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黄昏の岸 暁の天 6章4~6

2010-08-08 22:18


   4

「|泰麒《たいき》はおそらく、角を失っていると思う」
 神と人の間に住まう|狭間《はざま》の女はそう言った。蓬山に辿り着いた、その翌日のことだった。
「……それは、どういうことなんだ? 何を意味する?」
 六太の問いに、|玉葉《ぎょくよう》は眉を|顰《ひそ》めた。
「そなたら麒麟の麒麟たる|所以《ゆえん》は、角にあると考えられるがよかろう。そなたらは、二形の生き物なのじゃ。麒麟が人に化けているのでもなく、人が麒麟になるのでもない。人と獣の二つの形を持っている。じゃが、泰麒には角がない。獣としての泰麒は形を失った。封印されてしまったと考えるのが正しかろう」
「じゃあ残った人としての泰麒は?」
「延台輔の言う通り、|只人《ただびと》だと考えるのが良いと思う。泰麒は|転変《てんぺん》できず、蝕を起こすことも天命を聴くこともできぬ。すでにある|使令《しれい》は泰麒の一部じゃから、失われることはないが、新たに使令を下すことはできぬ」
「連れて戻ることはできるか?」
「通常の蝕で只人を通すことはできぬ。蝕に巻き込まれて流れて来てしまうことはあるが、これは不足の事柄。意のままにすることはできぬ。付近にいれば、偶然巻き込まれる確率は増すが、確実に虚海を越えられるとは限らんようじゃの」
「何とかする方法はないのか?」
 ない、と玉葉は声音を低くした。
「蝕は摂理の中にはないのじゃ。天の意志で起こることではないゆえ、天が自在に支配することは叶わぬ。そんなことができていれば、みすみす|泰果《たいか》やそなたを|蓬莱《ほうらい》に流してしまうようなことはなかった」
「そりゃそうだ……」
 六太は息を吐いた。
「では、これはどうだ? 誰か王が渡って、泰麒を一旦仙籍に召し上げる」
「たとえ仙に召し上げたところで、伯以上の位を持つ仙でなくては、虚海を渡ることはできぬ。前にも言ったように伯位を超える位を新たに設けることは許されぬ」
「じゃあ、どうしろってんだ? そこに泰麒がいるんだぞ? 泰麒の肩には泰王と──ひいては戴の民の命がかかっている。なのに見捨てろと言うのか!?」
 |玉葉《ぎょくよう》は深い溜息をついた。
「泰麒には角がない。あの器はすでに閉ざされておる。天地の気脈から切り離された麒麟が、生き延びることのできる年限はあと幾らもないであろう、というのが、上の方々の見解だの。自ら|正《ただ》されるのを待て、と」
 黙って控えていた|李斎《りさい》は、思わず腰を浮かせた。
「それは死ぬのを待て、ということですか!?」
 玉葉は顔を|逸《そ》らす。
「そもそも、その上の方々とはいったい誰なのです」
「さて……」
「それは天帝諸神のことですか? そんな方々がいて、泰麒が|身罷《みまか》られ、再び|泰果《たいか》が|生《な》り、戴に新しい麒麟と王が立つのを待てと|仰《おっしゃ》るのですか──仁道をもって国を治めよと言ったその口で!」
 玉葉は沈黙する。
「それでは泰麒はどうなるのです? 泰麒にどんな罪があったというのですか。泰王は|如何《いかが》です。天帝が自ら泰麒を介して玉座に就けた王なのではないのですか。その王に|罪咎《つみとが》なく死ねと仰るのですか。残される民はどうなるのです。戴の民は六年というもの、阿選の圧政を耐えてきました。このうえ、泰麒が亡くなられるのを待てと言うのですか。そして新しい泰果が実って|孵化《ふか》し、さらに新たに王が選ばれるまで待てと? それは何年後のことなのです!」
「それは……」
「五年ですか、十年ですか? ──|玄君《げんくん》、戴はそんなに保ちません。それとも天は、新王が登極するまでの間、戴から妖魔を追い払い、冬の厳しさを和らげてくれるのですか」
「李斎……」
 |延麒《えんき》が李斎の腕を引く。李斎はそれを|振《ふ》り|解《ほど》いた。
「天帝は王に、|仁道《じんどう》をもって国を治めよと言われたのではないのですか。それが天綱の第一だったはず。にも|拘《かか》わらず、その王の上におわす方々が、仁道を踏みにじると仰るのですか。かくも|容易《たやす》く民を見捨て、仁道を踏みにじる方々が、これまで道を失った王を裁いてきたのか!!」
 玉葉は深く重い溜息を|零《こぼ》した。
「天には天の道理がある。|玉京《ぎょっけい》はその道理を通すことが全てなのじゃ」
「では、その玉京とやらにお連れください。私の口から天帝諸神に懇願します」
「それはできぬ。……李斎、|妾《わらわ》とて、泰麒を|不憫《ふびん》には思う……」
「では、泰麒をお助けください!」
 玉葉は憂いを込めた目で李斎を見た。
「泰麒を連れ戻って、それからどうするのかえ? 泰麒の使令はどうやら道理を失っている様子、そのまま泰麒の傍に留め置けば、妖魔のごとき災いを為そう。たとえ連れ戻っても使令は泰麒から引き離さねばならぬ。じゃが、使令すら|失《な》くせば、泰麒は身を守る術さえないのじゃえ? 王気も見えぬ。泰麒がいたからといって、泰王を捜せるものでもない」
「それでも、戴には台輔が必要です」
「諸国は泰を助けることができぬ。兵をもって|阿選《あせん》とやらを討つことは叶わぬ。連れ戻したところで泰麒は孤立無援じゃ。泰を救いたい、救わねばならぬという意志と、なのに何一つできぬという己の間で|苦吟《くぎん》せねばならぬ。──その結果がどうなるであろうな? 転変もできず使令もない麒麟に何ができるのかえ? みすみす兇賊に討たれる以外に?」
 私がおります、と李斎は叫んだ。
「使令に代わって、命に代えても台輔はお守りします。……いいえ、私ではとても使令の代わりになどならないでしょう。ですが、戴には台輔を待っている民がいます。台輔がおられれば、民は台輔の元に馳せ参じるでしょう。私一人の手では及ばずとも、多くの民が台輔をお守りいたします」
「それで阿選が討てるかえ? 何もできない泰麒が一人加わっただけで討てるものなら、とうにそなたら、討っておろ?」
「玄君ともあろうお方が、そのような愚かをおっしゃるのですか!」
「李斎」
「台輔に何ができるか、そんなことがそもそも関係あるとでもお思いか。台輔は麒麟です。その台輔に阿選を討てるはずがなく、戦においてどんな働きもなさることができようはずがない。それでも台輔は必要です──分からないのですか? 台輔がそこにいるかいないか、それが民にとって……私たちにとって、どんなに大きなことなのか」
「じゃが……」
「台輔は、私たちの希望なのです。玄君。台輔も主上もおられない戴には、|些《いささ》かの|煕光《きこう》もない。何をしてくださるかは、今は問題ではありません。戴の民には、希望のあることを納得するために台輔の存在が必要なのです……」
 玉葉はあらぬほうを見る。しばらく苦吟するように奇岩の間から射し入る光の帯を見詰めていた。
「……延麒」
「はい」
「|雁《えん》の三公の誰かを、一時、罷免できるかえ」
「一時なら」
「泰麒の戸籍を雁に用意しや。泰麒にはもともと戸籍がないが、戴の|荒民《なんみん》ということで体裁だけが整えば良い。しかる後に、延王君を渡らせよ。仙籍に入れて|三公《さんこう》に|叙《じょ》す」
「麒麟を雁の国民にできるのか?」
「してはならぬ、という文言はないの。自国の麒麟は戸籍に含まれぬ、とはあるが、他国の麒麟についての言及はない。三公についても同様じゃ。その国の民でなければならぬとあるが、それが他国の麒麟であってはならぬという記述はない」
 玄君、と李斎は歓喜の声を上げた。だが、玉葉は振り返らなかった。
「礼は言わないほうが良かろう。泰麒だけを連れ戻っても、何の解決にもならぬ」
「泰麒は?」
 口を挟んだのは陽子だった。
「泰麒には角がないという──それは、どうにもならないのですか?」
「場合による。こればかりは泰麒に会ってみなければ分からぬ。連れ戻ったら、一度ここへ連れて来や。|治癒《ちゆ》が叶うようなら手を貸そう。いずれにしても、使令は一度引き離さねばならぬ。必ず連れてくるよう」
 玉葉は|頷《うなず》き、李斎らを見た。
「……天には|理《ことわり》があり、この理を動かすことは誰にもできぬ。是非を言うても始まらない。全ては理があってこそ成り立っておるのだから。天もまた条理の網の中、民に非道を施すことなど許されぬ──それだけは、天も地も変わりはない。それを決して疑わぬよう」
 李斎無言で、ただ頭を垂れた。

   5

 李斎が待ちかねた言を聞いたのは、蓬山から戻ったその日のことだった。
 |蘭雪堂《らんせつどう》に駆け込んできた|廉麟《れんりん》は、|蠱蛻衫《こせいさん》を脱いで声を上げる。
「李斎──いました!」
 李斎は凍りついた。待ちかねた報せを受け、嬉しいより恐ろしくて身体が動かない。
「使令たちが、泰麒のお姿を発見しました。|傲濫《ごうらん》と|汕子《さんし》と──確かに」
 ああ、と李斎は呻く。残された左手で胸を押さえ、そして顔を上げた。
「それで、泰麒は」
「御無事です。私が行ったときには、すでにその場を立ち去っておられましたが、気配を|辿《たど》ることができました。あの建物の中におられます。使令を残しましたから、二度と見失うことはありません」
 李斎は天を仰いだ。不思議にも、天に向かって謝辞が|漏《も》れた。──そう、天が存在するものなら、過ちもあろう、不備もあろう。だが、それを正すこともできるのだ。過たない天はそれを正すこともない。
 それで、と|氾麟《はんりん》が声を上げた。
「|尚隆《しょうりゅう》が迎えに行くのね? どうするの?」
 妖でなく、しかも二形を持たない王は、|呉剛環蛇《ごごうかんだ》を|潜《くぐ》ることができない。神とは言ってもその塑形は人でしかない。
「どのみち戻りは泰麒が一緒だ。呉剛の門を開く」
「……大きな蝕になるね」
 仕方なかろう、と尚隆は呟く。
「できるだけの司令を使って、災異が最小限に留まるようにする。それでどの程度のことができるかは分からぬが、とりあえず宗王に願って、あちらの三国からも使令を借り受けている。あとは|鴻溶鏡《こうようきょう》か。使える限り裂いて、できるだけのことをするしかあるまい」
 氾麟は頷く。
「それで──いつ?」
 氾王の声に、尚隆は短く答えた。
「明日」

 どこで門を開くかが、慎重に検討された。虚海の果てが望ましく、それも陸地からできるだけ離れるに越したことはないが、遠く離れていれば被害を|免《まぬが》れるというものでもないところが|蝕《しょく》の度し難いところだった。
「これが本当の、運を天に任せるってやつだ」
 六太が言って使令を呼ぶ。騎獣は虚海を越えられない。使令が尚隆を運ぶ。
「──|悧角《りかく》、頼んだぞ」
 悧角にそして、景麒から借り受けた|班渠《はんきょ》、最も足の速いこの二騎を連れ、半日をかけ、できるだけ大陸から遠ざかる。気脈に|隠伏《いんぷく》した無数の使令がそれに従う。
 |清香殿《せいこうでん》の露台からそれを送り出した六太は、ようやく息を吐いた。蓬山で陽子らと別れ、まっすぐ雁へ駆け戻り、玉葉に言われた通り|采配《さいはい》して書面を整え、|御璽《ぎょじ》を|携《たずさ》えて戻ってきたのが今朝のこと、ようやくこれで、全ての準備は整った。
「……お疲れ」
 |欄干《らんかん》に|顎《あご》を乗せていると、背後から声がする。振り返ると、陽子が立っていた。
「かつてないくらい、よく働いた……。陽子はいいのか、公務に行かないで」
「さすがに今日は手につかないみたいだ。身が入ってないと言って、|浩瀚《こうかん》に叩き出されてしまった」
「あらま」
「もっとも、同じことを私が今朝、やったんだけどね。|景麒《けいき》に」
 六太は声を上げて笑う。
「まあ、そうだろうな。景麒に|懐《なつ》いていたからな、ちびは。景麒も弟のような気分がしてたんじゃないのか。奴にしては驚くべきことに、よく面倒をみていたようだから」
 景麒が、と陽子は目を丸くする。
「珍しいだろ?」
「……仰天するほど珍しい」
 軽く笑い合った時だった。慌ただしく|氾麟《はんりん》が駆けてくる。何気なく振り返った六太は、氾麟のその|貌《かお》から、良くない報せなのだと悟った。
「──どうした」
「様子を確認に行ってた|廉麟《れんりん》が戻ってきて。泰麒は、こちらを覚えていない、って」
 |莫迦《ばか》な、と六太は|呟《つぶや》き、|蘭雪堂《らんせつどう》に駆けつける。中ではそそけだった顔色をした廉麟と景麒、そして|李斎《りさい》が棒を呑んだように立ち尽くしていた。
「廉麟──」
「延台輔、泰麒が……」
「会ったのか? 覚えないってのはどういうことだ」
 廉麟は青白い貌で首を横に振る。
「泰麒は? |穢瘁《えすい》はそんなにひどいのか」
「ひどいのは確かです。でも、御無事です……ええ、とにかくまだ命はおありです。けれども泰麒は、こちらのことを覚えていらっしゃいません。ご自分が何者で、使令たちが何で、何が起こっているのか──まるで」
 くそ、と延麒は吐き捨てる。
「角か。──そういうことだったのか!?」
「そう……角がないせいなのかも。延台輔……どうすれば」
「どうするもこうするも」
 記憶があろうとなかろうと、呼び戻さないわけにはいかない。あのままにしておけば、泰麒の寿命は知れている。しかも度を失った使令がいる。あちらに置いておいても災いを成すだけ、真に開放されてしまった|饕餮《とうてつ》が、何をやらかすかは想像もつかない。
「尚隆に|報《しら》せは」
 私が、と氾麟が言う。
「残った使令に追いかけさせたわ。|遁甲《とんこう》できるから、すぐに追いつくと思う」
 よし、と延麒は|呟《つぶや》く。
「とにかく、泰麒はこちらに連れ戻さないといけない。本人が嫌がるなら、|攫《さら》ってでも。あとは……もう知るもんか。ひょっとしたら角さえ治してもらえれば、それで思い出すかもしれない」
 言って延麒は李斎を見る。
「それでもいいな? 覚悟できるな?」
 はい、と李斎は痛々しいほどに白い顔で頷いた。

   6

 ──その夜、|蓬莱《ほうらい》と呼ばれる国の|遙《はる》か海上、海面に落ちた月影に異変が起こった。
 四方に陸の光は見えない。見事に|凪《な》いで|疵《きず》ひとつない海面が、敷き延べたように広がっていた。船の姿は勿論、生き物の姿さえも見えなかった。ただ、その中央にぽつんと、白い石のように月の影が落ちている。
 |縮緬皺《ちりめんじわ》を刻む水面に|映《うつ》り、|歪《ゆが》んでは|砕《くだ》ける月の影が、ふいに|膨《ふく》れて真円を描いた。
 その真円の光の中に、突然、水面下から黒い影が|躍《おど》り出た。無数の影は宙に舞い上がり、そこで一旦、動きを止める。その下方で月の影は細り、元の形を取り戻すと、再び波にその形を砕かれた。気脈が乱れる。それはそのまま気流の乱れと化して、怒濤となって海を泡立て始めた。
 現れ出た使令たちは遠い岸を目指す。|鴻溶鏡《こうようきょう》によって分かたれた妖魔、黄海から召集された妖魔を含め、それは未曾有の数に昇った。彼らは粛々と岸辺へ打ち寄せ、そしてそこで声を上げた。|唸《うな》りを上げる風の中、ここに、という彼らの叫びが、さらに逆巻く風を誘う。迎えられる者をその岸辺に呼び寄せる声、迎える者を呼び寄せる声、それらが風音に混じって浜辺に渦巻く。それはやがて、岸辺からはひとつの影を、荒れ狂う海上の彼方からは、ひとつの騎影を呼び寄せた。
 岸辺に|彷徨《さまよ》い出てきたほうは、風雨の中に混じる声なき声が、自分を呼んでいることを自覚していた。彼の中で長く封じられてきた獣の本性に、それは届き、響いた。何と言っているのか分からない。なぜ呼ばれるのかも分からない。──けれども、来いと言っている。
 ……迎えが、来る。
 長く彼の本性に伸し掛かっていた重い蓋は、動こうとしていた。|奇《く》しくも、それを動かしたのは、彼を捜す者たちが残していった見えない金の糸だった。彼を求めて|彷徨《さまよ》う者たちは、それと意図しないまま彼の周囲に、|蜘蛛《くも》の巣のように軌跡を張り巡らせていたのだった。それは彼の、今や|漆黒《しっこく》に染まった影の中に、細く金の命脈を辛うじて注ぎ込んだ。
 そして、ついにその蓋をこじ開けたのも、やはり彼を捜していた者だった。|廉麟《れんりん》は、間違いなく岸辺に辿り着いた彼を見届けた。ふと|蠱蛻衫《こせいさん》を取り、|転変《てんぺん》してみる気になった理由は彼女自身にも分からなかった。彼女はただ、かつて会った自分を訴えたかったのかもしれないし、貴方は麒麟なのだ、と訴えたかったのかもしれない。彼女自身は、その行為が彼にとってどんな意味を持つのか分かってはいなかった。人として蓬山に呼び戻され、麒麟と呼ばれながらそれを自覚できず、麒麟が如何なる者かも真に理解はできなかった彼が、始めて[#入力者注:「始めて」は「初めて」の誤用?]それを受けとめたのが景麒による転変であったことなど知る由もない。それは、彼が「彼」から「泰麒」へと成り変わった瞬間の、ひとつの象徴だった。
 廉麟が金の軌跡を残してその場を駆け去った時、彼は思い出していた。
 ──泰麒である自分を、戴を──王を。

 風は雨を含んで夜の岸辺へと突進する。それに押し流されるようにして彼方から騎影が|辿《たど》り着いた。それが吹き寄せられたのは、灰色の陰鬱な海岸だった。波頭が|千切《ちぎ》れて|礫《いしくれ》のように飛散する中、ひとつの影が|汀《みぎわ》に立ち尽くしていた。
 |尚隆《しょうりゅう》はただ、|悧角《りかく》の背からその影を見下ろした。見下ろされた者も、ただ尚隆を見上げてきた。
「──泰麒か」
 問われたほうは、明らかに震えた。
 |見《まみ》えたのは、虚海の彼方、共に胎果で故国での姿を知らない。たとえ泰麒が虚海の彼方を覚えていても尚隆が分かるはずもなく、また尚隆も泰麒と分かるはずがない。──ただ、濡れた髪が巻き上げられて|昏《くら》い光を弾き、それが尚隆にこの者特有の希有な色を想起させた。そして、その漆黒の双眸が。|勁《つよ》いものの|撓《たわ》められた、その、色。
「泰麒、と言って分かるか」
 相手は頷いた。口は開かない。尚隆は悧角の背に騎乗したそのまま、有無を言わさず手を伸べた。指を相手の額に|翳《かざ》す。
「──延王の権をもって太師に|叙《じょ》す」
 言うや否やの|弾指《だんし》、とっさに目を|瞑《つむ》って一歩を|退《さが》った相手の、空を|掻《か》いた腕を握って|悧角《りかく》の背に引きずり上げる。自らは飛び降り、その獣の背を叩いた。
「悧角、行け!」
 それは体を|翻《ひるがえ》し、波頭に切り崩される|汀《みぎわ》を残し、逆巻き押し寄せる風を切り裂いて疾走し始めた。見送った尚隆の足許で|班渠《はんきょ》が促す。その背に飛び乗り、そして尚隆は背後を振り返った。疾走する班渠の背から視線で岸を|薙《な》ぐ。
 押し寄せる波に|翻弄《ほんろう》されている岸と、岸に向かって広がる街と。すでに国はなく民もなく、ましてや知人の一人もない。──ならばそれは、まぎれもなく異国だ。
 故国を時間の中に沈め、現れた異国に彼は軽く目礼をする。
 ──国と人との|弔《とむら》いに代えて。

 東から雲が押し寄せる。風が吹いて、未明の|堯天山《ぎょうてんざん》の峰を洗う。雲の|鈍色《にびいろ》に黒く一点が現れて、六太は思わず爪先立った。それは一点から二点に分かれ、風に吹き押されるようにして飛来し、峰にぶつかるような速度で到達すると、広大な露台の奥へと弧を描いて舞い降りた。走り寄る先にあるのは、人影を背に乗せた使令の一対、人影の一方が使令とともに駆け寄る人々を振り返り、そしてもう一方は使令の背に伏したままその場に傾いて落ちた。
 景麒は我知らず、六太と先を争う|体《てい》で駆けつけ、そして足を止めた。六太もまた|蹈鞴《たたら》を踏む。短く|呻《うめ》くような声を発した。
 白い石の上に落ちた人影は周知の年齢よりも僅かに|少《わか》い。硬く目を閉じた土気色の顔にはおよそ生気がなく、あまりにも衰弱の色が濃い。石の上に散った鋼の髪は、景麒らにすれば無惨に思えるほど短く、投げ出された腕も病んだ色をはっきりと|顕《あらわ》して細かった。見るからに痛々しく、助け起こしたくは思っても、それ以上一歩たりとも傍に寄ることができない。──圧倒的な屍臭。
「……ちび、なのか……?」
 言いながら六太は僅かに退る。景麒もまた、無意識のうちに退った。
 厚く濃く|怨詛《えんそ》が|泰麒《たいき》を取り巻いている。それは押し迫る壁のようにして、景麒らを排除する。濃厚な血の臭いと吐き気のするような屍臭、|凝《こご》ったような怨詛で、それが目に見えないのが不思議なほどだ。
「……どうして、こんな」
 六太は呟いて、根負けしたように数歩逃げた。景麒は辛うじてその場に踏みとどまったが、それ以上は断固として近寄ることができなかった。
「あれが、|泰麒《たいき》か?」
 景麒は振り返る。陽子に頷いて、肯定を伝えた。陽子は軽々と、その見えない障壁を突き抜けていく。その後をまろぶように|李斎《りさい》が追った。
「ねえ、これは何なの!?」
 主に|縋《すが》ったままの氾麟が叫ぶ。
「こんなの|穢瘁《えすい》じゃない──血の|穢《けが》れなんかじゃないわ! これは泰麒自身に対する怨詛じゃないの!」
 

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黄昏の岸 暁の天 6章1~3

2010-08-08 22:17


六章


   1

「──見つけました」
 |蘭雪堂《らんせつどう》に駆け込んできた|廉麟《れんりん》は声を上げた。|景麒《けいき》と|六太《ろくた》は席を立つ。眠そうに主の膝に|凭《もた》れ掛かっていた|氾麟《はんりん》もまた顔を上げた。
「|泰麒《たいき》の気配です。それも最近、残されたばかりの」
「どこだ」
 大股に歩み寄った六太を伴い、廉麟は|孤琴斎《こきんさい》に取って返す。その後を景麒が追い、氾麟は|弾《はじ》かれたように|清香殿《せいこうでん》へと駆け出していった。
 短く屈曲した|曲廊《ろうか》の向こう、孤琴斎の|框窓《いりぐち》から淡く|幽光《ひかり》が|漏《も》れている。廉麟の腕に巻きついた銀の蛇の片尾は、まだそこで丸い光明を点していた。廉麟に手を取られ景麒が潜り抜けた明かりの先には、暗く無機的な空洞が広がっていた。
 完全に方形の|匣《はこ》のような建物、空洞としか呼びようのない|殺伐《さつばつ》とした室内には、やはり何の興趣も感じられない殺伐とした机が何十と並んでいる。廃墟にも似た荒廃が漂う牢獄のような|堂室《へや》、──その光景に、景麒は見覚えがあった。
「これは……学舎ですか?」
 かつて景麒が蓬莱に主を迎えたとき、同様の堂室を見た。
「教室だな」
 言ったのは六太で、景麒はいつものように、少しばかり居心地の悪さを感じた。金の光輝は麒麟のそれに間違いないが、そこに立っている子供は、どう見ても延麒に似てはいない。
「泰麒の学校かな」
 呟きながら周囲を見回す六太に続き、廉麟が姿を現して、教室の隅に|点《とも》った|幽光《あかり》が消えた。
「……延台輔、景台輔、あそこに」
 廉麟は小走りに机の間へと向かって床の一点を指す。
「これです。|使令《しれい》が見つけてくれたのですけど」
 廉麟が振り返った相手は、今にも霞んで消えそうに見えた。朧に揺らめき、時として人の輪郭を失い、獣の姿を露呈する。
 その影に向かって廉麟が示した先には、深い紺に見える床の上、細い光の線が今にも消えそうなほど弱く、途切れ途切れに続いていた。
「これは麒麟の気配ですね?」
「だと思います。……しかし」
 そう答えた景麒の声は、陰に|籠《こ》もって聞き取り|難《にく》かった。
「あちらに続いています」
 廉麟は小さく身震いすることで、その|堂室《へや》──教室の壁をすり抜ける。暗く空虚な廊下には、いくつかの影が幽鬼のように|彷徨《さまよ》っていた。使令たちが|蠢《うごめ》く床の上には、細く|鱗粉《りんぷん》を落としたように光の軌跡が残っている。
「あの先で途切れてしまうのですけど、これは泰麒です。しかも数日以内に残されたものだと思うんです」
 景麒は眉を|顰《ひそ》め、深く頷いた。
「間違いないでしょう……しかし……」
 言いよどんだ景麒の先を、淡々と六太が引き継ぐ。
「麒麟にしては|禍々《まがまが》しい」
 |穢《けが》れですな、といつの間にか廉麟の足許に現れた白い小さな獣が言った。獣はその鼻面を床に寄せ、淡い光の軌跡を嗅ぐ。
「血の臭いでございましょう。これはちと厄介な」
「やはり……そうだと思う、|什鈷《じゅうこ》?」
「血と|怨詛《えんそ》──|穢瘁《えすい》でございますな、間違いありますまい。いったい何があったのか。泰麒は病んでおられる。しかも、かなり悪い」
 そう言って彼は、床に向けた鼻を|忌《い》まわしそうに鳴らした。
「……これは|女怪《にょかい》の気配かの。どうにも|酷《ひど》い死臭がする」
 その臭気は、廉麟にも景麒にも、そして六太にも明らかだった。忌まわしい穢れの臭い、それが本来は澄明であるべき麒麟の気配を禍々しく彩っている。いったい泰麒に何があったのか──委細は分からずとも、そとつだけ確実に分かることがある。そもそもこの場には、戦場にも似た汚臭が漂っている。
「|傲濫《ごうらん》が妖魔の性を取り戻していることといい、|汕子《さんし》の気配が荒れていることといい、泰麒の周辺で良くないことが起こってるな」
 六太の声に、景麒は呆然と頷いた。血と|殺戮《さつりく》の気配。その渦中に麒麟としての本性を喪失してしまった泰麒がいる。これでは──保たない。
「こりゃあ、急がないと|拙《まず》い。泰麒はかなり病んでいる。泰麒が病んでいる以上、使令も病んでいると見るべきだ。傲濫も汕子も力を喪失したわけじゃないみたいだが、何の変わりもないのなら、泰麒をこの穢れの渦中に置いておくはずがない」
 景麒はその光の軌跡に触れてみる。
「失くしているのは、道理を判ずる理性のほうなのかもしれません。もしも使令が病んだ挙げ句に|喪心《そうしん》しているのだとしたら、彼らこそがこの穢れの元凶なのでは」
「かもしれない。何らかの弾みで流血沙汰を起こし、|箍《たが》が|外《はず》れて止まらなくなったのかも」
 ──そして、本性を失くし深く病んだ泰麒には、使令を抑える力が、もうないのだ。
「これの行く先は分かりましたか?」
 哀願するように廉麟は周囲の闇に向かって問いかけた。そこここに|蠢《うごめ》く無数の影からは無情な沈黙だけが返ってきた。廉麟は顔を覆った。
「近くまで来ていることは確かなのに……」
「探してみよう。どこかで途切れた先を見つけられるかもしれない」
 六太が言って、光の見えない暗い空洞の中へ足を踏み出した。景麒と廉麟もそれを追う。廊下の片側に並ぶ虚ろな教室、井戸のような階段、人間の気配が絶え深閑と|蟠《わだかま》る闇の中を、淡い光を求めて|彷徨《さまよ》う。建物の周囲には、同じく異形の姿を|曝《さら》した使令たちが、微かな痕跡を探して這い廻っていた。
「……どこにもいない」
 悄然と廉麟が言ったのは、建物中を彷徨い尽くしてからだった。廉麟は、あの細い軌跡の見える教室へと戻って、切なくそれを見下ろした。依然として異臭と、そして淡い輝きを放っているその痕跡。少なくとも昨日、今日に残されたものではないようだが、これよりも新しい痕跡が見あたらないということは、泰麒はもうここにはいないのか。
「延台輔、景台輔、……どうすれば」
「行く先が分からないんじゃあ……」
 深い溜息を|零《こぼ》した六太に、景麒は硬く言い放つ。
「落胆している余裕はありません。その必要もないでしょう。かつてここにいたことは確実になったのですから、諦めるには及ばない。かつてここにいた、ということは、また来ることもある、ということなのかもしれません。とにかく、ここを起点に捜索を広げていきましょう」
 廉麟は頷いて、辺りに向かって呼びかけた。
「|半嗣《はんし》」
 床に黒々と落ちた影が、|粘《ねば》る音を立てて持ち上がった。
「よく見つけてくれました。しばらく見張りに残します。頼みますね」
 |鎌首《かまくび》を|擡《もた》げた不定形の影は、承諾するように身を揺すった。すぐにずるずると溶け落ちて、元の影に戻っていった。

   2

 |孤琴斎《こきんさい》に淡い光が満ちて消える。そこから真っ先に滑り出た六太は、周囲に集まって待ち構えていた人々の顔を見渡し、大きく頷いた。
「|泰麒《たいき》だ。|間違《まちが》いない。だが、泰麒は|病《や》んでいる。それもかなり悪い」
「どういうことなのですか」
 咳き込むように言ったのは、|李斎《りさい》だった。
「それがよく分からない。多分、|穢瘁《えすい》だと思う。血の|穢《けが》れによって病んでいる。それもかなり悪い状態だ。泰麒の気配があそこまで細いのは、そのせいもあるのかな」
「では──麒麟の本性を喪失しているわけではなく?」
 いや、と六太は目を逸らした。
「やはり泰麒はもう麒麟とは呼べない。力のほとんどを喪失していると見たほうがいい。さらにそれに穢瘁が伸し掛かっている。どうやら使令が暴走しているようだが、それを抑えることさえできないんだ」
「そんな……では、泰麒は」
「気配はあそこで途切れている。だが、必ずあの近くにいるはずだ。できるだけ急いで見つけ、連れ戻さないといけない」
 李斎は、|幽光《あかり》の中から戻ってきた|廉麟《れんりん》、|景麒《けいき》の顔を見る。六太も含め、どの顔にも苦渋の色が濃かった。急いで連れ戻さなければ最悪の事態になる、と彼らの表情が告げている。
「……どうにか……どうにかならないのですか」
 李斎の叫びに、廉麟が|詫《わ》びるように|項垂《うなだ》れた。
「今のままでは、とても手が足りません……それに」
 言って廉麟は顔を上げる。
「もし、見つけたとしても、どうやって連れ戻せばいいのでしょう?」
「どうやって?」
 廉麟は李斎に頷き、救いを求めるように一同を見た。
「泰麒が麒としての本性を失ってしまわれたのなら、今はただの人──蓬莱人だということになりませんか? その人を、故意にこちらへ連れ戻る術があるのですか?」
 |堂室《へや》の片隅でこれを聞いていた陽子は、はっとした。確か、言われたことがある。求めてこちらに来ることはできないのだ、と。
「本当に|只人《ただびと》になってしまわれたのなら、|呉剛環蛇《ごごうかんだ》を通すことができません。いえ、そうでなくてもあのように|膨《ふく》れ上がった|使令《しれい》がいては。蝕を起こして強引に通す術があるのかもしれませんが……」
 六太が考え込むように首を傾げた。
「やってみないと分からないな……。だが、泰麒は今や、こちらにとっては異物かもしれない。だとしたら、こちらは泰麒を拒む。しかも、無理に通すことができたとしても、あちらにもこちらにも甚大な被害が出るんじゃないのか」
「……私は」
 陽子は口を開いた。
「景麒と契約をすませていたが、天にも認められた王ではなかった。その私が何とか景麒に渡してもらえたのだから、麒麟としての本性を失っていても、泰麒だって渡ることはできるんじゃないか? そう──そもそも、私も泰麒も|胎果《たいか》なのだし」
「陽子は、ほとんど王だった。泰麒はほとんど麒じゃない。……何が起こるか分からない。天がどう見なすか」
「やるしかないであろ」
 |拘《こだわ》りもなげに言ったのは氾王だった。
「連れ戻らねば、戴は沈む。|甚大《じんだい》な被害があろうとも連れ帰るか、さもなければ一思いに泰麒を殺害して|泰果《たいか》を待つか」
「無茶苦茶を言うな」
「泰麒を|殺《あや》めるのが嫌なら、被害は覚悟するしかなかろう」
 分かっている、と吐き出す六太の声に|被《かぶ》って、氾麟が|怖《お》じ|気《け》たような声を上げた。
「あの……泰麒がもしも只の人なら、仙に召し上げることはできない?」
「仙に──」
「仙に召し上げれば、虚海を渡ることができるんじゃないの? 蝕がある以上、被害のあることは避けられないけれど、それなら被害は最小限で収まるんじゃあ」
 そうか、と六太は呟く。
「だが、どうやって仙に召し上げる」
「主上がお渡りになればいいんだわ。王が渡れば、それだけ蝕は大きくなる。けども、只の人を強引に渡すよりもましかもしれないじゃない」
「乱暴だが一理ある」
「でしょ?」
 六太は頷いて、自らの主を見た。
「お前……行くか?」
 問われた尚隆は、壁に|凭《もた》れ、腕を組んでいる。やがて、
「行ってもいい」
 そう|呟《つぶや》いて、|漏窓《まど》から外を見やった。
「……五百年ぶりの祖国というわけだ」
 |漏窓《まど》から射し入る月光が、尚隆の面に複雑な陰影つけていた。尚隆は目を細め、そしてその場を見渡す。
「陽子──いや、景麒、お前だ。おれは|奏《そう》へ行ってくる。|誼《よしみ》を結ぶ機会だ、一緒に来い」
「奏へ……ですか?」
 困惑したように問い返す景麒に頷く。
「泰麒は|蓬莱《ほうらい》で見つかったと|報《しら》せておく必要があるだろう。ついでに、できるだけ使令が必要だと泣きついてみよう。──六太、お前は|蓬山《ほうざん》だ。もう一度、陽子を連れて行って、これまでのところを報告してこい」
 例によって|玄君《げんくん》に伺いを立てるのだ、と陽子は納得したが、李斎は|怪訝《けげん》そうに尚隆を見返した。
「……蓬山が何か?」
「玄君に会ってきてもらう。泰麒の様子も、使令の様子も尋常ではない。無理に渡せば何が起こるか分からぬ。そもそも渡すことが叶うのか、渡して連れ戻していいものなのか、何もかもが定かではない。玄君にお伺いを立てておく必要がある」
 尚隆の言に、さらに李斎は首を傾げた。
「それは……どういう。蝕と|碧霞玄君《へきかげんくん》に何か関係があるのですか?」
「蝕との間に関係はないが。天には天の|理《ことわり》がある、ということだ。行為の是非を|量《はか》ることができるのは天だけだが、天は我々と接触しない。唯一、窓口となるのが玄君だからな。廉台輔には御苦労だが引き続き──」
「お待ちください!」
 李斎は声を上げた。
「それは、玄君を介して天の意向を問う、ということなのですか?」
「そういうことだが」
「では──では、天はあるのですか!?」
 尚隆は頷く。|李斎《りさい》は何者かに背後から|襲《おそ》い|掛《か》かられたような気がした。
「天がある? では……では、どうして天は戴をお見捨てになったのです!?」
「李斎」
「天があり、天意があり、天の神々がおられるのなら、なぜもっと早く戴を──こんなことになる前に助けてはくださらないのですか!? 戴の民は血を吐くような気持ちで天に祈念を」
 |阿選《あせん》の目を|懼《おそ》れ、夜陰に|紛《まぎ》れて、粛々と祠廟に並んでいた人々。その名を出すこともできないゆえに、|荊柏《けいはく》の実をただ祭壇に供えて。深まる荒廃、冬を越えることは年ごとに難しくなっていった。木の実一つが生死を分けようかという困窮の中で、供え物を捻出し、一本の香を|焚《た》くことが、どれほどの願いを背負っているか。
「自分たちの手でできることが何一つなかったからこそ、民はひたすら祠廟に足を運んでいたのですよ? それでもなお、天が救ってくださらないからこそ、私は罪を承知で景王をお訪ねしたのです。天が……天の神が僅かの救いなりとも恵んでくだされば、私は利き腕を失ってまで海を渡ったりしなかった……!」
「それは言っても|詮無《せんな》いことだ」
 けれど、と言いかけ、李斎は|凛《りん》と尚隆を見る。
「では、私もお連れください」
「今は急ぐ。そなたは身体を|厭《いと》うていろ」
「もう治りました」
 言い放つ李斎を、尚隆は見返した。
「その腕で騎獣に乗れるのか?」
「大丈夫です。|飛燕《ひえん》なら乗せてくれます」
「騎獣か? ものは?」
「|天馬《てんば》です」
「足は速いな……。蓬山までなら飛びきることができるか。……強行軍になるぞ」
「構いません」
 では、と尚隆は李斎に言う。
「行ってくるがいい。他ならぬ戴のことだ。その手で天意を|掴《つか》んでこい」

   3

 |李斎《りさい》たちは、休む間もなくその未明、|金波宮《きんぱきゅう》を飛び立った。雲海の上をひたすら越える。慶国の|凌雲山《りょううんざん》を転々と|辿《たど》り、食事を|摂《と》る間も惜しんで|蓬《ほう》山を目指した。|黄海《こうかい》を取り巻く|金剛《こんごう》山、その峰で僅かな眠りを得たのは|堯天《ぎょうてん》を発って三日目、申し訳なく思うのは、明らかに|李斎《りさい》が陽子と|延麒《えんき》の足を引っ張っていることだった。たとえ|馴《な》れた|飛燕《ひえん》でも、片腕で騎獣を駆るのは思った以上の難事で、しかも飛燕はそもそも|すう虞《すうぐ》[#「すう虞」の「すう」は「馬」偏に「芻」の字。Unicode:U+9A36]ほども速くない。しかしながら飛燕でなければ、今の李斎には乗りこなすことができないことも確実だった。──こういうとき、気にするまいと心に決めた喪失が胸に重い。
 無言で|労《ねぎら》ってくれる陽子と延麒に励まされ、四日目にようやく蓬山に着いた。やっと、と思うと同時に、これほど|容易《たやす》いのか、と李斎は思わずにいられなかった。李斎はかつて、雲海の下、黄海を踏破して蓬山へと往復した。その時の苦労を思えば、何と言う違いだろう。雲海の上を飛べば、これほど容易い──つまり天は、それだけの代償を|昇山《しょうざん》する者たちに求めているのだと思うと、口の中が苦かった。
 それは、白い祠廟の前に一人の女が立っているのを見て、さらに深まった。陽子に聞けば、何を報せずとも、|玉葉《ぎょくよう》は来訪者のあることをちゃんと察しているのだ、と言う。
 玉葉は延麒から事情を聞くと、李斎らに休んでいるよう申しつけて消えていった。朱塗りの扉から蓬山を下り、宮のひとつを|宛《あて》がわれ、陽子と共に落ち着いて、李斎はその場に突っ伏した。
「……李斎? どうした──具合でも?」
 李斎は首を振る。意味もなく泣けて|堪《たま》らなかった。
「|玄君《げんくん》は、私を覚えておいででした」
 ああ、と陽子の困惑した声が降る。玉葉は、延麒に「戴の者だ」と言われた途端、昇山者の中にいた者だろう、と言い当てたのだ。
「なぜなのです? ──私は、玄君になどお会いしていない!」
「李斎……」
「玄君は、何も|報《しら》せていなくても、我々の来ることをご存じだった。会ったこともない私のことを覚えておられた。それはなぜです?」
 見上げた陽子は、困ったように李斎の背を撫でている。
「何もかも見通しておられるのですか? ならば戴で何が起こったか、それだってご存じだったはずだ!」
「けれど……李斎、戴は遠いから」
 心許なげに陽子は言う。李斎は激しく首を振った。
「私は──かつて、黄海を越えて昇山しました。景王は、黄海の旅がどういうものだか、ご存じですか?」
「いや……私は」
「妖魔の|跋扈《ばっこ》する不毛の土地です。たくさんの昇山者が群れを集って蓬山を目指しましたが、幾人もの同行者が命を落としました。道もなく休む場所もなく、本当に荒野としか呼びようのない場所を、妖魔に|怯《おび》えながら命賭けで越えるのです。二月近くもかかるその道のりを、私は丸一日で飛んでしまった。雲海の上を越えれば、たったこれだけのことなんだ」
 陽子は李斎の目を見ながら、黙って耳を傾けている。
「昇山の者たちは、天意を|諮《はか》るために蓬山を目指します。それはなぜですか? そこに麒麟がいるからですか? ただ麒麟に会うだけなら、雲海の上を越えてくればいい。そうすれば誰もが安全に、麒麟に面会することができるんです」
「ああ……そうだな」
「黄海を越えねばならぬと思うから、民はみんな二の足を踏む。しかも一度入れば、簡単には出られない。長い長い旅になります。それがたった四日です。これだけのことで往復できるのであれば、民はもっと容易く昇山できる。王が登極するのだってずっと簡単になるはずです。──違いますか?」
 確かに、と陽子は首肯した。
「そもそも、天は民の人柄を見比べ、最も王に適する者に天命を授けると言います。私はそれを疑ったことがなかった。けれども、天は実際にある、と言う。そう言われて初めて私は疑問に思います。それはどういうことなのですか? 天が不可思議な力で──玄君が我々の来訪や、会ったこともない昇山者の顔を知っていたように、誰が王なのか見通している、ということなのですか? では、昇山するまでもなく、王は決まっているということではないのですか。ならば、何のために私たちは命を賭けて黄海を越えねばならなかったのです?」
 陽子は眉を|顰《ひそ》めた。──確かに、|可怪《おか》しい。
「麒麟に面会し、天意を|諮《はか》ってみなければ誰が王だか分からないというのなら、それはとても高いけれど、国と民のために必要な代償です。ですが、そうでないのなら、それはったい何なのですか? 黄海で死んでいった者たちは、何のために死んだのです?」
 これはいったいどういうことなのだろう──と、陽子は考え込んだ。
 確かに李斎の言う通りだ。天が|予《あらかじ》め民の全ての資質を見通し、中から最前の者を王として選択することができるなら、昇山などという手続きは必要ではない。それはできない、麒麟の目を通さなければ、王として適するかどうかを見抜けないというのであれば、なぜ陽子のような例──まったくこちらのことを知らず、泰果として生まれ、ごく当たり前の高校生をやっていた人間に天命が下る、などということがあるのだろう。景麒は王気があった、と言う。だが、王気とは予め王たる者が定められていて初めて生じ得るものではないのか。
「これほど高い代償を──しかもゆえなく要求しながら、そうやって選んだ王に対して、天は何の手助けもしてくださらない。|驍宗《ぎょうそう》様に、王として何の落ち度があったというのですか。それは勿論、|瑕疵《かし》のない王などいないでしょう。天にすれば、見限るだけの理由があったのかもしれません。ならばなぜ、|阿選《あせん》を黙認なさるのです? あれほどの民が死に、苦しんでいるのに、なぜ正当な王を助け、偽王を罰してはくださらないのです!」
「李斎……」
「天にとって──王は──私たちはいったい、何なのです!?」
 陽子は唐突に思った。──神の庭。
 そういうことなのかもしれない。この世界は、天帝の|統《す》べる国土なのかも。天の玉座に天帝があり、陽子が六官を選び、官吏を仙籍に入れるようにして神々を選び、女仙を登用する。
 思った瞬間、|目眩《めまい》を感じた。──では、李斎のこの叫びは、民の叫びだ。
 確かに陽子はかつて、これに似た叫びを慶の街で聞いた。
「李斎……私はその問いに答えられない。けれども一つだけ、今、分かったことがある」
「分かったこと?」
「もしも天があるなら、それは|無謬《むびゅう》ではない。実在しない天は過ちを犯さないが、もしも実在するなら、必ず過ちを犯すだろう」
 李斎は不思議そうに首を傾ける。
「だが、天が実在しないなら、天が人を救うことなどあるはずがない。天に人を救うことができるのであれば必ず過ちを犯す」
「それは……どういう……」
「人は自らを救うしかない、ということなんだ──李斎」
 

黄昏の岸 暁の天 5章6~

2010-08-08 22:17


   6

 夏は秋へ向かって|滑《すべ》り落ちようとしていた。だが、|蘭雪堂《らんせつどう》の中は、依然として重苦しい倦怠感に支配されていた。いくら探しても|泰麒《たいき》の所在が分からない。|傲濫《ごうらん》の気配だけは顕著だったが、それは麒麟が残す明らかな|光跡《こうせき》に比べ、あまりにも|曖昧《あいまい》で|掴《つか》み所がなかった。六太が持ちこんだ地図は無為に|塗《ぬ》り|潰《つぶ》されていく。
「傲濫の居場所さえ分かれば、そこに泰麒がいるということではないのか?」
 |尚隆《しょうりゅう》は訊いたが、これに対する麒麟たちの返答は否、だった。
「そんな簡単なことだったら、とっくに見つけてるわよ、お|莫迦《ばか》さん」
 肩を|窄《すぼ》め、|氾麟《はんりん》は呟く。
「……いることは分かるわ。とても嫌な感じがするから。そちらのほうに近づこうとするとさらに嫌な感じが増すから、そちらのほうがより近いんだってことは分かるんだけど」
「では、より近いと感じるほうへ向かっていけばいいだけのことだろうが」
 あのね、と氾麟は尚隆を見上げる。
「傲濫が柱のように動かなければ、それで確かに探し出せるでしょうよ。嫌がる使令や、不本意ながら逃げよう逃げようとする自分の本能が余計な雑音を入れなければ、さらに簡単。でも、傲濫は動いているの。しかも力が増したり減ったりするの。多分、傲濫が起きているときと眠っているときとでは、気配の強さが違うんだと思うわ。だから、一生懸命、威圧感の強いほうを捜していても、見失っちゃうの。見失ったのは遠ざかったせいなのか、傲濫が眠ったせいなのか分かんないの!」
 氾麟は我知らず、足を踏みならした。蓄積した疲労が、氾麟を苛立たせている。
「俺に当たるな」
「尚隆なんかに当たったら、私のほうが壊れちゃうわよ!」
 氾麟は声高く言って、小走りに蘭雪堂を出て行った。呆れて見送る尚隆の顔に、ぺしと|扇子《せんす》が投げつけられる。
「そこん山猿。うちの|嬌娘《ひめ》を|虐《いじ》めるでない」
 尚隆は氾王の放った扇子を|忌々《いまいま》しげに拾った。
「|貴様《きさま》な……」
「|台輔《たいほ》たちは最善を尽くしている。最善を尽くしているのにままならぬ──一番それが腹立たしいのは誰だえ? ただ見守っているだけの私やお前が、つべこべ口を挟むようなことではないよ」
 氾王に言われ、尚隆は押し黙った。
「特に|梨雪《りせつ》は、|傲濫《ごうらん》とやらの気配に|怯《おび》えているんだよ。|其許《そこもと》の小猿と違って繊細にできているからねえ」
「単に臆病なだけだろう。傲濫は別に|泰麒《たいき》から解き放たれたわけではあるまい」
「獣は危険に敏感なものだよ。獣としての本性が、危険を拒むのだから仕方あるまい。|胎果《たいか》の麒麟と違って、獣としての性がそれだけ強い。本人にもどうにもならないのだから責めるでない」
 言って氾王は、|廉麟《れんりん》と|景麒《けいき》を見る。
「お二人も、無理はなさらぬよう。今日はもう休まれてはいかがか。こうも連日では身体が持たぬであろ。特に景台輔は御公務の合間を|縫《ぬ》ってのことゆえ」
 そうですね、と廉麟が溜息を落とした。意向を伺うように見つめられ、景麒もまた頷く。どこか後ろ髪を引かれる様子で|蘭雪堂《らんせつどう》を退出していった。
「確かに……かなり疲れているようだな」
 景麒を見送って尚隆は呟く。氾王は同意した。
「|呉剛環蛇《ごごうかんだ》を使ってとはいえ、消耗するようだからね。……どれ、私は|嬌娘《ひめ》を|慰《なぐさ》めて寝かしつけてこよう」
 |裳裾《もすそ》が立てる|衣擦《きぬず》れを残し、氾王が堂を出て行くと、後には尚隆と廉麟が残された。立ち去る|素振《そぶ》りのない廉麟を見やり、尚隆は首を傾げる。
「寝ないのか?」
「……はい。休む前にもう一度だけ|潜《くぐ》ってみます。どうぞ延王はお気遣いなく」
「忌々しいが、範のあれの言うことが正しい。何より廉台輔の負担が最も大きい。このままでは身体が保たぬ。休んだほうが良かろう」
 |呉剛環蛇《ごごうかんだ》を使う限り、その出入りには廉麟が必ず立ち会わねばならない。同行する麒麟たちは交代でできるが、肝心の廉麟は休む間がない。
「私はさほどでもありませんから」
「嘘は言わぬことだ」
 廉麟は薄く微笑む。
「……本当のところは、異国に流されておしまいになった泰麒のことを考えると、眠ることができないのです。いったい何が起こったのか、今頃どうしておられるのかと、そればかりが気になって……。頭では、もう大きくおなりだろうと思うのですが、どうしても、あんなにお小さくて|稚《いとけな》くていらしたのに、と思えて」
「廉台輔は泰麒にあったことがおありか」
「はい。二度だけ──それも一度は、泰麒が蓬山に戻ったときのことで、|汕子《しんし》[#ふりがな原文ママ「しんし」→「さんし」の誤植]に呉剛環蛇を提供しただけなのですけど。もう一度は、戴に異変のあった直前です。わざわざ蓬山でのことの、お礼を言いに漣までいらしてくださったんです」
 あのときの様子が忘れられない。その直後に不幸があったのだと思うと、|真摯《しんし》に別れを惜しんでくれたことまでが切なかった。漣からはあまりに遠い国のこと、二度と会うことはないのかもしれないとは思ったが、こんな形の別離を想像したわけではなかった。
「主上も、とても心配なさっていました。特に、泰麒が泰王と別れることは不幸なことだ、とおっしゃって」
「──不幸なこと?」
「泰麒はとても泰王を|慕《した》っておられる様子でしたから。泰王のお役に立って、王に喜んでもらえることが、泰麒が心から望むことだったんです。主上は、私がいなければ王宮に自分の居場所がないように、泰麒も泰王に喜んでもらえなければ居場所を見つけられないのだろうと言ってらっしゃいました。私もそうなのだろうと思います。……いいえ、たとえそうでなくても、麒麟が主と離れることは、とても不幸なことです」
「そんなものかな……」
「私たちは、王がお側にいなければ生きていられないのですもの」
 王との別離は身体を裂かれることだ。麒麟は国のためにあり、民のために存在すると言うが、実状はそうではない──と、廉麟は思う。
「国のため、民のためにあるのは、むしろ王です。私たちはその王のためにあります」
 廉麟は顔を|覆《おお》う。
「王のものなんだもの……」
 温かい手が、|項垂《うなだ》れた廉麟の肩を叩く。
「手伝えることはあるか?」
 廉麟は顔を上げる。
「図面を……地図を見ていていただけますか?」
「承知した」
 廉麟は微笑んで|孤琴斎《こきんさい》へと戻り、そしてこの日何度目か、銀の蛇の尾が作る|幽光《あかり》の中へ|潜《くぐ》った。潜って出た先は、緑も山もない石ばかりの荒涼とした街だった。海はあっても岸辺は|堰《せ》き止められ覆い隠され、まるでその存在を|疎《うと》まれているように見える。
 街自体が巨大な空洞のよう、こんな所に──と感じてしまうのは、廉麟がこちらの住人ではないからだろうか。痛ましい気分で、先ほどまでの捜索の続きにかかる。頼りになるのは|傲濫《ごうらん》の気配──それを忌避しようとする自分の中の|怯懦《きょうだ》だけだった。
 無人の夜道を見渡し、より進みたくないほうを選ぶ。傲濫は多分、目覚めている。先ほど、気配を見失い、捜索を|諦《あきら》めた時よりも気配が強くなっていた。分かりやすいが、そのぶん身体が怖じける。無意識のうちに、そちらへ行くのを避けようとする。それを強いて抑え、あえて恐怖と嫌悪を誘うほうへと向かい、そして堪えかねて廉麟は|膝《ひざ》をついた。
「台輔……廉麟様」
 おろおろと|什鈷《じゅうこ》が飛び出してきた。大丈夫、と|微笑《ほほえ》み、起きあがろうと地についた手、そこに廉麟は、やっとそれを見つけた。|蜘蛛《くも》の糸のように細い金の|燐光《りんこう》。それは弱く、しかも細く、今にも溶け消えてしまいそうだった。だが、その輝きの儚さで分かる。これは、泰麒だ。まるで病んででもいるかのような暗い光。廉麟たちが残した軌跡の|残滓《ざんし》では絶対にあり得ない。
 廉麟は顔を上げたが、高い建物の間に敷き延べられた道には、これより他に何の光も見えなかった。まるで足跡のように──あるいは|血痕《けっこん》のようにぽつんと残された光跡。
「……何があったのですか?」
 漣で会った泰麒の姿と、今ここに残る淡い光跡と。それはあまりに遠く隔たっている。
「……でも、間違いなくここにおいでなのですね」
 その光はあまりに淡く、いつ残されたものとも分からない。光跡が途切れてしまい、行き先を|辿《たど》ることもできない以上、この街のどこかにいるのだと、すでに分かっていたことを確認したに過ぎなかった。だが、やっと見つけたそれは、廉麟の苦行を|報《むく》いるに足りた。
「必ず、見つけて差し上げます。……待っていてくださいましね」
 そっと触れた指の先、それは廉麟自身の気配に負けたように溶け消えていった。

   ※

 闇は|錆《さ》び付いていく。赤褐色の乾いた血の色に染まった闇は、|汕子《さんし》の身体にも|錆《さび》色の|濁《にご》りをまとわりつかせていく。
 同時に汕子は、|焦《あせ》りを強くしていった。
 ──私の|泰麒《たいき》が。
 まるで毒のように何かを盛られている。蓄積したそれはどこかの時点から、泰麒の命脈をも|蝕《むしば》み始めた。日々それは細くなる。このままでは死んでしまう。──失われてしまう。
 殺してやろうか、と|歯噛《はが》みする音が錆色の闇のどこからか聞こえた。
「やめて。とりあえず世話をする者が泰麒には必要なのだから」
「|虜囚《りょしゅう》だ」
「虜囚である間は殺されはしない……」
「だが、毒を盛られている」
 分かっている、と汕子は爪で胸元を裂く。色素のない肌に|掻《か》ききられた数条の傷、赤いものが|滴《したた》って流れ落ちていく。
 ──死んでしまう。殺されてしまう。
 |焦《あせ》りは、それでなくても病んだ汕子の意識をさらに|狭隘《きょうあい》にする。今や汕子には、こちらの世界に住む人間の全てが、敵に見えていた。看守の住む牢獄、牢獄を取り巻き、泰麒を監視し、事あるごとに危害を加えようとする彼ら。
 ひとつ報復を行うごとに、闇は|錆《さ》びつき汚濁を深くしていく。それは泰麒の命脈を|損《そこ》ない、汕子をも汚染していく。もはや汕子には虚海のこちらとあちらの事情さえ判然としない。
 分かっているのは、敵がいる、ということだけだった。|驍宗《ぎょうそう》を|弑《しい》そうとし、玉座を奪おうとする誰か。その誰かは今や、泰麒の命までも取ろうとしている。
 ──それだけは、絶対に許さない。

 振り返ってみれば、すべてはこちらとあちらの段差に|躓《つまず》いた汕子のささやかな誤解から生じた。汕子は、泰麒をとりまく世界が根底から変化したことを、ついに理解できなかった。泰麒を庇護せんがための報復は、新たな迫害を生み、やがてそれは新たな敵意と憎悪を呼び寄せることになった。迫害は激化した。同時に汕子らの報復もまた激化していった。苛烈を極める報復が、さらなる迫害を招き、次第にそれは加速度的に拡大していった。
 もはや泰麒は世界に敵するものであり、憎悪される対象だったが、汕子はそれをも理解できなかった。報復によって流された血の|穢《けが》れ、押し寄せる|怨詛《えんそ》は泰麒の影をさらにどす黒く染めていった。それは汕子の──なにより|傲濫《ごうらん》の、妖としての本性を開放する。力だけが増大し、それと反比例するように彼らの理性は侵蝕されていった。
 |破綻《はたん》はもう目前にあった。
 

黄昏の岸 暁の天 5章3~5

2010-08-08 22:16


  3

 李斎はしばらく臥室でその帯を見詰めていた。
 ──まだ繋がっている。
 確かにそうだ、と李斎は自分に言い聞かせた。|琳宇《りんう》に近い鉱山で、あのころまでまだ玉を掘っていたのは|函養山《かんようざん》しかない。文州で最も古いと言われるその鉱山は、完全に玉泉が枯れ、当時からすでに三等級以下の玉を細々と掘っているだけだったと記憶している。
 驍宗が消息を絶ったのは琳宇の外れでの戦闘の最中、そして函養山からこれが見つかった。ならば驍宗は函養山で敵の手に掛かったのだ。それからどうなったのか──それは不明だが、少なくとも李斎は戴に戻りさえすれば、驍宗の足跡を追うことができる。
 李斎は息を詰めて指を組んだ。諸国が泰麒を捜してくれるという。だが、もしもそれが巧くいかなかったとしても、李斎の打つ手が尽きたわけではない。
 言い聞かせていると、大らかな声がした。
「李斎──|桂桂《けいけい》は?」
 振り返ると|虎嘯《こしょう》だった。
「先ほど、景王が訪ねてこられて人払いなさったとき、|厩《うまや》に行くと言っておられたが」
「おかしいな。来るときには|厩《うまや》を覗いたんだが、姿が見えなかったんだがな。ちっとも一つ所に落ち着いていないな」
 |李斎《りさい》は微笑む。
「お元気でいらっしゃる」
「まあ、元気なのは確かだが」
「良い|御子《おこ》だ」
 まあな、と自身が|褒《ほ》められたかのように、|虎嘯《こしょう》は照れた笑いを浮かべた。
「あれでなかなか苦労人だが、変に|拗《す》ねたところもないし」
「身寄りがおられないのでしたか」
「うん。もともと父母を亡くして里家にいたんだ。姉がいたが、死んでしまって」
「お可哀想に……」
「寂しいだろうが、それを胸の内に納めているから小さくても一人前だ」
「本当に御立派なことです。しかし、虎嘯? 本当に|桂桂《けいけい》殿に厩の手伝いなどしていただいてもいいのでしょうか。桂桂殿には勉学やお役目があおりなのでは。それに、|飛燕《ひえん》は穏やかな気性だけれど、あれも騎獣の一種だから、万が一ということも」
「なに、本人がやりたいと言ってるんだから」
 言って虎嘯は苦笑する。
「殿はいらんよ。桂桂には。立場から言うと|奄《げなん》だからな」
「仙籍には入っておられない?」
「まだ小さいからな。陽子は大きくなってから、自分で道を選んで欲しいと思っているようだな。……なんか、妙だな。あんたの口ぶりを聞いていると、桂桂が太子か何かのようだ」
「……そうか?」
 李斎にはその自覚がなかったが、振り返ってみれば確かにそうかとも思う。
「そう言えばそうだな……なぜだろう」
「何だ、自分でも分かっていなかったのか」
 李斎は頷く。その耳に、邸のどこかから流れてくる歌声が届いた。明るく澄んだ声だ。生き生きとした若い女の声──。
「あれは|祥瓊《しょうけい》だろうか。|女史《じょし》も|女御《にょご》もこちらに頻繁に出入りなさっているようだな」
「ああ──うん。そうなんだ。出入りしていると言うか、ここに住んでいると言うか」
 李斎は瞬いた。
「ひょっとして、どらちかは虎嘯の?」
 とんでもない、と虎嘯は手を振った。
「預かっているだけだ。まあ、どらちも赤の他人で」
「……あのお二人も?」
 |李斎《りさい》が問うと、|虎嘯《こしょう》は困ったように笑う。
「そうだな、変に思うだろうなあ。……俺はそもそも官吏とは縁のない|無頼漢《ぶらいかん》って奴で」
「景王は、虎嘯が義賊を率いていたと言っていた」
「そんな大したもんじゃない。|質《たち》の悪い役人がいて、それをやっつけるのに、ちょっとばかり勇気のある連中を集めてたってだけだ。普通だったら反を起こした時点でお尋ね者になるところなんだが、たまたまその勇気ある連中の中に陽子がいてな」
「……景王が? 義民の中に?」
 これは内緒だ、と虎嘯は笑った。
「陽子は|胎果《たいお》だ。こっちの生まれじゃないんだ──それは?」
「聞いたが……」
「うん。だから、こちらのことが分からないんだ。それで市井に出て、有名な義塾の学頭をしたことのある|遠甫《えんほ》の許に身を寄せていた。つまり、勉強に行っていたんだな。それがたまたま、俺の起こした騒ぎの中に巻き込まれる格好になって」
「……そうか」
 委細は分からないなりに李斎が頷くと、虎嘯は視線を落とす。
「陽子は登極して間がない。俺はあいつは、立派な王になる素質をもっていると思うが、そう思わない連中もまだ沢山いる。そもそも慶に女王が立ってろくな事があった|例《ためし》がねえ。しかも胎果だ。分かって当たり前のことが分からない。だから、みんな不審の目で見る。とりあえず官吏の整理も進めちゃいるが、逆臣も多い。特に処分を|逆恨《さかうら》みしている連中がいて、そいつらは陽子に何をするか分からない」
 李斎は目を見開いた。王朝の始まりはそういうものだが、景王は喜んで迎えられるに足る王に見えた。
「ろくでもない結果になる前に、女王など|潰《つぶ》してしまえ、という連中もいる。だから危険で|路寝《ろしん》には素性の知れない官吏を置けないんだ」
 言われてみれば、と李斎は納得した。かつていた花殿でも、ほとんど官吏の姿を見かけなかった。正寝だというのに、花殿の|周《まわ》りは閑散としていた。李斎の面倒を見ていた女御も、鈴というあの娘だけ、|祥瓊《しょうけい》と呼ばれる女史が時折出入りしていたが、李斎はそれ以外の下官の姿を見たことがなかった。
「……それは、私が警戒されているのだと思っていた」
「そういうわけじゃない。今はまだ路寝に人が少ないんだ。俺たちは、以前からいた下官を陽子の周りに置きたくない。よほど人柄のしっかりした信用できる者だけ──それを確認しながら、少しずつ人手を増やしている、というところだ」
 李斎は唖然とし、それが普通なのかもしれない、と思い直した。景王の言う通り、戴は|仮朝《かちょう》がしっかりしていた。そもそも驕王が朝をそこまで荒らさなかった。驍宗その重臣の中から、周囲の人望を得て立った。その戴でもあのようなことが起こり得る。
「慶はまだ……大変なのだな……」
「もう少しの辛抱だ。俺はそう思っているがな」
 |李斎《りさい》は頷いた。未だ朝廷の落ち着かぬ慶、そこに李斎は転がり込んで、登極間もない朝廷を必死で治めようとしている彼女に、罪を|唆《そそのか》そうとしたのだ。今更ながら自身の選択の重大さが身に|沁《し》みた。恐ろしい|過《あやま》ちを犯すところだった。踏み|留《とど》まることができたのは、決して李斎自身の功績ではない。
 たくさんの負担をかけている。そもそも慶は戴のために|割《さ》く余力などないはずなのだ。なのに景の若い王は、国土を支えようとする手の中に李斎までもを引き受け、当然のことのような顔をして、できる限りのことをしてくれている。
 ……これ以上を望んではならない。
 泰麒を捜してくれるという。それだけで十分だ。たとえ泰麒が見つからなくても、慶に来たことは無駄ではなかった。
 そんなわけで、と|虎嘯《こしょう》はどこか照れたように言葉を続けている。
「陽子の周りには人が少ないんだ。生活の面倒は鈴の他に一人、もともと俺の仲間だった女が見ているだけだ。女史に至っては|祥瓊《しょうけい》という、あの娘しかいない。小臣は俺の仲間だった奴、あとは禁軍の将軍が、絶対に信用できるという人間を厳選して置いてある。だもんだから、俺たちは宮殿に詰めっぱなしなんだ。官邸を貰っても、そこに帰る暇がない」
「それで、こんなところに?」
「そういうことだ。──俺には弟があって」
「実の弟御?」
「そうだ。今は|瑛《えい》州の|少学《しょうがく》にいる。少学の寮に入っているんだ」
「それは将来が楽しみだな」
 まあな、と虎嘯は嬉しげに笑った。
「少学にやりたかったが、実際に行ってしまうと、何と言うか、寂しいもんなんだな。俺には弟以外、肉親がない。鈴とは親しいが、まさか男所帯に一緒というわけにもいくまい。そうしたら、陽子が|遠甫《えんほ》と|桂桂《けいけい》を預かってくれ、と言う」
「ああ、それで太師のところに」
「そういうこった。俺が預かるのはいいが、まさか大僕の官邸に太師を置くわけにも行かないだろ? しかも遠甫も始終陽子の傍にいるからな。陽子はこちらの政治の仕組みに|疎《うと》いから、まだまだ勉強中というところだ。それで遠甫がここを|賜《たまわ》って、世話をする俺もここに越してくることになったという──そういうところだな」
 言って虎嘯は照れくさそうに笑う。
「そういう俺も、誰かに行儀作法を聞かないとどうにもならん。何しろ出自は場末の|舎館《やどや》の親父だからな。桂桂にだって勉強をさせてやらなきゃな。もともとあいつは頭がいいんだ。だから遠甫の面倒を見るのは願ったり|適《かな》ったりなんだが、今度は|女手《おんなで》がないので、家が回らない。結局、鈴やら祥瓊まで引き受けて、ご覧のような有様になった」
「それは──|賑《にぎ》やかだ」
 まったくだ、と虎嘯は笑う。
「陽子は人を使うのが達者なんだと思うぜ。分かっていたんだと思う、自分の大僕が、でかい図体の割に寂しがりやだということがな。俺は周囲に人が|溢《あふ》れていないと落ち着かないんだ。しかも宮中なんざ、想像の|埒外《らちがい》だ。一人で官邸にいろと言われたら、何日も続かなかっただろう。大勢いるお陰で、何とか|保《も》ってる」
「おまけに私までが転がり込んでしまった」
「陽子が、ここのほうが気が抜けていいんじゃないかと言ったんだが、|煩《うるさ》かったら勘弁してくれ。ついでに、俺たちが不作法なのも気にしないでくれると嬉しいんだが」
 とんでもない、と李斎は笑う。それほどまでに信を置いている者たちに預けてくれた、ということが嬉しかった。
「景王は……良い王におなりだろう」
「|余所《よそ》の将軍様にそう言われると、嬉しいもんだな。うん……まあ、俺もそうなって欲しいと思ってるよ。巧く行かなかったら辞めちまえばいい俺たちと違って、王や麒麟には他の道がないからな」
 確かに、と李斎は頷く。良い王になるか──そうであり続けるか、破滅するかだ。王にはそれ以外の道がない。
「泰王も立派な人だったんだろう? 禁軍の|桓たい《かんたい》[#「桓たい」の「たい」は「鬼」+「隹」Unicode:+9B4B]って奴が、そう言ってた。うちの左軍の将軍なんだが。登極する前からすごい人だって、軍人さんの間じゃ有名だったんだって?」
「そう……私もそう思っていた」
「無事に戻ってくるといいな。泰王も泰台輔も。……まずは台輔か」
 李斎は頷く。せめて泰麒だけでも見つかって欲しい。でなければ、戴は救われない。
 粛然としていると、軽い足音がした。見ると、桂桂がやってくるところだった。光の溢れる戸口から、花を抱いて駆け込んでくる笑顔。
「北の|庭院《なかにわ》に|芙蓉《ふよう》が咲いてたよ」
 差し出された花のひと枝、李斎はそれと桂桂を見比べた。
「……桂桂殿はいくつにおなりだ?」
 訊くと、くすぐったげに、十一になった、と言う。
「……そうか──そうか」
 |含羞《はにか》んだふうの桂桂の笑みが|歪《ゆが》んだ。笑んだまま、水の中に閉ざされ、歪んでしまう。
「……李斎様?」
 もう、その笑みが見えない。なの゛李斎は手を伸ばした。残された片手の中に置かれる手、小さく、暖かく、|気遣《きづか》うように握りしめられる力。
「……|貴方《あなた》は、お幸せでいらっしゃるか?」
「僕……? あの、ええ」
「そう……」
 李斎、と呼ぶ屈託のない声、李斎を見つければ、みろぶようにして駆けてきて、笑顔を向けてくれた。そこに|飛燕《ひえん》がいれば必ず、|撫《な》でてもいいか、と──。
「台輔もちょうど、貴方くらいのお歳だった……」

 どうぞ、泰麒が戻ってきますように──李斎はその日、初めて祈った。
 期待が裏切られることは辛い。それが心の底からの望みであればあるだけ、得られなかったときの絶望は深い。祈ることは期待することだ。だから李斎には、この日までそれができなかった。
 戴の民が黙々と祠廟に通うのさえ、李斎は黙って見詰めていた。彼らは|吹雪《ふぶき》の最中にも、粛々と祠廟に足を運んでいた。阿選の耳を|懼《おそ》れ、誰も何もいわない。無言で祠廟に向かい、そっと|荊柏《けいはく》をひとつ、置いてくる。残してくれた恵みに感謝し、それを与えてくれた人の無事を祈願するために。
 それしかできない戴の民を哀れに思いながら、李斎自身は祠廟に一度も足を運ばなかった。運ぶことが──できなかった。
 泰麒を捜してくれる、と言われてからもそうだった。泰麒が見つかるかもしれないという期待よりも、見つからないかもしれない、そのことのほうを懼れていた。たとえ見つかっても、その先どうすればいいのか。泰麒の帰還がそのまま戴の救済を確約するものではない。泰麒が戻ってくることが、戴にどんな意味を持つのだろう、と。
 ……だが、泰麒は光だ。
 諸国を逃げる李斎が|伝手《つて》を|辿《たど》り、身を寄せていた山間の|隠者《いんじゃ》は、諦めろ、と言った。
「主上はここにはおられません」
 戴国|委《い》州、|驍宗《ぎょうそう》が出た山間の里、|呀嶺《がりょう》は|灰燼《かいじん》に帰していた。驍宗の姿を求め、ひょっとしたら出身地に身を隠しているのではないかと委州に向かった李斎は、雲煙に包まれた呀嶺の痕跡だけを見た。
「それよりも、貴女には休息が必要ではありますまいか」
「休んでなど」
「王のいない国は荒れまする。それを知らぬ者はありません。ですが、王は亡くなられたわけではない。王の|郊祀《まつり》がなければ、国が傾くのですか? それとも王の存在が国を保つのですか?」
 李斎は首を振った。
「知らない……」
「すでに戴は王のいない時代へ動きだした。貴女はこれまでの長い間、王を捜して、ついに見つけられなかった。──もう宜しいのではないですか」
 李斎は目を見開く。
「それは、王を見捨てろと言うことか?」
 老人は首を振った。困苦に|窶《やつ》れた|貌《かお》には達観の色が濃かった。
「まず貴方様の幸福を考えるべきではなかろうかと思うのです。貴方様は、王が救うという民の中に自分が含まれることを分かっておられますか」
「私は……」
「戴の民の幸いを言うなら、貴方様御自身も幸福でなければなりませぬ。貴方様一人が全てを背負って苦しむのなら、民の全てが幸せではないことになる」
 李斎は悄然と項垂れた。
「それでも、この国を救うことのできるのは、あの方だけなんだ……」
 憐れむような溜息をついて老人が立ち去った後には、彼の孫娘である少女だけが残された。少女もまた|憂《うれ》うような眼差しで、物言いたげに李斎を見ていた。
「お前も……王のために放浪するは愚かだと言うか?」
 少女は首を振る。
「私にはよく分かりません。私は王を存じ上げません。|政《まつりごと》のこともよく分からないのです。主上は雲の上のお方です。台輔だって、はるか高みのお方です。けれども煙が──」
「──え?」
「門前から見下ろすと、|委州《いしゅう》が広がっています。そこに煙がたなびいているんです」
 ああ、と李斎は頷いた。阿選は驍宗に縁あるもの、驍宗を支持するもの、自らを指弾する者の全てを許さない。意に添わねば一里を焼き払い、己に背くものの一切を根こそぎこの地上から追い払おうとしている。
「南の国では、一年中が春のようだというのは本当でしょうか。|奏《そう》には雪が降らないとか。河が凍ることはないのだそうです。冬にも、温かな|陽脚《ひざし》が降って、晴れ間がある……青い空が見えるとか」
 李斎は頷いた。少なくとも李斎は黄海より南に行ったことはないが、黄海でさえその陽脚は鮮やかで、空は力強いほど近く濃かった。
「戴で最初の雪が降ってから、その雪が|融《と》けてしまうまでに、どれくらいの晴れ間があるでしょう? きっと指を折って数えることができるほど。なのに煙が……」
 李斎は少女の意を|悟《さと》って、思わずその手を握った。
「ほんのたまの晴れ間を、あの煙が覆ってしまうんです。炎が雪を|炙《あぶ》って、|融《と》けて、|瓦礫《がれき》と一緒に凍りつく。──私たち戴の民は、どれほど春が待ち遠しいでしょう。王宮は厚く低い雲に覆われた戴の、ただひとつの晴れ間のような気がします。その|蒼天《そうてん》が曇っている。地上の煙が雪雲のように|鴻基《こうき》を覆って、この国には晴れ間がない……」
 少女は憂いをいっぱいに浮かべた目で李斎を見上げた。
「鴻基は一穴の蒼天にして、一点の春陽、長い冬の最中にも決して凍ることのない|煕光《きこう》でございましょう」
 |凛《りん》と言った少女は、もうこの世のどこにもいない。祖父ともども、李斎を|匿《かくま》った|咎《とが》で阿選に討たれた。だが、このとき、そしてその後、先に待つ運命を承知で李斎を逃がしてくれたとき、少女の言った言葉を決して忘れてはならないのだ、と李斎は今更のように確認していた。
 ──どうぞ、主上を──台輔をお救いください。

   4

 禁門の上で待て、と例によって唐突に|青鳥《しらせ》が来たのは、陽子が|氾《はん》王の訪問を受けてから二日後のことだった。雲海の上、禁門の門殿の前で待っていた陽子が迎えたのは雲海を越えてやってきた三人の客人、尚隆と六太、そして今一人、金の髪を持った娘だった。
「氾王が来ているんだって?」
 |すう虞《すうぐ》[#「すう虞」の「すう」は「馬」偏に「芻」の字。Unicode:U+9A36]から飛び降りるなり言った六太に、はい、と陽子は苦笑|混《ま》じりに|拱手《きょうしゅ》する。
「道理でぱったり連絡がとれないはずだ」
 言って六太は、白い騎獣から降り立った人物を見た。
「|廉《れん》台輔だ」
 陽子は|慌《あわ》てて礼を取る。廉麟は十八ばかりの明朗な雰囲気を持った人物だった。
「|廉麟《れんりん》、こっちが景王陽子──隣が景麒だ」
 六太は言って、
「そんで? ──範の御仁と|小姐《ねえちゃん》はどこだ?」
「多分、お部屋においでだと思うけど」
 陽子はこれまた苦笑するしかなかった。|堯天《ぎょうてん》に|舎館《やど》を取っているから、と言う氾王、氾麟を引き留め、|金波宮《きんぱきゅう》に滞在してくれるよう言ったのは陽子自身だが、客人としての氾王はなかなかの難物だった。最初は賓客をもてなすための|掌客殿《しょうきゃくでん》に案内したが、趣味が悪いのでいたくない、と言う。結局、勝手に宮殿の|園林《ていえん》にある|淹久閣《えんきゅうかく》を選んで、しかもこの壺は見苦しいからどけろ、あの絵は見るに|堪《た》えないから、あちらのあれに取り替えろ、などと言う。世話をするためにつけた|掌客《しょうきゃく》の官は、|悉《ことごと》く気に入らなかったらしく、気が利かないから変えてくれ、と主張し、困って|祥瓊《しょうけい》をつけると、幸いにも祥瓊は気に入ったようなのだが、今度は傍から離さない。対する氾麟は、範の宝重だとかいう|蠱蛻衫《こせいさん》を使って好き勝手に宮殿内を放浪している。突然、正寝にやってきて、どこの官吏が下官を|虐《いじ》めていたのは良くないと思う、などと言って去っていく、世話を一手に引き受ける|羽目《はめ》になった|祥瓊《しょうけい》は、外見は飾っておきたいような美少女だが、その中身は延麒だ、と評していた。
「……なかなか大変だろ、あいつの相手は」
 六太が小声で言うので、陽子もそっと問い返した。
「|雁《えん》は|範《はん》とは?」
「不本意ながら国交はあるかな。範は|匠《たくみ》の国だからな」
「玉や金銀の細工では十二国一とか」
「それは認めないわけにはいかないだろうなあ。……範はもともと、何もない国でさ。何で立つにしろ中途半端な国なんだよ。それをあいつが工匠の国として立て直した」
「美術品や工芸品で?」
「細工するものなら、何でもやる。紙や布のような素材から、それを作るための機器や道具まで。特に道具だ。範の作る道具は精度が高い。物差しや|秤《はかり》の|錘《おもり》を取っても、そこらで作るものとは|雲泥《うんでい》の差だ」
「へえ……」
「うちはでかいものを作るのは得意だが──街とか建物とか港とか──そのためには範の工匠の協力が必要なんだよな。だから付き合いは、まあ……深い部類なんだけどさ」
 六太は溜息をつく。陽子にはなんとなく、その溜息の理由が知れるような気がした。
「何と言うか……その、いろいろな意味で、変わった御仁だな」
「だろ? 尚隆の天敵なんだ」
 六太はちらりと後ろを振り返る。最後尾からは、来て以来、一言も口を|利《き》こうとしない尚隆が憮然とした面持ちで|蹤《つ》いてきていた。
「それは……分かるような気がする」
 呟いたところで、|園林《ていえん》の小径をやってくる祥瓊に出会った。祥瓊は足裏を石畳に叩きつけるような勢いで前のめりに歩いてくる。
「ああ、祥瓊──氾王は」
 声を掛けると、祥瓊は殺気立った目で陽子を見た。
「|臥室《しんしつ》にいらっしゃいます。言っておくけど、今行っても会えないわよ」
「会えない?」
「私が揃えて差し上げたお召し物と|簪釵《かんざし》が合わないので、着替えをなさるのがお嫌だそうです。──見てらっしゃい。絶対に着せてやるから」
「……苦労してるな」
 ふん、と祥瓊は腕組みをする。
「相手にとって不足はない、って感じよね。でも、私の見立てによれば、あれでいいはずなのよ。|連珠《くびかざり》と|耳墜《みみかざり》が合わないんだわ。陽子のものを勝手に|漁《あさ》るわよ。意地でもいいって言わせてみせるわ」
 腕まくりしそうな勢いで言ってから、祥瓊は陽子の背後、|小径《こみち》を|辿《たど》ってきた人影に気づいたようだった。小さく声を上げ、真っ赤になって道の脇に叩頭する。
「──失礼いたしました!」
「大変そうだなあ」
 笑い含みに声を掛けたのは六太だった。
「あの御仁の相手は大変だろ。……中には|氾麟《はんりん》もいるのか?」
「はい──ええ、おいでにおなりでございます」
「そっか。ちょいと相談事があるんで、範の御仁が急いで|臥室《しんしつ》を出られるようにしてやってくれ」
 |畏《かしこ》まりまして、と祥瓊は深く頭を下げた。陽子らは、失笑気味にそれを通り過ぎ、奇岩に囲まれた二層の楼閣へと出た。何しろ当の氾王が祥瓊以外の下官を嫌うから、案内を請う者もいない。仕方なく声だけを掛けて中に入ると、|堂室《へや》の|榻《ながいす》に氾麟が寝そべっていた。──確かに、と陽子は苦笑混じりに思う。氾王の指示で家具を動かし、掛け物を|弄《いじ》った堂室は驚くほど趣味の良い建物に生まれ変わっていた。その中に氾麟がしどけなく寝そべっていると、それだけで絵のように見える。
「あら──陽子に景麒」
 書物から顔を上げた氾麟は身を起こし、そして勢いをつけて|榻《ながいす》から飛び降りる。
「六太も。久しぶりね」
「おう」
 飛び跳ねてやってきた氾麟は尚隆の顔をしたから覗き込む。
「尚隆も、お久しぶり。相変わらず田舎臭い格好なのね」
「|喧《やかま》しい。それより、お前の飼い主を呼んでこい」
「それは無理ねえ。主上はまだ着替えがお済みでないんだもの」
 尚隆は苦虫を|噛《か》み|潰《つぶ》したような|貌《かお》で、
「着る物など、何でもいいだろうが。不満があるなら裸で出てこいと言ってやれ」
「とっても下品な尚隆らしい言い分よね」
 言い放ってから、彼女は廉麟に目を留めた。まあ、と可愛らしく声を上げ、優雅に一礼をする。
「お客様とは存じ上げませんでした」
「ああ……廉台輔だ」
「お初にお目に掛かります。氾麟でございます」
 にこりと笑って廉麟が挨拶を返す。氾麟は室内に集まった顔を見渡した。
「大変な顔ぶれだけど、ということは、泰麒の捜索が始まるのかしら?」
 そういうことだ、と憮然と言って、尚隆は氾麟に坐るように促す。
「雁に来てくれと言ったのに、姿を現さず、消息不明になった連中がいてな」
「あら、それで来てくれたの? だったら良かったわ。私は慶のほうがいいもの。雁の下官は本当に気が|利《き》かなくて、しかも|喧《やかま》しくって」
「喧しいのはお前だ。とにかく雁と慶、範と漣の四国で|蓬莱《ほうらい》を探すことになった。」
「──|崑侖《こんろん》は?」
「奏と恭、才が探してくれる」
「大事業ねえ」
 氾麟は呟いてから小首を傾げた。
「けれども、こんなことをして大丈夫なの? 前代未聞だと思うのだけど」
 大丈夫だ、と答えたのは六太だった。
「俺たちが泰麒を捜すぶんには天の摂理に反しない」
「ふうん? 具体的にどうやって探すの? やっぱりどっと王師を送り込んで?」
 まさか、と延麒は渋面を作る。
「それはできない。蓬山の玄君からも、くれぐれも蝕を起こすことは最低限にしてくれと言われているしな。それに、やっても意味がないんだ。泰麒は胎果だ。俺たち麒麟が麒麟の気配を目当てにして探すしかないんだ」
 氾麟はぽかんと口を開けた。
「……それ、本気で言ってるの? 蓬莱って広いんでしょ?」
「こちらの一国ほどの広さはないさ。蓬莱そのものの広さを言うならな」
「それだってたいへんな広さがあるんじゃないの? それを探すの? 私を含めてたった四人で? ──それ、今まで六太が言った中でも、最低の|戯言《たわごと》だわ」
「難しいことだってことは分かってるさ。そうでなきゃ、そもそも他国に協力を頼んだりしない」
「でも」
「俺はかつて、泰麒を見つけたことがある。それがどこだか、具体的な場所は覚えちゃいないが、|大凡《おおよそ》の場所は覚えてる。泰麒がそこに戻ったという保証はないけど、そこから探し始めるしかないだろうな」
「本当に、たったそれだけの手がかりで探し出せると思ってるの? ──呆れた」
「では、見捨てるか?」
 六太は氾麟をねめつける。
「他に方法があればそれを採ってる。他にやりようがないんだ。勿論、こんなことじゃ何年かかるか分からない。しかし、戴を何とかしようと思うなら、やるしかないんだ!」
 |堂室《へや》に沈黙が降りた。やがて、口を開いたのは廉麟だった。
「……|使令《しれい》は使えないでしょうか」
「使令?」
「ええ。だって使令は麒麟の気配を知っているでしょう? どんなに遠くにいても、私の気配を感じ取って戻ってきます。ということは、使令なら他の麒麟の気配も見えるのではないかしら。ひょっとしたら、当の私たちよりも」
 そうか、と延麒は呟き、そして、どうだ、とどこへも知れず問うた。是、という声がどこからともなく聞こえた。延麒の使令が答えた声だ。
「じゃあ、これはどうだ。妖魔なら?」
 返答はない。
「お前たちは同族を召集できるだろう。無論、有害な妖魔を呼び集めるわけにはいかないかもしれないが、さほどに害のない小物なら──どうだ?」
 少しの沈黙の後、是、という声があった。
「いいぞ──これで、だいぶ頭数を増やせる」
 だったら、と氾麟は声を上げ、ぱちんと手を合わせた。
「範に|鴻溶鏡《こうようきょう》があるわ」
「──鴻溶鏡?」
「ええ。鴻溶鏡は映った者を|裂《さ》くことができるの。|遁甲《とんこう》できる生き物にしか使えないけど、使令や妖魔ならこれで裂いて数を増やせるわ──理屈の上では無限に。裂かれた分だけ能力も薄まっちゃうけど、人捜しに使うのだったら、さほどの能力は必要ないでしょう?」
 では、と廉麟が声を挟む。
「漣には|呉剛環蛇《ごごうかんだ》があります。これは蝕を起こさずに、こちらとあちらに穴を通すことができます。人は通れませんし、一度に大勢を通すことはできませんが、これを使えば蝕を起こすことは最低限で済みます。──そう、以前にも泰麒のために使いました。延台輔が見つけ出してこられた泰麒をこれで蓬山に運んだんです」
 よし、と六太が嬉しそうに頷いたとき、冷静な声が割って入った。
「問題は、泰麒がなぜ戻ってこないのか、ではないかえ?」
 振り返ると、|臥室《しんしつ》の戸口に白い|羅衫《うすもの》も|眩《まぶ》しく、氾王が立っている。背後にちらりと、満足そうな顔をした祥瓊が見えた。
「やっとお出ましか? ……なぜ戻ってこないのか、ってのは何だよ」
「おや? 延麒なら不本意ながら蓬莱に流されて、そのまま居着いてしまうかえ」
 それは、と六太は|口籠《くちご》もった。
「延麒ならそれを幸い、猿山の猿王から逃げ出すだろうが、泰麒はそういう|御子《おこ》には見えなかった。何としても戻ろうとするであろ。それが六年、戻ってきていない。戻れぬ事情があると考えるべきだろうね」
「そんなことは分かってら。だが、その事情の知りようがないだろうが。とにかく泰麒を捜してみないことには。それともあんたなら、事情の想像がつくのか」
 さて、と氾王は|在《あ》らぬほうをを見る。
「あるとしたら、もう麒ではない、ということだろうね」
「もう麒でない?」
「麒麟が王の側に|侍《はべ》るのは、麒麟の本性のようなものだよ。民を哀れむのも麒麟の本能、ならば麒麟である限り、泰麒は泰王の許に戻ろうとするだろうし、民のために戴へ戻ろうとするだろう。そのための能力は|具《そな》わっている。──それができないのだから、もはや麒ではない、と考えるしかなかろうね」
「どうやって麒麟が、麒麟でないものになるんだ」
 分かるはずがない、と氾王はにべもなかった。
「じゃが、泰麒は胎果であろ」
「そうだが……だから?」
「さあ。巧くは言えぬ。氾麟が麟でなくなるのは、|身罷《みまか》ったときだけかもしれない。だが胎果の麒麟があちらにいる場合はどうだろう。……単にそう思っただけだよ」

   5

 李斎が、泰麒の捜索が始まった、と陽子から知らされたのは、夏の盛りの頃だった。倦怠感を伴った暑気は王宮の上にまで忍び寄り、寝苦しい夜は朗報を待ち続ける焦燥感を掻き立て、李斎から安眠を奪った。
 じきに見つかるから心配するな、と当初は元気だった六太の表情が曇るまでには、いくらもかからなかった。かつて六太が泰麒を見つけた蓬莱の一地方、そこに泰麒の気配は見あたらない、と言う。さらに捜索の手は伸ばされたが、やはり朗報はない。
 眠れないまま、李斎は起きあがって掌客殿へと向かった。掌客殿の周囲に広がる|西園《さいえん》、そこにある|清香《せいこう》殿が客人たちの宿舎で、それに続く書房の|蘭雪《らんせつ》堂という建物が、泰麒を捜索する人々の議場となっていた。李斎は日に何度も、そこに足を運ばずにはいられなかったし、足を運んだ結果、落胆することになっても、それでとりあえず堪え難い乾きのようなものは治めることができた。この夜も、水を欲するように|彷徨《さまよ》い出て、蘭雪堂へと向かう。その堂室では、ぐったりしたように六太が椅子に坐り込んでいた。
「……延台輔」
 よう、と六太は笑ったが、その顔にはいかにも力がなかった。
「見つかりませぬか?」
 ああ、と六太の声は低い。立ち尽くすしかない李斎の落胆に気づいたように、六太は明るい声を出した。
「ま、こんなもんだろう。まだまだこれからってとこさ」
 はい、としか李斎には答えられない。李斎には何一つ、手助けができない。国に並びないやんごとない人々が、自らの身体を使って労を割いているのに、李斎はそれを見守ることしかできないのだ。それで遅滞を責めるのは、あまりに|僭越《せんえつ」に過ぎよう。
「お茶でも飲んでいかないか? ……って、俺が欲しいだけなんだけどさ」
 李斎は微笑み、|供案《たな》の上の小さな|火炉《ひばち》に日を入れた。水瓶から鉄瓶に水を汲み、火炉にかける。
「……|蓬莱《ほうらい》にはいないかもな」
 李斎は手を止めた。
「では……|崑侖《こんろん》に」
「分からない。ただ、範の御仁の言う通りだ。問題は、泰麒がなぜ自ら戻ってこないのか、そのほうにあるんだと思う」
「お戻りになれない事情があるのでは」
「事情というのは簡単だが、実際にはどういうことだと思う?」
「私には分かりかねますが……」
「泰麒は|鳴蝕《めいしょく》を起こした。景麒が再三、強調するんだが、泰麒が鳴蝕の起こし方をしていたはずがない。起こしたとすれば、突発的な何かがあって、ほとんど本能的にやってしまったんだろうというし、それは俺も同感だ。泰麒は、あちらに渡った──というより、こちらから転がり落ちてしまったんだと思う。そうやって転がり落ちた先は、本当にあちらだったんだろうか?」
「それは……どういう」
「呉剛の門の入り口と出口の間には、何もない道がある。禁門や五門のようなものだと思えばいい。門があって、その向こうがあちら、手前がこちら、そういうものではなく、入り口と出口の間に|隧道《すいどう》がある」
 ああ、と李斎は頷いた。呪を施した通り道がある。多くはそこに階段があるのだが。
「泰麒がこちらにいない以上、門の中に入ったのは確実なんだろうが、泰麒は本当に向こう側に出ることができたんだろうか」
 それは──と、李斎は六太に向き直った。
「間に囚われてしまった、ということですか」
「分からないけどな。泰麒はあちらに抜けられなかったのかもしれない。廉麟の|呉剛環蛇《ごごうかんだ》を使ってあちらに通してもらうんだけどさ、降り抜けている間は廉麟の手を握っていなきゃならない。手と言うより、|呉剛環蛇《ごごうかんだ》の尾かな。二つある尾の片方を、廉麟の手を介して|握《にぎ》っていなきゃいけないんだ。そうしないと、迷う、と言う。中に入ったまま、先に出ることも戻ってくることもできなくなることがある、と」
「泰麒もそのように、迷った、と」
「分からないんだけどな。鳴蝕と呉剛環蛇を同じように考えるわけにはいかないのかもしれないし。……ただ、泰麒は向こうに抜けていないんじゃないか、と思いたくなる。それほど見事に気配がない。泰麒は胎果として流され、向こうで生まれてごく普通の子供として育った。あちらでの親がいて、家があった。俺がかつて泰麒を見つけたのはその生家だったと思われるんだ。それがどこだったのか、申し訳ないことに俺は覚えていない。だが、だいたいの位置は覚えてる。蓬莱国はそれなりに広いが、どの街の近辺だったかぐらいは覚えてる。蝕を起こして本能的に逃げ込んだのなら、郷里へ行ったのかもしれない。だが、郷里にはまるで泰麒のいる痕跡がなかった」
「では郷里ではなかったのかもしれません。どこか──別の場所に」
「そう思って国土を軒並みに探した。郷里を中心に、二方に分かれて北上、南下してみたんだが、やはりどこにも痕跡が見えない。……いや、ざっと探しただけなんだけどさ」
 最後は、李斎を慰める調子だった。
「今度はもっと丁寧にやる。そのへんの人間を捕まえて、六年前に何か異変がなかったか聞いてみるのも|已《や》むなしだと思ってる。……そのぶん時間はかかるだろうが」
「はい」
「そうやっている間に、|崑侖《こんろん》で見つかってくれればいいんだけどな。……いずれにしても、いつまでも氾麟、廉麟を留め置くわけにはいかない。景麒はなおさらだ。慶はまだ未熟だから。どこかで諦めて、気長に探すしかない、という話になるかもしれない。その場合は、李斎には申し訳ないんだが」
「いいえ……仕方のないことですから」
 李斎は|努《つと》めて冷静に言った。これ以上を求めるわけにはいかないのだ、と自分に言い聞かせる。少なくとも、李斎は|隻腕《せきわん》になったものの健康を取り戻してはいる。|驍宗《ぎょうそう》に変事が起こったのが、|琳宇《りんう》郊外の|函養山《かんようざん》だということも分かった。泰麒捜索に|何某《なにがし》かの決着がつけば、戴に戻って驍宗を捜すことができる。慶に来たのは無駄ではなかった。確かに李斎らはまだ驍宗と繋がっている。
「……その場合にも、戴を見捨てようという話じゃない。戴からの|荒民《なんみん》、あるいは戴に残った民のためにできるだけのことをすると約束するから」
「|勿体《もったい》のうござます」
 李斎が呟くように|零《こぼ》した時だった。さっと暗い|堂室《へや》に光が射した。振り返ると、|蘭雪堂《らんせつどう》の奥にある戸口から微かに光が|漏《も》れている。李斎は立ち上がった。蘭雪堂の奥にある戸口を抜けると、ごく短い|曲廊《ろうか》へと続いている。それはひとつ折れ曲がって、その先には|孤琴斎《こきんさい》と呼ばれる小さな建物があった。その孤琴斎の中に光が射している。それは天窓から月の光でも射し入ったように見えたが、孤琴斎に天窓など存在せず、しかもこの夜は月がなかった。床が丸く白い光に照らされているのに、光源がない。それもそのはず、床上からではなく、下から照らされているのだ。
 |呉剛環蛇《ごごうかんだ》だ、と李斎は孤琴斎に踏み込んだ。するりと慶を大きくした光の環から人影が滑り出た。最初に一人、続いてもう一人。二人目が抜け出すと同時に、光は遠ざかるように縮まり、消えていく。
「あら、李斎」
 氾麟が声を上げ、そして曲廊から|堂室《へや》へと駆け込んだ。
「六太、変なの!」
「変?」
 問い返した六太が、大儀そうに|背凭《せもた》れから身を起こすと、氾麟が頷く。
「使令が行けないというの。すっかり震え上がって、嫌だって」
「──は?」
「だから、近寄れないし、近寄っちゃならないって言うんだってば!」
「お前じゃ何を言いたいんだか、さっぱり分からん。……廉麟、どうしたんだ?」
 それが、と部屋に入ってきた廉麟も不安げな顔をしていた。
「私にもよく分かりません。使令が嫌がるのです。不吉があると言って」
「不吉……?」
「ええ。延麒がおっしゃっていた、泰麒の郷里です。もう一度言ってみようと氾麟と戻ってみたのですけど、あちらに行くのは嫌だと使令が言うのです。不吉と|穢《けが》れがあるのだそうです。途方もなく大きな兇があるから、近づいてはならないと」
「何だ、それは? ……だってあそこは前にも行ったじゃないか」
「ええ、そうです。使令が言うには、前にも僅かながらあった、と。……そうなのね、|什鈷《じゅうこ》? 説明して差し上げて」
 はあ、と|惚《とぼ》けた声がして、廉麟の|裾《すそ》から白い獣が姿を現した。小型の犬によく似ているが犬にしては尾がない。その獣はその|碧《あお》く丸い一つ眼を細める。老人の眉のような、瞳にかかって垂れた毛並みで、困ったような表情を作って見せた。
「ですから、あそこには災いがございます」
「どんな」
「分かろうはずもございません。良くないものです」
「それじゃあ、分からん。──それは以前にもあったんだな?」
 はあ、と什鈷は身を縮める。
「思い出してみれば、ということですが。前にもちらりと妙な気がしたのですが、さほどでもない、気に留めるまでもあるまい、という気がしまして。それきり忘れておったのですが、今夜行ってみると、それが途方もなく大きくなっておりました。あれは良くないものです。|儂《わし》はあれに近づくのは御免でございます。台輔を近寄らせるなどとんでもない」
「良くないもの、なのか? それは予感がするということか?」
「そうではございません。大きな|穢《けが》れで、災いです。兇があるのです。小物のように思えましたが、あれは小物どころではない。近づいてはなりません」
「小物──?」
 |怪訝《けげん》そうにした六太を、李斎は制した。
「お待ちを。差し出口をお許しください。──それはたとえば、強大な妖魔がいるという、そういうことでしょうか?」
 |李斎《りさい》が言うと、|什鈷《じゅうこ》は飛び上がる。
「そう、そうでございます。それも尋常のものではありませぬ。我らとて、あれの傍に近寄るのは嫌でございます。そこへ台輔をお連れするなど──」
 李斎は声を上げた。同時に六太が呟く。
「……|傲濫《ごうらん》だ」
「はい?」
 李斎は什鈷に駆け寄り、床に膝をついて身を|屈《かが》める。
「それはどこです? 泰麒の使令です、きっと間違いありません」
「ですが、あれは使令になるような|生易《なまやさ》しい代物の気配ではございませぬ」
「泰麒には|饕餮《とうてつ》がおられる。饕餮です、違いますか」
 什鈷は耳を立て、毛並みを逆立てた。
「饕餮。そんな」
 李斎は残された片手で廉麟の衣に|縋《すが》った。
「きっと泰麒です、廉台輔!」
 平衡を崩した李斎の身体を、柔らかな手が抱き留める。
「……分かりました。安心なさいまし。必ず泰麒をお連れいたします」
「なりません!」
 什鈷が毛を逆立てたまま飛び跳ねる。
「あれは使令ではございりません。あれは妖気でございます」
「臆することは許しませんよ、什鈷。本当に妖魔だとして、それほどの妖魔がかの国にいる理由がありましょうか。泰麒なのかもしれません。少なくとも泰麒ではないと、確かめなければ。お前たちが嫌だというなら、私一人でも参ります」
 そんな、と呟き、什鈷は|項垂《うなだ》れた。
 廉麟、と声を残し、六太は|曲廊《ろうか》へ向かう。
「渡してくれ。行ってみる。──|小姐《ねえちゃん》はどうする」
 氾麟は左右を見渡した。
「私は……行くわ。行きますとも。……でも」
 |怯《おび》えたように薄い衣を抱きしめる手から、廉麟がそれを取り上げた。
「これは、私にも使えますか?」
「……ええ」
「では、お借りします。氾台輔は、これを他の方々に|報《しら》せてください」
「……はい!」

 報せを受け、陽子と景麒が|孤琴斎《こきんさい》に駆け込んだとき、ちょうど二つの人影が|幽光《ひかり》の中から出てくるところだった。
「──延麒、見つかったって?」
「分からない」
 答えた六太は、しかしながら連日の|倦《う》んだ様子を残してはいなかった。勢い込んで|堂室《へや》に戻る六太を追うと、中には雁と範の王が揃っている。
「泰麒は」
 これは延王、氾王の双方から、
「分からない。見えない」
「見えない? どういうことだ」
「あれは|傲濫《ごうらん》だと思う。泰麒の使令だ。だが、確かにあれではもう使令とは呼べない。使令が震え上がるのも分かる。あれでは妖魔そのものだ。しかも、恐ろしく強大な」
 遅れて|堂室《へや》に入ってきた廉麟の顔も|蒼褪《あおざ》めていた。
「とても大きな|穢《けが》れで、大きな兇です。近づけば、私たちにも分かります。場所は分かりました。大きな街ですけれど、あそこに傲濫はいます。でも、麒麟の気配は見えないのです」
「無茶を承知で近づいてみたが、全く何の|残滓《ざんし》も見えない。……範の御仁が正しいと思う」
「私が?」
 六太はそそけだった顔色のまま頷く。
「麒麟はいない。泰麒はあそこにいると思う。だが、泰麒はもう麒とは呼べない」
「どういうことだ?」
 陽子は問うて、六太と廉麟を見比べた。
「分からない。だが、傲濫がいる以上、必ず泰麒はあの街にいるはずだ。少なくとも傲濫が妖魔に戻ってしまったようには見えない。まだ使令として泰麒の支配下にあることは確かだが、麒麟のいる気配は欠片もない。戻りたくても戻れなかったはずだ──泰麒は麒としての本性を喪失しているんだと思う。そうでなければ、あそこまで気配の絶える道理がない」
「そういうことがあるものなのか?」
「知るもんか。あるとしか考えようがないだろう。とにかく|虱潰《しらみつぶ》しに探すしかない。探して連れ戻す。方法は選んでいられない。傲濫は……あれは、あちらにとっても危険だ」
 

黄昏の岸 暁の天 5章1~2

2010-08-08 22:15


五章

 

   1

 陽子が|蓬山《ほうざん》から戻ると、|正寝《せいしん》で|女史《じょし》が待ち受けていた。
「陽子──妙なお客様があるのだけど」
「客?」
 首を傾げると、|祥瓊《しょうけい》は頷く。陽子が蓬山へ向けて旅立って間もなく、国府へ陽子を訪ねてきた者があったという。
「|氾《はん》王が裏書きなさった|旌券《りょけん》を持った使者がやってきて、陽子に会いたいと言っているようなの。陽子はいなかったので、とりあえず|堯天《ぎょうてん》の|舎館《やど》で待ってもらっているのだけど。これが使者の残していった氾王からの親書」
 陽子は首を傾げながら、それを受け取った。慶は過去、|範《はん》と国交を持ったことがない。ひょっとしたら、|延王《えんおう》|延麒《えんき》が連絡を取ってくれた例の件についてだろうか。
 親書を開くと、ほのかな方向と共に、すばらしく流麗な文字が出てきた。その手跡といい、涼しげな墨の色と、ごく|淡《あわ》い|藍《あい》の紙色との取り合わせといい、品格と美しさを感じさせたが、陽子は深呼吸をして身構えなければならなかった。|祥瓊《しょうけい》がそっと陽子の顔を覗き込む。
「……読もうか?」
「いい……頑張ってみる」
 陽子は四苦八苦して、親書に取り組む。それは型通りの時候の|挨拶《あいさつ》に始まり、|不躾《ぶしつけ》に使者を|遣《つか》わした非礼を|詫《わ》びるもののようだった。延王から|報《しら》せを受けたこと、協力は惜しまないことを述べたうえで、頼みたいことがある、と書いてあった。戴からやってきた将軍が、慶に逗留しているということだが、是非とも将軍に面会をさせてもらいたい、と。
「李斎に会いたいと言っているみたいなんだけど。|舎館《やど》に使いをくれ、と言ってるのかな。あるいは舎館にいる使いと会わせてくれと言ってるのか……」
 陽子が手紙を差し出すと、祥瓊は|瞬《まばた》いた。
「違うわ。将軍を舎館に|遣《つか》わして欲しいと言ってるのよ。個人的に会いたいだけだから、重大なことにはしないでもらいたいって──あら、じゃあ」
 祥瓊は目を見開いた。
「……じゃあ、氾王御当人が、堯天の舎館までいらしてるんだわ」
 そんな、と陽子は呟いた。
「それはものすごく失礼なことなんじゃあ」
「普通はね。でも、当の御本人が、重大なことにはしないでもらいたいって言ってるんだから。あくまでも個人的に将軍に会いたいってことのようよ」
「なんで?」
「理由は書いてない。……これは私的なことだから、自分が来ていることは見て見ぬふりをしといてくれ、将軍にも身元は言わずにおいてもらえるとありがたいって書いてあって、それで終わり」
「と言われても、李斎はまだとても、|舎館《やど》を訪ねていける状態にはないんだが」
「そういってみるしかないわね。こちらからも使者を|遣《や》って、事情を説明するしかないんじゃないかしら。|台輔《たいほ》と|冢宰《ちょうさい》に相談してみたほうがいいと思うわ」
 陽子は頷き、慌てて|景麒《けいき》と|浩瀚《こうかん》に相談をした。とりあえず事情を説明して、|氾《はん》王自身に|金波宮《きんぱきゅう》まで足を運んでもらうしかあるまい、ということになって、秘かに|祥瓊《しょうけい》に舎館まで行ってもらうことになった。李斎はまだ動けない、李斎が治るまで待ってもらうわけにもいかないので、失礼ながら金波宮までおいでいただきたい、と親書を持たせたのだが、この親書を作るのが、ひと騒動だった。
「そんな、どこにでもあるような紙を使っちゃ、駄目」
 祥瓊は断固として言って、氾王からの親書を示す。
「これを見れば分かるでしょ。すごく趣味の良い方なんだから、滅多なものを差し上げるわけにはいかないわ」
「そんなことを言ったって、私はそもそも字が下手だし」
 陽子は筆を使って文字を書くことに慣れていない。お粗末な字だという自覚はある。
「だからこそ、心配りをする必要があるの。そのへんにある紙に書き|殴《なぐ》ったら、|塵芥《ごみ》みたいなものじゃない」
「……そこまで言うか?」
「言いますとも。だからってあんまり気取った紙を使うと、かえってみっともないことになるわよね。飾り気のない気の利いたものでなくちゃ。探してくるから、陽子はそこで字の練習をしてて」
 溜息をつきながら、陽子は祥瓊の作ってくれた手本を写し、そして彼女が探し出してきた紙に何度も書き直しながら清書をした。それを携えて祥瓊は宵の街に出て行き、戻ってきたのは夜、祥瓊は何とも奇妙な貌をしていた。
「どうだった?」
「ああ……うん。明日、国府をお訪ねくださるそうです。公式の賓客ということになると時間も手間もかかるし迷惑もかけることになるから、くれぐれも個人的な客として扱ってくれ、って」
「そうか。……で、|氾《はん》王はどういう方だった?」
 氾王はその在位三百年、南の奏、北東の雁に次ぐ大王朝だった。
 |祥瓊《しょうけい》は何とも言えない表情のまま、|上目遣《うわめづか》いに天井を見る。
「……趣味はとても良い方だったわ……一応ね」
 は、と問い返す陽子に、祥瓊は引きつった笑みを向ける。
「まあ……会えば分かるわよ」

 範からの来客があると国府から報せが上がってきたのは、予定通りその翌日、陽子は蓬山行きの間に|溜《た》まった雑事を片づけていた最中だった。取るものもとりあえず、外殿へと向かう。外殿の傍らには殿堂があって、来客をそこに一旦、留め置くことができるようになっている。その|堂《ひろま》の中にはいると、中には二人の人影が待っていた。一人は二十代終わりの背の高い貴婦人、もう一人は十五、六の少女だった。どこと言って特徴のないその少女の顔を見て、陽子は一瞬、足を止めた。どこかで見たことのある顔のように思ったからだ。
 その少女は、陽子が以前、慶であった少女にどこかしら似ていた。もちろん、当人であるはずがない。なぜなら、その少女は死んでしまったのだから。だが、僅かに胸が痛んだ。似ている、と思うと切ない。
 少女は|膝《ひざ》をつき、そんな陽子を不思議そうに見てから、|拱手《きょうしゅ》した。
「突然のご無礼にもかかわらず、拝謁を|賜《たまわ》りまして、深くお礼を申し上げます。ここに|範《はん》の主上からのお使いをお連れしました」
 言って少女は、背後に同じく膝をついた人物を見やる。では、これが氾王その人だろうか──背筋の伸びる思いで、一礼したその人物を見て、陽子は少し驚いた。特に華美なところはなく、一見して質素にすら見える身なりの|麗人《れいじん》だったが、よくよく見れば、身につけた|襦裙《きもの》も|花鈿《はなかざり》もさり気ないものの見事な代物だった。だが、どう見ても、そのすらりとした長身の持ち主は男にしか見えなかった。似合っているのは確かだし、なるほど、祥瓊の言うように趣味の良い人物ではあるのだろうが──目線のやり場に困っていると、少女は微笑む。
「とにかく主上からのお言葉をお伝え申したく存じますが」
 陽子はそれを、人払いして欲しい、という意味だと受け取って頷いた。|こん人[#「こん人」の「こん」は門構えに「昏」Unicode:U+95BD]《こんじん》を振り返る。
「とにかく|大行人《だいこうじん》に命じて、お客様をお迎えするように。それと──」
 言いかけたところで、少女が顔を横に振った。
「いいえ。……|畏《おそ》れながら、あまり仰々しいことにならないように、と主上からくれぐれも言い遣っております。どうぞ、官の皆様を騒がせないでくださいまし」
「しかし」
「お願い申し上げます。私が主上からお叱りをいただいてしまいます」
「……では、失礼ながら、私的なお客様としてお招きする。お二方はどうぞ、こちらへ」
 こん人が|咎《とが》めるような声を上げたが、陽子はそれを|一瞥《いちべつ》して黙らせた。外殿から奥へと少女を導く途中、こん人が聞こえよがしに、範は礼儀知らずだ、と呟くのが聞こえた。
「……臣下の|躾《しつけ》が行き届かず、申し訳ない」
 陽子が|詫《わ》びると、少女は笑む。
「景王は主上におなりになったばかりなのですから」
 なにやら奇妙な──と、陽子は思った。特に取り立てて人目を引く容姿ではないのだが、奇妙に人を|惹《ひ》きつける華やぎが、この少女にはある。|瑛《えい》州の片隅で死んだ慶の少女にはなかったものだけれども。
「……どうかなさいましたか?」
「いえ……知り合いに似ている気がして」
 左様ですか、と少女は微笑む。もう一方の「使者」は黙って少女の背後に控えていた。特に表情を動かすわけでもなく、先ほどから一言も口を開かない。押しつけがましくはない奇妙な存在感があって、しかも立ち居振る舞いは流れるように優美だった。多分、この人物が氾王のはずなのだが──と、困惑した気分で陽子は二人を連れ、内殿へと向かった。その途中で景麒に会う。外殿へと駆けつけるところのようだった。
「ああ、景麒──こちらは」
 陽子は言いかけ、言葉を途切れさせた。景麒は珍しく、ぽんとしていた。
「主上……こちらは」
「ああ、氾王のお使いで」
 にこりと笑んで、少女が一礼する。|呆気《あっけ》にとられていたふうの景麒が慌てて|膝《ひざ》をつくのを見て、陽子はぎょっとした。
「では、氾台輔であらせられますか」
 は、と声を上げそうになった陽子を、少女は制す。秘め事をするように口許に指を当てた。陽子は改めて少女を見た。少女の長い髪は艶やかに黒い。どう考えても麒麟のそれではなかった。背後に控えた長身の人物が、初めてちらりと笑った。
「どこへお連れいただけるのでしょう?」
 少女が屈託なく言うので、陽子は|慌《あわ》てて、内殿にある|園林《ていえん》のほうを示した。
 広大な|園林《ていえん》には内殿に付属する書房が続き、その反対には客殿が続く。園林のそこここには|路亭《あずまや》や楼閣が建ち、起伏に富んだ園林に隠れ家のような佇まいを見せている。陽子は少女をそのうちのひとつに案内し、そして小臣らを退がらせた。それを見て取って、少女は襟に手をかける。見えないかぶり物を落とし、衣を脱ぎ捨てるような動作をする。鮮やかに明るい透けるような金の髪が現れた。
 唖然とする陽子に向かい、彼女は一礼する。
「驚かせてしまって御免なさい。改めて御挨拶いたします。|氾麟《はんりん》でございます」
 彼女はもう、陽子の知っている如何なる顔とも似ていなかった。それどころか、陽子はこの少女のように美しく、愛らしい容貌をした者を知らなかった。彼女が何かを脱ぐようにした両手には、今、薄い|紗《しゃ》のような衣が抱えられている。
 ああ、と彼女は声を上げた。
「|蠱蛻衫《こせいさん》と言うんです。この身なりでは官を騒がせてしまいますから、主上から借りてきました。でも、景王をすっかり驚かせてしまったみたい。誰かに似ておりました?」
「ああ……ええ」
「では、それは景王にとって大切な方なんですね」
 氾麟は花のように笑う。
「これはそういうものなんです。見ている人にとって好ましいように見えるんだそうです。私が鏡を見ても、ぜんぜん変わったようには見えないんですけどね。……けれども、台輔には、やっぱり通りませんでした」
「麒麟の気配が見えましたから」
 言って景麒は溜息をつき、一礼をした。
「もかくも、御挨拶を申し上げます。お初にお目もじ|仕《つかまつ》ります」
「はい。こちらこそ」
 ぺこりと頭を下げ、氾麟は手近の椅子に勢いよく腰を下ろした。
「景王はお名前をなんておっしゃるの?」
「陽子と……」
「じゃあ、陽子って呼びます。あたしは結構、おばあさんだから、景王もいっぱい知っててややこしくて。景麒には|字《あざな》はないの?」
「ございません」
「あら、可哀想に。私は今のところ|梨雪《りせつ》です。でも、主上は気まぐれでわたしの字を変えるので、いつまでこの字でいるのか分からないんだけど。……ねえ?」
 少女は言って、傍らに|佇《たたず》んだ人物を見上げる。陽子は、やはり、と頷く。景麒が驚いたように口を開けた。
 くすり、とその人物は笑う。
「範国国主、|呉藍滌《ごらんじょう》と申す」
 はあ、と陽子は頷き、我に返って、慌てて席を|勧《すす》めた。
「申しわけありません。どうぞお掛けください。……すっかり失礼をしてしまったのではないでしょうか」
 なんの、と彼は笑う。氾麟は鈴を転がすように笑った。
「こんな訪ね方をしたんだから、礼にそぐわないのは当たり前です。無礼をしたのは、こちらなのだから気にしないで」
 言って彼女は小首を傾げる。
「本当に陽子こそ、気を悪くしないでもらえると嬉しいのだけど。主上は、是非とも戴からいらしたという将軍様に会いたいんですって。公式にお訪ねしても時間もかかるし、|朝《ちょう》をお騒がせもしてしまうから、こんな形になっちゃったんです」
「それは一向に構いませんが──|李斎《りさい》に、ですか?」
 陽子が氾王を見ると、彼は頷く。
「雁から聞いた話によれば、瑞州師の将軍だとか。まだお体の具合が|宜《よろ》しくないということだが、お会いできるかえ?」
「はい……まだ遠出できるような状態ではないのですが、床払いも済んでおりますし、今は萎えた手足を動かす訓練をしているところで」
「私がどこの|何某《なにがし》だかは、あえて言わずとも宜しい。病人を驚かすのは、本意ではないからね。ただ、範からの客人だと言うことで面会させてもらいたい」
 陽子は頷いた。
「こちらに連れて参ります」
「よい。一私人が訪ねるのであれば、こちらから足を運んで当然だろうから。案内してくりゃるかえ」
 はい、と陽子は氾王を促す。氾麟は椅子に座ったまま、景麒の衣服を握ってひらひらと手を振った。

   2

 陽子が太師の邸を訪ね、|庭院《なかにわ》に入ったとき、|李斎《りさい》はちょうど|桂桂《けいけい》に手を引かれているところだった。すっかり|萎《な》えていた李斎の足も、助けを借りれば前に進むようになっていた。昨日にはとりあえず|飛燕《ひえん》に|跨《またが》ることもでき、李斎は少し|安堵《あんど》している。
「──陽子」
 入ってきた陽子を認めて、桂桂は笑った。
「見て、もうずいぶん歩けるようになったんだよ」
「のようだな。無理はさせてないか?」
「大丈夫だよ」
 陽子は頷き、李斎に客だ、と伝えた。李斎は陽子の背後に目をやる。陽子の後ろに続いたのは奇矯な身なりの人物だったが、李斎は彼の容貌にどこか見覚えがあるような気がした。
「桂桂、少し外してくれ」
 陽子が言うと、桂桂は|拘《こだわ》りなく|頷《うなず》く。
「じゃあ、飛燕の世話をしてくるね。昨日李斎に、身体の拭き方を習ったんだよ」
 そうか、と陽子は笑って桂桂を見送った。そして改めて李斎を振り返る。
「範からのお客人だ。李斎にお会いになりたいと言うことだから」
 言って陽子は李斎の腕の下に肩を入れる。李斎はありがたく肩を借りて|堂室《へや》へと戻ったが、その間も、範から来たという客人の顔をどこで見たのか思い出そうとしていた。
「具合は宜しいようだね」
 李斎が勧めた椅子に腰を下ろして、彼は言う。李斎は一礼した。
「はい。……失礼ですが?」
「私は範から来た。そなたに見てもらいたいものがあってね」
 言って彼は、鉄色の麻に黒で|瀟洒《しょうしゃ》な|刺繍《ししゅう》を施した|単衫《ひとえ》の|懐《ふところ》から、小さな布包みを取り出した。|卓子《つくえ》の上に広げたそれには、腰帯の断片が載せられていた。皮で作られた帯に、|燻《いぶ》したように黒銀に輝く帯飾りが並べて留めつけられている。帯の端につけられた金具には、疾走する馬が見事な造作で彫りこまれていたが、肝心の長さ自体は両手の指を広げたほどしかなかった。帯は途中で断ち切られ、しかも断面の皮には赤黒いものが染みついている。
 それを目にして、思わず李斎は立ち上がり、そして均衡を崩して危うく転倒しそうになった。
「──これは」
「李斎?」
「そなたは瑞州師の将軍であったと聞く。そなたに見覚えのある品かえ?」
 あります、と李斎は声を張り上げた。
「これを……どこで」
「範で。戴から届いた玉の中に交じっていたらしい」
「戴からの……」
 これは、と李斎を支えた陽子が問うた。
「主上のものです。間違いありません。これは──」
 言いかけて、李斎は気づいた。未だ名乗らない客人の顔に見覚えがある。そう、確かに見たのだ、他ならぬ驍宗の即位礼で。
 李斎は陽子の手を離れ、その場に|膝《ひざ》をついた。
「これは貴方様から即位のお祝いにお贈りいただいたものだと聞いております」
 そう、と氾王は頷く。
「驚かしたくはなかったが、気づかれたか。……よい。立って坐りなさい。身体に|障《さわ》ろう」
 言って氾王は|怪訝《けげん》そうにしている陽子を見た。
「範は古くから戴と国交がある。もっとも、私は先の泰王が嫌いでね」
「……は?」
「とにかく趣味が悪いのだもの。私はどうあっても、金銀を貼った|甲冑《よろい》を着て喜ぶような|輩《やから》とは馴れ合う気にはなれなくて」
 氾王は本気で嫌そうに顔を|顰《しか》める。
「けれど、驍宗は悪くなかった。即位の儀にお邪魔したのだけれど、無骨だが趣味は悪くなさそうだったからね。それに泰麒はいいねえ。あの|鋼《はがね》色の|鬣《たてがみ》は私の好みだったよ」
「……はあ」
 陽子が目をぱちくりさせていると、氾王は笑う。
「そうやってお会いする程度の付き合いはあった、ということだね。というのも、範には玉泉は勿論、玉を産出する山がなくてね。けれども玉や金銀の加工にかけては、範は十二国一を自負している。加工する材料となる玉は戴から届く。その荷の中から、これが見つかった」
 言って彼はその金具を手に取る。
「ご覧。疾走する馬の鬣の一本一本まで彫られておるであろ。これは私が、泰王即位のお祝いに、冬官の中でも最も腕のいい彫師に細工させたもの。慶賀のためにお送りした品の中の一つに違いない。これだけの細工はもちろんのこと、銀をこのように美しいまま|燻《いぶ》して留め置く技術は範の冬官にしかない。戴からの荷の中にこれを見つけたものは、それを察して冬官にこれを送り、冬官がわたしの許に届けてきた」
 跪いたままの李斎は、氾王を見上げた。
「これは……これは、どこからの荷に」
「文州じゃな。文州は|琳宇《りんう》から届いた|礫《いしくれ》の中に交じっておった。琳宇で当時、石を荷出している鉱山はひとつしかなかったと聞いておるが」
「はい──ええ、そうです」
 答えた李斎に頷いて、氾王は陽子を見る。
「戴の上質な玉は、玉泉から出る。山の中に水脈があって、そこに種を浸しておくと育つ。その水脈が通っている場所には、|砂礫《されき》を巻き込んだ玉の層が帯状にできる。それを掘り出したものを、飾り石として加工するのだが、これはわざわざ玉だけを選別してきたりはしないのだね。山から掘り出して切り欠いたままの石を、文字通りの玉石混淆で送ってくる。そこから石を選別し、良いところを切り出すのは匠の仕事、匠は山の石を一|鈞《きん》幾らで買いつける。その荷の中にこれが交じっていたそうな」
「よく……こんなものが」
「全くだねえ。文州は玉の産地じゃが、他に産物がないために、ほとんどを掘り尽くしてしまったとか。僅かに出る良い玉は驕王の手に渡ってしまい、範に送られてくるものは礫ばかり、それさえ年々減っていた。ことにこの数年は、その礫さえ入っては来ない。もはや全く荷が動いていないのでね。これは、戴から泰王が亡くなられたと、怪しげな勅使が来て──二年もしてから届いたのだったか。その頃から荷が止まるようになったから、ぎりぎりで届いたというところだね。よくぞ間に合ったものだよ」
「……切れています」
 陽子の言葉に、氾王は頷く。
「これは刃物で切った傷じゃと、冬官の意見は一致している。表は勿論、帯の裏にも血痕が|滲《し》みついておろう。……つまりはそういうことなのだねえ」
「誰かが泰王を斬った……」
「それも後ろからだよ。よほどの変事があったのであろうと案じていたが、肝心の泰に連絡をしても、|凰《おう》は答えず、国府からも変事がなかった。今回、|雁《えん》から連絡をもらって初めて事情が分かった」
 これは、と氾王は帯を布で包む。
「そなたに進ぜよう。切れてはおるが、泰王が|身罷《みまか》られたわけではないと聞いて|安堵《あんど》した。私の手許に戻ってきたのも奇縁であろ。泰王が自らの所在を報せてきたようでないか?」
 はい、と李斎は頷きながら、その包みを押し頂いた。
「奇跡的な|縁《えにし》で、そなたら戴の民と泰王はまだ繋がっている。……|諦《あきら》めるでないぞ」
 ありがとうございます、と言った言葉は|嗚咽《おえつ》で声にはならなかった。

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