巌趙殿こそがそこに就かれるのではと思われていた、とか。それが蓋を開けてみると、異例の若さで主上がお入りになった。巌趙殿はずっと驍宗軍におられたけれども、実は含むところがあったのではないか、と」
「そんな──そのように邪推すれば、どんな人間にも罪を作ることができる」
「私もそう思います……これは悪意に過ぎないと」
「それ以上だ。確かに台輔は私の目の前で主上を選ばれたが、私はそれを|悔《くや》しいと思ったことはない。腹立たしかったに違いないという|輩《やから》は、自信ならば腹立たしい、許せない、目の前で|誉《ほま》れを横取りしていった者を憎むだろう、だから私もそうに違いない、と言っているのだろう。それは他者も自己のような卑劣漢に違いないと、そういう」
 言いかけ、|李斎《りさい》は口を|噤《つぐ》んだ。結局のところ、人は自己を基準に他者を推し量るしかない。自分なら痛いから痛かろうと思う|惻隠《そくいん》の心と、それは同じ種類の者だ。自己を基準に他者を量ること自体は否定できない。──あとはもう、本人の有りようの問題に過ぎない。
「……悪い。そう……確かに、そんなふうに思う者がいても不思議はないのかも。人の目はそういうものなんだろう。だが、私は主上に害意など抱いていないし、それは主上もご存じだと思う。それは|阿選《あせん》も|巌趙《がんちょう》も同様だと私は思うが。主上は阿選に対しては常に敬意を払っておられるし、巌趙に至っては、家族も同然に思っておられるようだ。兄と言えば語弊があるが、ごく親しい年上の者として頼みにもしているし、巌趙も主上を誇りにしているように見受けられる」
「……そうですね」
「主上が私たちを処分するために、宮城をお空けになったとは考えられない。第一、主上は台輔を残しておいでだ。もしも|冬狩《とうしゅ》の続きなのだとすれば、台輔を残しておかれるはずがない」
「そう──そうですね」
 花影は、ほっとしたようにやっと笑みを見せた。
「ただ……私たちの誰かにお疑いがあって、動向を見る、そういうことはあるかもしれないけれども。こればかりは、ないとは言い切れないな。ただ、その場合にも、台輔を残してらっしゃることが気になる。やはりむしろ、何者かに誘き出されたと考えたほうが……」
「ええ……」
 花影は言って、硬い表情を見せた。
「主上はもう文州にお入りになった頃でしょうか。何事もなければ良いのですけど」
 李斎は頷いた。
「巌趙たちにも耳打ちしておこう。主上がお戻りになるまで、耳をそばだてておいたほうが良さそうだ」

 翌日、巌趙は李斎の話を聞いて高らかに笑った。
「いろんなことを考え出す奴がいるもんだな」
「まあ──悪意ある者は、他者の中に悪意を見るものだ」
 |阿選《あせん》はそう言って苦笑する。対して、溜息をついたのは|臥信《がしん》だった。
「どうして、そこに私の名前だけないのかなあ。|驍宗《ぎょうそう》様を|妬《ねた》むまでもない小物だと思われてるんだったら、がっかりだな」
 |李斎《りさい》は軽く笑った。昨夜、花影と話をしているときに感じた不安が、彼らの軽やかな振る舞いを見ると、|杞憂《きゆう》のように思われた。
「実際、小物だから仕方あるまい」
「やっぱり、そんなにひどいですかね」
 言って笑った|臥信《がしん》はしかし、傭兵家としては傑物だと李斎は評価している。王師の訓練で手を合わせるのが一番苦手な相手だった。堅実でまっとうな戦をする|巌趙《がんちょう》、|霜元《そうげん》に対し、臥信は奇計奇策の将だ。坑道を読み|難《にく》く、油断がならない。それは|英章《えいしょう》も同様だったが、英章の陰に対し、臥信の詐術には奇妙な明朗さがあった。
「どうせ疑うなら英章を疑ったほうがいいのじゃないか。俺は常々、何だって英章の奴が驍宗様の寝首を|掻《か》く気にならんのか不思議だ」
 巌趙の言に、臥信も頷く。
「全くです。そのうえ、何だって|正頼《せいらい》と馬が合うのか」
「正頼には取り柄というものが一分もないから、足蹴にするのに気が|咎《とが》めなくていいと、英章は言っていたぞ」
 李斎は笑って口を挟んだ。
「正頼も似たようなことを言ってましたよ。英章は腹の底まで真っ黒だから、白か黒か悩まなくていいので楽なんだそうです」
「……なんだ。似たもの同士なんだ」
 まあ、と失笑しながら阿選が口を挟んだ。
「用心は必要だろう。確かに、文州で轍囲は出来過ぎだ」
 ぴたりと巌趙が笑みを引き、頷いた。阿選は驍宗の麾下ではないが、巌趙らからも一目を置かれている。李斎は一度、新兵の訓練で手合わせをしたことがあったが、|怜悧《れいり》な用兵──という言葉があるとすれば、そういう将だという気がしていた。李斎は驍宗と手を合わせたことはないが、聞くところに寄れば驍宗と阿選は将としても似ているらしい。双璧と言われてきた所以だろう。
 巌趙は太い腕を組む。
「……それとなく文州と|誼《よしみ》ある者を調べさせておいたほうがいいかもしれん」
「驍宗様に耳打ちしておくべきですよ。青鳥を飛ばしておきましょう」

   3

 その日の夕刻だった。所用があって|李斎《りさい》が州府に向かうと、|府第《やくしょ》の|庭院《にわ》に|泰麒《たき》が駆け出してきた。左右を見渡しながら回廊を降りてきた泰麒は、李斎を認め、声を上げて駆けてくる。いつもならあどけなく笑って駆け寄ってくるものが、この日は何かに追われているかのような表情をしていた。
「李斎──捜していたんです」
 言って駆け寄ってきた泰麒は、しがみつくようにして李斎の手を|掴《つか》んだ。
「|驍宗《ぎょうそう》様が大変だというのは、本当なんでしょうか」
「大変──とは?」
「驍宗様がお出かけになったのは、|謀《はか》られたからで、文州では驍宗様を倒そうとする悪い人たちが驍宗様を待ちかまえているんだって──」
「まさか」
 李斎は無理にも笑ってみせる。
「そんな|法螺話《ほらばなし》を誰がお耳に入れました? 驍宗様は、暴動を|鎮《しず》めに行かれただけですよ」
 李斎が言うと、泰麒は身を引いた。いっそう表情が硬かった。
「|正頼《せいらい》もそう言ってました」
「そうでしょう? 何も心配なさることは──」
 言いかけた李斎に、泰麒は首を振る。
「李斎も正頼も|嘘《うそ》をついてます。僕が子供だから、心配させまいとして、そう言うんです」
 李斎は困惑し、その場に|膝《ひざ》をついた。泰麒の顔を正面から覗き込む。
「李斎は嘘など申し上げませんよ。……なぜ嘘だなどとおっしゃるのです?」
「六官で話し合って僕には知らせないことにしたんだって、|琅燦《ろうさん》が教えてくれました」
 李斎は眉を|顰《ひそ》めた。|花影《かえい》が六官を召集して、李斎らと同様の話し合いを持ったことは知っている。そこで、この件を泰麒に知らせたものかどうか、話題に出ただろう事も推測できた。本来州師を動かすには泰麒の承認が必要だが、今のところは|令尹《れいいん》の正頼が実務を代行していたし、そもそも、まだ海のものとも山のものとも知れない噂話、憶測の域を出ないものなのだ。ここで泰麒の耳に入れ、不安を抱かせる必要もなかろう、という結論に達しただろう事は予想がつく。──それを、冬官長の琅燦が、あえて耳に入れた、ということなのだろうか。
「正頼に訊いても、何の心配もないって言うんです。ちょっとした暴動で、驍宗様が出ていったのも、戦うためじゃなくて、民や兵を励ますためなんだって。危険なことは何もないから心配しなくても大丈夫だって──琅燦が、そう言うだろう、と言った通りに」
 |李斎《りさい》は立ち上がり、|泰麒《たいき》を|庭院《にわ》の外へと促した。嫌がる泰麒に低く、
「ここは誰が来るものか分かりません。台輔のそんな様子を見たら、官が誤解してしまうでしょう」
「でも……」
 李斎は、微笑む。
「宰輔が官を不安にさせるような振る舞いをなさるものじゃありませんよ。とにかくお部屋までお送りしましょう」
 俯いた泰麒の手を取り、|正寝《せいしん》のほうへと抜けていきながら、李斎はできるだけ明るい調子で話をした。驍宗が王宮を空けたのを不安に思って、いろいろな憶測を流す者がいること、その中には確かに、全ては驍宗を文州に誘き出そうという奸計だという噂もあること、けれどもそれは噂に過ぎないこと。そんな噂で官が浮き足立てば、いろいろと|障《さわ》りが出てくるから、どうしたものか、六官や将軍たちは相談をしていたこと。
「暴動が起こったことは事実ですし、だから御旅行に行かれるように安全だ、というわけにはいかないかもしれません。ですが、文州には先に|英章《えいしょう》も入っておりますし、|霜元《そうげん》も一緒です。もともと驍宗様は、それはお強い将軍だったんですから、心配なさってはかえって失礼ですよ」
「でも、英章はとても手こずっているって。それで驍宗様に助けを求めてきたんでしょう?」
 李斎は、これには本当に目を丸くした。
「思ったよりも暴徒が多くて、英章が手こずっているのは確かですけど、助けを求めてきたなんてことはありません。主上が霜元を連れて行かれたのは、民や兵を勇気づけて、早く文州を安全にしようと考えられたからですよ」
「……本当?」
 李斎は笑って頷いた。泰麒はほっとしたように息を吐いたが、やはり不安そうな顔をしていた。気を引き立てようと、李斎はあれこれと話題を探したが、泰麒はどこか上の空で、正寝の宸殿が見える頃には、すっかり押し黙ってしまっていた。李斎を信じるべきかどうか、迷っているのだという気がした。
「……やはり李斎のいうことは、信用なりませんか」
 柔らかく訊くと、泰麒は困ったように李斎を見上げてくる。
「分かりません。……僕、どう考えたらいいのか分からないんです」
 言って俯いた横顔は、依然として固かった。
「僕は子供で、だから誰も特別扱いしてくれるんです。いろんなことを、僕には見せないようにしたり、話さないようにしてる。話しても、僕では難しすぎて分からないって事をみんな分かってて、分からないのを僕が気にしたらいけないと思って、言わないでいてくれるんです。いつもそうだって知っているから、李斎のいうことが本当なのか分からない」
「……|台輔《たいほ》」
「もしも|琅燦《ろうさん》の言うことや、下官の噂話のほうが正しかったとしても、|李斎《りさい》は違うって言うんだろうな、って。心配させたら可哀想だからって、違うっていってくれるんだと思うんです。……|正頼《せいらい》も、他のみんなも」
 言って|泰麒《たいき》は、切なげな息を吐いた。
「僕が子供だから、仕方ないんです。……でも、僕だって|驍宗《ぎょうそう》様のことが心配です。遠い危険なところにお出かけになってしまったんだから。僕は驍宗様がお|怪我《けが》をなさったり、危険な目に遭われるのは嫌です。もしも大変なのだったら、助けて差し上げたい。きっと僕には何もできないに決まってるんだけど、それでも、僕に何かできることはないか、一生懸命考えて、できるだけのことをして……」
 泰麒は言葉を切った。目に涙が浮かんでいる。それと同時に、強い落胆のようなものが全身から漂っていた。
「……僕はそれが、自分のお仕事なんじゃないかと思うんです。みんなにしたら、きっと余計なことなんだろうけど……」
 李斎は微かに胸が痛むのを感じた。泰麒は事実として、まだ幼い。だからこそ、周囲の者は、この心優しい子供に辛い思いをさせまい、悲しませるまいとして心を|砕《くだ》く。それは泰麒に対する情愛でしかないのだが、当の麒麟にしてみれば、子供だからと|爪弾《つまはじ》きにされることと何ら変わりないのかもしれなかった。──驍宗なら|報《しら》せるのだろうか。李斎はふと疑問に思った。
「そういうことではないんですよ……泰麒」
 李斎は言ったが、泰麒は李斎の手を放し、門殿へと駆け込んでしまった。思い溜息をついてそれを見送り、李斎は|踵《きびす》を|返《かえ》す。まっすぐに冬官府へと向かった。
 |琅燦《ろうさん》はまだ冬官府に残っていた。下官に会いたい旨を告げると、しばらくして正庁へと招き入れられた。琅燦はそこで、大量の文書と書籍に埋もれていた。
「適当に坐る場所を探してくれる?」
 琅燦は本から目を上げずに手を振る。見える歳の頃は十八、九の小娘、六官の長にはおよそそぐわない外見だったが、恐ろしく博識で、冬官長|大司空《だいしくう》として、これ以上の人材はないことは確かだった。冬官は百工を有する、と言う。冬官長大司空の下には、|匠師《しょうし》、|玄師《げんし》、|技師《ぎし》の三官があって、国のための物品を作り、呪具を作り、新しい技術を探す。三官は、それぞれ無数とも言える工匠を抱えているが、琅燦とどの工匠とを会話させても、およそ話が通じないということがない、と聞いていた。
「……台輔に、なぜあんな事をおっしゃったのです」
 李斎が言うと、琅燦はやっと顔を上げた。そのことか、という|貌《かお》をした。
「耳に入れておいたほうがいいと思ったからだな」
「まだ根拠も何もない噂話に過ぎません。それを──」
「耳に入れて、|徒《いたずら》に泰麒を心配させるな、って言うわけだ? でも、驍宗様が|謀《はか》られた可能性があることは事実なんじゃないの?」
「可能性にすぎません」
「あり得るってことでしょうが。それが本当なら大事だし、宰輔が知らないじゃすませれないと思うけどね」
「しかし」
 |李斎《りさい》が言いかけると、|琅燦《ろうさん》は顔を|顰《しか》めて本を閉じる。椅子の上に片膝を立てて、頬杖をついた。
「私に言わせると、あんたらは甘すぎるんだよね、|麒麟《きりん》さんに。ちやほやしたい気持ちは分かるけど、事は国のことなんだから、程度ってもんがあるでしょうが。ひょっとしたら地方の乱どころじゃなく、大逆の可能性がある。それを一国の宰輔が分かってなくてどうするんだ。宰輔には宰輔としての役割があるでしょうが。年齢なんか関係ない。州師を動かすのにだって宰輔の|允可《きょか》が必要なんだからね」
「それは……ですが」
「そんな怖い貌で押し掛けてこられるようなことじゃないよ。私は|理《り》を通しただけ。|条理《じょうり》を曲げているのは、そっちのほう」
 李斎は押し黙った。琅燦の言は間違ってはいない。
「これでもし、主上に何かあったら、どうするわけ。台輔は小さいけど、無能でも無力でもない。そうやって一事が万事、台輔を憐れんで庇うのは、台輔を侮ることと一緒なんじゃないの。主上に危険があって、それを救うために台輔にできることがあるんだったら、やってもらわないといけない。やらせてあげないのは、かえって酷だと思うけどね」
 泰麒のひどく落胆した様子が|甦《よみがえ》った。
「……そうですね」
 うん、と琅燦は満面の笑みを浮かべる。
「李斎は物わかりが早い。たいへん、|宜《よろ》しい」
 李斎は思わず苦笑した。
「琅燦殿は、これが|弑逆《しいぎゃく》だと思っておられますか」
 李斎が問うと、琅燦は不意に表情を硬くして膝を抱え込んだ。
「……それが分かればね」
 琅燦は深い息を吐く。
「分かってからでは間に合わないかもしれない。文州までは遠いから。|空行師《くうこうし》を使っても数日はかかるだろう。いざというとき、頼りになるのは戴国秘蔵の|宝重《ほうちょう》とやらなんだけど、あれを使えるのは王か麒麟──泰の|国氏《こくし》を持った者だけだ。宝重を使えるのも台輔。そして多分、切羽詰まったとき、一番確実で、当てになるのは、台輔の|使令《しれい》だ」
 |李斎《りさい》は、はっとした。|琅燦《ろうさん》は|悪戯《いたずら》っぽく上目遣いに李斎を見る。
「私に言わせると、あんたらがなんだって台輔をああも非力な子供みたいに扱うのか分からない。いるんでしょ、|饕餮《とうてつ》が」
「……それは……ええ」
 麒麟は妖魔を使令として使役する。泰麒は不幸にして|蓬莱《ほうらい》で生まれ、育った。そのせいで無数に持っていていい使令をただの二しか持っていない。一方は麒麟の養い親となる|女怪《にょかい》で、これは使令の数のうちには入らないといっていい。厳密に言えば使令は一。唯一の使令が饕餮だった。ほとんど伝説の域にいる強大な妖魔。
「化け物中の化け物だよ、饕餮は。それが|憑《つ》いている子供を非力と言うんだったら、私たちなんか、みんな赤ん坊みたいなもんじゃない」
 言って琅燦は目を細め、どこともしれない宙をひたと見据えた。
「言いようによっちゃあ、饕餮以上の化け物なんだよ……あの麒麟さんは」

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黄昏の岸 暁の天 2章7~

2010-08-08 22:09


   7

 その件以来、|李斎《りさい》は|花影《かえい》と親しくなった。|驍宗《ぎょうそう》の臣としては新参の花影と、花影ほどには新参でないが麾下とも言えない李斎、同じ女だが方や文官で方や将軍という、似たようで似ていない居所が、互いに心安かったのかもしれない。
 相変わらず花影は迷い子のような顔をしていた。特に|泰麒《たいき》が|漣《れん》へと向かい、本格的に|冬狩《とうしゅ》が始まると、いかにも|憂鬱《ゆううつ》そうで、危うげなものさえ感じさせた。
 多くの官吏がその罪によって刑場に引き出されていった。最終的に罪を定め、罰を下すのは花影だ。そして花影の裁きは甘い、と批判する声が関与する官の間で上がっていた。人を裁かねばならない、心を鬼にして裁いても、影で手ぬるいと言われる──その一方で、民や事情を知らない官吏たちは声を揃えて秋官を責める。先王の許で専横を|恣《ほしいまま》にしてきた|佞臣《ねいしん》たちをどうして放置するのか、|咎《とが》めもなく野に放すのか、と厳しい批判が上がっていた。花影はそれらの苦痛に憔悴しきっているように見えた。
「なぜ私が秋官なのです。李斎、私には主上のお考えが分かりません」
 花影は、連日の激務でほとんど住居のようになった|大司寇《だいしこう》府で泣いた。慰める言葉も持てず、李斎は夜の外殿へと出た。雲海の上は下界よりも暖かいはずだが、それでも深夜の|庭院《にわ》は霜で凍りつくほど寒い。穏やかな風が吹いていた。李斎はその中に血の臭気を嗅いだように思う。実際のところ──王宮の中でそんな臭いがする道理もないのだけれど。
 官吏を捉え秋官に引き渡し、そして刑場へと引き出し、場合によってはその|骸《むくろ》を秘密裏に処分するのは、李斎らの努めだった。秘しておかねばならないゆえに、李斎はそのために選んだ最低限の|麾兵《ぶか》と共にその任に当たっている。少数でのことだから、李斎自身も手を汚さないわけにはいかなかった。場合によっては死体を埋める穴さえ掘る──その汚臭が身体に染みついているような気がする。
 李斎はそれでもいい。武人だから慣れている。だが、花影は。
 李斎は何となく内殿のほうへと向かい、そして正寝へ続く門殿を見やって足を止めた。王師六将軍は、いつでも正寝へ立ち入って良いと|驍宗《ぎょうそう》の免許を受けている。だが、驍宗に会って何をどう訴えればよいのだろう。心を決められず、結局李斎はすごすごと戻り、内殿の|園林《ていえん》で戻る気力も失って|路亭《あずまや》の片隅に座りこんだ。
 ──花影が哀れだ。
 肩を|窄《すぼ》め、溜息を落としていると、背後から声が掛かった。
「疲れているようだな」
 その声に居ずまいを正す。振り返ると、驍宗だった。
「いえ──そういうわけでは」
 坐ってもいいか、と問われ、|李斎《りさい》は無言で一礼した。
「寒くないのか?」
「……冷えます」
 とても寒々しい気分がしていた。この気分に比べれば、|石案《つくえ》に降りた霜などは冷たいうちに入らない。
「李斎は|花影《かえい》と、このところ親しいとか」
 |驍宗《ぎょうそう》に言われ、李斎はその場から逃げ出したいような気がした。花影に対しては、いずれ|叱責《しっせき》があるだろう。だが、今それを李斎に言って欲しくはなかった。
「ずいぶん気安いと聞いているが」
「……はい」
「では、李斎から一度、訊いてもらえるだろうか。──少し、役目を離れてみるか、と」
 李斎は目を見開いた。
「それは……花影を更迭するということですか」
 まじまじと見返すと、そうではない、と驍宗は苦笑した。
「働きに不満があるわけではないが、花影には過大な負担をかけているようだ」
「……花影は負担に思っているわけではないと思います。それが努めですから」
 言ったのは、|大司寇《だいしこう》から降ろされるということは、花影が驍宗の朝廷から弾き出されることを意味するからだ。官吏にとってそれは堪え難い挫折だ。
「懸命に努めをこなそうとしています。……批判の声もあるようですが、多分、花影は元々あまり秋官に向いていないのでしょう」
 だろうな、と驍宗は言う。李斎は震えた。寒いのではなく、腹立たしかった。
「お分かりになっていたのなら、なぜ花影を秋官にお命じになったのですか」
「……大司寇は、たいそう罪人に甘いとか」
「ええ、ですから向いてないと」
「だからこそ適任だと思ったのだが」
 李斎は気勢を|殺《そ》がれて言葉を失った。
「罪人に甘い花影であれば、良い重石になってくれるだろうと思ったのだ。だが、花影にしてみれば|堪《たま》るまい。よほど辛いようなら、役目を返上して構わない。|春官《しゅんかん》か|地官《ちかん》か──そのあたりに席を用意しようと伝えてくれるか」
 では、と李斎は思った。驍宗は自分の行う改革が急峻すぎることを理解しているのだ。
「人を裁き、罰することは、得てして歯止めが利かなくなるものだ。坂を転がるように加熱していく。だが、今はとにかくやらねばならない。だから、向いてない秋官のほうが向いていると思ったのだが」
「……ええ……確かに」
「だが、花影は辛いようだ。せっかくの有能な官吏を、こんなことで|潰《つぶ》すのは忍びない。私から|退《しりぞ》いても良いと勧めれば、花影は叱責だと思うだろう。花影と親しい李斎の口から先に伝えてもらったうえで、花影と話し合ったほうが良いと思う」
 李斎はふと、肩の重荷が外れたような気がした。深々と息を吸い、吐いた。
「……もう少し、ゆっくりと進めることはできないのでしょうか。花影は武官ではありません。いろんなものを懸案して、慎重に事を進めるのが本分です。そうすれば花影も少し、落ちつくと思うのですが」
「とりあえず、|蒿里《こうり》が戻ってくるまでに、|大凡《おおよそ》の見当をつけておかねばならない。蒿里が漣を出たと|青鳥《しらせ》が来た。残された時間は半月しかない」
「どうしても、台輔のいらっしゃらない間でなければならないのですか?」
「そう思っている」
「ですが──戻っていらしてから、お耳にはいることもあるのでは。粛正の事実がある以上、それがいずれ伝わることは止められません。後からお聞きになれば、いっそうお心を痛められるのではないでしょうか。それよりも事前に耳に入れて差し上げたほうが」
 |麒麟《きりん》は、と|驍宗《ぎょうそう》は苦笑した。
「民意の具現だという。──ならば、民の目から隠すべきことは、麒麟の目からも隠すべきだろう」
「そうでしょうか。……いえ、確かに台輔にとっては、見たくも聞きたくもない種類のことでしょうが。ただ、民の目から隠す、というのはどうでしょう。民が粛正の事実を知れば恐れるのは確かでしょうが、驕王の許で加虐に荷担した者には懲罰が必要です。民は自らを虐げてきた者たちが罰されたことを知りたいのだし、だからこそ今も、秋官は何をしているのか、という声を上げております。不満の声はともかくも、知らせてやらなければ、民も区切りをつけられないのでは」
 王朝には終わりがある。王が|斃《たお》れた瞬間がそれだ。だが、民の苦難には区切りがない。終わったという明確な境目がないのだ。傾いた王朝は民に苦難を強いる。王が斃れた後の朝廷は官吏の専横を許す。新王が登極しても、当初は波乱に満ちているものだ。民の苦難は、即位礼を境に終わるわけではなかった。人心のためにどこかで悪しき時代は終わったのだ、という区切りが必要だし、それに最も適した機会は即位礼から続く王朝初頭の一時期だろう。新王が即位し、先王の時代の病巣が取り除かれる。両者が一対となって、民に苦難の時代が終わり、全てが正される時代が来たのだと知らしめる。
「そうなのかもしれない」
「では──」
「だが、私は蒿里にこれを見せたくない。あれはまだ小さい。しかも流血を恐れる。麒麟だから」
「台輔のお気持ちをお考えになるのでしたら、御自身がいない間に恐ろしい出来事があったこと、それをお知りになったときのお気持ちを考えて差し上げるべきではないでしょうか。後からその事実を知り、何もできなかったこと、何もさせないために国を出されてしまったことをお知りになってしまったら、台輔は」
 出過ぎか、と|李斎《りさい》は思ったが、|驍宗《ぎょうそう》は頷いた。
「さぞ悲しむだろうな。……だが、そういうことではないのだ」
 李斎は首を傾けた。
「|蒿里《こうり》は時に、私に対して|怯《おび》えるふうを見せる。私にはそれが、民の不安に見える」
 李斎ははっとして驍宗を見返した。
「|麒麟《きりん》は民意の具現だという──それは、こういうことなのではないかと思うことがある。戦乱や流血を恐れる、それが民というものではないのだろうか。先王は文治の王だった。文治の王ゆえに、その末世にもさほどに|惨《むご》い振る舞いがあったわけではなく、ただずるずると腐敗してきた。そこで人心を|刷新《さっしん》するには武断の王が立つのが最も効果的なのだろうが、民は同時に不安だろう。武断の王は果敢だが、道を逸すれば怖い。──怖いという不安を、蒿里の眼差しが|映《うつ》しているように見える」
 この人は──と、李斎は思い、その先の言葉を見失った。今の気分をどう表現すればいいのか分からない。|並外《なみはず》れている、とも言える。あるいは、常態を逸している、とも。あの小さく愛らしい子供を、そんな目で見ているのか、という気がした。
「私は今回のこれを、蒿里に見せたいとは思わない。──ならばきっと、民の目からも隠すべきなのだろう。それを量るために蒿里の存在はあるのだと思う。民の信任は、まだあれほどに小さい……」
 はい、と李斎は頷いた。同時に、やはり驍宗は違う、と感じていた。
 李斎の目には、麒麟はただ小さく|稚《いとけな》い子供に見えていた。新王を選ぶという、大任を果たしたばかりの無力で非力な子供に。だが、驍宗にとってはそうではないのだ。泰麒は依然として重大で巨大な何かの具現であり、愛玩して良しとすることは許されない何かなのだ。勿論、そうに決まっている。泰麒は子供ではない──麒麟だ。いつもこうやって説明されて初めて、分かっていて当然のことに気づく。
「今回のことは、蒿里には知らせない。民にも、だ。可能な限り秘密裏に迅速に行い、何が起こったのかを決して|悟《さと》らせてはならぬ」
「……|畏《かしこ》まりました」
 李斎が一礼すると、驍宗は頷き、立ち上がった。李斎はそれを見送り──そして|花影《かえい》の許へと戻った。花影は先ほどとは別の意味で泣き崩れた。気が緩んだのだと思う。ひとしきり泣いて、花影はどこか晴れ晴れとしたように笑う。
「李斎が、主上は自分とは違う、と言っていたのがよく分かりました。そう──私にも納得の仕方が分かったような気がします」
「私も改めて再確認しました」
 李斎はそう、苦笑した。
 以来、花影からは肩の力が抜けたように見えた。花影と驍宗の麾下との間にあった温度差のようなものが|均《なら》され、花影は驍宗の麾下に見えるようになった。
 その前後の頃からだったと思う。似たような変化が、あちこちで見受けられるようになった。
 ちょうど花影が不安を|漏《も》らしたのと時期を同じくして、あちこちで表立って不安の声が聞こえるようになっていた。花影と同じく驍宗のやり方に|馴染《なじ》まない者、性急さに不安を覚える者は、李斎が想像した以上に存在したようだった。だが、その声が減っていった。
 少しずつ、朝廷はひとつに|纏《まと》まっていった。──そのように見えた。
 李斎にはそれが怖かった。
 李斎の不安を言葉にすることは難しい。|強《し》いて言うなら、極めて|優《すぐ》れていることは、極めて悪いことと実は同じなのではないか、という不安だった。突出しているのはどちらも同じ、ただ突き出るその方向が逆だと言うだけのことなのでは。極めて|獰悪《どうあく》な王が災厄を招くように、驍宗もまた災厄を招きはしないだろうか。
 朝廷はとりあえず落ちつき、纏まりを見せている。驍宗の武断に対する危惧、性急さに対する不安や果敢なやり方に対する|畏《おそ》れは、とりあえず取り除かれたということのようだった。泰麒が戻ってくるまでに、問題のあった官吏の整理も済んだ。その巨悪が取り除かれたことで動きだすであろうと思われるあらゆるものには監視がつけられ、用意がなされた。麾下とそうでない者の間にあった温度差、それに由来する|軋轢《あつれき》も治まったように見えた。
 これで問題はないはずだ──にもかかわらず、李斎は何かを見落としている、という不安を抱かずにいられなかった。
 他にも何か災厄の種子が水面下に隠されてはいないか。
 李斎にはそんな気がしてならなかったし、事実、その者は滑らかに見える水面下から、ほとんど唐突に現れたのだった。

   ※

 彼が自分の身に起こったことを把握するまでには、かなりの時間がかかった。
 彼は平たく言うならば、神隠しに遭っていたのだ。祖母に叱られ、中庭に出され、彼はそこから|忽然《こつぜん》と消えた。消えた瞬間のことは、彼自身覚えてはいなかった。まるでうとうとと|微睡《みどろ》んでいたような曖昧な空隙の後、彼は家に戻ってきた。この間に一年以上の時間が流れていたが、彼にとってその時間は存在せず、存在しないものの内容を説明することは不可能だった。
 警察が呼ばれ、医者が呼ばれた。後に彼は児童カウンセラーの間を転々とすることになった。失われた時間を埋めようと、大人たちは必死になったが、彼は何一つ思い出すことができなかった。
 彼にとって、段差は存在しなかった。雪の中庭から祖母の葬儀の日の玄関先へ、|曖昧《あいまい》な箇所はあっても、全ては一繋がりになっているように思えた。段差は世界のほうにあった。祖母は死亡し、弟はいきなり大きくなっていた。学校の同級生たちは一学年上になり、ひとつ下だったはずの弟が同級生になった。──だが、彼の周囲の人々にすれば、世界に段差は存在しまい。彼こそが段差そのものだった。彼と周囲の人々は、このことによって、決定的なずれを生じた。根本的な何かが|齟齬《そご》を起こし、もはや|噛《か》み合うことができなくなってしまったのだった。
 そして、周囲は勿論、彼自身も気づかぬまま、彼の喪失は始まった。彼は、自分がこちらで一日を過ごすたび、別の世界で一日が失われていくことに気づかなかった。そればかりでなく、こちらにおける彼自身──彼の中に固く封印されてしまった獣としての彼自身もまた、日一日と損なわれていくことに、やはり気づくことができなかった。泰麒の身体は、|蝕《しょく》と当面の|治癒《ちゆ》とで生気を使い果たしていた。だが、それでもなお、治癒は進んだはずだった。長い年月をかければ、角の再生さえ不可能ではない。本来ならば。
 どうした、と彼に声を掛けたのは父親だった。
「食べないのか?」
 父親は息子の、動きを止めた|箸《はし》を見やった。母親は食卓に向かい、途方に暮れたように|夕餉《ゆうげ》を見つめる息子を|撫《な》でて、取りなすように|微笑《わら》った。
「そういえば、お肉は嫌いだったわね。すっかり忘れてた。お母さんが悪かったわ」
「甘やかすのは、やめなさい」
 ぴしゃり、と父親の声は冷たい。
「それは、お母さんがお前の身体のために良かれと思って用意したものだ。世の中には食べるものに事欠いている子供もいる。好き嫌いをいうことは、二重に良くないことだ。──偏食直しなさい」
「いろいろあったんですもの、疲れているのよね?」
 母親は彼の肩を抱き寄せる。そうすることで、懸命に段差を埋めようとしていた。
「|脂《あぶら》っこいものは辛いんだわ。いいのよ、残しても」
「|駄目《だめ》だ」
 父親の声はさらに冷たい。
「特別扱いはやめなさい。これからこの子にはいろんなことがあるだろう。人が同情してくれるのもいない間だけ、これからはなんだかんだと陰口を叩かれることになる。むしろ厳しくしてやるほうがこの子のためだ」
「でも……」
 言い差した母親を無視して、父親は彼を見据える。
「分かったな」
「……はい。ごめんなさい」
 彼は頷いた。|箸《はし》を動かして懸命に食事を続けた。
 ──もちろんこれが、彼の治癒を決定的に損なうことになるとは知らず。

 |汕子《さんし》は|微睡《まどろ》みの中で、ぴくりと肩を動かした。半ば眠ったまま、|僅《わず》かに顔を上げる。彼女を包んだ|鬱金《うこん》の闇の中に、微かに血の臭いが流れ込んできたように思った。
 ──何だろう、これは。
 半ば眠った意識の隅で思う。微かな異物。不快で、不安感を呼び起こす何か。
 汕子はしばらく首を|擡《もた》げ、|頑《かたく》なな殻の向こうの気配を|窺《うかが》い知ろうと努めていたが、釈然としないまま、それを|諦《あきら》めた。
 ……何でもないようだ。
 気のせいだったかもしれない。気にしすぎだ。さほどの大事が当面、起こるはずがない。汕子はそう自分に言い聞かせる。
 汕子は、泰麒は危機に際して本能的に蝕を起こしたことを理解していた。兇賊から逃げようとして|蝕《しょく》を呼び、実際に逃げおおせた。泰麒は門を抜けたし、抜けてしまった以上、ここは異界だ。かつて泰麒がまだ金色の果実だった頃、流された異界。だが、突発的なあの危機に際して、泰麒の無意識は極めて妥当な選択を行った。泰麒は、かつて流されていた頃、見知った人々のいる場所へと本能的に逃げたのだ。かつて泰麒に胎を貸した女と、その夫。そして二人の間の子供と。いわば仮の親と仮の兄弟、確かにここならば、兇賊の手は届くまい。泰麒は自らを守ってくれる場所を選んだのだ。
 ……だからここで、良くないことなど起こるはずがない。
 敵は泰麒を追ってくるかもしれない。だが、泰麒を捜すことは難しいことだと、かつて泰麒の入った果実を失った|汕子《さんし》は、身に|沁《し》みて知っている。たとえ捜し出せたとしても、それにはかなりの時間がかかるはずだし、汕子はただ外部からの襲撃だけを気にしていればいいはずだった。
 だから、大丈夫だ、と汕子は自分に言い聞かせながら眠りに落ちる。そして、どれほどにか時間が経ってから、また異物感を感じて目を覚ました。何度かそれを繰り返し、そして汕子はその不快な刺激を無視できなくなった。
 ──これはいったい、何。
 汕子は顔を上げる。汕子の目は|鬱金《うこん》の闇を|彷徨《さまよ》い、必死に異物感の|所以《ゆえん》を探ろうとした。
「……毒だ」
 闇のどこからか、|傲濫《ごうらん》の声がした。それで汕子はやっと悟った。そうだ、間違いない。毒ではないが──毒のような|穢濁《あいだく》を盛られている。
「なぜ」
 汕子は|呟《つぶ》いた。仮の親ではないのか。|泰麒《たいき》はここを安全だと判じて逃げてきたはずだ。にもかかわらず、彼らは泰麒に危害を加えようとしている。
 やめさせなければ──自らに課した禁を破り、殻から飛び出そうとした汕子を、どこからか響く声が押し留めた。
「|囚《とら》われたということか? 奴らは看守か?」
 傲濫の言に、汕子ははたと気づいた。──そういうことなのかもしれない。
「まさか、敵はここまで見越していたの?」
 泰麒がここに逃げ込むことを知っていて、あらかじめ仮親たちを取り込んでおいた──そういうことなのだろうか?
「でも、彼らは積極的に危害を加える気はなさそうだわ」
「しかし、穢濁を盛られている」
「敵の気配はどこにもないわ。単に泰麒の力を恐れ、抑えようとしているのかも」
 それはあり得る──傲濫は闇の底から同意した。
「ならば|穏和《おとな》しく|囚《とら》われている限り、命までも取られることはないだろう」
「抵抗すれば、敵に引き渡されてしまうかしら」
 かもしれない、と傲濫は呟いた。
 汕子はひどく思い迷った。このまま虜囚になっているべきか、それとも看守を倒して泰麒を解放するべきか。だが──それをすれば、汕子たちが泰麒の気力を大きく|削《そ》ぐ。それでなくても角がなく、入ってくる気脈が細い。いずれあるかもしれない敵襲に備えてここは耐え、力を蓄えておくべきなのかもしれなかった。たとえ看守の手から逃れても、泰麒には逃げ込む場所がない。少なくとも、こちらにそんな場所があるかどうかは、汕子にも分からなかった。勿論、戴には危険で戻れない。唯一安全だといえるのは世界中央、|蓬山《ほうざん》だが、泰麒には再度、蝕を起こす|術《すべ》がなく、汕子らにもそれはできない。それをすれば、それでなくても|儚《はかな》い泰麒の気力を食い尽くすことになるだろう。帰れない以上、汕子には泰麒を逃がしてやる場所の当てがなかった。逃げ込める場所を探している間に二度三度と襲撃を受ければ、それを|凌《しの》ぎきることができるかどうか|心許《こころもと》なく、もしも凌ぎきることができたとしても、|汕子《さんし》たちが気力を喰うことで、泰麒自身をのっぴきならぬほど損なう可能性があった。
 穏和しく囚われている限りは、襲撃を受けずに済むのかもしれない。命を取るほどでもない毒ならば、ここは見過ごすべきなのかも。
「……泰麒には、この世界において庇護が必要だ」
 |傲濫《ごうらん》は遠くからそういう。
「たとえ牢獄の庇護、看守の庇護でもないよりはましだ。いつぞやの騒ぎを見たろう」
 汕子は頷いた。泰麒を取り囲んだ人間たち。精神的に責め立て、身体的にも、調べると称し、怪しげな器具を使って圧迫を与えた。警察とか医者とか言う連中から隔絶されるのであれば、今は虜囚の身を耐えるべきなのかもしれない。──そう、確かにこんな庇護でも、ないよりはましだろう。
「できるだけ辛抱してみましょう……敵の出方を確かめないと」
 注意だけは怠らないことだ、という秘かな声と共に、傲濫が眠りに落ちる気配がした。


 

黄昏の岸 暁の天 2章4~

2010-08-08 22:08


   4

「……どう思う?」
 |花殿《かでん》を出ながら、陽子は背後の二人に問うた。その一方は無表情に沈黙し、もう一方は、どうと言われましても、と答えた。
「とりあえず、泰王と泰台輔が行方不明になられた経過は分かりましたが」
 そうではなく、と陽子は苦笑した。
「彼女は|戴《たい》を救って欲しいと言っている……それをどう思う?」
 |浩瀚《こうかん》は少しだけ眉を|顰《ひそ》めた。
「李斎殿が具体的に何を求めていらっしゃるのかによります。そもそも、今の|慶《けい》に何ができるのか、という問題もございますし」
 浩瀚がそう言ったところで、|景麒《けいき》が足を止め、一礼した。景麒は州庁での執務中に呼び出されてたから、そこへ戻らなければならない。それを見送り、浩瀚もまた|冢宰府《ちょうさいふ》へ戻るべく正寝を退出していった。
 誰も彼も、李斎にばかりかまけてはいられないのだ、と内殿へ戻りながら陽子は思う。こうしている間にも、慶は動いている。それも自身も問題を抱えながら。
 浩瀚の言う通りだ。助けるというのは簡単だが、実際問題として、陽子に何ができるのか。陽子自身、登極してやっと丸二年が過ぎたところだ。不慣れでしかも──こちらの事情に|疎《うと》い|胎果《たいか》の王、ろくに文書を読むこともできず、政務の多くは浩瀚と景麒に頼っている。彼らが負担してくれたぶん空いた時間で、|太師《たいし》に教えを請い勉強している、という有様だった。他国に施すことができるほどの余裕は、陽子には勿論、国庫にも朝廷にもなかった。
 考え込みながら内殿を西へと向かうと、ちょうど|廊屋《ろうか》を、|皮甲《よろい》を着けた人物がやってくるところだった。
「ああ、──|桓たい《かんたい》[#「桓たい」の「たい」は「鬼」+「隹」Unicode:+9B4B]」
 桓たいは陽子に気づいて足を止め、軽く|拱手《えしゃく》する。これが慶の禁軍将軍だった。
「ちょうど良かった」
 陽子が言うと、桓たいは軽く身を引く。
「お相手なら勘弁してください。たった今、小臣を|扱《しご》いてきたばかりなんで。このうえ主上の、すとれすとやらの発散相手にされては身が|保《も》ちません」
 陽子は軽く笑った。
「そういうことじゃない。疲れているんなら、ちょっと休んでいかないか?」
 はい、と頷く|桓たい《かんたい》を、内殿奥の書房へ連れて行く。公務の合間に休むことのできるここが、陽子の昼間の|住処《すみか》だった。
「……寄せ集めの王朝だな」
 陽子がそこで茶を|淹《い》れながら|呟《つぶや》くと、桓たいはきょとんとする。陽子は苦笑した。──|戴《たい》を救うも何も、むしろ慶のほうが救われたいところだ。肝心の王は執務より先に読み書きを習わねばならない有様、小臣の半数は元々市井にいた侠客たちで、だから規律も本格的な戦闘術も、何もかも仕込まれねばならない。仕込むほうも人手が足りず、禁軍の左軍将軍が直々にやってくる有様だ。
「小臣の訓練までさせたんじゃあ、桓たいも苦労だな」
「いえ。まあ、俺は別に。将軍ってのは、戦がなきゃ暇なものなんで」
 陽子は笑った。それは真実でないと分かっている。陽子は最初、この世界に来て軍の規模の大きなことに驚いたが、内実を知って納得した。こちらには警察というものが存在しないのだ。|警邏《けいら》も犯罪者の取り締まりも、秋官の指揮を受けて軍が行う。そればかりか、公の土木事業もまた軍の管轄になるのだった。民を徴用するまでもない事業では、官の指揮のもと、懲役に課せられた罪人と軍が工事を行う。王宮や都市の警備、貴人の警護と、戦のあるなしに|拘《かか》わらず軍は忙しい。
「|些少《さしょう》ながら|褒美《ほうび》を|遣《つか》わす」
 陽子が言って茶器を差し出すと、桓たいは笑ってそれを押し頂いた。
「御酒ではないようですが、有り難く」
 ひとしきり笑って、陽子は桓たいに問いかけた。
「桓たいは泰王を知っているか? 有名な方だったようだが」
 ああ、と桓たいは頷く。
「面識は当然、ありませんが。噂ぐらいなら。|乍《さく》将軍でしょう、以前の」
「李斎は知っているか? もともと承州師の将軍だったということだが」
「いえ、さすがにそこまでは。──ああ、そう言えば、あの方の乗ってきた騎獣は元気になったようですよ」
「そうか、それは良かった」
「そうだな、俺は|劉《りゅう》将軍のことは存じあげなかったんですが、騎獣を見ると優れた方なんだろうという気がしますよ。騎獣のほうの主人に対する忠義が|篤《あつ》いし、騎獣自身もとてもよく馴らされている。馴らし込む、と言うですが。よほど良く面倒を見て、しかもきちんと主人として立つ──そうでないと、ああも馴らし込むことはできませんからね」
「へえ……」
「ただ、名前を聞いたことはないな。もともと、他国の将軍の名前なんて伝わってくるようなものじゃないですから。|乍《さく》将軍は別格でしょう。そういうことだと思いますが」
 ははあ、と|桓たい《かんたい》は心得た|貌《かお》をする。
「乍将軍と自分を引き比べたでしょう、今」
「比べてもしかたがない。あちらは傑物のようだから」
「本当に傑物だったら戴が荒れるわけがないでしょうに」
「それを言っては酷だろう。泰王が荒らしたわけじゃないんだから。どうやら何か変事があって消息が知れないようだな。それを本人の落ち度にするわけにはいかないだろう?」
 桓たいは少しばかり生真面目そうに首を傾ける。
「その変事とは?」
「|謀反《むほん》があったようだ。偽王が立って、泰王も泰台輔も行方が知れない。分かるのはそこまでだな、|李斎《りさい》がまだ本調子でないから」
 そうか、と桓たいは|呟《つぶや》いて、考え込むふうだった。陽子もまた、考え込んでしまった。詳細は分からないが、李斎が慶を頼ってくれたことは分かる。泰を救うために必死であることも。だが、慶は寄せ集めの朝廷だ──何をしてやる余力もない。
「結局のところ、評価ってのは他人が下すものですからね」
 桓たいが呟いて、陽子は彼を振り返った。
「……うん?」
「結果を見て他人が貼り付けるものでしょう。たとえ偶然にせよ、戦で全焼すれば常勝の将軍と言われる。常勝の将軍と言えば、優秀な将のように見えますけど、無能だけれどもたまたま負けたことがない、ってこともあるんじゃないんですか」
「泰王は過大に評価されていると?」
「ああ、そういう意味じゃありません。……ただ、勝てそうもない戦いは同輩に押しつけ、勝てる戦にだけ出てりゃ、常勝将軍になるのは容易い、ということです。常勝でありさえすれば、世間は負け知らずの将軍だと|褒《ほ》めるし、一旦、常勝無敗の将軍だと評価されてしまうと、優秀な将に違いない、立派な人物で傑物だろうという思い込みが一人歩きを始める」
「それは……そうだろうが」
「けれども評価は結果を言い表したものでしかないでしょう。傑物という言葉は、乍将軍の──泰王の結果に対する評価であって、泰王の内実を示す言葉ではないと思うんですが。それで言うと、泰王は戴を荒らした時点で傑物でなくなったという言い方はできるんじゃないかな。……なんにせよ、他人と自分を比べてみても仕方ない。引き比べるのはどうしたって、他人への評価と自分の内実という比較にならないものになるに決まってるんですから」
 なるほど、と陽子は苦笑する。
「……まあ、比べてみなくても、主上も良い王ですよ」
「へえ?」
「俺に言わせれば、行方不明になんかならずに玉座に収まっていて、ついでに半獣をちゃんと召し抱えてくれるのが良い王ですからね」
 そう、半獣の将軍は澄まして言った。陽子は笑い、そして、
「桓たい……もしもお前を戴へやったら、偽王を討てるか?」
「御冗談を」
 桓たいは|慌《あわ》てたように手を振った。
「そんなに弱いのか、我が禁軍は?」
「そういう問題ではありません。そもそも兵を出せるほどの余裕が慶にあるはずがないでしょう。軍を動かすってのは大変なことなんですよ。一軍だって一万二千五百人ですよ。兵卒がそれだけいて、派兵ということになれば、これに軍吏と馬や騎獣がつく。それだけの大所帯が、いったいどれくらいの飯を食うか、想像がつきますか?」
 陽子はきょとんとした。
「そうか、食事か……」
 仮に一万三千人として──と陽子は思う。故国流に一人当たり一食に米を最低一合と考えると三食で三合、それが一万三千人で、最低限の米だけでも一日当たり三万九千合。
「想像もつかない量だな。一食ハンバーガー一個と考えても一日三万九千個か……」
「は?」
 なんでもない、と陽子は苦笑した。
「だから各地の夏官が|兵站《へいたん》を持っているわけです。地方に乱があって派兵される時には兵站から補給を受けられる。しかし、それが他国の話で、しかも謀反の最中だというのなら、まず兵站は当てにできないでしょう。全部持っていかないといけないわけです。どうやって運ぶか以前に、そもそもそれだけの食料を一時に用意できますか?」
「慶では無理だろうな……」
「国中の兵站を空にして掻き集めようにも、そもそも兵站自体が最低限のものしか蓄えられないでいる有様ですからね。しかもそれだけの荷と兵を運ぶ船が慶にはありません。どうやって戴に行くんです?」
「なるほど……」
「そもそも他国に兵をやろうということ自体、慶では不可能です。第一、太綱に他国へ侵入しちゃいけないと決められているでしょう」
「侵入ではないだろう。別に戴を占領しようというわけじゃないんだから」
 |桓たい《かんたい》は首を傾げる。
「そうか……そういうことになるか」
「おまけにそれを言い出したら私はどうなる? 私は|雁《えん》国の王師に偽王を倒してもらって、堯天に入ったんだぞ」
「それもそうですね」
「できるのは、|泰《たい》王と|泰麒《たいき》を捜すことぐらいか……」
「お二人の所在は」
「全く分からないようだ。──どうだろう? 捜索なら飛行できる騎獣を持った|空行師《くうこうし》が一|両《りょう》あればどうにかならないか?」
 桓たいは首を傾げる。
「二十五騎じゃ無理でしょう。せめて、一|卒《そつ》は欲しいところですね。百騎あれば、手分けして捜索ができますから」
「空行師が一卒か……」
 それならば不可能ではないのだが。だが、感は賛同すまい。慶の内部ですら事欠いているときに、何事だと言うだろう。陽子は|頬杖《ほおづえ》をつき、しばらく考え込んだ。
「……やはり、王が玉座にいる、いないは大きいだろうな」
 陽子が呟くと、桓たいは表情を引き締めた。
「そうですね、かなり。泰王がどういう人物かはさておき、王が行方知れずでは戴の民は大変でしょう。しかもあの国は冬が厳しいところなので。こういう言い方は何ですが、亡くなったほうがまだしもかもしれません」
「亡くなったほうが?」
「王が亡くなったのであれば、いずれ次の王が立つわけですから。民はそれまでの期間を堪え忍べばいいと言う話でしょう。愚王の場合だっていずれは天が玉座を取り上げてくれる。それまでと、次王が立つまでの間を堪えればいい。亡くなってもおられず、しかも玉座にいないというのは、ある意味で最悪のことかと」

   5

 |李斎《りさい》は夜半、|微《かす》かな話し声で目を覚ました。
「……すごーくお腹が空いてたの」
「そう思ったわ。お茶も持ってきたから」
「嬉しい。一緒に食べていく?」
 他愛のない会話に、李斎が軽く首を起こすと、枕辺にいた|女御《じょご》が、驚いたように振り返った。|牀榻《ねま》の入り口からは、娘が一人、身を乗り出すようにして顔を出している。
「ごめんなさい。起こしてしまいました?」
 いいえ、と李斎は首を振り、
「ひょっとして、お食事も|摂っておられないのか? 私のせいで?」
 李斎が問うと、|鈴《すず》は大きく手を振る。
「ちょっと、──ちょっと機会を|逃《のが》しただけなの。|祥瓊《しょうけい》が夜食を運んできてくれたから、大丈夫です」
「食べていらしてください。私は大丈夫ですから」
 李斎が言うと、祥瓊と呼ばれた娘が、鈴に笑った。
「さっさと片づけてきなさいよ。その間、私がここについているから」
 うん、と頷いて、鈴は|牀榻《ねま》を出ていく。入れ替わるようにして、祥瓊が李斎の枕許に腰を下ろした。
「とんでもないことでお騒がせして申しわけありません。私は|女史《じょし》で、祥瓊と申します」
「……いや。こちらこそ、|女御《にょご》には大変なご迷惑をおかけしているようだ。私はもう、付き添いなどなくても大丈夫ですから」
「それは李斎様がお決めになることではなく、|瘍医《いしゃ》が決めることでしょう?」
 そう言って、祥瓊は笑む。
「お気になさらないでください。こちらこそ、人手が足りなくて、十分なお世話ができず、申し訳ない限りです」
「そんな……女御にはよくしていただいています」
 言って、李斎は何となく目を逸らした。
「景王にも……景王は、とても誠実なお人柄のようにお見受けする」
「|生真面目《きまじめ》で、|莫迦正直《ばかしょうじき》なのは確かかしら」
 くすりと祥瓊が笑うので、李斎は意外に感じて振り返った。
「|金波宮《きんぱきゅう》の方々は……ずいぶん景王に対して気安くていらっしゃる」
「すっかりすういう気風になっちゃったみたいです。威儀も何もなくて、呆れてしまわれるでしょう?」
「いや……」
「泰王は、ずいぶん御立派な方だと伺っています。……今は行方が分からないとか。さぞご心配でしょうね」
 はい、と李斎は頷いた。
「戴の民もどんなにか苦しいでしょう。しかも戴は冬の厳しいところだし……」
「戴をご存じか?」
 いいえ、と祥瓊は首を振る。
「けれど、私は|芳《ほう》の出身なので。芳の冬もとても厳しいんです。ひとつ何かが|巧《うま》くいかなくても、全部冬にその|皺寄《しわよ》せがきて、それが命に関わってしまうんです。戴は、そんな芳よりずっと冬が厳しいと聞きました」
「そう……そうです」
「芳も今は空位なのですけど、戴とは事情が違います。芳の亡くなった王は、国を荒らした方でしたし……」
 言って|祥瓊《しょうけい》はどこか寂しそうに微笑む。
「だから空位になって、民は少し救われた面もあるのですけど。でも、泰王はとても人望の篤い方だったと聞いています。そんな王を失くされるなんて」
「はい……」
「|謀反《むほん》があったとか。……王朝の最初はどうしても、それまでに自分が|掴《つか》んでいたものを失うまいと、|焦《あせ》った|佞臣《ねいしん》が暴れるものだから……」
「……それは、どうなのでしょう」
 |李斎《りさい》が呟くと、祥瓊は首を傾げる。
「確かに王朝の初期はそういうものでしょう。空位に乗じて専横していた者たちは、新王の即位に焦るものです。けれども私には、謀反の理由がそれだったとは思えない……」
「──? では?」
 分からないのです、と李斎は答えた。焦った官吏が謀反を起こしかねないことなど承知していたし、李斎らも十分に警戒していた。
「なぜ……あんなことになったのか……」

 ──主上は大変な賢帝におなりかもしれません。
 感動したように言ったのは、李斎が承州から同行してきた側近の|師帥《ぶか》だったか。
「三公も、こんなに素早く王朝が整った例はないって、感心しておられたそうです」
「だろうな」
「兵卒も、大変な王が立ったもんだって大喜びです。民も歓迎しているようですしね」
 李斎は笑って頷いた。|驍宗《ぎょうそう》はその出自が武人であっただけに、兵卒の人気が高い。|驕《きょう》王は文治の王で、兵卒は比較的冷遇されてきたから一層だった。同時に、登極した驍宗が真っ先に驕王の|御物《ぎょぶつ》を処分し、冬に向けて各地の|義倉《ぎそう》に備蓄を送ったことで、民も大いに喜んでいた。戴の冬は厳しく、食料と炭の備えが尽きれば即座に生命に係わる。驕王の浪費によって空になった義倉に物資が運び込まれ、民は歓声を上げている。
「新しい、いい時代が来たんだって感じです」
 そう言って師帥は笑った。
 李斎もまた、同じように感じていた。民の喜ぶ声が聞こえる。市中に出ても、|王師《おうし》に対する民の泰王は温かく、新王に対する思いの丈が知れた。民のみならず、宮中を行き交う官吏もまた生き生きとした表情をしていた。
 だが──疾走する|車駕《くるま》は|軋《きし》みを上げるものだ。州師将軍として朝廷に加わり、|李斎《りさい》は晴れやかであるはずの朝廷のそこここに、奇妙な|翳《かげ》りがあることに気づいた。その正体を理解したのは、|冬至《とうじ》の|郊祀《まつり》が終わった頃のことだった。

「近々、台輔には|漣《れん》に行ってもらう」
 |驍宗《ぎょうそう》は側近を集めてそう言った。
「漣までは往復で|一月《ひとつき》余り、その間に|冬狩《とうしゅ》を行う」
 李斎は最初、言葉を額面通りに捉えた。新年の前後は重大な公務が少ない。その間に大規模な狩猟を行うのだろう、と。確かに朝廷は整いはしたが、ずいぶんと|暢気《のんき》なところのある方だ、と内心で驚いたのを覚えている。同様に思ったのだろう、集まった者たちの間に、困惑したような空気が流れた。それを破ったのは、禁軍の将軍を務める|阿選《あせん》だった。阿選は妙に低い声で問うた。
「──獲物は」
「|豺《いぬ》だ」
 短い言葉に、李斎はぎくりとした。
「先王の許で|政《まつりごと》を私し、専横を極めた|狡吏《かんり》を処断しなければならない。|迂闊《うかつ》に野に放すわけにはいかぬ。解き放てば処分を恨んで|火種《ひだね》になる可能性が高く、連中が悪辣な手段をもって|溜《た》め込んだ私財は、これからの戴になくてはならないものだ」
 粛正のことを言っているだと気づいて、李斎は|慄然《りつぜん》とした。同種の感慨を|滲《にじ》ませた、|呻《うめ》きとも溜息ともつかない|騒《ざわ》めきが室内に満ちた。
「|郊祀《まつり》が終わって、あとは新年を迎えるばかりだ。そこに使節が立って漣へ行く。禁軍、瑞州師の主だった将軍もそれに同行するとなれば、連中はおそらく気を緩めるだろう。そこを一網打尽に処断する」
「──その間、台輔を国外へお出しになると?」
 阿選の問いに驍宗は頷く。
「これは|蒿里《こうり》には見せないほうがいいことだろう」
「しかし、後々お耳に入りませんか」
「入れないようにする。これからここで話すことは、蒿里には勿論、この件に関与しない誰に対しても|悟《さと》られてはならぬ」
「では、内々に処断を行うと……?」
 そんな、と李斎は声を上げそうになった。|賊臣《ぞくしん》の整理が必要なのは分かる。だが、罪を明らかにして公に処罰するのでなければ、それは一種の私刑だ。
「勿論、全てに置いて正式な手順を踏む。ただし、その一切は伏せておかねばならない。この件に係わる官府は、担当する官を厳選して組織せよ。それ以外の官吏には、一切これに係わらせてはならない。|蒿里《こうり》が戻ってきたときには、全てが終わっている。すこしばかり官吏の顔ぶれが変わっており、何となく人数が減ったような気がするだけだ」
 それでは泰麒を|騙《だま》すようなものではないか──言いかけて李斎は思い直した。確かに|麒麟《きりん》にとっては、知らないで済んだほうが幸いなことなのかもしれなかった。麒麟はその性、仁にして、流血を嫌い、|非道《ひどう》を|厭《いと》うと言う。事実、血の|穢《けが》れによって|病《や》むことさえあった。だからこれが泰麒に対する驍宗の温情であることは確かなのだろう。
 無理にも納得しようとした李斎だったが、あの、と声を上げた者があった。先頃|大司寇《だいしこう》に就任したばかりの|花影《かえい》だった。
「それで|宜《よろ》しいのですか? ──畏《おそ》れながら、台輔は|聡《さと》くていらっしゃいます。妙に隠すよりも、本当のところを申し上げたほうが」
 ならぬ、と驍宗の返答は短く、|反駁《はんぱく》の余地がなかった。
 続いて計画の概要を聞かされて、李斎はさらに寒気に似たものを感じた。|悪辣《あくらつ》な官吏を一気に掃討する、その恐ろしいほどの迷いのなさ。そう──もともと|驕王《きょうおう》の寵臣であり、それ以後も麾下を朝廷の端々に入れていた驍宗にすれば、誰が何をしており、何をしていなかったのか、問題のある官吏は誰で、どう処罰すべきなのかは了解済みの事柄だったのだろう。驍宗は登極したときから、誰をどう排除してそれをどう埋めるかの図面を、すでに持っていた。そして、それらの|佞臣《ねいしん》が取り除かれたときに何が起こるかも、驍宗は十分に予測できているに違いない。事実、この|冬狩《とうしゅ》は、国賊を取り除くだけではなく、そのことによって雌伏した敵を揺すり起こし、洗い出そうという|奸計《かんけい》の一環だった。逆臣や|邪《よこしま》な野心を押し殺してきた者、巧妙に悪行を隠してきた者は、粛正を見て調子づき──あるいは|焦《あせ》り、動き始めるだろう。
 この方は、と李斎は驍宗を見た。
(新王が登極して十数年は──下手をすれば数十年はかかることを、一年で片づけてしまおうとしている)
 ふいに|悪寒《おかん》を感じた。それまで李斎は、驍宗に対して何の不安も抱いてはいなかった。人望篤い名将、李斎自身も驍宗の|為人《ひととなり》を高く評価していたし、尊敬の念を感じていた。だが、この時初めて、不吉な予感とでも言うべきものを感じたのだった。
 それは決して驍宗の計画に不安を覚えたのでも、王としての力量に不安を覚えたのでもなかった。ただ──これほどにも強い光輝は、それだけ濃い影を落とさないではいられないだろう、と思わずにはいられなかった。
 そして、それから少し経ってからだったと思う。花影が李斎の自邸を突然、訪ねてきた。細かな雪の降りしきる夜のことだった。

   6

「雪になりましたねむ
 官邸の|客庁《きゃくま》に案内されてきた|花影《かえい》はそう言って、|李斎《りさい》に一礼した。
「お寒かったでしょう」
 李斎は|火炉《ひばち》の傍の椅子を勧めた。
「にもかかわらず、拙宅までお出ましいただき、恐縮に存じます」
 とんでもない、と李斎に向かって花影は首を振った。
「こちらこそ、突然おじゃまして申しわけありません。李斎殿と一度、ゆっくりお話しさせていただきたかったのです。唐突に思い立ち、|不躾《ぶしつけ》な使いを出しましたのに、快諾をいただけて嬉しく思います」
 光栄です、と李斎は笑って、家人に用意させた|酒肴《しゅこう》を勧めたが、花影はどこか上の空の様子だった。白い顔には心細げ表情が浮かび、しかも寒々しげに見えた。見える歳の頃は四十半ば、外見に置いても実年齢に置いても花影は李斎より年上だったが、にもかかわらずこのときの花影は、迷い子のような顔をしていた。単純に李斎と|誼《よしみ》を得るために訪ねてきたようには到底、見えなかった。
「失礼ですが、花影殿はどうして私をお訪ねくださったのですか?」
 花影は、物思いから覚めたように李斎を見た。
「ああ……いえ、これという用があったわけではないのです。本当に一度、ゆっくりお話をしてみたくて……」
 花影は言ったが、最前からろくに|喋《しゃべ》ってはいなかった。それに自らも気づいたのか、花影は恥じ入ったように俯く。
「わざわざお時間をいただいて、お宅にまで押し掛けるようなことではありませんね。……とんだ失礼を」
 李斎は首を傾ける。
「|明《あ》け|透《す》けな奴よ、とお思いにならないでいただきたいのですが──ひょっとして、花影殿には、何かお悩みがおありですか?」
 花影は胸を突かれたように顔を上げ、そしてふいに、泣きそうに顔を|歪《ゆが》めた。
「失礼な申しようでしたら、お許しください。私はどうも、婉曲な言い廻しというものに|疎《うと》くて」
 いいえ、と花影は首を横に振った。
「とんでもありません。失礼は私のほうです。実を言えば、ろくにお話もしたことのないお方を訪ねて、何をどう申し上げたものか、考え込んでおりました。単刀直入に訊いていただけて、救われた心地がいたします」
 言って微かに笑い、|花影《かえい》はやはりどこか頼りなげな様子で酒杯の縁を指で撫でた。武人の|李斎《りさい》とは違い、きちんと手入れされ、磨かれた爪が無骨な陶器の縁を|滑《すべ》る。微かに震えているようにも見えた。
「お寒いようですが。もっと|火炉《ひばち》を持ってこさせましょうか?」
「いいえ。決して寒くは」
 言って、花影は震える指先に気づいたのか、|慌《あわ》てたようにその指先をもう一方の手で|握《にぎ》りこんだ。
「……寒いのではありません。李斎殿、私は怖いのです」
「怖い?」
 花影は頷き、李斎をまっすぐに見る。心の底から|怯《おび》えている|貌《かお》だ、と李斎は思った。
「主上が登極なされ、王宮は目まぐるしく変わりました。本当に何という方でしょう──こんなに早く朝廷が整うなど、聞いたことがございません」
 李斎はあえて同意せず、黙って先を待った。朝廷の端々で始終聞く|褒《ほ》め言葉だが、微かに震えを含んだ声音からして、花影がそれを決して喜んでいるわけではないことは明らかだった。
「……こんなに急で良いのでしょうか」
 花影は、ぽつりと|零《こぼ》した。
「……急?」
「朝を|革《あらた》めることは必要です。旧悪を廃することも。けれども、それはこんなに急がねばならないことなのでしょうか。もっと、ゆっくり時間をかけて、十分に吟味して|穏《おだ》やかに変わっていくのでは、なぜいけないのでしょう……?」
「──性急すぎると?」
「そんな気がしてならないのです。いいえ、決して主上を批判しようというわけではないのですが。ただ、私自身、自分のやっていることが恐ろしくてならないのです。どうしても何かを失念している気がします。忘れてはならない何かを置き去りにしているような気がして仕方がないのです。何もかもがこんなに急速に変わっていっていいものだろうか──と、どうしても」
 李斎は頷いた。無理もない、という気がしていた。
 花影はもともと、|藍《らん》州の|州宰《しゅうさい》で、情理に篤い名宰相だと言われていた、と聞いている。何度か顔を合わせた限りでは、確かに慈愛深く、礼節を重んじる穏やかな人柄のようで、思慮も深く、|目配《めくば》りも利いていた。驍宗が六官長の一に抜擢したのも頷けるが、ただ、あれで|大司寇《だいしこう》が|務《つと》まるのか、という声も李斎の耳には聞こえてきていた。秋官の主たる仕事は、法を整備し罪を裁き、社会の安寧を築くことにある。秋官は同時に外交の官でもあったが、花影は秋官にしては情けが深過ぎはしないか、と危惧する声が確かにあった。
 秋官は|秋霜烈日《しゅうそうれつじつ》の官、刑罰や威令、節操に厳しいこと、秋の霜や夏の激しい|陽脚《ひざし》が草木を枯らすにも似ることからこう言う。確かに、|李斎《りさい》の目の前に座っている女は、迷い子のように頼りなげで、彼女のどこからも、秋官としての厳しさ激しさのようなものは感じられなかった。
「……私はずっと、地を治め、民に福利を施すことでやってきました。人に罰を与えることには慣れていないのです。慣れの問題ではないことは、重々承知しております。努めとあれば、果たすだけ──けれども、私は秋官には|凡《およ》そ向かない人間だからこそ、これまで私に秋官になれと命ずる方がいなかったのではないかと思うのです」
 なのに、と|呟《つぶや》いて、|花影《かえい》は視線を落とした。再び、震える指先が酒杯の縁を|彷徨《さまよ》い始めていた。
「これから、たくさんの官吏を裁かねばなりません。それも、短期間のうちに一気にやってしまわなければ。私は怖いのです。たとえ罪人とは言え、人を裁くのにこんなに性急でいいのかと……」
 李斎は微笑む。
「どうぞ、御酒を。少しは身体が温まります」
 頷いて言われるままに酒杯を口に運ぶ花影を、李斎は見守った。
「……花影殿が不安にお思いになるのも無理はないのかもしれません。確かに朝廷は目まぐるしく変わっていますし、旧悪の処断は新王朝につきものですが、これほど|一気呵成《いっきかせい》に行おうという例はないでしょう。主上は呆れるほど思い切りの良い方です」
 李斎が苦笑してみせると、花影も僅かに口許を|綻《ほころ》ばせる。
「我々武人は、期を重んじます。ここだという決断の|為所《しどころ》があり、その時には迷わず果敢でいなければならぬと、そんな風に考えるものなんです。戦に於いては、慎重に吟味して決を下す余裕などないことが多い。なまじ慎重に構えれば、みすみす好機を逃す結果になりかねません。ですから、主上の決断は納得できるのです。確かにここが好機なのだし、行動を起こすべき時なのだ、ということは分かりますから」
 言って李斎は微笑んで見せた。
「もっとも、自分でも同じように決断できるかと言われると、それは疑問なのですが。事が事だけに迷い、ぐずぐずと時間をかけて泥沼を作ってしまう結果になるのじゃないでしょうか。そこが私などのいたらないところです」
「では、李斎殿は不安を感じたりなさらないのですね?」
 李斎は|僅《わず》かに返答に詰まったが、多分それは花影に気づかれずに済んだと思う。
「……不安に思うようなことはありません。よくぞここまで一気に決断なさる、と驚嘆はいたしますが。きっと、主上には迷わず決を下せるだけの確信がおありなのでしょう。それおありになるのであれば、一気に旧悪が取り除かれるのは、決して悪いことではありますまい。朝廷が早く整えば整うほど、民が潤うことも早くなるのですから」
「それは……ええ、分かります」
 |花影《かえい》は俯く。
「ですが、その確信が……私には、どうしてそこまで迷わずに確信を抱くことがおできになるのか、それが見えないのです。決して、主上を信じないわけではないのですが……」
「花影殿は、主上とはこれまで」
「いいえ。何の御縁もございませんでした。お噂だけは聞いておりましたけれども」
 言って、花影はやっと微笑んだ。
「ですから、秋官長に就けと宣旨を戴いたときには、本当に驚きました。私のような者の存在をどうしてご存じだったのかと──」
「主上はそういう方ですから」
「|李斎《りさい》殿は、以前からの|麾下《ぶか》でいらしたのですね?」
「麾下といえますかどうか──」
 李斎が|驍宗《ぎょうそう》に出会ったのは、|蓬山《ほうざん》でのこどった。驍宗と同じく|昇山《しょうざん》した李斎は、そこで初めて噂に聞こえた|乍《さく》将軍に会ったのだった。昇山のために|黄海《こうかい》に入る者たちは、ほとんどが集団を作り、隊列を組んで黄海を越える。だが、驍宗はその集団の中にいなかった。|手勢《てぜい》だけを連れて黄海に入り、独自に蓬山へと向かったからだ。
「ですから、蓬山に到着してから、初めてお目に掛かったのです」
「まあ……でも、隊列を離れて黄海を往かれるなんて、危険なことではないのですか?」
「本来は危険なことなのですが。ただ、主上にとってはさほどのことでもなかったのでしょう。後に聞いたところでは、主上は驕王の頃、三年ほど仙籍を返上し、禁軍を退いておられたことがあったとか。その時に黄海に入ってらしたのだそうです。黄海には騎獣を捕まえることを|生業《なりわい》にする者がいるのですが、その者たちの|徒弟《でし》におなりだったそうですよ」
「……徒弟、ですか? 禁軍の将軍が」
 花影は驚いたように目を丸くする。李斎は軽く笑った。
「そういう方なんです。何でも騎獣を自分で捕まえて、|馴《な》らせるようになりたかっのだとか。昇山の時にも狩りをなさりたかったということで、隊列の中にはおられませんでした。ですが、昇山するために驍宗様が我々と同時に黄海に入った、とは聞いておりましたし、だとしたら自分の出る幕はなさそうだ、と思ったものです」
 李斎が苦笑すると、花影は口許を押さえた。
「ひょっとして、失礼なことをお訊きしてしまいましたでしょうか」
「一向に。……ですから麾下というわけではありません。けれども蓬山では、幸い、驍宗様と台輔、お二人に心易くしていただきました。それが御縁で目を掛けていただけるようになったのです」
 禁軍の将軍と州師の将軍、身分の差はあったが、|麾兵《ぶか》だったわけではない。なのでむしろ同輩のように接してもらった。|驍宗《ぎょうそう》が登極してからは早々に|鴻基《こうき》に招かれ、驍宗の麾下の者たちとも引き合わされた。中には昇山の時に同行していて、すでに顔見知りだった者もいたし、|瑞《ずい》州師の将軍に抜擢されてからは、ごく自然に麾下の者たちと肩を並べてきた。
「こうして、改めて申し上げると妙な気がしますね。私自身も、主上の麾下であるような、ないような」
「そうだったのですか……」
 |花影《かえい》は軽く息を吐いた。
「では、私の直感もあまり|侮《あなど》ったものではないのですね。──いえ、どこかしら|李斎《りさい》殿は麾下らしくない気がしていたのです。もともと主上に従ってきた、そういうのとは、少しばかり違うように感じられて」
「そうですか?」
「ええ。ですから今日も李斎殿をお訪ねしてみようと……。他の方々には、怖いなどとは、とても言えなくて。何が怖いことがあるのだ、と一蹴されてしまいそうな気がしたのです。ただ、李斎殿は少し違うような気がして。同じ女だからなのかもしれませんが」
「嬉しく思います」
 李斎はそう答えた。花影の言い分は不当ではない。驍宗の麾下だった者たちは、長い間、驍宗の側近くに仕え、驍宗の|為人《ひととなり》も考え方もよく分かっている。これまでに|培《ちつか》われた篤い信頼があり、太く|縒《よ》り合わされた|絆《きずな》があった。その繋がりがあまりに強固だから、時折、疎外感を感じることがある。李斎でさえそうなのだから、花影は一層そうだろう。自分だけが異分子で、違和感を抱いているという感触を持っていて当然なのだろう、と思う。
「怖いのは、心細いせいなのかもしれません」
 花影は苦笑まじりにそう|零《こぼ》した。
「主上が何かおっしゃると、李斎殿を|首《はじ》めとする皆様は、それだけで意を察したように了解なさる……そういう気がするのです。自分だけが主上の意図を理解できない。何もかも呑み込んだふうの皆様の顔を、おどおどと見回しているうちに、皆様、分かり切ったこととして先に進んでしまわれるんです。いつもいつも、置き捨てられるようで……」
「皆が主上の意を了解しているわけではないと思いますが」
「……そうなのですか?」
「ええ、多分。私などでは、主上のお考えが分からないこともあります。けれども、主上がそうおっしゃるのだから、それでいいのだ、と──そう思っているだけなのです」
「信頼していらっしゃるのですね」
 花影の声音は、少しばかり寂しげで、同時に何かを危惧する響きを伴っていた。
「少し違うかもしれません。別に無条件に信じているわけではないつもりです。巧く言葉にできないのですが……私と主上は違うのです」
「違う?」
「私は主上と最初にお会いして、|器《うつわ》が違うとは、こういうことなのだ、と思ったことがあります。何というか──物事を見る目が違うのです。私などには考えもつかないような場所から物事を見ている」
 |花影《かえい》は少し考え込み、そしてふいに思い当たったように顔を上げた。
「私は|驕王《きょうおう》の治世が長くはないことを分かっていましたが、だからと言って、その先の必要のことなど考えてみたことがありませんでした。──そのように?」
「ああ、そうです。恥ずかしながら、私もそうなのです。梟王の治世の長くないことは分かっていました。戴はこれから荒れるだろう、不逞の|輩《やから》が専横を開始するだろう、未来の予測はできました。けれども、その先には考えが及ばなかった。──考える必要を感じなかった。と言うより、要不要すら念頭になかったのです」
「分かります」
「主上のなさったことを見れば、そうだ、と思う。国は傾く。ならばその傾きを止める人材が必要なのだし、それだけの人材を育てるにも、要所に配するにも時間がかかる。国を憂うなら用意しておくべきだったと、今になればあまりに明らかなのですが、当時は不思議なほど、それを考えてみることがなかったのです。予測はしていたのに、その先は、存在しないかのように念頭になかった」
 花影は|俯《うつむ》く。
「けれども、主上には見えていた……」
「そういうことなの゛と思うのです。そして、それが器量の差というものだと。私の考えが及ばなかった、足りなかった──どれも言葉は正しくありません。考えるきっかけがあれば、私にも分かったことでしょう。だが、私にはそのきっかけを見いだすことができなかった」
 言って李斎は、自分自身に向けて頷いた。
「ですから、主上の意が見えないときにも、きっとそうなのだろうと思うのです。私には見えない何かが見えていて、主上には確信がおありなのだろうと。明らかな疑問、明らかな|過《あやま》ちを感じれば、私も異論を申しますが、特に疑問はない、過ちも感じない──けれどもよく分からない、そう言うときには、そう思って納得しています。結果が出たとき、なるほど、こういうことだったのかと私にも分かるのでしょう」
 そうですか、と花影は心許なげに頷き、そうして改めて不安そうに李斎を見る。
「では、台輔についてもそうお思いですか?」
 ──痛い所を突かれた、と李斎は思った。
「それは……」
「これからの波乱を台輔のお耳に入れたところで、お心を痛めるだけだ、ということは分かるのです。ですが、そう決めてかかり、国外へ追いやってしまうのは強引に過ぎないでしょうか。ご自身がおられない間に、粛正が行われたことを台輔が知ったら。粛正の事実にお心を痛められるだけではなく、それに際してご自分が何もできなかったこと、助命や温情を嘆願する余地もなかったことに傷つかれはしないでしょうか」
 |李斎《りさい》は沈黙した。──|泰麒《たいき》の性格から考えて、何もできなかった自分を責めるのではないかという気が李斎はしていたし、同時に、それをさせないために自分は国を出されたのだと気づけば、いっそう傷つくのではないかという気がしていた。
「私には、台輔のお気持ちを言い訳にしていながら、主上の選択は台輔の心情を置き去りにするもののように見えます。……主上のなされようは、全てそのように思えてならないのです……」
「|花影《かえい》殿」
 花影は悲しげに笑った。
「……結局、批判を口にしてしまいましたね……。私にはそう見えるのです。主上は心服する臣下だけを引き連れて、強引な改革を急ごうとしているように思えます。台輔のお気持ちが置き去りにされているように、多くのことが置き去りにされている、と感じる……」
 ではその置き去りにされているものとは何だ、と問うたところで、花影には答えられないのだろう、という気が李斎にはした。花影はただ、この急激な変化そのものが恐ろしいのではないだろうか。多分、花影の危惧には確たる根拠があるわけではない。|驍宗《ぎょうそう》に対する不安ではない、驍宗が作る急流に乗って流されている自分が怖いのだ。同じような不安を感じている者は多いだろう。急激な変化を好まない──それどころか本能的に恐怖心を抱く人間はいるものだ。同様に、驍宗の果敢さ、迷いのなさに|怯《おび》える者もいるだろうし、意味もなく反発する者もいるだろう。
 ──こういう形で|軋《きし》む。
 王に対する反意は、普通ならば自らの処遇への不平、政治手腕に対する危惧、あるいは王の|為人《ひととなり》への不安から生じるものだ。だが、花影は自信の処遇に不平があるわけでも、驍宗の手腕に危惧を抱いているわけでもない。花影の言は、驍宗の為人に対する不安のようにも聞こえるが、多分、それは真実の全てではない。根源に横たわるものは花影自身の中に存在している。急激な変化に対する無条件の恐怖心。
 強い光輝が落とす濃い影。驍宗の落ち度ではなく、驍宗への直接的な不満でもない。ならば分かりやすく、読みやすい。前もって手当てをすることも可能だが。
 それはどこにどういう形で潜んでいるか分からない。その読み難さが怖い、と辞去していく花影を見送りながら、李斎はそう思っていた。
 

黄昏の岸 暁の天 2章1~3

2010-08-08 22:06


二章

 

   1

 |李斎《りさい》の背に|靠枕《まくら》が|宛《あて》がわれた。
「苦しくないですか?」
 |訊《き》いてきた|女御《にょご》は、|鈴《すず》という一風変わった名だと、李斎はこれまでに学んでいた。結局、李斎は、先に目覚めたときにも、景王に会うことができなかった。|瘍医《いしゃ》の手当を受けている間に再び寝入ってしまったからだ。
 その後も何度か目覚めたが、瘍医はまだ面談はならない、と言った。その禁がようやく解けたのがこの日──さらに二日後のことだった。
「……お手数をかける」
 久々に半身を起こした。思ったよりも身体は|萎《な》えているようで、靠枕に|凭《もた》れていても息が弾んだ。|臥牀《しんだい》を出ることは、瘍医が許さなかった。このため、李斎は|牀榻《ねま》に客を迎えることになったのだった。
 |鈴《すず》が顔を|拭《ぬぐ》って髪を整えてくれ、薄い|襖《うわぎ》を掛けてくれた。|李斎《りさい》の世話は、この|女官《じょかん》が一人で請け負っているようだった。景王は|登極《とうきょく》から間がなく、ゆえに宮中の人手が少ないのかもしれなかったし、ひょっとしたら李斎は信用されておらず、万が一李斎に反意あったときのために、あえて女官を一人に限っているのかもしれなかった。
 |身繕《みづくろ》いを終えところに、三人の客人が入ってきた。最初に|牀榻《ねま》に足を踏み込み、李斎の枕許に腰を下ろしたのは、忘れようのない|緋色《ひいろ》の髪。──景王陽子だった。
「……具合はいかがだろう?」
「お陰様で命拾いをしたようです。心からお礼を申し上げます。一方ならぬご配慮を賜った上、このような|不躾《ぶしつけ》な|有様《ありさま》で御前を汚します無礼をひらにご容赦ください」
「そんなことは気にしないでもらいたい。心痛も多いだろうが、まず養生をして欲しい。そのために及ばぬながら、できるだけのことはさせてもらう。必要なものがあれば、何なりと言ってもらって構わない」
 年の頃は十六、七、もの慣れないふうの若い女王の言葉には、誠意が|溢《あふ》れていた。もっと頼りなくやわやわとした人柄を想像していた李斎は、どこか武人風の景王のありように意外なものを感じた。──そう、|泰麒《たいき》とは趣が違う。李斎は、同じ|蓬莱《ほうらい》の出身だというだけで、根拠もなく泰麒のような人物を想像していた自分に、この時初めて気づいた。
「……ありがとうございます」
「少し、話を聞かせてもらって構わないだろうか? 苦しければ、そう言ってもらいたいのだけど」
「いえ。私のほうが|奏上《そうじょう》したいことがあって、参じたのですから」
「女性の|牀榻《ねま》に無礼かとは思ったが、立ち会いを許してもらいたい。こちらは小国の|冢宰《ちょうさい》で|浩瀚《こうかん》と申す。そしてあたらが、|景麒《けいき》」
 言われて李斎は、ここでも泰麒を基準に全てを把握していた自分に気づき、苦笑せねばならなかった。──そう、金の髪なら麒麟に決まっている。だが、泰麒の麒麟は黒麒だった。|磨《みが》いた鋼のような髪の。
「お噂はかねがね伺っておりました、景台輔」
 李斎が言うと、景麒ははっとしたように李斎を見る。李斎は笑って見せた。
「台輔から……泰麒からよく。私は幸い、台輔には親しくしていただいたので。とてもお優しい方で、たくさん親切にしていただいたのだ、と台輔は始終言っておられました。台輔は景台輔のことをとてもしたっていらっしゃるふうで」
 李斎が言うと、景麒は困惑したように視線を|逸《そ》らし、同時に、景王は驚いたように景麒を振り返った。
「……何か? 失礼なことを申し上げましたでしょうか」
 いえ、と|景麒《けいき》は口の中で|呟《つぶ》き、陽子は笑う。
「とんでもない。珍しいことを訊いたので驚いただけだ。……それで、その|泰麒《たいき》なのだけども。|戴《たい》で何が起こったのか聞かせてもらいたい」
 はい、と|李斎《りさい》は|頷《うなず》いた。
「……何から申し上げれば良いのでしょう」

 戴の先王は|諡号《しごう》を|驕《きょう》王という。百二十四年の|治世《ちせい》を|布《し》いた王だった。
 驕王は華美を好み、|奢侈《しゃし》に|耽溺《たんでき》した人物だったが、政治に於いては一線を守った。遊興に|耽《ふけ》る相手を宮中に召し上げ、|美姫《びき》を|後宮《こうきゅう》に集めて国庫を|湯水《ゆみず》のように|蕩尽《とうじん》したものの、それらの者に官位を与え、政に関わらせることは絶対になかった。|寝《しん》に於いては暗、|朝《あさ》に於いては明、と言われる所以である。
 事実、施政者として賢明だったかどうかはさておき、朝廷に於ける驕王は、少なくとも|暗愚《あんぐ》の王ではなかった。慣例を重んじ道義と秩序を重んじ、急激な変化や改革を嫌って穏やかで堅実な治世を築いた。その治世の末期、国庫は|破綻《はたん》し国は困窮したものの、他国に比べ、国政の腐敗は最小限で食い止められたといっていい。|間隙《かんげき》を|窺《うかが》うようにして品性|卑《いや》しい官吏が王朝を食い荒らしていたし、驕王が|斃《たお》れて以後、それは|甚《はなは》だしく拡大したのだが、それでも戴は良く踏みとどまった方だと言えるだろう。州侯や官吏、軍人には条理の分かった人材が良く残っていた。
 その最たるものが、|驍宗《ぎょうそう》だった。驍宗はそもそも禁軍将軍、先王の信任も篤い寵臣の一人だった。彼は国政を|知悉《ちしつ》しており、彼に崇敬を寄せる人材を多数、持っていた。|余州《よしゅう》にも名高い驍宗軍、その|麾兵《ぶか》と|軍吏《ばくりょう》たち。驍宗は泰麒の制約を受けて登極した。朝廷は|速《すみ》やかに整い、戴は新しい時代に向けて滑り出した。
 ──驍宗には玉座に対する備えがあったのだ、と言われる。
 それは一面、真実だった。
 驍宗は先帝の天命が遠からず尽きることを早くから理解していた。新王が即座に立つにせよ立たないにせよ、その後の波乱が避けられないことを見越しており、大きく傾いた戴を支えるために、それなりの人材が必要であることを理解していた。驍宗は麾兵を育て、軍吏を育てた。驍宗所領の|乍《さく》県は「小さな戴」だった。そこに配置された文官武官は、一回の県吏に過ぎなかったにもかかわらず、国政というものを理解しており、戴の国情を旧六官よりも詳細に把握しており、驕王朝の末期からすでに国政の端々に入り込んで、傾く王朝の防波堤の役割を果たしていた。
 当時、驕王の命数が尽きつつあることを理解していた者は多かったろう。李斎もまた、驕王の朝が大きく傾き、沈みつつあることを分かっていた。遠からず完全に沈む、李斎はそう確信していたが、確信していた──それだけだった。王が|斃《たお》れた後に何が必要で、そのために今、何をする必要があるのか考えてみたことがなかった。だが、|驍宗《ぎょうそう》だけはそうではなかった。そこが自分と──自分と同様の者たちと驍宗との、圧倒的な差だ、と|李斎《りさい》は思う。
 驍宗が朝廷へと送り込み、傾く朝廷を支えさせ、驕王が倒れて後は、沈みゆく国土を支えさせてきた麾下たちが新王朝の柱となり、驍宗の朝廷は革命から僅かにして堅固な態勢を築いた。新王登極の後には朝廷が甚だしく混乱し、六官諸侯に適材を配置するまでにかなりの期間を要するものだが、驍宗に限ってそれはなかった。通常に要する歳月を思えば、驍宗の朝廷は一夜にして整ったといっていい。前代未聞の出来事だった。
 ──そして事件は驍宗が登極して半年ほど後に始まった。戴国北方の|文《ぶん》州で、大規模な暴動が勃発したのだった。

   2

「──文州に内乱とか」
 |李斎《りさい》が内殿にはいると、すでに|主《おも》だった寵臣たちはその場に|揃《そろ》っていた。召集に応え、内殿に駆けつけた李斎の第一声を受け、口を開いたのは夏官長|大司馬《だしば》の|芭墨《はぼく》だった。
「文州は元々問題の多い土地柄ですからな」
 芭墨は言って、白いものの混じった|髭《ひげ》を|扱《しご》いた。
 戴国北部──|瑞《ずい》州の真北に位置する文州は、冬の寒さの厳しい土地柄だった。冬に寒いのは北東に広がる|承《じょう》州も同じだが、承州は耕地に恵まれてもいたし、森林も豊富だった。対する文州は急峻で耕地に乏しく、森林にも恵まれない。辛うじて点在する|玉泉《ぎょくせん》が民の生活を支えていたが、その玉泉も、永年それに民が群がり続けたせいで枯渇し始めていた。寒く貧しい──文州はそういう土地で、政治は行き届かず、人心も|荒《すさ》みがちだという|専《もっぱ》らの噂だった。現に文州では、再々、内乱が起こっている。生活に困った民が堪えかねて蜂起することも多かったが、むしろ玉泉、鉱泉を取り仕切る|質《たち》の悪い|土匪《どひ》──土着の|匪賊《ごろつき》が、利権争いや私怨から暴動を起こし、それが乱に発展することの方が多かった。
「州侯が|更迭《こうてつ》されて、押さえが緩んだ、というところでしょう。何しろ、先の州侯は匪賊の頭目のような兇漢でしたからな。残虐粗暴なことでは、匪賊の上を行く。ならばこそ、押さえも|効《き》いたのですが」
 李斎は頷いた。先の文州候は冷酷で|悪辣《あくらつ》な人物で、ただでさえ貧しい文州を食い物にしてきた男だったが、そんな男にも取り柄はあったらしい。
「州侯が替わって押さえが緩み、匪賊が増長したということなのでございましょうな。乱と言うより、匪賊が県吏と悶着を起こして暴動になったということのようでございます。とはいえ、勢いに乗って県城を占拠し、付近の|里櫨《まちまち》にまで手を出しているという話ですから、放置するわけにもまいりますまい」
「調子づかせるわけにはいかん。国という押さえのあることを分からせてやらねばな」
 野太い声で言ったのは、禁軍左軍の将軍、|巌趙《がんちょう》だった。巨躯[#「躯」は旧字体で作りの「メ」部分が「品」]には闘志のようなものが|漲《みなぎ》っていたが、特に緊張感は見えなかった。それはこの場の誰にも言える。──彼らはもとより分かっていたのだ。
 新年にかけて、戴では大規模な粛正があった。これは|悪辣《あくらつ》な官吏を一掃すると共に、巨悪の下で機会を|窺《うかが》っていた|兇賊《きょうぞく》を|誘《おび》き出す布石でもあった。悪名高い文州候、これを|更迭《こうてつ》すれば文州の押さえは緩み、|土匪《どひ》がいずれ動きだすだろうことは、その時点から予測されていた。
「慎重に構えると、連中は国を|舐《な》めてかかるぞ。それだけは、あってはならん。早急に行って蹴散らし、|王師《おうし》の恐ろしさを叩き込んでおかねばな」
「勿論、土匪は押さえねばならんが、早急にと言うのはどうか。時期は考慮を要すだろう。今少し放置すれば、文州各地の土匪も期に乗じて[#原文ママ「期に乗じる」は「機に乗じる」の誤用?]悶着を起こすだろう。追随してくれれば|一網打尽《いちもうだじん》にできようし、そのほうが国の|睨《にら》みを印象づけるには効果的だ。だが、機を逃せば野火は拡大する。|鎮火《ちんか》に手こずれば国の威信は下落する」
 巌趙は呆れたように|芭墨《はぼく》を見た。
「相変わらず血も涙もない親父だな。賊どもは県城付近の|里櫨《まちまち》にまで手出しをしておるんだろうが。そこで暮らす連中のことも考えてやれ」
「なんの。血や涙があれば夏官や軍吏になど、なるはずがなかろうて」
「それもそうか」と、巌趙は巨体を揺すってあっけらかんと笑った。
「|勅伐《ちょくばつ》を行うなら早いほうがいいだろう」
 ごく冷静に口を|挟《はさ》んだのは|英章《えいしょう》だった。禁軍中軍の将軍で、英章も巌趙と同じく、かつては驍宗軍の|師帥《しすい》だった。驍宗軍には名うての|麾兵《ぶか》が幾人もいたが、英章はその中で最も若い。
「私もご老体と同じく血も涙もない部類だけど、出兵するなら早い時期を|推《お》すね」
 当てこするように英章は言って、真実血も涙もなさそうな貌を|顰《しか》めた。
「雪が|融《と》け始めたら面倒だ。足許が緩むだけではなく、周辺の雪が融けると山に逃げ込まれてしまう。文州の山は玉泉の坑道で穴だらけだ。そこに潜り込まれるとやっかいなことになる」
 確かに、と同意する声が上がった。李斎も内心で、その通りだと感じていた。一旦、坑道に潜り込まれてしまえば、追撃は容易ではない。文州の匪賊を今後押さえていくためにも、だらだらと追撃戦を長引かせるわけにはいかなかった。迅速に平定し、国の威信を示すことで匪賊を押さえる。そうでなくては、わざわざ王師を出す意味がない。
 意向を|諮《はか》るように、その場にいた者たちの視線が驍宗に集まった。
「……英章に任せよう。中軍を出して鎮圧にあたる」
 共に異論を口にしようとした巌趙と芭墨を、驍宗は目線で制した。
「英章の意見を採るというわけではない。時期の問題、威信の問題、今後の土匪制圧、そういった|些末事《さまつじ》は、今は関係がない」
「些末事と仰いますか」
 |英章《えいしょう》は|気色《けしき》ばんだが、|驍宗《ぎょうそう》はあっさりと頷いた。
「考慮に値せぬ。ここで何よりも問題にせねばならないのは、|土匪《どひ》ではなく民だろう。土匪を討伐し押さえることより、民に国の|庇護《ひご》あることを得心させるほうが断じて先だ」
 李斎は、はっとしたし、他の者も同様に息を呑んだのが分かった。その場にいた全員が恥じ入ったように黙りこんだ。
「英章、中軍を率い、文州師を組み込んで土匪を討て。勝たずとも良いが、県城からは一掃せよ。中軍には堅城を開放してからも、しばらく文州に留まってもらう。文州師に手を貸して、都市の防備を厚くせよ。無理に土匪を深追いすることはない。それよりも、国がついている以上、もはや土匪を恐れる必要はないのだと民に理解させ、人心を安んじることのほうを優先せよ」
 |畏《かしこ》まりました、と英章は殊勝だった。英章ばかりでなく、驍宗麾下の者たちは、驍宗の言に全幅の信を置いている。どんなに朝議が荒れても、驍宗が決を下せば|速《すみ》やかに意思が統一されていく。──そういうものだと、李斎はここに至るまでに学んでいた。
 英章は最短の時間で中軍を整え、文州へと|発《た》った。県城を開放し、ひとまず乱を平定したと|報《しら》せが届くまでに一月、そしてちょうどその頃、文州の別の場所でも土匪が乱を起こしたことが報されたのだった。
 それは総計三箇所、他でも|小競《こぜ》り|合《あ》いが頻発していた。突発的な暴動が飛び火したと言うよりも、組織的な内乱の様相を呈してきた。さらに半月のうちに事態は拡大し、最初に起こった県城の占拠が、文州全体に及ぶ内乱の一環であったことが明らかになった。|霜元《そうげん》率いる瑞州師左軍が派遣され、さらには禁軍右軍の半数を率いて驍宗自身が文州に向かった。各地で散発した暴動が互いに連携して動き、乱の中心が文州中部にある|轍囲《てつい》という県城の付近に移動していったからだった。
 ──轍囲は、驍宗ゆかりの街だった。

 驕王の統帥する王師六軍、その将、六人のうち、半数が不敗を誇っていたが、驍宗は不敗の将軍ではなかった。
 驕王の|寵《ちょう》篤《あつ》い左軍将軍に一敗地をつけたのが轍囲だった。
 それは驕王治世の末期、轍囲は王の|搾取《さくしゅ》に堪えかねて、公庫を閉ざした。税の徴収を|撥《は》ね|除《の》けたのだった。文州師が殺到してこれを開けさせようとしたが、周辺の住民が轍囲に結集して籠城し、抵抗を続けた。ついには王師が出陣、事態の収容にあたったのが驍宗だった。
 驍宗は|轍囲《てつい》に到着し、左軍一万二千五百兵をもって轍囲を包囲した。そして、同じく轍囲を包囲した州師を|悉《ことごと》く後方へと退がらせたのだった。
 同行した|巌趙《がんちょう》、|英章《えいしょう》を|首《はじ》めとする師帥たちは、勿論これに異を唱えた。州師二軍で開放することのできなかった轍囲を、禁軍一軍でいかにして開放しようというのか。
 無茶だ、と|気色《けしき》ばむ巌趙を、瑛州は鼻先で|嗤《わら》った。
「ずいぶんと謙遜したものだね。──勿論、無茶じゃない。州師二軍で成らぬものなら、我々にとって手応えがあって良い加減だろう。けれども、多少時間が掛かることは避けられない。帰途の最中で雪に遭うことだけは願い下げだ」
 確かに、と同意したのは、後の瑞州師左軍将軍──当時、師帥の|霜元《そうげん》だった。
「後背の山が雪に閉ざされれば、物資も人も満足に行き来できません。文州に我々を春まで養うほどの|蓄《たくわ》えがあるはずもなし、冬が来る前に|凱旋《がいせん》しなければなりません」
「物資は|乍《さく》県から運ばせる。義倉を開け、山道が雪に降り込められる前に冬越しできるだけの準備をせよと、|正頼《せいらい》には命じてある」
 それは侮辱だ、と英章は腰を浮かせた。
「いくら手こずっても、春までかかろうはずがない。|驍宗《ぎょうそう》様は我々をそこまで|侮《あなど》っておいでか」
「侮っているつもりはない。だが、最悪、ここで冬を越すことになる覚悟だけはしておいてもらいたい」
「それほど手こずるとお思いなら、州師を呼び戻してあの|腑抜《ふぬ》け|共《ども》の手を借りればよいでしょう。もっとも足を引っ張るだけかもしれませんがね」
「州師の手は借りない。州師には付近の|里櫨《まちまち》の民を連れて非難してもらう。いくら義倉を開けたところで、付近の民まで養うことはできぬ。飢えた民の横で我々だけが食い足りるわけにもいくまい。かといって、兵の食い|扶持《ぶち》を削るわけにはいかぬ。生命に関わり、士気に関わる」
「では、さっさと轍囲を落としてしまえばいい。四方から焼き払ってしまえば三日で済みますよ。州師の手を借りれば半月、|烏合《うごう》の衆でも|盾《たて》の代わりくらいはなるでしょう」
「英章、我々は何のためにここに来た?」
「逆賊を討伐するためです」
「なぜ、逆賊なのだ?」
 驍宗に問われ、英章は答えに|窮《きゅう》した。無論、逆賊であることは間違いない。王の宣旨に刃向かった以上、逆徒と呼ばれることは避けられない。──だが。
「冷夏があった。文州はこれから厳しい冬を迎えるが、冬を越えるための物資に乏しい。宣旨のまま公庫の中身を差し出せば、民は飢えて死ぬしかない。だから拒んだ、違うのか?」
 英章は顔を上げた。
「主上に逆徒を討てと言われました。王が逆賊というのだから、我々にとっては逆賊です。禁軍とはそういうものでしょう」
 なるほど、と|驍宗《ぎょうそう》は薄く笑む。
「──お前は主上の飼い犬か。では訊くが、そもそも王とは何だ?」
 |英章《えいしょう》は黙り込んだ。
「|轍囲《てつい》の民が他所の民を害するというなら、万民のためにこれを|誅殺《ちゅうさつ》するにやぶさかではない。轍囲の民が|賦役《ふえき》を拒めば、その|皺寄《しわよせ》せは他の県里に及ぶ。ゆえに轍囲を開放し、公庫を開かせることにもやぶさかではない。──だが、それ以上のことが必要なのか?」
 幕営の中に沈黙が降りた。
「勅命をもって轍囲を開放し、公庫を開けさせる。──ただし、轍囲の民を一人たりとも傷つけてはならぬ」
 驍宗は宣じた。
「兵士は剣を携行してはならぬ。|盾《たて》のみは許すが、これを振り翳して民を打つことがあってはならない」
 盾は堅牢な木によって作らせ、内側には|鋼《はがね》を貼ることを許したが、外にこれを貼ることを許さなかった。|血気《けっき》|逸《はや》って盾をもって|殴《なぐ》りかかる者があったときに、対する民を|慮《おもんばか》って、盾の外には厚く綿羊を貼らせた。綿は白のまま、もしも|命《めい》に|背《そむ》いて盾を武器として使い、民に怪我をさせ、この綿に一点たりとも血が付けば厳罰に処すと宣じた。
 |捕《と》らえた者は説得し、開放する。轍囲に戻ってもよかったし、そのまま|里櫨《まちまち》に帰ってもよかった。
「重税に|喘《あえ》ぐ民の気持ちは分かるが、天下の|宣旨《せんじ》が軽んじられれば、国はたちまちあるべき姿を失う。苦役を|厭《いと》うて|治水《ちすい》を拒否する風潮が|蔓延《ひばこ》れば、すなわち民がたちまち困る。轍囲が税役を拒否すれば、その負担は他県に及ぶ。──それを呑み込んで、公庫を開けてはもらえないだろうか」
 ある者は里櫨に帰り、ある者は轍囲に戻って意を伝えた。最初は|猜畏《さいい》に|囚《とら》われていた民も、驍宗軍の戦意ないことを呑み込むにつけ、やがては驍宗の意を|慮《おもんばか》るようにになった。
 包囲から四十日、王師は県城を開かせようと攻めては敗退することを繰り返し、綿羊は|依然《いぜん》として白いまま、一点の汚れもない。ひたすら開放を迫る王師に対し、轍囲の民は要求を|突《つ》き返し、これを|鴻基《こうき》に伝えて王の意を|諮《はか》ることが続けられた。互いが譲歩を余儀なくされた。驍宗の兵は勝たなかったが、決して負けることがなく、籠城した民はこのまま公庫を閉ざし続けることの不可能を悟らざるを得なかった。一方、王も、自らの禁軍が決して勝てない事実に、譲らざるを得なかった。
 ついに四十一日目に城門が開いた。戦果としては勝利ではない。
 |驍宗《ぎょうそう》は初雪の舞う山道を越え、鴻基に戻って敗北を伝えた。民の万打に対し、一打も|能《あた》わず、と。──ただし公庫は民の道義を知る心によって解放された。|轍囲《てつい》の民は天道を守ったのだ。
 結果、徴収が完遂されたので、この敗北に対しては不問に処された。
 これより後、轍囲の|盾《たて》、という言葉が対の北方に流布するようになった。あるいは白綿の盾ともいう。轍囲の盾なくば信じず、などと、誠意の証、ほどの意で伝えられる。

 驍宗と轍囲は真義によって結ばれている。轍囲が戦乱の渦中に落ちこんで、驍宗がこれを看過できるはずがなかった。驍宗は|霜元《そうげん》と共に、二万近くの兵を率いて文州に向かった。|李斎《りさい》は泰麒の肩を抱いて、それを見送った。
「……驍宗様は、無事に戻ってらっしゃいますよね?」
 不安そうに見上げてきた幼い麒麟に、李斎は確信を|込《こ》めて頷いた。
「大丈夫ですよ、台輔」
 李斎の確約は、しかし|嘘《うそ》になった。
 後から考えてれば──と李斎は思う。乱は最初から轍囲を中心として巻きこむべく周到に用意されていたのだった。それは単なる土匪の暴動などではなかった。土匪を組織し、計略を授け、影から指揮する指があった。その指の持ち主は、驍宗が轍囲を無視できないことを、十分に見越していたのだった。
 驍宗はそのまま二度と、鴻基には戻ってこなかった──。

   3

「──李斎?」
 |怪訝《けげん》そうな声に、李斎は我に返った。見ると、案ずるように景王陽子が李斎の顔を覗き込んでいた。何をどう説明すればいいのか、言葉を|探《さが》しているうちに、李斎は自信の記憶の中に深く入り込んでしまっていたらしい。
「気分でも悪いのか? ……だったら」
 いいえ、と李斎は首を振った。
「申しわけありません。いろいろなことを思い出してしまって……」
 李斎が言うと、分かる、と言いたげに陽子は頷く。
「戴に何が起こったか、というお尋ねでしたか。……突き詰めて言えば、謀反があったのです。主上は地方の乱に引きずり出され、そこで行方が分からなくなりました」
 李斎は簡単に経緯を説明する。
「……詳しいことは私にも分かりません。後に聞いたところでは、主上は轍囲の近くにまで辿り着かれ、そこに陣営を設けました。そして襲撃を受けた。その乱戦の最中にお姿が見えなくなり、以来消息が知れないままになったとか」
「それ以上のことは、全く?」
「多分……というのも、その時文州にいて事態の詳細を知る者と、私はとうとう会うことができなかったからです。私以外の者も、詳細を問いただすことができたのかどうか。捜索が行われたのかどうかも分かりません。ひょっとしたら、それはできないままだったのかも。……というのも、主上のお姿が消えた、と報せがあったとき、朝廷は混乱の最中で、組織立って何かができる状態ではなかったのです」
「なぜ?」
「……蝕です」

 それは驍宗が文州に旅立った、半月ほど後に起こった。その前日、国府には文州に向かった|霜元《そうげん》から|青鳥《しらせ》が届いていた。|驍宗《ぎょうそう》らは無事に山を越えた、と。山を越えてしまえば、|轍囲《てつい》までは数日の距離、事実、その数日後に再び青鳥が届いて、轍囲手前の郷城、|琳宇《りんう》に到着し、そこに陣営を設けたと報せがあった。
「無事にお着きとか」
 そう言って、|安堵《あんど》したように笑ったのは、たまたま|路《ろ》門で出会った地官長の|宣角《せんかく》だった。
 路門は|燕朝《えんちょう》の南に|聳《そび》える。三層の楼閣を持つ、人の身の丈の十数倍はあろうかという巨大な建物だった。南北に開いた門扉に挟み込まれた白い広間の中央に、同じく白い大階段が下る。これが雲海の下へと続いていた。
「今後も御無事でいて下さればよいのですが。……もっとも、将軍でいらした主上に対して心配申し上げるのも、失礼な話なのかもしれませんけどね」
 そうですね、と李斎は宣角に笑いかけ、共に路門を下ろうと足を踏み出した──その時だった。
 低く、微かに地響きがした。李斎は、何の音だろうと足を止めた。何も聞こえなかったのか宣角が、周囲を見回す李斎を不思議そうに振り返った。
「いま、何か──音が」
 李斎が言うと同時だった。──山が震えた、と李斎は思った。まるで足許の大地──王宮を支える|凌雲山《りょううんざん》が音を立てて身震いをした、そんなふうに。ゆらりと世界が揺れ、巨大な路門が|捩《ねじ》れ歪む音を立てた。驚いて見開いた視野が|翳《かげ》った。視線を上げる間もなく、目の前に路門の瓦が雪崩を打って振ってきた。
 実際──その時、山が震えたのだった。もしも王宮を上空から|俯瞰《ふかん》する者があれば、雲海に浮かんだ島の中央、湾をなす水の岸辺に丸く高い波が立ち、それが同心円状に広がっていくのが見えただろう。岸辺に近い宮城の一角から雲海の海面が高く盛り上がり、急激に落ちる。一方、岸辺では、それと同じく建物が揺すられ、悲鳴を上げながら崩壊していく。
 王宮の一角に何者かが巨大な|一槌《いっつい》を加えたようだった。その一撃に揺すられたように風が巻き、突風となって四方へと吹き出していく。太陽が色を失い、|銅《あかがね無の色に|翳《かげ》った空は一瞬のうちに|錆《さ》びて赤みを帯び、それが|凝《こご》って|瘴気《しょうき》のように渦巻き始めた。
 ──これは、なに。
 |李斎《りさい》は呆然と、その場に座りこんでいた。土煙の向こうに広がるこの異常な空は。大地は未だに|蠕動《ぜんどう》を繰り返している。もはや揺れるわけではなかったが、地の底で何かが身動きするような震動が、床の上についた両掌から伝わってきていた。
「──蝕、だ」
 悲鳴じみた声が間近でした。振り返ると、土まみれになり、同じく路門の石畳に倒れ伏した|宣角《せんかく》が顔を上げたところだった。
 これが、という思いと、なぜ、という思い。李斎は蝕に遭遇するのは初めてだった。同時に聞いたことがある──雲海の上に蝕は起きない、と。
 宣角が身を起こした。彼の足許にまで散乱した瓦の破片が押し寄せている。歩み出したほんの二、三歩、あれがなければ、今頃は二人とも瓦の下だった。
「李斎、|台輔《たいほ》は」
 切羽詰まった声で訊かれ、李斎は跳ね起きた。地鳴りはまだ続いている。少なくはない数の人間が倒れた周囲では悲鳴や|呻《うめ》き声がしていたが、今はそれに構っている余裕がなかった。
 泰麒はどこだろう。午後の政務に|就《つ》くには少し早い。外殿はとっくに出た頃合いだが、正殿に設けられた自室に戻るほどの余裕はなかろう。仁重殿ではないだろうか。
「大丈夫、台輔のお側には大僕が」
 言った李斎の腕を宣角は掴んだ。汚れた顔が真っ青になっている。
「李斎、知らないのですか? 天上では本来、蝕は起こらないのです。起こったとしたら鳴蝕──台輔が起こされたとしか」
 李斎は掛け出した。
「李斎!」
「宣角、怪我人を頼みます」
 背後に叫んで、瓦礫を一足飛びに駆け抜け、路寝へと走る。李斎も聞いたことがある。麒麟はごく小さな職を起こすことができるのだと。それを鳴蝕というのか。──だが、|蓬莱《ほうらい》で育った泰麒は、果たして鳴蝕を起こす術など知っていただろうか。
 李斎は蓬山で泰麒に出会った。実を言えば、李斎は驍宗が昇山したその時、自信も昇山していたのだ。そしてそこで出会った泰麒は、転変──麒麟の姿になることもできず、使令も持っていなかった。蓬莱で生まれ育った泰麒には、麒麟のなんたるかがよく分かっていなかったのだ。本能とも呼べるそれらの力が目覚めたのは、いずれも泰麒が切羽詰まった時、ならば今も、何かがあったのだ。
 |土埃《つちぼこり》の臭いと裂けた木の臭い。|熟《う》れて|腐《くさ》りかけた太陽、|錆《さ》びて|翳《かげ》った空、|蠢《うごめ》く|赤気《せっき》、そして不穏な音色で続く地鳴り──|李斎《りさい》は、どうしても不吉な予感を抱かないではいられなかった。何か悪いことが起こった。それも、|途轍《とてつ》もなく悪いことが。
 実際、建物の被害は、仁重殿に近づくにつれ、次第に激しくなっていった。州庁の門は完全に横倒しになっていた。囲い込む隔壁はあちこちが壊れ、その向こうに見える建物も大きく傾き、あるいは倒壊している。石畳の石が浮き、あるいは完全に裏返り、随所に亀裂の入ったそこに一面、|瓦礫《がれき》がぶちまけられている。仁重殿のある一郭が見えた。そこにある建物の多くが、今や瓦礫の山になり果てていた。
 地鳴りはいつの間にか|熄《や》んでいた。代わりにあちこちから|呻《うめ》き声と悲鳴が聞こえる。薄日が射した。見ると、空の|禍々《まがまが》しい赤が薄らいでいた。
 やがて、人々が集まり始めた。兵卒が多く召集され、瓦礫という瓦礫を取り除いて泰麒の姿を探したが、どこからも小さな麒麟の姿は発見できなかった。仁重殿の正殿の西、雲海に面した露台と|園林《ていえん》は、|跡形《あとかた》もなかった。建物も樹木も根こそぎ倒され、その上に攪拌された土砂と瓦礫がつもり、しかもそこに高波が打ち寄せて何もかもを雲海へと|浚《さら》っていった傷跡だけが残っていた。船が出され、騎獣が引き出された。園林を掘るようにして彼らは小さな宰輔の姿を探した。だが、その日以来、泰麒の姿が見つかることはなかったのだった。
 捜索が続けられる一方、一羽の鳥が急を報せるために文州へ向けて放された。それが文州に辿り着く以前に、その文州から別の鳥が飛んできた。|青鳥《せいちょう》が運んできた書簡には、驍宗の姿が消えた、とあった。

 |牀榻《ねま》の中には沈黙が降りていた。李斎は首に掛かった珠を|縋《すが》るように握りしめた。
「それきり主上の消息は知れません……|台輔《たいほ》の消息もです」
「李斎、苦しいのだったら」
 陽子は止めようとしたが、李斎は目を閉じて首を横に振る。
「王宮は混乱を極めました。組織立って主上と台輔の行方を捜すことができず……」
 李斎は|喘《あえ》いだ。陽子は|慌《あわ》ててその手を握った。
「──大丈夫か?」
 陽子の問いに、大丈夫です、と李斎は答えたが、声は|忙《せわ》しない息づかいに途切れた。また風の音がする。あの──耳鳴りの音。風の中で、花影の声がする。駄目、と。
「……もういい。今日はここまでにしよう。とにかく」
 李斎は声のするほうへ手を差し伸べた。──伸べて、改めて気づく。李斎には利き腕がない。李斎はこれだけのものを失った。今になって苦悶が押し寄せてきた。
「……助けてください」
 珠を握っていた手を放し、伸ばした。その手を握る温かな手がある。
「……お願いです、戴を」
「分かっている」
 隣室にいた|瘍医《いしゃ》が駆け込んでくるのが聞こえた。ここまでに、という彼の声を、|李斎《りさい》は深まりゆく暗黒と罪悪感の中で聞いた。
 

黄昏の岸 暁の天 1章4~

2010-08-08 22:06



   4

 ──耳鳴りがしている。
 いや、あれは風の音だと、李斎は思う。|戴《たい》の冬、戸外に吹き荒れる|凍《こご》えた|風音《かざおと》だ。現にひどく寒かった。
 強い風が巻いている。身を切るほど鋭利に冷えた風。木立も山も川も、|唸《うなり》りを上げる風に|曝《さら》され、白く|凍《い》てついている。川の表面は凍りに覆われ、雪が厚く降り積もる。大地もまた凍結した雪の下、街路の至る所には雪が吹き|溜《だ》まり、強い風が表面を|浚《さら》って白く冷たい雪片を巻き上げていく。
 戴は大陸から切り離され、大海の中に孤立する。冬には北の海から刺さるような風が吹きつけてきた。|里櫨《まちまち》は雪の中に|蹲《うずくま》り、家々は扉を閉ざし、窓を閉ざす。──だが、そうやって何重にも外界から切り離された小さな空間の中には、|温《あたた》かな灯が|点《とも》っている。人々はそこで肩を寄せ合い、ささやかな──外界に比べればあまりにもささやかな|温《ぬく》もりを分け合う。
 炉に|点《とも》された炎、取り囲んだ人々の体温、|火炉《ひばち》に|載《の》せられた大鍋からは湯気が立ち昇り、それは雪道に凍えた見ず知らずの来訪者にも振る舞われた。戴の冬は厳しいが、同時に温もりにも満ちている。時にそれは色鮮やかな花の形を取ることもあるのだと、李斎は飛びこんできた子供の姿を見て思った。
「──李斎、これを」
 そう言って差し出されたのは、赤や黄の色暖かな色をした花々だった。弱い|陽脚《ひざし》が辛うじて射しこむ冷えた室内に、明るい温もりが点ったようだった。外では|滲《し》み入るような風の音がしていた。戴は冬に入ったばかり、なのにもう山野をうっすらと雪が覆い始めていた。
 この季節に、これだけ鮮やかな花の咲こうはずもない。李斎は驚いて、それを差し出した客人を見た。自分の顔よりも大きな花の束を抱えた子供の笑みは、花の色よりもいっそう明るく、温かかった。
「お祝いなんです。李斎が州師の将軍になったって聞いて、それで、嬉しくて」
 そう言って輝くように笑ったのは、|泰麒《たいき》だった。年は当時、まだ十。
「私に下さるのですか?」
「勿論です。そのために|驍宗《ぎょうそう》様──主上にお願いして、いただいてきたんです」
 言ってからその幼い宰輔は、|含羞《はにか》んだように|俯《うつむ》く。
「あのね、僕の生まれた|蓬莱《ほうらい》では、お祝いにお花をあげるんです。こちらでは、そういうことは、あまりしないんだって言われたんだけど、僕、どうしても|李斎《りさい》には花束をあげたかったんです。引っ越したばかりのお|家《うち》だから、お花があると余計に立派に見えるんじゃないかと思って」
 まあ、と李斎は笑った。|賜《たまわ》ったばかりの官邸、その|客庁《きゃくま》だった。新王|驍宗《ぎょうそう》の登極から一月余り、李斎は|瑞州師《ずいしゅうし》中軍の将軍に任ぜられ、住居を|白圭宮《はっけいきゅう》にある官邸に移したばかりだった。|宰輔《さいほ》と言えば、王に次ぐ国の柱、同時に李斎の所属する瑞州師を|束《たば》ねる瑞州州侯でもある。その宰輔が直々に官邸を訪ね、こうして花を贈ってくれる、それが|勿体《もったい》なくも|嬉《うれ》しく、同時に誇らしかった。
 下官に花を|生《い》けさせ、それを客庁の|供案《かざりだな》に置くと、それだけで室内が数段明るく、温かくなったように思われた。入ったばかりで|馴染《なじ》みが薄く、どこか|余所余所《よそよそ》しい官邸に、自分の居場所ができたように思えた。
「まことにありがとうございます。台輔にこんなに目を掛けていただけるなんて、李斎は本当に幸せ者です」
「僕こそ、とっても嬉しいんです。僕はまだこんなだし、|政《まつりごと》のことも軍のことも、ちっとも分からないし、だから李斎が州師の将軍になってくれて、すごく心強いです」
 言ってから、大きな椅子にちょこんと座った宰輔は頭を下げる。
「ええと、これから|宜《よろ》しくお願いします」
「そんな──宰輔が頭をお下げになるなんて」
 宰輔に位で先んずるものは、ただ王師かいない。勿論、州師将軍にすぎない李斎が頭を下げられるなど、普通ではありえないことだった。
「これは|叩頭《こうとう》じゃなくて、|会釈《えしゃく》だから大丈夫なんです。本当はいけないんだけど、僕、癖でついやってしまうんです。そしたら驍宗様が、仕方ないっていってくださったんで、だからええと──李斎も仕方ないって思ってくださいね」
 そうします、と李斎は笑いを噛み殺した。この小さな宰輔は、異国で生まれた。伝説で、東の果てにあるという|蓬莱《ほうらい》──そこで生まれ、育ってきたのだ。だから一風変わったところがあったけれども、総じてそれは李斎にとって心地良いものだった。好ましく柔らかく、そして温かい。
「本当はね、もっといっぱいあるんですよ」
 泰麒は上気した笑顔を李斎に向けた。
「お花だけじゃあ、あんまりだって、|正頼《せいらい》がお祝いをたくさん用意してくれたんです。でも僕にはとても持ちきれないから、それはちゃんと運んでくれるんですって」
 正頼は、もと驍宗軍の軍吏で、革命に当たって泰麒の|傅相《ふしょう》に任じられ、同時に瑞州|令尹《れいいん》を兼ねる。人当たりの良い好人物だが、驍宗配下の文官の中でも、逸材中の逸材として名高かった。
「正頼と二人で、すごく頭を|捻《ひね》ったんです。何がいいかって。|驍宗《ぎょうそう》様が、宝庫の中のものを好きに持っていっていいって言ってくださったから、かえって大変だったんです。なにしろ目が回るほどいろんなものがあるんですから」
「そんな──|勿体《もったい》ない」
「驍宗様が構わないって。驍宗様の分も、お祝いを選ぶように言われたんです。驍宗様と僕と、正頼と。三人分だからどっさりあります。驚かないでくださいね」
 |李斎《りさい》は喜色をいっぱいに浮かべた小さな麒麟に、感謝の眼差しを向けた。
「本当に、李斎は|果報者《かほうもの》です。心からお礼を申し上げます」
 李斎は真実、幸福だった。王と宰輔からここまで目を掛けられ、李斎の将来は洋々として|拓《ひら》けていた。朝廷は急速に整い、民は新王を歓迎している。民の未来もまた、明るいものに思われた。国も民も幸せになる──李斎はその時、心底そう思っていた。
 まさかその僅か数ヶ月の後に、全てが崩れ去ろうとは、夢にも思っていなかった。
 貴賓を迎え、官邸の一室には温かな光が点っていた。だが──戸外には寒々しい風が吹いていたのだ。李斎の周囲は光に満ち、何の翳りもなかったが、それでも戸外で吹き荒れる風のあることを失念すべきではなかった。
 それは全てを凍らせる。国も、山野も、街も、人も。
 確かにあの日も、外では風音がしていた。しんしんとした冷気を乗せ、何もかもを凍えさせる機会を|窺《うかが》っていたのだ。|禍々《まがまが》しい風音が|耳朶《じだ》の奥に滲み入り、|不穏《ふおん》な|耳鳴《みみな》りを|奏《かな》でていた。輝かしい気分に包まれ、李斎はそうと意識していなかったが、邸内のそこここに寒気が|貼《は》りつき、足先は凍え、指先は冷え切っていた。寒く、四肢は重く、感覚は遠く、刺すような冷気だけが生々しく──今のように。
 ……とても、寒い。
 凍えて死に絶えてしまう、自分も、国も──民も。
(……寒い)

「……お気がつかれましたか?」
 おずおずとした声が聞こえた。──聞こえたように李斎は思った。
 凍りついたように重い|瞼《まぶた》、|眉間《みけん》に力を込めて、ようやく目を薄く開いた。|睫《まつげ》に|遮《さえぎ》られて暗い視野に、心配そうな娘の顔が見えた。
「良かった……!」
 娘は言って、顔に冷たいものを当てた。芯から寒く、|悪寒《おかん》が走った。──ひやりとしたその刺激は、自分の顔に当てられている。そう、自分は……。
「──景王」
 我に返った。|李斎《りさい》は|咄嗟《とっさ》に|呟《つぶや》いたが、それはおよそ自分の耳にも音としては聞こえなかった。目を見開き、娘の顔を探る。赤い色が見えない。
「ああ、どうぞ、休んでください。駄目です、まだ起きては駄目」
 言われて、李斎は自分が起きあがろうとしていたことにやっと気づいた。
 ──では、まだ命があったのだ。
 冷たい|掌《てのひら》が、李斎の手を包んだ。その冷ややかさは李斎をひどく|安堵《あんど》させた。こんなに寒く、凍えているのに、娘の氷のような手が快い。
「ここは、|慶《けい》国、|堯天《ぎょうてん》の|金波宮《きんぱきゅう》です」
 娘は大きな目を李斎に|据《す》え、ゆっくりと噛んで含めるように言う。
「|貴女《あなた》は、|辿《たど》り着いたの。いつでも主上がお会いになります。だから、安心して目を閉じてください」
「……私……は」
「もう、大丈夫ですから、眠ってください、ね?」
 言って娘は李斎の手を取って、喉元に触れさせた。李斎の手を包むようにして、|喉《のど》の下の|窪《くぼ》みにある丸いものを|握《にぎ》らせる。それは娘の手よりいっそう冷ややかで、さらに李斎を安堵させた。身体が燃えるようで、それで|悪寒《おかん》がして苦しいのだと、やっと分かった。
「まだ眠らないといけないわ。……大丈夫、陽子は|貴女《あなた》を見捨てたりしない」
 陽子、と口の中で繰り返したが、下は|膠《にかわ》で口腔に貼り合わされたようだった。
「今はいないけど、何度も様子を見にきたの。貴女のことは、とても心配しているから、今は眠っても大丈夫。もう、大丈夫なの」
 李斎は|頷《うなず》く代わりに眉根の力を抜いた。自然に|瞼《まぶた》が落ちてきた。風音が聞こえる。寒々しいこの音は、戸外で吹き荒れる寒風なのだろうか、それとも単なる耳鳴りなのだろうか。
 眠っては駄目だ、と李斎は心の中で呟く。
(……景王に……会わなければ……)
 ──李斎、それだけは駄目。
 風音の合間に聞こえる声は、悲痛な声音をしている。思い浮かぶ彼女の|貌《かお》は今にも泣き出しそうな表情をしていた。
 ──なんて浅ましい、恐ろしいことを。
 そうだな、と李斎は|虚空《こくう》に向かって頷いた。
(非道だと言うことは、分かっているんだ……|花影《かえい》)

   5

「|戴《たい》に新王が登極したのは、今から七年前の秋のことです。──新王の名は|乍驍宗《さくぎょうそう》」
 淡々とした声が室内に響いた。
 |積翠台《せきすいだい》と呼ばれる建物だった。内殿の最奥に設けられた|書房《しょさい》の一郭、こぢんまりとした室内には、下界ほどではないものの、やはり夏に独特のとろりとした|暑気《しょき》が|澱《よど》んでいた。裏に面した窓の向こうには|苔《こけ》と|羊歯《しだ》に覆われた|翠《みどり》の岩肌が迫り、そこに白く細い滝が落ちて、翠の|木漏《こもれ》れ日と共に、露台の下に小さく広がる澄んだ池へと注ぎ込んでいる。開け放した窓からは夏鳥の声と重なり、その水音と涼気が流れ込んでいた。
「先王の時代にあっては禁軍の左軍将軍を務め、王の信任も|篤《あつ》く、軍兵からも領地の民からも|慕《した》われ、その名声は他国にも鳴り響くほどだったとか。このため、次の王は|乍《さく》将軍ではないか、という風評が、先王が|斃《たお》れた直後からあったようです」
「|傑物《けつぶつ》だったんだな……」
 陽子は感嘆と──半ば|羨望《せんぼう》を込めて|呟《つぶや》いた。そのようですね、とさらりと答えたのは、六官の長、|冢宰《ちょうさい》の|浩瀚《こうかん》だった。
「先王亡き後もよく朝廷を支え、周囲の期待も高かった。その期待を受けて、|黄旗《こうき》が|揚《あ》がるや否や|黄海《こうかい》に入って東岳|蓬山《ほうざん》に向かい、|昇山《しょうざん》して|泰麒《たいき》の選定を受け、|登極《とうきょく》しています。いわゆる、|飄風《ひょうふう》の王ですね。
「飄風の王?」
「最初の昇山者の中から出た王のことです」
 王は|麒麟《きりん》が選ぶ──麒麟を通じて天が選び、天命を下すのだと言われている。麒麟は世界中央、黄海にある蓬山で生まれ、育つ。王を選定できる年齢に達すれば、国中の|祠廟《しびょう》にそれを示す旗が掲げられ、それを見て王たらんとする者は黄海に入り、蓬山へと向かう。そこで麒麟に対面して天意を|諮《はか》ることを昇山と言った。
「|疾風《しっぷう》のように登極した王、ということなのですが、同時に飄風は|朝《ちょう》を終えず、とも申しまして、勢いの強いものはすぐに衰えるもの。飄風の王というものは、傑物かその逆かのどちらかしかない、と言われます」
「ふうん……」
「もっとも泰王の場合は、それまでに十年以上の歳月がかかっておりますから、飄風の王とは言えないのですが。何でも、泰|台輔《たいほ》は主上の|御同胞《ごどうほう》だとか」
 ああ、と陽子は頷いた。
「|胎果《たいか》なんだ、私と同じく。そう|延《えん》王に聞いたことがある」
 陽子は東の海の|彼方《かなた》、|蓬莱《ほうらい》で生まれた。ただし、蓬莱とは東の海上、遙か遠くにあるとされる伝説にのみ言う楽園だから、陽子の|出自《しゅつじ》が本当にそこにあるわけではない。こちらとあちら──そのように呼ぶしかないような気が、陽子にはしている。どらちにとっても、互いは夢幻の国、実在はしない世界だ。だが、稀にその両者が交わることがある。
 陽子は、その|稀《まれ》な接触の中であちらに流れ、こちらに戻ってきた。──そういうことになっている。納得はしているが、実感はなかった。なぜなら、陽子があちらに流されたとき、陽子はまだ卵の中にいたからだ。こちらの世界においては、人は|卵果《らんか》と呼ばれる木の実から生まれる。あちらとこちらが交わった|折《おり》、陽子の入った卵果があちらへと流されたのだ、ということになっていた。陽子の生命は存在したが、まだ誕生はしていなかった。身出生の生命は、誕生すべく女の胎内に|辿《たど》り着いた。そしてそこで出産された。ゆえにこれを|胎果《たいか》と呼ぶのだが、もちろん陽子には卵果の中にあった記憶などありはしない。ごく普通に父母の子として生まれ、育ったとしか思えなかった。──それが実は違っていた。本当はこちらに生まれるはずだった、そして実はお前こそが王なのだ、と言われて連れ戻されても、|御伽噺《おとぎばなし》の中に|拉致《らち》されたとしか思えなかった。
 実感などまるでない。──けれども、そもそも「誕生」とは、そういうものなのかもしれなかった。今ここに自分がいるのだから、そうなのだろう、と納得するしかない。そのように陽子も納得するしかなかった。あちらから戻り、|景王《けいおう》として立って二年、今ではあちらのほうが夢幻のように思える。日本という奇妙な国で、生まれ育った──そんな夢を見ていたのだ、と。
「|泰麒《たいき》は幾つなんだっけ……」
 陽子が呟くと、これには背後にいた|景麒《けいき》が答えた。陽子をこちらに連れ戻し、玉座に押し上げた|慶《けい》の|麒麟《きりん》。
「泰王が登極された当時、十歳でいらしたと思いますが」
「泰王即位が七年前……ということは、ちょうど私と同じくらいの歳なんだ……」
 ひどく奇妙に感じがした。陽子の見ていた夢──それを共有する者がいる。あの幻の国、ひょっとしたら幻の都市のどこか。陽子が幼い子供だった頃に、同じく幼い子供として、泰麒がそこに存在していた、という不思議。夢の中で出会った子供が、陽子の現実の中に現れ、|冢宰《ちょうさい》と|宰輔《さいほ》の口を通して事実として語られているような。
 世界には、少なくとも二人、他にも胎果がいることを陽子は知っている。慶の北にある大国、|雁《えん》の王と宰輔がそれだった。五百年にも及ぶ大王朝、それを築いた延王と|延麒《えんき》。二人は共に胎果だったが、彼らの語る故国は陽子にとって夢の中で見た夢に等しい。歴史の授業で、あるいは物語の中で幻想として知っていた古い「日本」。それは、同じ夢幻ではあっても、別の夢だ。陽子は延王、延麒の|後《うし》ろ|盾《だて》を得て登極し、そこまでの波乱の中、ずっと二人の世話になっていたが、そのときに同じ夢の中から現れたのだ、というこの奇妙な感覚を感じたことは一度もなかった。
 ……あの夢の中の街角で、ひょっとしたらすれ違ったかもしれない彼。
 その彼が|戴《たい》国の麒麟で……と陽子は思う。泰王を選び、王朝を築き、そして|李斎《りさい》──あの|満身創痍《まんしんそうい》の女将軍は、彼らのために生命を賭して|金波宮《きんぱきゅう》へとやってきた。
「どうかなさいましたか?」
 景麒が眉を|顰《ひそ》め、陽子はそれで我に返った。
「ああ……いや、何でもない。すごく変な感じだな、と思って」
 陽子は苦笑する。|浩瀚《こうかん》もまた、どうしたことか、という|貌《かお》で陽子を見ていた。
「|済《す》まない、浩瀚。──それで?」
 |泰麒《たいき》は、と浩瀚は陽子のほうを見ながら言って、そして書面に目を落とした。
「|蝕《しょく》によって|蓬莱《ほうらい》に流されておしまいになりました。|胎果《たいか》としてお生まれになり、その後、蓬山にお戻りになったのですが、それが十年後のことです」
「十年後? 十年後で十歳?」
「ですが?」
 浩瀚に問い返され、陽子は首を振った。──では、|泰果《たいか》が流されたとき、流れ着いた胎の中には、すでに生命が存在していたのだ、と内心で驚いていた。泰麒の器はその時、もうすでに母親の胎内に存在していた。心音を刻み、動いていたのだ。そこへ泰果が流れ着き、宿った。では、それまで胎内にあったはずの生命はどこへ行ったのだろう?
 泰麒に弾き飛ばされてしまったのだろうか。そうやって居場所を奪うことで、誕生したのだろうか──自分も。そう思うとひどく奇妙で後ろめたい気分がした。それとも、そこにあった生命と胎果とを別物のように考えること自体が、そもそも間違いなのだろうか。この問いばかりは、この世界の人々に言っても答えてはもらえまい。
 なおも不思議そうに陽子を見ている浩瀚に、陽子は改めて首を振った。
「いいんだ。続けて」
「……泰麒がお戻りになると同時に|戴《たい》では黄旗が揚げられ、昇山が開始されて、すぐさま泰王が登極なさいました。その当時の記録が慶にも残っています。|鳳《ほう無が戴国|一声《いっせい》を鳴いて、新王が登極したことを伝えている。記録によれば、その後、台輔が非公式に|慶賀《けいが》のため戴をお訪ねになったとか」
 驚いて陽子が振り返ると、景麒は無言でこれを|肯定《こうてい》した。
「じゃあ、戴と国交があったんだ……」
 国交というわけでは、と景麒は呟く。
「蓬山に胎果があった頃、私もまだ蓬山におりましたのです。泰麒が流された蝕の時にも、蓬山におりました。後に、泰麒が蓬山に戻られてから私も蓬山に戻ることがあって、その時に泰麒とはお会いしました。……その御縁で」
 へえ、と陽子は不思議な気分で呟いた。──夢の中の子供が、目の前の麒麟と会っている。
「それで彼女──李斎は慶を訪ねてきたんだろうか。泰麒と面識のある景麒を頼って?」
 これには景麒も首を傾げた。
「それは──どうなのでしょう。私自身は、|劉《りゅう》将軍にお会いしたことはありませんが」
「泰王とは?」
「お会いしました。確かに尋常の方ではないとお見受けしましたが」
 |浩瀚《こうかん》も軽く首を|傾《かし》げる。
「台輔が個人的に二度お訪ねになった以外には、これと言った交流はなかったようです。事実、|慶《けい》も以後はいささか波乱がございましたから、台輔は泰王の即位礼にもいらしていない。官の間で慶賀の使節を送るかどうかが審議された様子もございません。公式に使節を差し上げるほどの国交はなかった、ということでしょう」
 肯定するように|景麒《けいき》は頷いた。
「ともかくも、新王は即位なされた。──ところが、半年ほど経って戴から勅使がございました。泰王は亡くなられた、と」
 陽子は瞬く。
「勅使なのか? ……|鳳《ほう》は? 王が位を退けば、鳳は戴の|末声《まっせい》を鳴くはずだろう?」
「左様です。王が即位すれば|白雉《はくち》が|一声《いっせい》を鳴き、王が位を退けば末声を鳴く。鳳はこれを伝えて鳴くはずなのですが、鳳はこのとき鳴いていないのです。現在に至るまで、鳳が戴国末声を鳴いたことはございません。つまり、どう考えても泰王が亡くなられ、あるいは位を退かれたとは思えないのです」
 陽子は組んだ|膝《ひざ》に|頬杖《ほおづえ》をつく。
「似たような話を、以前、延王から聞いたな……。泰麒は死んだと伝えられる、けれども死んだとは思えない、と。泰麒が死ねば蓬山に次の麒麟が実るはずだが、その麒麟の入った果実──|泰果《たいか》が実った様子がないとか」
「はい。勅使の書状によれば、亡くなったのは泰王だけ、泰台輔については触れられておりません。ですが、これを境に、泰台輔に対する風聞は、ぱったり聞こえなくなりました。同時に戴から|荒民《なんみん》が流れてくるようになった。泰台輔は亡くなったという風説もございますが、鳳が台輔の|登霞《とうか》を鳴かない以上、これは誤りだと考えるべきでしょう。後に、新王即位という噂が流れてきました。これに際しては、勅使は勿論、鳳の告知もございません」
「荒民は何と言っている」
「諸説あるようです。|偽王《ぎおう》が立った、と言う者もいれば泰台輔が次王を選ばれた、と言う者もあります。単に泰王が亡くなられ、空位になったと申す者もいるのですが、最も多いのは、宮中で|謀反《むほん》あって、泰王は|弑《しい》され、泰台輔もまた兇賊の手に掛かった、と」
 自国のことであっても、王宮内部のことはなかなか外部に伝わりにくい。全ては風聞で広がっていくしかなく、ために正確な情報が民に伝わることは滅多になかった。
 陽子は息を吐いた。
「どう考えても、泰王と泰麒が死んだとは思えないな。李斎は、泰王は宮城を追われた、と言っていた。きっとそう言うことなんだろう。つまりは偽王が立ったという。偽王が謀反を起こし、泰王、泰麒は、共に宮城を追われた。
「だと思われます。もっとも、偽王とは正当な王がいない──|空位《くうい》の場合に、天命を得たと偽って立つ者ですから、この場合、厳密には偽王とは言えないのですが」
「ああ、そうか。正当な王はいるわけだから」
「そういうことですね。ともかくも、|劉《りゅう》将軍は|瑞州師《ずいしゅうし》の将軍だったわけですし、瑞州は戴国の首都州です。劉将軍は王宮の中枢にいたことになりますから、戴の内情について最も正確な情報をお持ちであることは確かでしょう。集めた情報との食い違いもございませんから、将軍が虚偽を申し立てたとは考え|難《にく》いようですし」
 陽子はちらりと、|浩瀚《こうかん》をねめつけた。
「それは、|李斎《りさい》の言を疑っていた、ということか?」
「確認してみただけでございますが?」
 さらりと返され、陽子は一つ溜め息をついた。
「まあ、いい。李斎は助けて欲しいと言っていたが、具体的には何をどうすればいいのか分からないな。単に偽王が立ったというだけでは……」
「左様でございますね。泰王がどうなさっておられるのか、泰麒はどうなさったのか、せめてそのくらいのことは分かりませんと」
「李斎に訊くのが一番早いんだが。……|瘍医《いしゃ》は何と言っている?」
 浩瀚は軽く眉を|顰《ひそ》めた。
「それが、まだ何とも言えない、と」
「そうか……」
「台輔にお聞きしたところでは、泰王、泰台輔は、延王、延台輔と御縁がおありだとか。しかも|雁《えん》には、戴からの|荒民《なんみん》が最も多く流れ込んでいます。とりあえず劉将軍の件を|報《しら》せて、何か分かることがあれば教えて欲しい旨の親書を、雁国の夏官、秋官に向けて送っておきましたから、近々、返答があるでしょう」
 陽子が頷いたとき、|側仕《そばづか》えの書記官である|女史《じょし》が積翠台に入ってきた。李斎が目を開けた、と言う。|慌《あわ》てて陽子は花殿へと向かったが、その時には李斎は再び目を|瞑《つむ》ってしまっていた。同じく呼ばれ、駆けつけた瘍医は、とりあえず李斎の容態に希望が持てることを告げた。
「|宝重《ほうちょう》の|碧双珠《へきそうじゅ》もございますから、近々好転するやもしれません」
「そうか……」
 陽子は頷き、病み衰えた女将軍の顔を見下ろす。
「こんな姿になってまで……」
 国を救うために、満身創痍になりながらやってきた彼女。
 ──何とかしてやりたい。
 自分に何ができるかは、分からないけれども。
 救ってやりたい。この将軍も、戴も──そして、泰麒も。

   6

 |李斎《りさい》は|眉間《みけん》に力を込めた。再び眠りに滑落していきそうな自分を鼓舞して、ようよう|瞼《まぶた》を持ち上げると、男の横顔が|間近《まぢか》にあった。
「なんか|譫言《うわごと》を──」
 男は耳を寄せていた動きを止めて李斎のほうを見、そして大きく笑む。
「ああ、目を開けた」
 その顔には見覚えがあったが、どこで見た顔なのか、李斎は思い出せなかった。男の肩越し、娘が駆け寄ってきて顔を覗かせたが、やはりこれも見覚えがあるような気がするばかり。
 誰だろう、こんな顔が|白圭宮《はっけいきゅう》の中にあっただろうか。
 思い出そうとしたが、|眩暈《めまい》がした。息苦しかった。ひどく身体が熱を帯びていて、全身のどこもかしこも痛んだ。
「大丈夫か? 俺が分かるか?」
 本当に心配そうに言われ、李斎は思い出した。
 ──そう、ここは戴ではない。ここは慶。自分は辿り着いたのだ。
「|虎嘯《こしょう》だ。……分かるか?」
 李斎は|頷《うなず》いた。徐々に視野が広がり、澄んできた。天井の高い|牀榻《ねま》の中にいるのだと分かった。天井が高いだけでなく、広い。枕辺には黒塗りの|卓子《つくえ》があり、男はその脇に座って李斎の顔を覗き込んでいる。
「虎嘯……殿」
「うん。大したもんだ。……よく頑張ったな」
 男は瞬く。感極まっているように見えた。虎嘯の背後に立って李斎を覗き込んでいた娘も|袖《そで》を|目許《めもと》に当てた。
 驚いた。生きている。
 李斎は軽く両手を|翳《かざ》した。左手はそれに|応《こた》えて視野の中に現れたが、右手は現れなかった。目線をやると、夜着の袖が厚みもなく|衾《ふとん》の上に投げ出されていた。
 虎嘯はなぜだか申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「さすがに右腕は駄目だった。……命があっただけでも、嘘のような話だ。辛いだろうが、失望せんでくれ」
 李斎は頷く。右腕は失ったのだ。妖魔に襲われて深手を負い、|縛《しば》り上げて止血しているうちに|腐《くさ》っていった。──勿論、そこに腕があるはずもない。堯天に|辿《たど》り着いたとき、すでに触れればも[#「も」は手偏に「宛」]げて落ちそうになっていた。そのまま落ちたか、あるいは手当のために切り落としたのだろう。
 だが、別段、心は動かなかった。利き腕を失えばもはや将軍職は|務《つと》まらないが主を救うことのできなかった将軍がどうして臣下を名乗れるだろう。もう、必要ないのだ。
 |虎嘯《こしょう》は|李斎《りさい》の首の下に手を入れて、頭を軽く持ち上げる。娘が|口許《くちもと》に|湯呑《ゆのみ》を|宛《あて》がった。何かが口の中に|僅《わず》かに流れ込んできた。それほど甘く、|馨《かぐわ》しいものを初めて口にしたように思ったが、すぐにそれは舌に|馴染《なじ》んで、水に過ぎないと分かった。
 湯呑を離して、男は笑う。
「もう、大丈夫だな。本当に良かった」
「……私は……」
「お前さんがどうしてあんな無茶をしたのか、それはようく分かった。あんたは言って、倒れたんだ。よくぞ陽子がいてくれた」
「景王は──」
「|瘍医《いしゃ》が許せば、すぐにでも連れて来てやる」
 李斎が頷くと、虎嘯は手を離して立ち上がる。
「|鈴《すず》、この人を頼むな。瘍医を呼んでくるついでに、陽子に耳打ちしてこよう」
「うん。早くしてあげてね」
 枕辺を去っていく虎嘯を目線で見送り、李斎は|牀榻《ねま》の天井を見上げた。
「私は……どれくらい時を無駄にしたのだろう……」
「そんな言い方をするものじゃないわ。たくさん眠るのが必要だったんだから。──前に一度、目を開けてから三日よ。倒れてから、もう十日近くになるわ」
「……そんなに……」
 目を閉じただけのつもりだったのに、そんなに眠っていたのか。それほどの時間を無駄にしてしまったのか。
 その時間が胸に苦しくて、李斎は喉に手を当てた。その指先に丸く|滑《なめ》らかなものが触れる。目をやって握ると、首に丸い珠が掛けられている。
「それは、本当は主上しか使ってはいけないものなの。陽子ったら──」
 言いかけ、娘はくすりと笑った。
「主上ったら、冬官を|脅《おど》して、|貴女《あなた》のために使わせたのよ」
「私の……ため?」
「慶国秘蔵の|宝重《ほうちょう》なんですって。本当に、貴女はいろいろと運が良かったの。倒れたのが他の場所や他の王宮なら、助からなかったかもしれないわ」
「そうか……」
 |李斎《りさい》には、それを喜んだものなのかどうか分からなかった。
 ──花影《かえい》。
 目を閉じると風の音ばかりが聞こえる。指先に珠の手触りが冷たく、その寒さが別れた友人の|貌《かお》を思い起こさせた。
 ──花影、|辿《たど》り着いてしまった……。
 李斎よりも十ばかり年上の、穏やかな|面差《おもざ》しをした女官吏。明晰だが優しく、恐がりに見えるほど慎重だった。最後に姿を見たのは、戴国南部の|垂《すい》州。そこで李斎は花影と別れ、ただ一人で慶を目指した。
 ──李斎、それだけは駄目。
 花影は風の中、身を震わせながら、李斎に言った。柔らかな声だったが、毅然とした調子だった。花影の顔にも声音にも、断固とした拒絶が漂っていた。李斎は悲しかった。花影にだけはせめて理解してもらいたかった。
「なんて浅ましい、恐ろしいことを」

 垂州の丘、李斎と花影は追っ手を逃れ、垂州候を訪ねようとしていた。垂州首都、|紫泉《しせん》。その紫泉に|聳《そび》える|凌雲山《りょううんざん》を目前にした丘の上には、春と花ばかりの冷たい風が強く吹いていた。振り返れば、丘の|麓《ふもと》には小さな|廬《むら》が見える。廬を取り巻いた農地は荒れ果て、そこに悲しく二、三の|冢墓《はか》が作られ、供養を受けることもなく放置されていた。
 丘を登る前、李斎と花影が立ち寄ったその廬には、すでに住人が残っていないようだった。その代わりに、荒れ果てた故郷を捨て、少しでも他国に近い場所へと逃げだそうとやってきた旅人が|僅《わず》かに数人、崩れかけた家の中で暖を取っていた。李斎と花影はそこで旅人に|白湯《さゆ》を恵んでもらい──そして、その噂を聞いたのだった。
 慶国に|胎果《たいか》の王が立った、と。
「まだ、お若い女王だそうです。港町にいた親戚の若いのに、去年だったかに聞いたんですけどね。年の頃は台輔と同じくらいとか……」
 力なく言った女は、満身創痍だった。垂州は妖魔の|巣窟《そうくつ》だった。戴の全土を覆った粛正の風も、垂州だけは避けて通る、と言われていた。実際のところ、彼女らは|里《まち》を捨て、一丸となって逃げてきたのだが、わすが半月の行程で、これだけしか残らなかった、と言っていた。彼女の腕の中には|襤褸布《ぼろぬの》で包まれた子供がいたが、その子供は、李斎らが最初に見て以来、ぴくりとも動かない。
「もしも台輔が御無事だったら、あのくらいの年頃だろうという話ですよ」
 李斎は白湯の礼を言ってその廬家を出たが、|一縷《いちる》の希望を見つけていた。
「御歳十数の女王、……|胎果《たいか》」
 表に|繋《つな》いだ乗騎の|手綱《たづな》を取りながら李斎が呟くと、花影が|怪訝《けげん》そうに振り返った。
「それがどうかしましたか?」
「花影、どう思う? 景王はさぞ故郷が懐かしいだろうな?」
「|李斎《りさい》?」
「故郷の|蓬莱《ほうらい》が懐かしく、故郷に縁あるものが|慕《した》わしいだろう。そう思わないか?」
 李斎の声は弾んでいたかもしれない。花影は何を言いたいのか分からない、という|貌《かお》をしていた。
「|台輔《たいほ》も|胎果《たいか》であらせられた。お歳の頃も近い。景王が台輔のことをお聞きになれば、ぜひとも会ってみたい、助けたいとは思われないだろうか。しかも慶には、|雁《えん》の|後《うし》ろ|盾《だて》があると、さっきの女が言ってたじゃないか」
 |花影《かえい》はぽかんとした。
「まさか、慶に助力を願うと? ……そんな」
「なぜ、いけない」
「だって李斎──王は国境を越えられません。武をもって国境を越えることは即ち、|覿面《てきめん》の罪を意味します。他国のために兵を|割《さ》くなど、ありえません」
「けれどさっき、花影だって聞いただろう? 延王は慶に手を貸した。景王は雁の兵を借りて乱れた国に入ったと言っていた」
「それは事情が異なります。雁には景王がおいでだったわけでしょう。延王が国境を越えられたわけではないと思います。あくまでも景王が、雁の|王師《おうし》をお借りになって、自国にお戻りになった。……けれども戴には、主上がおられないのですよ」
「しかし」
「|才《さい》国|遵帝《じゅんてい》の故事をご存じないのですか」
「遵帝の故事?」
「才国遵帝はその昔、|範《はん》に荒廃あることを憂えて、範の民を救済するため王師をお出しになりました。その結果の、|非業《ひごう》の|登霞《とうか》です。天は、たとえ民を救うためであろうと、王師をもって国境を越えることをお許しにはならなかったのだ、と言われています。だのに遵帝の|轍《てつ》を|踏《ふ》む王がおられましょうか」
 李斎はうつむき、そしてふと顔を上げた。
「そうだ……景王は胎果だ。ひょっとしたら遵帝の故事を知らないかも」
「なんて浅ましい、恐ろしいことを」
 花影は白く|窶《やつ》れた顔を驚愕と嫌悪に|歪《ゆが》めた。
「戴のために慶を沈めるというのですか? 今、貴女はそう言ったも同然なのですよ」
「それは……」
「駄目です。李斎、それだけは駄目」
 では、と李斎は吐き出した。
「どうするんだ、この国を」
 |李斎《りさい》は握りしめた手綱で丘の麓を示した。
「あの|廬《むら》を見ただろう。あそこにいた人々を見ただろう。あれが|戴《たい》の現状なんだ。主上の行方が知れない、|台輔《たいほ》の行方が知れない、泰を救ってくれるお方が、この国のどこにもおられない!」
 李斎は探した──この数年間。反逆者と呼ばれて追い立てられながら、その行方を捜し続けた。だが、|泰麒《たいき》は勿論、|驍宗《ぎょうそう》の姿を発見することもできなかった。その足跡を|辿《たど》ることさえ。
「春が来たというのに、耕されている農地がどれだけあった。この秋に収穫が得られなければ、民は飢えて死ぬしかないんだ。早く実りを得なければ、また冬がやってくる。冬が来る度に三|廬《ろ》は二廬に、二廬は一廬にと減ってきたんだ。今度の冬が過ぎて、どれだけの民が生き残る。あと何度、戴は冬を越えられると思う!」
「けれども……だからといって、|慶《けい》に罪を|唆《そそのか》して良いということにはなりません」
「戴には誰かの助けが必要なんだ」
 |花影《かえい》は拒むように顔を|逸《そ》らした。
「……私は|堯天《ぎょうてん》に行く」
 李斎が|呟《つぶや》くと、花影は|悼《いた》むような眼差しで李斎を見返してきた。
「お願いだから、それだけはやめて」
「|垂《すい》州候のところに逃げ込んでも、自分たちの安全が買えるだけだ。それすらも確かじゃない。これまでと同じように、垂州も病んでいるかもしれず、今後病んでしまうのかもしれない。また、逃げ出すだけの結果になるかも」
「李斎」
「……これしか道がないんだ……」
「では──ここでお別れです、李斎」
 花影の胸の前で組まれた指が震えていた。今にも泣き出しそうな花影の顔を見つめ、李斎は頷く。
「……仕方ない」
 李斎は王宮で花影と巡り会った。そこで|友誼《ゆうぎ》を得て、共に宮城を追われた。数年を経て、やっと再会したのはこの冬のこと、花影の出身地、|藍《らん》州でのことだった。藍州で一冬を何とか|凌《しの》ぎ、さらに追っ手を逃れ、南に隣接する垂州へと二人、辿り着いた。
 花影はじっと李斎を見つめる。やがて、袖で顔を押さえ、|微《かす》かな|嗚咽《おえつ》を|漏《も》らした。
「垂州は妖魔の巣窟です。南に向かい、沿岸に近づくほど酷くなる一方だと……」
「分かっている」
 花影は袖で顔を覆ったまま頷いた。再び顔を上げたときには、気丈な表情が浮かんでいた。藍州の|州宰《しゅうさい》を経て、六官の一、秋官長|大司寇《だいしこう》にまで登り詰めた能吏の|貌《かお》だった。その貌で一礼し、花影は李斎に背を向けた。
 ──確かに浅ましいことだ、と李斎も思う。
 景王が|遵帝《じゅんてい》の故事を知らなければいい、故郷に縁あるものを|懐《なつ》かしみ、情に流されて|戴《たい》を救おうと|起《た》ってくれることを期待している。起てば、|慶《けい》は沈む。王師が国境を越えた途端に景王は遵帝の|轍《てつ》を|辿《たど》るのかもしれなかった。だが、それでも慶の王師は残される。せめて一軍なりとも李斎の手の中にあれば。
 |酷《ひど》いことをしようとしている。
 花影はあくまでも李斎を|拒《こば》もうとするかのように、背を向けたまま丘を|紫泉《しせん》に向けて下っていった。振り返ることも、歩みを緩めることもしない。それを見送り、李斎は乗騎の手綱を取った。心細げに李斎と花影の後ろ姿を見比べる|飛燕《ひえん》の顔を覗き込む。
「泰を救おうと|足掻《あが》く|愚《おろ》か者は、私だけになったな……」
 李斎はその艶やかな黒い首の毛並みを|撫《な》でた。
「お前はあの方を覚えているだろう?」
 飛燕の鼻先に当てた額の中に|甦《よみがえ》る声。
 ──李斎、と高く嬉しげな声で。まろぶように李斎を目掛けて掛けてきて、そうして必ず、飛燕を|撫《な》でてもいいか、と。
「お小さい御手を覚えているな? お前は大層、台輔が好きだった……」
 くうん、と小さく飛燕が泣いた。
「私と一緒に、戴で最後の愚か者になってくれるだろう? ……行ってくれるか、飛燕」
 飛燕はその|漆黒《しっこく》の目で李斎を見返し、そして何の声も|漏《も》らさずに、ただ身を|屈《かが》めて乗騎を促した。李斎は飛燕の首筋に顔を埋め、そして|鞍《くら》に飛び乗る。手綱を握って|紫泉《しせん》のほうを見ると、人影がひとつ、心細げに立って李斎のほうを見つめていた。
(……花影)
 ──戴のために慶を沈めるというのですか?
 李斎は|牀榻《ねま》の天井にむなしく視線を漂わせた。そこに思い描く|貌《かお》には、嫌悪感と李斎に対する|侮蔑《ぶべつ》が濃く浮かんでいる。
(……けれども私は、そのために来たんだ)
 そして|辿《たど》り着いたばかりか、生きながらえてしまった──当の景王に救われて。
 李斎は|堪《たま》らず、目を閉じた。
(だからこれは、きっと運命なんだろう……)

   ※

 |汕子《さんし》は深く息を吐いた。|辺《あた》りに立ち込めた|鬱金《うこん》の|闇《やみ》。狭いようでいて果てがないようでもある「どこか」。
 ──間に合った。
 今度は離れずに済んだ。失わずにいられた。|朦朧《もうろう》とするほどの|焦燥《しょうそう》が通り過ぎて息を吐くと、|安堵《あんど》のあまり呆然としてしまった。
 我に返ったのは、いきなり鬱金の闇のどこからか、声がしたからだった。
「──これは」
 |僅《わず》かに驚いた調子の声に、汕子は我に返った。
「|檻《おり》だ」
「──|傲濫《ごうらん》」
 |蹤《つ》いてきていたのか、あの混乱の中を。感嘆半ば、檻、と問い返そうとして、汕子もそれに気づいた。
 馴染んだ泰麒の影の中だ。それが実際にはどこにあるのか、汕子にも分からない。鬱金の闇の落ちたどこか。上もなく下もなく果てがあるようでないようで。
 汕子ら妖は獣や人のようには眠らない。だから知らないが、知っていれば夢の中のようだ、と思っただろう。漠然と「どこか」だと分かる。実際にどこで、どんな場所なのかは分からない。鬱金の闇が落ちているのか、それとも弱い鬱金の光が射しているのだろうか──それさえも。
 だが、その「どこか」が狭い。明らかに狭いと感じる。何か恐ろしく硬いもので閉ざされているのを感じる。それはあながち金の光がいつもに比べ、恐ろしく弱いせいばかりではない。
 ──檻だ、確かに。閉じ込められている。
「これは……」
 |呟《つぶや》いたが、|喉《のど》を呼気が通った感触はない。ただ思っているだけ、呟いているつもりになっただけかもしれなかった。
「この|殻《から》は何だ」
 傲濫の声──これまた、声のような気がしているだけなのかもしれない──は困惑を|滲《にじ》ませている。
「殻……」
 |泰麒《たいき》だ、と直感した。泰麒であるものが、ひどく|頑《かたく》な印象を与えるもので包まれているのだ。汕子は試しに意識を外に向けてみる。普段なら「どこか」を抜けた汕子の意識は泰麒を取り巻いた気脈に触れるはずだが、それは|粘《ねば》るような抵抗に|遮《さえぎ》られた。
「影から出られない……?」
 いや、不可能ではない。強く強く念じれば、なんとか抵抗を突破できるだろう。だが、ひどく消耗しそうな予感はした。それは並大抵ではない気力を要することで、しかもかなりの苦痛を伴うに違いない。
 しかも、と汕子は周囲を見渡した──つもりになった。
 光が薄い。|泰麒《たいき》の気が小さい。眩しい輝きは感じられず、どこからか雨降るように降り注いでくる気脈の糸が恐ろしく細い。
「閉ざされている……」
 |傲濫《ごうらん》の声に、汕子は背筋を|粟立《あわだ》てた。
 麒麟は妖の一種だ。妖たちの、獣や人の|範疇《はんちゅう》を超えた力を支えるのは、天地から恵まれる気力だ。その、注ぎ込んでくる気力が細い。使令は気力を食う。なのにそれがこんなにも頼りない。
 注ぎ込んでくる入り口が細いのだ。泰麒をとりまく気脈が弱いというよりも、泰麒がそれを取り込むことができない。──角が、欠けている。
 ──|身喰《みぐ》いだ。
 汕子たちが泰麒の気力を食えば、その分泰麒が|損《そこ》なわれる。注ぎ込まれる気力だけでは、汕子らの命脈を保つには足りない。
 ──敵がいるのに。
 泰麒を襲った敵だ。突然の泰麒の|転変《てんぺん》。そして、|鳴蝕《めいしょく》。鳴蝕の起こし方など、泰麒は知らないだろう。それは麒麟に天与の物だが、泰麒は麒麟の力をよく理解できていない。本能的に鳴蝕を起こすほどのことがあったのだ。それが角が大きく損なわれていることと無関係であるはずがなく、その重大事が選りに選って汕子と傲濫が|驍宗《ぎょうそう》の許へと向かっている最中に起こったことである以上、それ自体も仕組まれたことに違いなかった。
 何者かが故意に汕子を泰麒の側から引き離したのだ。そうしてその隙に泰麒を襲った。麒麟が死ねば王もまた|斃《たお》れる。謀反だ、と汕子は呟いた。
 ──しかし、誰が?
 汕子は確かに蝕の最中、ひとつの人影を見ていたが、それが誰かを見て取ることはできなかった。おれが襲撃者だったのだろうか。あの者が謀反の首謀者だったのだろうか。噂通り驍宗を文州に|誘《おび》き出し、さらには泰麒を|唆《そそのか》して汕子らに驍宗の許へと向かわせた。結果、汕子らが離れて無防備になった隙を突き、泰麒を襲ったと言うことか。だが、敵は泰麒の襲撃に失敗したのだ。少なくとも泰麒を|弑《しい》すことはできなかった。敵はそれを察して再び泰麒を襲撃しに来るかもしれない。なのに、汕子らは存分に動くことができない。
 どうする、と|鬱金《うこん》の闇の中から|傲濫《ごうらん》の声がした。
「眠っていなさい」
 眠っているのが最も気力を食わない。無防備にはならない、獣の眠りだ。意識を解放して周囲の刺激を感じながら、身体を休めている。
「決して注意を怠らないように。──敵が追ってくるかもしれない」

 彼は|朦朧《もうろう》としたまま、|鯨幕《くじらまく》に導かれて一軒の家に辿り着いた。門の周囲から玄関先にかけては、黒衣に身を包んだ人々が集まっていた。菊の匂いと|抹香《まっこう》の匂いが立ち込めている。それらの人々が彼に気づいた。驚いたような声、駆けつける大人たち、その人垣の向こうから、やはり黒衣に身を包んだ一人の女と男が現れた。泣き崩れる女の背後、菊に縁取られた老婆の写真が見え、そして彼はようやく祭壇の置かれたその建物がなんなのかを理解した。それが自分の「家」であることを。
 ──今までどこに。
 ──どうしたの、何があったの。
 ──一年も経って。
 大勢が一時に上げる声が、波のように打ち寄せてきた。危うく溺れそうになった彼を岸辺に引き戻したのは、強い爪の痛みだった。彼の前に膝をつき、泣き|縋《すが》る女の爪が両の腕に食い込んでいる。
「……お母さん?」
 彼は瞬いた。なぜ母親はこんなにも泣いているのだろう、と不思議に思った。なぜこんなに大勢の人がいるのだろう。どうしてみんな声を張り上げているのだろう。この白と黒の幕は何だろう。なぜ祖母の写真が、あんなところに飾られているのだろう。
 首を傾げる彼の顔を覗き込んだのは、すぐ近所に住む女だった。
「今までどこにいたの」
「……今まで?」
 問い返した瞬間、彼の脳裏をあまりにも多くのものが|過《よぎ》ぎったが、それらは全て、彼がそうと認識する前に消えていった。後には深い空洞が残った。その空洞の奥底には、雪が舞っている。大きく重い雪片、それが舞い落ちる中庭。
 彼は中庭に|佇《たたず》んでいたはずだ。祖母に叱られ、庭に出された。そして──。
「なんで僕、こんなところにいるの?」
 彼が周囲の大人に訊いた瞬間、彼の中で重い蓋が落ちた。獣としての彼に所属した一切のものは、失われた角と一緒に固く封印されてしまった。
「こんなところって──」
 女は彼の方を|揺《ゆ》する。
「覚えてる? あなたは一年も行方が分からなかったの。お母さんもお父さんも、みんな死ぬほど心配して」
「僕が?」
 だって、ついさっきまで中庭にいたのだ、と指さそうとした腕に、いつの間にか伸びた髪が触れた。彼は自分の髪を不思議な気分で|摘《つま》んだ。
 きっと、と傍にいた老人が目頭を押さえた。
「お祖母ちゃんが呼び寄せなすったんだよ。最後に一目、会えるようになあ」
 言って老人は、周囲の者たちを見た。
「さあ、しばらく家族だけにしてやろう。出棺の前にちゃんとお別れさせてやらねえと」
 そうだ、と肯定する声に促され、彼は依然として泣いている母親と一緒に家の中へと連れて行かれた。
 こちらにおける彼の時間は、このときを境に再び動き始めた。同時にそれは、彼自身ももう覚えていない、もう一人の彼──泰麒にとっての長い喪失の始まりだった。

 

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誕生日:
1987/05/22

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