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黄昏の岸 暁の天 4章6~

2010-08-08 22:15


  6

「諸国が一致して泰麒の捜索をする、これは天の条理に反しない」
 玉葉はそういった。一夜明けて、通告通り|午《ひる》のことだった。
「大丈夫なんだな?」
「ただし、神籍あるいは、仙籍に入り、伯以上の位を持つものでなくては、虚海を渡ることはできぬ。これは動かすことができぬ」
「先刻承知だ。だが、それでは人員が足りない。天綱には、置くべき官の決まりがあるが、新たに官位を設けてはならない、という記述はない。このために新たに伯位の官を設けることはできるか」
「ならぬ。伯位を超える位は天にとっても数々の特権を付与した特免の位、これを授けることができるのは、定められた通り、王の近親者、そして|冢宰《ちょうさい》、三公諸侯に限る。それ以外の者に特免の位を与えることは|適《かな》わぬものと考えられたほうが良かろう」
 六太は軽く舌打ちをする。
「では、女仙を借りることは」
「それも今回はならぬ、と心得られよ。蓬山の女仙は|妾《わらわ》の免許なくば、蓬山を離れて動くことが適わぬ。妾は今回、女仙にその免許を与えない。なぜなら、|崑侖《こんろん》、|蓬莱《ほうらい》へ泰麒を探しに行くためには、頻繁に|呉剛《ごごう》の門を開き、蝕を起こす必要があるからじゃ。現在、蓬山には|塙果《こうか》がある。蝕が蓬山に波及して塙果を異界に流すことだけはあってはならぬ。女仙には何を措いても、塙果を守ってもらわねば」
「ああ……そっか、蝕か」
「これは条理ではなく、玉葉からの頼みじゃが、蝕を起こすことは最低限に願いたい。たとえ虚海の彼方で呉剛門を開いても、それがどう波及するか予断を許さぬ──それが蝕というもの。心掛けてもらえれば恩義に思う」
 心得た、と六太は言い、陽子は頷く。玉葉は微笑み、
「ただし、九候と王の双方が国から欠けてはならぬ。天綱には、王がなければ九候の|全《すべ》て、王があっても九候のうち余州八候の半数以上が|在《あ》らねばならぬとあるが、これは天の条理であると心得てもらいたい。ここでの『在る』は、国にいる、という意味だと解釈さなれよ。[#原文ママ「解釈さなれよ」は「解釈なされよ」の誤植?]余州八候の半数──四候以上が一時に国を空けてはならぬ」
 六太は玉葉を|睨《にら》んだ。
「国にいる、という意味だというのは初耳だ。だったらそう書いておけよ」
 玉葉は軽く笑う。
「その苦情は天帝に申し上げるのじゃな」
「これだから、天の条理は油断がならない。──まあ、いい。他には」
「諸国合意の上でも、兵をもって他国を侵してはならぬ。これは断じて動かない。泰王がおられぬ以上、戴へ派兵することはまかりならぬ」
「了解済みだ。──泰の様子を見るために、兵を入れるのはどうだ」
「条理には、侵してはならぬ、とあるが、兵が他国に立ち入ることを禁じているわけではない。たとえば王が他国を訪問する際には、必ず身辺警護のために兵卒を同行するであろう。これを禁じる文言はない。また、使節として兵士のみが他国に向かうことを禁じる文言もないし、ゆえにこれまでも頻繁に行われてきた。問題は、兵士が他国に入ることではなく、入った兵士の行動が『侵す』という文言に当たるかどうかにかかっている」
「……微妙だな」
「戴の場合は、より微妙じゃ。どういう場合が『侵す』に当たるか、これはたとえば、その国の王の国策に|背《そむ》く行為である場合が挙げられる。遵帝がこれじゃな。|氾王《はんおう》が民を|虐《しいた》げた。それは非道とはいえ、正当な氾王が採った国策であることは確実じゃ。遵帝はこれを妨げた。ゆえにこれは『侵す』に当たる。空位の場合は、時の朝廷が決した方針が、すなわち国策であると見なされる。──ただし」
「泰王は死んでいない。戴は空位になったわけじゃない」
「その通りじゃ。たとえ偽王による偽朝といえど、それが朝廷の決であるならば、これに干渉し妨げることは侵入に相当する。じゃが、戴にはまだ正当な王がおられる。偽王は普通、空位になった王朝に偽って王が立つことを言う。戴の場合は、正しくは偽王とは言えぬ。前例がないので、何と呼べばいいのか定かではない」
「阿選の朝廷が、天の言う朝廷に相当するのかが問題か……」
「そういうことじゃな。こればかりは前例がなく、はっきりと定めた条理もない。どの目が出るかは|妾《わらわ》にも判じかねる。ただ、国策とは王の方針ではなく、得てして朝廷の方針を言うことはお心に留め置かれたほうが宜しかろう」
「難儀だな……」
「布陣はならぬ。他国の国土を、天によって認められた広さから|一夫《いっぷ》たりとも削ることは許されませぬ。戴国の王、戴国の民が、立ち入ることのできぬ土地を、他国の兵士が確保することは国土の占拠にあたる。たとえどう理屈をつけようと、陣営を設けた時点で|覿面《てきめん》の罪に当たると心得ておかれよ」
「了解した」
 延麒は他にも二、三の問いを発したが、それはいずれも曖昧な条理に明確な線引きをしようという、そういう行為に陽子には見えた。居心地の悪い違和感があった。玉葉は明らかに天綱に対する解釈を述べ、前例を加味して答えを与えようとしている。まるで全てに条理が先んじる──それも成文化された条理が先んずる印象を受けた。
 何となく、玉葉は昨晩一晩で、その条理に対する解釈と前例を調べ上げてきたのだ、と言う感じがしてならなかった。では、その条理とはいったい、何なのだろう?
 陽子はこの世界に連れてこられて以来、世界を見えるままに受けとめてきた。妖魔という魔物の|跋扈《ばっこ》する世界、新鮮が奇蹟を行い、数々の不思議が満ちる。それは|御伽噺《おとぎばなし》にそうだと定められているように、ここにおいては当然のことだと丸飲みにしてきたのだが、ここはそういう牧歌的な空想世界とは別物なのではないかという印象を受けた。
 なぜ妖魔がいるのか、なぜ王には寿命がないのか、なぜ生命は樹木から誕生し、何をもって麒麟は王を選ぶのか。それら、当然としてきたことの全てを、不可解に思うべきだったのかもしれない。そういう種類の──あえて言うならば──薄気味の悪い違和感。
 その違和感は、言葉にできないまま、蓬廬宮を退出するときまで続いた。
 再び白い階段を抜け、山頂に出る間に、陽子は何とか言葉にしてみようと|足掻《あが》いたが、やはりそれは巧く言葉にならなかった。
「玄君の言っていることは分かったな?」
 六太に問われ、陽子は頷く。
「俺はこのまま奏へこれを伝えに行く。挨拶もしなければならないし。陽子は戻って尚隆からの指示を待て」
「……分かった」
 じゃあな、と軽々とした声を残し、六太を乗せた|すう虞《すうぐ》[#「すう虞」の「すう」は「馬」偏に「芻」の字。Unicode:U+9A36]は南へ向かって消えていった。

   ※

 |穢濁《あいだく》は降り積む。二年、三年と過ぎるうちに、それは着実に彼を|蝕《むしば》んでいた。|鬱金《うこん》色をしたはずの彼の影は、その|翳《かげ》りを深くしていった。そして──と|汕子《さんし》は思う。
 皮肉なことに、彼の影が|穢《けが》れていけばいくほど、汕子たちは呼吸が楽になっていくのだった。あれほど困難に思われた、泰麒の影から抜け出ることも、意外に|容易《たやす》く可能になった。あるいはそれは、汕子たちが汚れから力を吸い上げているせいなのかもしれず、さもなければ、汕子らを|覆《おお》った殻が次第に薄く|脆《もろ》くなってきていることの|証《あかし》なのかもしれなかった。
 ひょっとしたら、と汕子は|悪寒《おかん》のする思いで自己を省みることがあった。泰麒の影が汚れていくのは、穢濁のせいばかりではなく、汕子たちのせいなのかもしれない。
 泰麒に危害を加えようとする者を、汕子は排除した。そのたびに鬱金の色が濁り|錆《さ》びてくるような気がする。
 だが、汕子にすれば、排除は選択の余地のない当然のことだった。汕子は泰麒の|傅母《うば》だ。泰麒が金色の果実として生を受けるのと同時に生まれ、生涯を泰麒と共に過ごすべく定められている。泰麒の生命が尽きれば、同時に汕子の生も終わる。そんなにも、汕子はただ泰麒のためにだけ存在しているのだ。王を選び、生国に下り、宰輔の地位に就いた麒麟は、もう汕子に養い育てられる子供ではなかったけれども、それでも汕子は依然として泰麒の僕だったし、泰麒のために存在していた。|傲濫《ごうらん》もまた、そうだ。傲濫は決して泰麒のために生を受けたわけではなかったが、契約によって結ばれた縁は汕子のそれに劣るものではない。麒麟と使令が結ぶ契約は、麒麟が王に対して結ぶ契約に匹敵する。汕子だけではなく、傲濫もまた、今や泰麒を守るためだけに存在しているのだ。
 その汕子らの目の前で泰麒に危害が加えられるのを、どうして黙って見過ごせるだろう? 泰麒の命令があればともかく、あるいは、泰麒が全身全霊を捧げる王のためならばともかく、汕子にとっても傲濫にとっても、泰麒に加えられる暴力を耐えて容認する理由は、どこにもなかった。
 最初は警告だった。泰麒に不遜の手を出せば、必ず報いがあるのだと汕子は証明して見せなければならなかった。それでも|不埒《ふらち》な行為はやまなかった。相手が泰麒を軽んじるなら、それは過ちだと汕子は思い知らせてやらなければならない。牢獄に囚われ、看守の専横を許しているのは、ゆえあっての選択であって、決して泰麒の神性が失われ、身分を失ったからではない。特に相手が害意をもって泰麒に危害を加えようとするなら、これは万死に値する。法をもってしても宰輔を害するは死罪、罪を減じられることはあり得ない。
 そうやって排除してもなお、次々に逆賊は現れた。払い除けても払い除けても湧いて出るそれを排除するたび、汕子の──傲濫の制裁からは余裕も|容赦《ようしゃ》も失われていった。そしてそのたびに逆賊の害意は増し、泰麒の影の|鬱金《うこん》の色が|濁《にご》ってくるような気がする。濁れば濁るほど、注ぎ込んでくる気脈が|痩《や》せる。
 この汚濁が|汕子《さんし》らのせいだったとしても、汕子は他にどうすればよかったのだろう?
 ……こんなことがいつまで続く。
 絶望的な気分を僅かに救ってくれるものがあるとすれば、何かの弾みに汕子が触れ、|慰《なぐさ》めを与えると、泰麒が喜んでくれることだった。悲しいことに、泰麒は汕子のことも、蓬山のことも戴のことも覚えていないようだった。だが、それでも汕子の指の感触だけは忘れずにいてくれるのだ。
 ……お側にいます。ついています。
 慰める度、ほんの少し闇の中に明るい金が|射《さ》して、汕子はそれで僅かなら|報《むく》われる気がする。
「必ずお守りしますから……」
 呟いた汕子の姿はしかし、|翳《かげ》った闇の中で徐々に輪郭を失いつつあった。
 汕子は自身で気づいていない。自分が自己を律することができなくなりつつあることに。思考は狭まり、|頑《かたく》なになった。そういう形で、自らにも|穢《けが》れが付着しつつあることを、汕子は|微塵《みじん》も理解していなかった。
 そして同時に、泰麒自身もまた、自己にそういう変化が起こりつつあることを、露ほども認識していなかったのだった。
 ──いや。彼は勿論、自己の周囲に事故の多いことを認識していた。しかしながら、彼はそれを「亀裂」の一環だと理解していた。
 彼は物心ついてからずっと、自分は異分子なのではないかという疑いを抱いてきた。自分という異物が存在するために、周囲の何かが巧くいかないのだという罪悪感にも似た意識を抱いていた。彼の存在は常に周囲にとって落胆の種であり、困惑と困苦の種なのだと感じてきた。そしてそれは、年ごとに拡大し、確信へと変わっていった。
 彼は今や、確実に異分子だった。周囲にとって不快の元凶であり、災厄の種子だった。いつの間にか彼と世界の間に刻まれてしまった亀裂は、時と共に目を逸らしようもなく深まっていった。亀裂に橋を渡そうとする母親の狂おしい努力は、どこかの時点で放棄されてしまった。
 彼は孤立し、そして孤立せざるを得ない自分を理解していた。自分に係わるものには災厄が降りかかる。「|祟《たた》る」という噂が流れた。そしてそれは、彼の属性のひとつになった。彼は自分が、周囲にとって不快で危険な生き物なのだと了解した──せざるを得なかった。
 彼はそれを、自分でも不思議なほど淡々と受け入れた。
 なぜなのだろう、と彼自身思うことがある。小さい頃には、自分が異分子のように思えることが、ひどく辛く、悲しかった。だけれども今は、それほど辛いとも悲しいとも思えなかった。
 慰めてくれる何かがいるせいなのかもしれない。精霊のような何かが自分の周囲にいて、温かな|慰撫《いぶ》を与えてくれていることに、彼はいつからか気づいていた。だからこの孤立を、真の意味での孤立だとは捉えていないのかもしれない。あるいは、他人に係わることは即ち、その人物を危険に|曝《さら》すことで、それが実際に起こったときの苦しみを考えれば、どんな関係も持たないほうが数倍ましだと感じていたのかもしれない。だが──それよりなお、数段奥深いところで、彼の何かが変質していた。
 ……僕は、ここにいてはいけない。
 彼はそう感じていたが、それにはさほどの苦しみを伴わなかった。それはかつてどこかでとっくに覚悟し、受け入れたことなのだという気がしていた。幼い頃、母親が彼のせいで泣くことは、彼にとって何にも勝る重大事だった。彼は今もそれを辛く感じはするのだが、母親を|哀《あわ》れに思うたび、もっと先に|憐《あわ》れまねばならない誰かがいるような気がしてならなかった。母親より、家族よりももっと先に、案じてやらねばならない誰か。
 歳と共に|膨《ふく》らんでいったのは、悲嘆や|孤愁《こしゅう》よりも焦りだった。何か大切なことを忘れている。絶対に忘れてはならない、あまりに重大な何か。こうして彼が無為に存在している間に、取り返しがつかないほど|損《そこ》なわれ、失われていく何かがあるような気がする。
 なぜ思い出すことができないのだろう。
 どこかで喪失した一年。思い出そうとする度、懐かしく、|愛《いと》しく感じる何か。思い出すことができないまま、日一日と彼はそこから離れていく。大切なそれとの距離が絶望的なまでに開いていく。
 ……帰らなければ。
 でも──。
 どこへ?

 

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黄昏の岸 暁の天 4章3~5

2010-08-08 22:14


  3

 |李斎《りさい》の許に陽子がやってきて、泰麒を捜すことになった、と|報《しら》せてくれたのは、夕餉の最中のことだった。
「諸国からどれくらいの協力が得られるのか、どのくらいで泰麒を見つけることができるのかは、やってみないと分からないけど。とりあえず、ほんの一歩だけ、前に進むことになったから」
 感謝の言葉もない李斎に笑って、彼女はあたふたと|客庁《きゃくま》を出ていった。こうして戴のために時間を割いてくれている分、陽子は深夜まで自国の処置に追われている。
「……なんて、有り難い」
 |呟《つぶや》いた李斎に、良かったね、と声を掛けてきたのは、給仕のために客庁へやってきていた|桂桂《けいけい》だった。
「たくさんの王様が協力してくれるんだったら、きっと見つかるね」
「絶対よ」
 きっぱりと言ったのは|鈴《すず》で、これに対し、李斎はぼうっと頷くしかなかった。なにひとつ前進せず、ただただ絶望と戦うしかなかった六年もの歳月に比べ、何という進展だろう。
 ……やっと戴は救われ始める。
 それを思うと、喜びでその夜は眠れなかった。|臥牀《しんだい》の中で何度も陽子の言葉を|反芻《はんすう》していた夜半、その喜びは唐突に不安へと変わった。……もしも、それでも泰麒が見つからなかったら。
 見つかるかもしれないと思うと、喜びが深かっただけに、それが失望に転じたときのことを考えると恐ろしくてならなかった。陽子を疑うわけではない。ただ、李斎は思うままにならない時間をあまりにも長く過ごしてきた。期待は裏切られ、希望は|悉《ことごと》く|潰《つい》える。──そうでなかった|例《ためし》はない。
 泰麒が無事に戻ってくるなんて、そんな喜ばしいことが本当に起こるものだろうか。見つかることなどないのではないか、捜している間に泰麒に何事かが起きるのではないか──考え始めると、今度は不安で眠れなかった。
 胸の息苦しさに堪えかね、李斎は苦労して臥牀を降りた。李斎の容態が少しばかり落ち着き、ようやく鈴は|不寝番《ねずのばん》をやめて自室に|退《さ》がることができるようになっていた。手を借りることはできない代わりに、|牀榻《ねま》を出たことを|咎《とが》められることもない。
 |萎《な》えた身体を家具や壁で支えながら伝い歩き、李斎は長い人家を掛けて堂室の扉を開けた。少し夜風を入れたかっただけなのだが、扉を開けると、それで力尽きてその場に坐り込んでしまった。こんなにも身体が萎えている、と思うと、焦燥感に襲われた。
 ……たとえもし、泰麒が戻ってきたとしても、それからどうすればいいのだろう。
 泰麒がいれば、王気を頼りに|驍宗《ぎょうそう》を捜すことができるかもしれない。だが、そのためには泰麒を連れて戴へと戻らなければならなかった。そんなことが自分にできるのだろうか。こんなに弱った身体で、しかも利き腕を失って。これでは泰麒を守ってやることすらできない。戴には妖魔と兇賊が|跋扈《ばっこ》しているというのに。──身体が萎えたことで、心が萎えているのかもしれない。あるいは、戴を抜け出し、安全な王宮の中で保護されていることに身も心も|安堵《あんど》してしまったのかも。振り返ると戴は恐ろしい場所に思えた。そこに自分が泰麒を抱えて戻ることなど考えられない──。
 李斎は回廊に座りこみ、|鬱々《うつうつ》とした気分で壁に|凭《もた》れかかっていた。軒の先、|庭院《なかにわ》には月の光が落ちている。どこかで|物寂《ものさび》しく虫が鳴いていた。
 泰麒が戻ってきても、そこからどうすればいいのか分からない。泰麒が本当に戻ってくるとは信じられない。泰が救われることはないような気がする。……根拠もなくそう思えてならない。いつの間にか、失望に対して心の準備をすることに|馴染《なじ》んでしまっている。
 ……だって、ずっとそうだった。
 戴を災異が襲うようになったのは、驍宗が姿を消して何年目のことだろうか。世に言う、王の|郊祀《まつり》が世界の理を整えるのだ、と。阿選は郊祀をしたろうか。それとも正当な王の郊祀でなければ、世界が整うことはないのか。
 いずれにしても、戴は荒れ始めた。それは、玉座が空位であったとき以上だった。
 驍宗を失って何度目かの夏、李斎は驍宗を捜して文州に入った。秘かに、阿選に所在を掴まれないよう、|伝手《つて》を頼り、知古の庇護を受けながら文州に入り、|轍囲《てつい》に向かった。驍宗はその手前、|琳宇《りんう》の陣営から消えたのだ。
 琳宇はもともと、文州随一の玉泉を持つ街だった。最古の玉泉、|函養山《かんようざん》を|首《はじ》め、周囲には大小の玉泉が点在し、鉱山の麓にはそれぞれの門前町が築かれていた。それらの玉泉はしかし、ほとんどが掘り尽くされ、今では端々に残った泉から玉を取り出していると聞いていた。その泉さえ、このところ、急激枯れている、と。それも災異の一環なのか、李斎には分からない。
 琳宇近郊と言うだけでは、あまりにも|曖昧模糊《あいまいもこ》としている。あるいは轍囲の民なら驍宗の行方を知っているかもしれない、轍囲の民が驍宗を|匿《かくま》う可能性は十分にあると李斎は踏んだが、行ってみると、轍囲という街自体が消失していた。|煤《すす》けた|瓦礫《がれき》だけを残し、轍囲は置き捨てられていた。もちろんその瓦礫の中に、生きている人間の影はなかった。ただ、焼け残った祠廟の祭壇に、|荊柏《けいはく》の白い花が捧げられていた。あるいは轍囲の生き残った民が、一目を恐れ夜陰にでも|紛《まぎ》れて驍宗の無事を祈願に来ているのかもしれない。
 祠廟の隣には、炎に|炙《あぶ》られ、まるで立ち枯れたかのように|里木《りぼく》が悄然と立っていた。その寂しい風景は、否が応でも国の柱を失った戴の|寄《よ》る|辺《べ》なさを李斎に自覚させた。
 李斎自身も夜陰に紛れ、人混みに身を滑り込ませて隠れていなければならなかった。市井を忍び歩くようにして、驍宗の行方を知る者はいないか、あるいは|英章《えいしょう》、|臥信《がしん》やその軍勢の行方を知る者はいないか訪ね歩いたが、成果はほとんど得られなかった。辛うじて、琳宇の郊外で戦闘が起こり、|土匪《どひ》と禁軍が正面から対決したが、その戦闘以来、禁軍がひどく浮き足立ち、土匪が攻めてきても戦闘に応じないようになった、と聞いた。おそらくは、それが驍宗が姿を消したときなのだ、と思う。
 戦闘のどさくさに|紛《まぎ》れ、王を討つ──普通ならあり得ることだが、驍宗に限っていえばそれは考え難かった。驍宗は剣客として聞こえている。なまじな相手では驍宗を討ち取ることはできまい。ただ、驍宗は|阿選《あせん》の軍を率いていた。驍宗がうかうかと阿選を信じ、阿選の|麾下《ぶか》を信じていたなら、戦闘の最中、驍宗の身の回りは阿選の麾下ばかりだったはずだ。多勢に無勢で討ち取られ──あるいは|捕《と》らわれることも考えられるが、驍宗はそこまで阿選を信用していただろうか。あえて阿選の手勢を|割《さ》き、半数を文州に連れてきたことを思えば、驍宗は最初から阿選を疑っていたようにも見える。
 方々の戦場、方々の廃墟を訪ね歩きながら夏を過ごし、その夏の終わりに雪が降った。煤でも含んでいるのか、灰色のべたつく雪は、不吉の前兆としか思えなかった。事実、その年の冬は厳しかった。大量の雪が降り、雪に備えた北方の家でさえ、雪の重みに堪えかねて倒壊するほどだった。
 寒く雪の多い冬に続き、乾いた夏がやってきた。戴には稀な暑い夏になった。農地は干上がっていった。なのにまた冬が来る──。
 その翌年からだったと思う。頻繁に妖魔が現れるようになったのは。空位が続いた戴のこと、それまでも皆無ではなかったが、それが目に見えて増えた。古老は、王が無事であるなら、妖魔が現れるはずなどないと言う。驍宗死んだのだ、と確信を込めて言われるようになったのは、この頃からだ。
 民は今頃、どうしているのだろうか、と李斎は|庭院《なかにわ》の夜空を仰いだ。李斎がこうしている今も、戴の民は苦しんでいる。夏が終わろうとしている。戴に恐ろしい冬がやってくる。
 ……救ってください。
 李斎は今も、衝動的に、叫んで|縋《すが》りたい気分になることがある。景王を知り、周囲にいる人々を知れば知るほど、それが恐ろしい罪深いことだと身に|沁《し》みて分かる。それを分かっていてもなお──。
「……けれども、他に|術《すべ》がない……」
 阿選の凶行を止める者が必要だ。妖魔を討伐し、冬を越えるための物資を恵んでくれる力が。それが得られなければ、戴はもうあと何年も保たない。今年か、来年か、あるいはその先か。いずれにしてもある冬が通り過ぎ、雪が融けるとその下から、最後の戴の民が凍って姿を現すのだ。
「そんなところで、どうなされた?」
 声がして振り返ると、庭院の入り口に老爺が一人、立っていた。
「いえ……何でも」
 太師の|遠甫《えんほ》だった。ここは遠甫の邸なのだから、当然のことなのかも知れないが、ここに移って以来、遠甫までも頻繁に李斎を見舞ってくれる。慶の──少なくとも景王の周囲にいる人々は、誰もがとても暖かい。それを思うたび、陽子に縋って兵を出してくれ、訴えそうになる自分が恐ろしい。
「起きておられても|宜《よろ》しいのか?」
「ええ……もう」
 ひたひたと歩いてきた遠甫は、李斎が腰を下ろした回廊の|階《きざはし》に腰を据えた。
「泰台輔を捜すために、延帝がお力を貸してくださるとか」
「……はい」
「にしては、|憂鬱《ゆううつ》そうでいらっしゃる」
 そんなことは、と李斎は|呟《つぶや》いたが、勿論遠甫には通じなかっただろう。
「左様でございましょうな。捜して簡単に見つかるものとも限らず、たとえ見つかったとしてもその後の課題は山積しておる。台輔が戻られれば泰王をお捜しすることは容易くなるかもしれないが、そのためには台輔に戴へお戻り願わねばならず、場合によってはそれで本当に台輔を失ってしまう可能性もある」
 はい、と李斎は|首肯《しゅこう》した。
「泰王をお捜しするにも、手勢は必要、しかし戴で、それだけの人員を見つけることは難しかろうと聞いておりまする。なんとか手勢を見つけても、泰王をお捜ししているその間にも民には苦難が伸し掛っておる」
「……冬が来ます。初雪が降るまでに、もう何ヶ月もありません」
「思うてみれば、戴は辛い国じゃな。露天で冬を|凌《しの》ぐ|術《すべ》がない」
「本当にそうです。……慶の冬は暖かいのでしょうね」
「戴に比べればな」
 李斎は悄然と|項垂《うなだ》れた。
「暖かい国があって、そうでない国がある……。戴も慶のようだったら、どんなに良かったでしょう。せめて人が身を寄せ合い、互いの体温で冬を乗り切れるようだったら。どうして世界には、暖かい国と、そうでない国があるのでしょうか」
「そうじゃの」
 李斎は月を仰ぐ。
「天帝はなぜ、戴のような国をお作りになったのでしょうね……。せめて人肌で乗り切れる程度の冬なら──あまりに不公平です」
「それは言うても|詮方《せんかた》あるまい」
 ですが、と李斎は唇を|噛《か》んだ。
「世界は天帝がお作りになったのではないのですか。ならばなぜ、天帝は戴のような国をお作りになったのです。あれほど無慈悲な冬のある──私が天帝なら、せめて気候だけでも恵まれた国を作ります。冬に凍ることも夏に乾くこともない、そういう世界を」
 ふむ、とだけ遠甫は応える。
「民が飢えていれば恵みを施します。偽王に苦しんでいれば偽王を討ちます。それでこその天、なのではないのですか?」
「それは……どうじゃろうな」
「なぜです? 天は王に仁道を以て国を治めよと|仰《おっしゃ》いました。なのになぜ、仁道のために兵を出すことを罰されるのです? 驍宗様を玉座に据えたのも天です。天帝が驍宗様こそが王者だとして、自ら玉座を勧めたのではないのですか。なのになぜ、天は王を守っては下さらないのです」
 |遠甫《えんほ》は沈黙する。
「天帝は本当においでなのですか? おいでならなぜ、泰を救ってくださらないのです。血を吐くような戴の民の祈りが聞こえませんか? まだ祈りが足りないと|仰《おっしゃ》るのですか? それとも戴を滅ぼすことが、天のお望みなのですか?」
「李斎殿……」
「天帝がおられないのなら、それも結構。救済すら恵んでくれない神になど、いて欲しいとも思いません。けれど、おられないのなら、なぜ兵をもって国境を越えてはならないのです? それを罰するのは誰ですか? 罪と見定め、罰を下す者がいるなら、なぜその者は、阿選を罰してはくれないのです!」
 震える片手の上に、温かな手が載せられた。
「……お気持ちは分かります。じゃが、激されてはお身体に|障《さわ》る」
 李斎は息を呑み、そして吐き出した。
「……申しわけありません。取り乱しました……」
「お気持ちは分かりますとも。我らは所詮、天の摂理の中で生きておる。……そこにありながら、関与できない……理不尽なものでございますな」
「……はい」
「ですが、ここは人の世でございます。天のことなどお気になさるな。どんな摂理があろうとも、その中で生きていく|術《すべ》は見つかるもの。少なくとも、慶の主上はそのために心を|砕《くだ》いておられる」
「はい。……失礼を申しました」
「そうお悩みにならんことじゃ。……誰もまだ、戴を見捨ててはおりませぬ」
 李斎は頷いた。月はただ無情に下界を見下ろしている。

   4

「よう」
 そう|暢気《のんき》な声を上げて、|六太《ろくた》が|正寝《せいしん》の陽子の許へやってきたのは、彼と尚隆が一旦|雁《えん》に戻ってから、十日ほどのことだった。
「……今回も突然のお越しですね。よくここまで」
 入ってこれたものだ、と陽子が言外に含ませると、六太はにっと笑う。
「前にも来たしな。さすがにこの髪だと、どこの誰だとは|訊《き》かれないや。……でも、陽子のとこの門番は話せるな。|凱之《がいし》とか言ったか、見知り置いてやってくれ」
 陽子は軽く溜息をつく。
「神出鬼没であらせられる」
「俺はそれが身上なんだ。……というわけで、陽子にも出掛ける用意をしてもらいたい。大至急だ」
「出掛ける?」
「そう。諸国に話が通った。|恭《きょう》と|範《はん》、|才《さい》、|漣《れん》、|奏《そう》の五国が協力してくれる。うちと慶を併せて七国だ。|芳《ほう》と|巧《こう》は空位だからそもそもの数のうちには入れられないし、|柳《りゅう》と|舜《しゅん》からは|色好《いろよ》い返答はもらえなかった。
 陽子は軽く腰を浮かせた。
「五国……」
「とにかく、できる限りの手を使って、|崑侖《こんろん》と|蓬莱《ほうらい》に捜索隊を出す。奏が|誼《よしみ》の深い恭、才と協力して崑侖を引き受けてくれた。俺たちは範、漣と協力して蓬莱を受け持つ。範と漣からは台輔を雁に寄越してもらえるよう手筈が整っている。慶にしなかったのは、慶の国庫に負担を掛けるのはどうかと思ったからなんだが、気を悪くするかな?」
「勿論、雁で結構です」
 うん、と六太は笑って、
「至急ということにはしているものの、中には漣の|御仁《ごじん》もいる。日程の調整は今やってるところだが、遠路駆けつけてくることを考えれば、まだ少し先になるだろう。その間に一緒に行って欲しいところがある」
「私に……? どこへ」
 蓬山だ、と六太は答えた。
「蓬山、ですか?」
 蓬山は、世界中央黄海にある麒麟が生まれる聖地だ。陽子も一度だけ行ったことがある。新たに登極した王は、そこで天啓を受けることになっている。
「蓬山に行って何を……?」
 陽子が首を傾げると、
「ヌシに会うんだ」
「ヌシって……まさか、|碧霞玄君《へきかげんくん》?」
 碧霞玄君は蓬山に住む女仙たちの|主《あるじ》だが、陽子は玄君にあったことがなかった。
「そ。何しろ、これからやろうとしていることには前例がないからな。これも何かの勉強だし、そもそもの発起人は陽子なんだから、陽子を連れて行けと尚隆に言われている。蓬山まで飛べる騎獣があれば、荷物は最低限でいい。急いでくれ。客人が揃う前に戻って来なきゃならない」

 陽子は|慌《あわ》てて準備をした。後事を|浩瀚《こうかん》に|委《ゆだ》ね、景麒から使令を借りた。てっきり陽子は、禁門から出立するかと思ったのだが、それをいうと、六太は笑った。
「下から行ったんじゃあ、どれだけ掛かるか分からない。雲海の上を一気に行く」
 陽子は瞬いた。蓬山の山頂部は|凌雲山《りょううんざん》の常で、雲海の上に突出している。しかしながら蓬山の山頂には、無人の祠廟以外、何もなかったように記憶していた。少なくとも、人が住んでいる様子はなかった。
「まあ、行ってみれば分かる」
 言われて、陽子は景麒から借りた|班渠《はんきょ》に騎乗した。そこからひたすらに飛んで一昼夜、騎乗したままうとうととして目覚めた早朝、金剛山の山頂が群島のように並ぶ海域を抜け、日没が近づこうという頃にようやく五山の姿を認めた。
 蓬山は五山東岳、山頂には白く壮麗な廟堂が建つ。その門前に舞い降りる前に、陽子は|佇《たたず》んでいる人影に気づいた。|玲瓏《れいろう》とした女が、飛来する騎獣を仰ぎ見ている。
「……な?」
 六太が笑う。なるほど、行けば分かる、と言うはずだ──陽子はそう思った。陽子は|碧霞玄君《へきかげんくん》の顔を知らないが、待ち受けた人物の身なりから、それが玄君自身であることは想像がついた。
「毎度のことながら、わざわざのお出迎え、恐れ入ります」
 真っ先に降り立った六太がそういうと、その女は軽く声を上げて笑った。
「それはこちらの申すこと。延台輔にはいつもながらの唐突なお越し、ほんに台輔はいつまで経ってもお変わりにならぬ」
「ま、俺はそれが身上だ。──玄君に紹介したい」
 六太の言に、彼女は|涼《すず》やかな眼差しを陽子に向けた。
「こちらは景王のようにお見受けいたす」
 陽子は驚き、玉葉の顔を仰ぎ見た。
「よく……ご存じで」
「蓬山のヌシじゃからの」
 玉葉は軽く声を上げて笑う。
「紹介が済んだところで、取り急ぎ、相談したい。……ついでにちょいと休ませてもらえると嬉しいんだがなあ」
 彼女は笑って、祠廟のほうへと六太を促す。扉のない門の向こうには白い石畳の広い|庭院《なかにわ》、ただし、それを囲む|墻壁《へい》も回廊もなく、ただ、一郭に赤い小さな祠だけがある。正面は正殿だが、玉葉はそこへは向かわず。朱塗りの祠の前に立った。扇で扉を一つ叩き、開く。陽子がかつて通ったときの記憶では、そこには|玻璃《はり》の階段があったはずだが、今は白い階段が下へと延びていた。
 驚いている陽子を振り返り、六太は苦笑する。
「気にするな。この人はどっちかというと、化け物の部類だ」
 |玉葉《ぎょくよう》は涼しげな笑い声を上げ、陽子らを中へと促した。
 禁門と同じ理屈だろう、さして長くはない白い階段を下りると、同じく白い建物の中だった。床に降りて振り返ると、閉まったはずの扉がない。そこには白い壁があるだけ、八角形の建物の、その他の面には壁が無く、緑に|苔生《こけむ》した岩肌が迫っている。
「こちらへ」
 玉葉が案内したのは、ほど近い宮だった。奇岩に囲まれた広々とした建物の中に入ると、すでに茶器と軽食が用意されている。|蓬廬宮《ほうろぐう》に住まうはずの女仙の影はどこにもない。
「とりあえず人払いをしておいたが、それで|宜《よろ》しゅうござったろうか」
「本当に察しのいいことで感心するよ。──単刀直入に訊くが、蓬山では、戴の事情をどこまで知っている?」
「再三、雁から|泰果《たいか》はないかと問い合わせがあったゆえ、泰麒の御身に何か|宜《よろ》しからぬことがあったことぐらいは想像がつく」
「それ以外は?」
「泰王が御座におられぬようじゃな」
「それで全てだ。戴に偽王が立った。泰王も泰麒も行方が知れない。泰王は戴を出ていないようだから|如何《いかん》ともしがたいだ、泰麒だけでも捜したいと思っている。泰麒は鳴蝕によってあちらに流された可能性が高い」
 玉葉は黙って茶器に湯を注いでいる。
「ただし、俺だけの手には余る。諸国に助けを借りようと思っている。そのうえで泰麒を捜し、こちらに連れ戻す。戻してそれで、戴に帰して終わりにはできまい。戴には冬に備え、物資が必要だ。偽王の目を逃れ、泰麒に泰王を捜してもらうにしても、それなりの人員と|後《うし》ろ|盾《だて》が要る」
「……国同士が、相互の付き合いを越えて、一致して事に当たった例はないようじゃえ」
「|理《ことわり》に触れるか」
「さて……。泰麒を捜して連れ戻すまでは良かろうが、その先は|如何《いかが》なものかの。これはおそらく理に触れよう」
 しかも、と玉葉は|蓋《ふた》をした茶器を六太の前に進めた。
「泰麒が流され、今に至るも戻っておられないことを考えれば、泰麒はこちらに戻ることができぬと思ったほうが良かろう。如何なる事情があってのことかは分からぬが、もしも事情ではなく、何らかの理由でそれが適わぬとすれば、その|障碍《しょうがい》を如何にして取り除くか、という問題もござろう」
「そうなんだ。……どうだろう?」
「ふむ……」
 呟いたきり、玉葉は黙り込む。しばらくの後に、頷いた。
「何にせよ、このままでは泰麒が|不憫《ふびん》じゃ。……確認してみよう」
 頼む、と六太が言うや否や、玉葉は立ち上がる。
「本日はゆるりと休まれるが良かろう。女仙を|捕《つか》まえていずれの宮なりともお好きにお使いなされ。明日の|午《ひる》にはお目に掛かる」

   5

 立ち去った玉葉を見送ってから、陽子は困惑して六太を見た。
「これは……どういうことなんだ?」
「どういう、と言われても。見ての通りだ。今回の件は、なにしろ前例がない。どうすればいいのか分からないし、だから相談したんだが」
 それは分かるが、と陽子は|口籠《くちご》もった。陽子の胸にある釈然としない感じを、どう言い表していいのか分からなかった。
「玄君はどういう方なんだろう?」
「ご存じの通り、蓬山のヌシだ。玄君が女仙を|束《たば》ねている」
「その玄君に相談してどうなるんだ?」
「答えを与えてくれる。だから来たんだぜ?」
「なぜ玄君が答えを知っているんだ?」
 ああ、そうか、と六太は溜息をひとつついた。
「陽子には呑み込んでおいてもらいたいことがある」
 六太は言って、陽子を見据える。
「この夜には天の定めた|摂理《せつり》がある」
「それは知っているが……」
「漠然と分かっている、だろ? これは、そういうことじゃないんだ。摂理という枠組みが世界には、ある」
 陽子は首を傾げた。
「それは天が所与のものとして人に授けた──あるいは、人に課した絶対的な条理だ。これは誰にも動かすことができない」
 よく分からない、と言いかけた陽子を制するように、六太は軽く手を振った。
「いいか。この例を挙げるのが、一番分かりやすいだろう。今、俺たちの前には|覿面《てきめん》の罪という問題が立ちふさがっている。兵をもって国境を越えてはならない、という条理が泰を救おうとすると邪魔をするんだ。実際に過去、王師が国境を越えた例がある。|遵《じゅん》帝の故事がその例だ。遵帝は王師を範に向かわせた。その結果、遵帝も|采麟《さいりん》も突如として|斃《たお》れた。遵帝はその日、格別の不調もなく、平生通りだったという。それが外殿を出ようとしたところで唐突に胸を押さえ、|階《きざはし》を転がり落ちた。官が|慌《あわ》てて駆け寄ったとき、遵帝の身体からは血が流れ出て石畳を小川のように這っていたという。驚いて助け起こすと、遵帝の身体は海面のように変じ、押さえれば皮膚から血が滲み出した。遵帝はすでに絶命していた」
「そんな……」
「斎麟はもっと酷い。遵帝に変事が起こったことを報せようと、官が采麟の宮殿に駆けつけると、そこにはもう采麟の残骸しか残っていなかった。使令が彼女を食い散らした後だったんだ」
 六太は顔を|顰《しか》め、|卓子《つくえ》の上で指を組む。
「これが尋常の死でないことは確かだ。王がそのようにして死ぬなんてことはあり得ない。同時に、使令がそうも唐突に麒麟を喰うなどということもあり得ない。麒麟を喰うのは使令の特権だが、場所を構わず荒らすことはない。どの麒麟もそれなりに息を引き取るし、遺体は棺に入れられ、|殯宮《もがりのみや》に安置される。殯の間、棺の置かれた堂《ひろま》は封印され、殯が済むと出されるわけだが、その頃には棺の中はほぼ空になっている。──そういうものなんだ」
 陽子は軽く喉元を押さえた。当の麒麟から麒麟の末路を聞くのは、胸が痛む。
「尋常でないことが起こった。しかも遵帝には位を失うような落ち度がなかった。仁道に篤い徳高い王で、遵帝が王師を範に向けたことにしても、誰も疑問には思わなかった。遵帝は範を苦しめるために王師を向けたわけではない。他国にも鳴り響く慈悲深い王が、慈悲によって民を救うために王師を範に向かわせたんだ。官も民も、それを指示しこそすれ、非難したりはしなかった。にもかかわらず、遵帝と采麟の末路はそれだった。何の予兆もなく、王や宰輔が死に際して通るべき段階は全てすっ飛ばされた。明らかに、尋常のことではなかったが、最初、誰もそれと王師の行動を結びつけたりはしなかった」
「延麒は遵帝とは……?」
「面識はない。遵帝は俺が生まれるより遙か以前にいた王だが、|宗《そう》王会ったことがある、と言っておられた」
「|奏《そう》の……」
「宗王が登極して間がない頃、遵帝は盛んに奏を支援したらしい。そして唐突に斃れた。現在の宗王が登極なさった頃、|才《さい》は治世三百年、南に著名な大王朝だった」
 延麒は茶碗を揺らし、覗き込む。
「なぜ遵帝が倒れたのか、その理由は誰にも分からなかった。そしてその後、新たに王が登極したが、その時には|御璽《ぎょじ》の国氏が変わっていた。そこで初めて、遵帝は罪によって|斃《たお》れたのだ、ということが明らかになった。これには先例があったからだ。かつて戴の国氏も、|代《たい》から|泰《たい》へと変わっている。これは時の代王が、|失道《しつどう》によって|麒麟《きりん》を失い逆上し、次の麒麟の生誕を|阻《はば》もうとして蓬山に乱入、女仙の全てを虐殺して|捨身木《しゃしんぼく》に火を掛けた、それ以来のことだと言われている。他にも似た例があって、国氏が変わるのは王に重大な罪があった場合だと知られていた。そしてここで初めて、王師が国境を越えたことで遵帝は罪に問われたのだと了解されたわけだ」
「それに匹敵する罪……」
「そういうことだな。たとえ仁のためであろうと、兵をもって国境を越えてはならない、という条理があることが、その時に理解された。兵を他国に派遣することは、その理由如何に拘らず罪なんだ」
「ちょっと待ってくれ。その条理を定めたのは、いったい誰なんだ? 天帝?」
「分かるもんか。俺たちに分かるのは、そこに条理がある、ということだけなんだ。実際、天綱には、兵をもって他国に侵入してはならぬ、と書いてある。この文章は、間違いなく天の条理を書き写してあるんだ。世界には条理がある。それに背けば罪に当たり、罰が下されることになる」
「でも、遵帝の行為を罪だと認めたのは誰なんだ? 罰を下したのは? 誰かがいるはずだろう?」
「とは限らないだろ。たとえば王と宰輔はその登極に当たり、|階《きざはし》を登る。陽子も登ったろう。天勅を受ける、というあれだ。それまで知らなかったはずのことが、頭の中に書き込まれる。そのときに、王と宰輔の身体の中に、条理が仕込まれた、と考えることもできる。天の条理に背けば、あらかじめ定められた報いが発動するよう、身体の中に仕込まれていると考えれば、少なくとも遵帝を見守り、その行為の正否を判じ、罰を下す決断をした何者かの存在は必要ではなくなる」
「御璽は?」
「同様に御璽に仕込まれていると考えることはできるだろ?」
「それでも問題は同じなんじゃないのか? 全てを仕込んだ──仕込むべく用意したのは誰なんだ?」
 さてなあ、と六太は宙を仰いだ。
「天帝がそれだ、と俺たちは説明するわけだが、実際のところ、俺は天帝に会ったという奴を知らないんだよな……」
 陽子は頷いた。
「私もだ……」
「天帝がいるのかどうかは知らない。だが、世界には条理がある。これは確かだ。そして、それは世界を網の目のように覆い、これに背けば罰が発動することも確かだ。しかもこれは事情を|忖度《そんたく》しない。|遵帝《じゅんてい》が何のために兵を出したのか、その行動の是非なんかは問題じゃないんだ。いわば天綱に書かれている文言に触れたか触れなかったか、ただそれだけの、自動的なものなんだよ」
 陽子は軽く身震いをした。足許から|悪寒《おかん》が|這《は》い昇ってくる。
「そのもう一つの証左が、俺たちが陽子を助けた、あの件だ。行為だけを言うなら、|雁《えん》の王師は尚隆の指示によって国境を越えた。どう考えても|覿面《てきめん》の罪に当たるはずだ。確かに陽子は雁にいたが、陽子は別に俺たちに援助を求めてきたわけじゃない。偽王を討ちたいから助けてくれと言ったわけじゃなかった。単純に対応に困って保護を求めてきたのを、俺たちが取り込み、景麒だけでも偽王の手から取り戻す必要がある、と言って説得した。形としては景王が雁の王師を使ったという体裁を整えたが、それは体裁だけのことで、実状は遵帝の行った行為と何ら変わりがなかったことは、当の俺たちが一番よく知っている。──だが、条理はそれでも構わない。ただ景王が雁にいる、それだけの体裁が整っていさえすれば罰は発動しないんだ」
「しかし……それは|可怪《おか》しくないか?」
「可怪しいとも。ちょうど悪党が、法の裏をかくやり方に似ている。確かに、天綱には兵をもって他国に侵入してはならぬ、とは書いてある。だが、他国に兵を貸してはならぬ、とは書かれていない。同時に、景王がそれを望めば、もはや侵入とは言えないだろう。王師の先頭に景王がいれば、それは確実に侵入という表現には当たらない。──驚いたことに、それで通るんだ」
「そんな……」
「それがいいとか悪いとか、そんなことを言っても仕方がない。この世はそういうものだ、と呑み込むしかない。だが、ものがそういう性質のものであるだけに、時々解釈に困ることがある。……実際のところ、俺たちがああして王師を貸したのは陽子が初めての例じゃない。俺たちは天の条理がものすごく教条的に動くことに気づいていたし、ならば当の王がいれば条理には触れないのではないかという結論に達していたが、最初の例の時にはひどく迷った。こんな裏をかくようなやり口が通るのか、自分たちでも疑問だった」
「……なのにやってみたのか?」
「まさか」
 六太は顔を|顰《しか》める。
「そんな|博打《ばくち》ができるもんか。──だから、今回のように玄君にお伺いを立てたんだ」
「玄君に」
「そう。ここ、蓬山の主は玄君だ。一説によれば|王夫人《おうふじん》が主だとも言うが、実際に女仙を|束《たば》ねるのが玄君であることを、少なくとも俺は知っている。蓬山で生まれたわけじゃないが、蓬山で育ってきたからな。では、蓬山で住まう女仙を仙に任じたのは誰だろう?」
「それは……玄君じゃないのか? 少なくとも王ではないだろう」
「その通りだ。蓬山の女仙を|飛仙《ひせん》と呼ぶ。それは、どの国の王が任じたわけでもなく、ゆえにどの王に仕えるわけでもないからだ。実際、蓬山の女仙はどの国の仙籍簿にも載っていない。王とは別の世界で、別個に仙籍に入れられ、玄君に仕えている」
「それでは、十三番目の国がある、ということにならないか? 少なくとも玄君は王に匹敵する立場にあるわけで」
「そういうことになるだろう? だが、ここは明らかに国じゃない。国土はあっても民がいない。しかもこの国土を|統《す》べる王には麒麟がいない。そもそも、玄君は蓬山を統べるわけじゃない。蓬山には|政《まつりごと》というものが存在しない」
「……では、ここはいったい何なんだ?」
「天の一部だよ。少なくとも、俺はそう思っている」
「……天」
「そう考えるしかないんだ。|蓬廬宮《ほうろぐう》は、ただ麒麟のためにだけ存在する。麒麟を育て送り出し、王を生産するために存在しているんだ。しかもいずれの国にも属さず、独自に存在していながら国ではない。飛仙とは、天によって任じられた仙のことだ。その飛仙を任免する権を持った誰かは、確実に天に所属している」
「では……玄君は」
「それが分かんないんだよな」
 六太は溜息をついた。
「あんたが仙を任じるのか、なんてことを|訊《き》いて、真正面から答えてくれるような親切な御仁じゃないからな。ただ、玄君でなければ、玄君の上位に仙を任じる権を持った誰かがいる。それは王夫人かも知れないし、他の誰かなのかも知れない。いずれにしても、その誰かに玄君は仕えている。つまりは天も組織化されているんだ。天という機構があり、その末端に女仙はいて、玄君はそれを|束《たば》ねている」
「天がある……」
「神の世界があるんだと思う。伝説では天帝は|玉京《ぎょっけい》におられ、そこで神々を束ね、世を整えるという。本当に玉京があっても、俺は驚かない。ただし、俺は|寡聞《かぶん》にして神と会ったという者を知らない。伝説でなら聞いたことはあるが、どうやら神は人に接触しないんだ。求めて神に会う方法はない」
 だが、と六太は言った。
「ただひとつ、ここだけは常に人と接する。玄君に聞けば、少なくとも天の意向を問うことはできる。実際に玄君が意向をどうやって確認してくるかは知らないが。ともかくもここが唯一の接点であり、玄君は唯一の窓口になり得る人物なんだ」
 

黄昏の岸 暁の天 4章1~2

2010-08-08 22:13


四章


   1

 |李斎《りさい》が夜半、目を覚ますと、|枕許《まくらもと》に人影があった。|牀榻《ねま》には隣室から月光が射し入り、虫の声が流れ込んでいる。
「……景王?」
 李斎が声を上げると、|俯《うつむ》いていたふうの人影は顔を上げる。
「ああ……|済《す》まない。起こしてしまっただろうか」
 いえ、と李斎は|呟《つぶや》いて、
「みなさんが探しておられました」
「うん。今日はちょっと逃げ隠れをしていたから」
「逃げ隠れ……?」
 李斎は問うたが、それ以上の返答はなかった。寝間の中に再び沈黙が降りる。虫の声が|涼《すず》やかに|響《ひび》いていた。やがて、人影は口を開く。
「泰麒はどういう方だった?」
 李斎は、|僅《わず》かにどきりとした。彼女はやはり、故郷を同じくする泰麒を特別な意味で気に留めたのだ、と思った。
「お小さくていらっしゃいました」
 李斎が答えると、夜陰から、くすりと笑い声がした。
「景麒と同じことを言うんだな。それでは説明になっていない、と言ってやったんだが」
 笑い含みの声に、李斎も|微《かす》かに笑う。
「本当に……そういう方だったのです。小さくて|稚《いとけな》くていらっしゃいました。とても無邪気な、けれど思いやりの深い方で」
「麒麟だものな」
「景王に似たところがおありでした」
「……私に?」
 李斎は頷く。
「とても気安い方だったのです。私などからすれば、ずっと身分の高い方なのに、少しもそんな様子がなくて。主上──|驍宗《ぎょうそう》様は、台輔には身分というものがよくお分かりでないのだ、とおっしゃっていました。確かに、身分を|嵩《かさ》に着ないというより、身分に頓着しておられないように見えました。景王もそういう方のようにお見受けします。|女御《じょご》や|女史《じょし》が、気安く御名を呼ばれているのを聞いて驚きましたが、ああ、台輔もそういう方だった、と」
 なるほどな、と苦笑する気配が黒い人影からする。
「そう……|蓬莱《ほうらい》には身分などと言うものはなかったから。いや、なかったわけではないのだけど、心情を超越するものではなかったし。女御と女史──|鈴《すず》と|祥瓊《しょうけい》は家臣ではなく友達だから。こちらでは身分を越えて友達になったりはしないものらしいけど」
「|大僕《だいぼく》もですか? 大僕も御名を呼び捨てになさいますね」
「そう。友達……という言い方は変かな。仲間、だから」
「仲間ですか?」
「国を支える仲間なんだし──そう……かつては|謀反《むほん》の仲間だった」
「謀反……」
 李斎が不思議に思って首を傾けると、人影が頷く。ひどく真摯な気配が立ち込めた。
「少し前、慶にとても|酷《ひど》い郷長がいたんだ。恐ろしい圧政を|布《し》き、民から多くのものを|搾取《さくしゅ》した。私はまだ登極して間がなくて、郷長を位から追うだけの権威を待たなかった。それで|虎嘯《こしょう》に手を貸した。虎嘯は郷長を討つために、圧政に怯えて郷長に対する非難を口にすることすら恐れるような民の間から同士を拾い上げ、長い時間を掛けて準備をしていた」
 言って、陽子は軽く身を乗り出す。月光がその横顔にあって、どこか痛みを|怺《こら》えているふうの真剣な表情が見てとれた。
「……戴では、そういうことは不可能なんだろうか」
 それが言いたかったのか、と李斎は胸を押さえた。
「……不可能だと思います……」
 口を開き掛けた陽子を、李斎は制す。
「おっしゃりたいことは分かります。民にその気があればできないはずがない、という。私も、不可能だという|言《い》い|種《ぐさ》がどれほど愚かに聞こえるかは重々分かっているのです。けれども、それでも不可能だと申し上げます……」
 李斎は|牀榻《ねま》の天井を仰いだ。牀榻の中には夏の夜気が込もっている。だが、李斎は未だに体の芯が凍えているような気がする。もう耳鳴りはなかったが、それでも凍えるような風の音が聞こえるように思う。
「私は少数の手勢だけを連れて、|阿選《あせん》の手から逃げ出しました。兵卒は押さえられ、|鴻基《こうき》に連行されたと聞いています。私の兵卒だけではない、他の将軍の|麾兵《ぶか》も同様で、それ以外にも阿選の許から逃げ出した官吏が多数おりました。それらの者は全て、追われることになったのです。驍宗様と泰麒を殺害し、王朝の|簒奪《さんだつ》を|企《たくら》んだ罪人の仲間として」
 李斎には、最初、事態は決して難しいことではないと思われた。
「阿選は、王と宰輔がなくなり、自分が国を預かったという体裁を取ってはいましたが、それで誰もが納得するはずもございません。事実、次第に阿選に疑いを抱き、やがては不満を抱くようになった者も数多くおりましたし、私は驍宗様を捜しながら、そういった者たちを集め、反阿選の勢力を作ろうと奔走もいたしました。ですが、何ひとつ巧くはいかないのです。まるで砂で楼閣を築こうとしているようでした。せっかく人を集め、組織を作っても、その中から不思議なほど脱落者が出るのです。作り上げた先から壊れていく……」
「そう……」
「脱落した者は、阿選に寝返るか、さもなければ姿を消していきました。やがて国土は沈黙しました。もはや有志を集めようにも、その所在を|掴《つか》むことができなくなったのです。捕らえられなかった反勢力は、深く地下に潜って阿選の手を逃れなければなりません。阿選に反意を抱く者も、不用意に目立てば周囲を巻き添えにしてしまうことを分かっています。ある|里《まち》に反逆者がいるとなれば、阿選は労をかけず、里ごと焼き払ってしまいます。今でも阿選を倒す機会を|窺《うかが》っている者は多いでしょう。ですが、そういった者同士が互いを見つけ、連絡を取り、手を携えることは不可能に近い……」
 しかも、と李斎は呟く。
「景王は戴の冬がどんなものだかご存じでしょうか。天地の理は傾き、頻繁に|災異《さいい》に襲われました。妖魔が出没し、民のほとんどは生き延びるだけで精一杯です。ことに、その年の冬をどうやって越えるか──それがもう全てなのです」
 その中で、辛うじて民がまだ生き延びることができているのは、|鴻慈《こうじ》のせいだと言われている。驍宗が、玉座について朝廷を|革《あらた》めるにあたり、初勅を発布するよりも先に行ったことがあった。王宮の中には国の基となる|里木《りぼく》がある。これを|路木《ろぼく》と言うが、驍宗はこの路木に願い、|荊柏《けいはく》という植物を天から得たのだった。
「荊柏……?」
「はい。荊柏は|荊《いばら》のような植物で、荒れ地でも放任したままよく育ち、春から秋までの長い間、季節を問わず白い花を付けます。花は落ちて|鶉《うずら》の卵ぐらいの大きさの実を結ぶのですが、この荊柏の実を乾燥させると、炭の代わりになるのです」
 炭は冬の厳しい戴にとって無くてはならないものだが、当然のように無限にあるものでもなく、民はこれを|購《あがな》わなくてはならない。だが、荊柏ならば田畑の隅に植えればよかった。それでたっぷりの実が取れ、干して蓄えておけば冬を|凌《しの》ぎ切ることができる。一家のぶんの炭を自ら作ることができる──これは戴の民にとって大きかった。
「もともと荊柏は黄海のみに育つ植物だとか。主上は路木に願って戴でも育つ荊柏を得てくださった。主上がお姿を消したあの春、国中の里木に荊柏が生りました。三年もしないうちに国中の至る所、荊柏の白い花の見えない土手はない、という有様になりました。それで民はこの惨状の中でも、なんとか冬を乗り切ることができているのです。民は鴻基におられた尊い方が恵んでくれた慈しみだと──それで、誰に言うともなく、荊柏を鴻慈と」
 そうか、と陽子は沈痛な声を|零《こぼ》す。
「……|阿選《あせん》が王なら、天命が尽きることもあるでしょう。しかしながら阿選は王ではありません。ただの逆賊ならば、寿命が尽きることもあるでしょうが、阿選は仙です。誰かが阿選を取り除かない限り、阿選が|斃《たお》れることはなく、阿選から仙たる資格を取り上げることができるのは、王か、さもなければ、王が斃れた後に残される|白雉《はくち》の足だけなのです。主上も台輔も亡くなられておられない、けれども所在が分からない。──そのせいで、この悪逆を止める摂理の一切が動かない……」
「それでは、戴の民には、自らを救う術がない」
 はい、と李斎は頷いた。同時に、|縋《すが》る李斎の眼差しを受けとめ、真摯に耳を傾けている陽子の様子を見ていると胸が痛んだ。李斎は助けてくれ、と言いたい。|驍宗《ぎょうそう》を探して欲しい、泰麒を捜して欲しい、できれば阿選を討って欲しい──。
 口を開こうとした時、陽子の静かな声がした。
「泰王が御無事なら、是非とも鴻慈を分けて欲しいところだな。……慶は貧しくて」
 言って、月のほうを見る。
「慶も北部は冬になれば寒い。特にめぼしい産物のない北部は、貧しい家が多くて、冬の炭代にも事欠くことがある。もともと戴ほど寒くはならない土地だから、冬に対する備えがあまりないんだ。壁は薄く、窓には|玻璃《はり》も入っていない。羽毛も毛皮も十分にはなく、かといって他のものに優先するほど重要事ではない。だから北部の民は、綿の衣服をあるだけ着込み、家族で抱き合って冬をやり過ごす……」
「そう……ですか」
「もちろん、炭のあるなしが生命に|係《かか》わるほどのことはない。真冬でも山野に入って、草の根なりとも掘ることができるから、慶の冬が民の生死を圧するほど厳しいわけではない。だから決して戴の冬と同列に語ることはできないのだけど、私は戴の北部の民を|不憫《ふびん》に思う」
「……そうでしょうね」
「戴の先王は、国庫こそは|蕩尽《とうじん》したが、政においてはしっかりした方だったと聞く。仮朝も同様に、よく運営されているようだったと景麒が言っていた。慶は逆だ。このところ、政を疎かにする王が続き、地は恵みを蓄積できないでいる。先王の在位の間にも、官吏は専横を極め、民は|蹂躙《じゅうりん》されてきた──民を|虐《しいた》げていた郷長のような、そんな|輩《やから》が横行していたし、それはまだ根絶できてはいないと思う。しかも先王が斃れて後、偽王が立って国は荒れた。慶はやっと復興に乗り出したばかりだ。今、市中で休んでいる民のほとんどは、良い時代を経験したことがない。常に国は治まらず、慶は波乱多く貧しかった」
「……はい」
「私は、そういう民の全てを不憫に思う……」
 苦吟にか、低い声は震えている。
「同時に、戴の民も哀れだ。戴の現状は慶よりも|酷《ひど》い。気候も厳しいその上に、偽王の圧政と災異があれば、どれほどの苦しみだろう。偽王は取り除かれねばならないし、正当な王と宰輔が王都にいなければならない。──私は」
 |李斎《りさい》は残された片手を伸ばし、景王の手を探った。
「それ以上は──どうか。兵を動かしてはなりません。景王が御自ら兵卒を率いて他国に干渉することは慶を沈める大罪です」
「……李斎」
「お許しください。戴を憐れむあまり、私は罪深いことを考えました。……けれども、それはいけません。景王は慶の国主でいらっしゃる。慶の民に対する以上の哀れみを、戴に施されてはなりません」
 ──|花影《かえい》、|貴女《あなた》が正しい。
 李斎の手を握り返す強い力があった。
「決して戴を見捨てようとは思わない。できる限りのことはする。してみよう、と延王にもお願いしてみるつもりでいる。……けれども、できるかぎりのことを超えたら許してもらいたい。私は、ただの一時も良い時代を経験したことのない景の民に、もう一度混沌を覚悟せよ、とはとても言えない……」
「そのお言葉で十分です」
 李斎は微笑んだが、本心を言えば、見捨てないでくれ、と|縋《すが》りたかった。だが、それだけは、できない。目の前の人物は、慶にとって必要な王だ。慶の民からこの王を取り上げることだけは、してはならない──。

   2

 陽子が|客庁《きゃくま》を出ると、|庭院《なかにわ》に面する回廊に腰を下ろして、大中小、三つの人影が待っていた。
「……何をしているんだ?」
 陽子が声を上げると、一人が|弾《はじ》かれたように立ち上がる。
「陽子、中で何を話してきたの? まさか……」
「なんで|祥瓊《しょうけい》がこんな時間に、こんなところに」
「|鈴《すず》が呼んでくれたのよ。ずっと探していたんだから。陽子が現れて、人払いをしてあの人の|牀榻《ねま》に入っていった、って。──何を話したの? まさか、大変な確約を」
「したよ」
 陽子が言うと、祥瓊は小さく息を呑む。対して、その足許に坐った鈴は、ただ小首を傾げていた。
「分かってるの? それは──」
「うん。だから、できる限りのことで許してもらう、そう確約してもらった」
 |祥瓊《しょうけい》は大きく息を吐いてその場に座りこんだ。
「……驚かせないでよ……もう」
 鈴が呆れたように祥瓊を見た。
「だから、陽子は慶を見捨てるほど|莫迦《ばか》じゃないわ、って言ったのに」
「私にはそれほど利口に見えなかったの」
 酷いな、と苦笑しつつ、陽子は祥瓊の肩を叩く。そうこう言いながらも、|景麒《けいき》や他の誰かに|報《しら》せ、あるいは|牀榻《ねま》に踏み込んでくるような真似はしないでいてくれた。
「それで、|虎嘯《こしょう》は?」
 問うと虎嘯は、大きな体を小さく丸める。
「いや……その、俺は陽子の護衛が仕事だからな」
 陽子は笑い、
「では戻ろう。今日は一日、逃げ廻っていたから、|溜《た》まった仕事を片づけないと。……すず、悪いけど、李斎を頼む」
「任せておいて」
 手を振る鈴に笑って、祥瓊と虎嘯を連れ、回廊を戻ると、途中の|路亭《あずまや》に今度は二つの人影があった。
「……ここで何をしているのか、と訊くべきかな?」
 足を止め、呆れて問うた陽子に、大小二つの人影は顔を見合わせる。
「いや……|儂《わし》は月を眺めておっただけでな」
 |遠甫《えんほ》は言って、|浩瀚《こうかん》を見る。浩瀚は、
「私は主上をお捜ししておりました。疲れたので太師に付き合っていただけですが」
 なるほどね、と陽子は四人の顔を見渡した。
「……心配は要らない。当の李斎が、兵を出してはならない、と言ってくれたから。分かっていても他に助けを求める術がなかったということだろう。できる限りのことはすると確約したけれども、できる限界を超えたら許して欲しいと言ったし、李斎もそれでいいのだと言ってくれたから」
 遠甫も浩瀚も、|安堵《あんど》したように頷いた。
「なので太師と|冢宰《ちょうさい》には大いに働いてもらわなければならない。天の許す限度の中で、戴に何をしてやれるだろうか。至急調べて奏上せよ」

 翌日、この件に係わりのある官吏の間で|有司議《ゆうしぎ》がもたれた。それは夜を徹して翌日にまで及んだが、これという解決策を見つけ出すことはできなかった。
「主上の例から考えて、とにかく泰王を慶にお連れすること、これが大前提です」
 |浩瀚《こうかん》は言う。相変わらず涼しげな顔をしていたが、どことはなしに|憔悴《しょうすい》したふうが見えた。
「しかしながら、泰王が|戴《たい》を脱出された様子がございません。もしも戴をお出になられたのであれば、どこかへ保護をお求めになるでしょうし、ならば噂なりとも聞こえてきそうなものです。それがない以上、未だ戴におられるのだとは思いますが」
「確認する方法はないのだろうか?」
 陽子は言って、|積翠台《せきすいだい》に集まった面々を見渡した。口を開いたのは、延王尚隆だった。
「|鳳《ほう》を使って直接諸国に問い合わせるのが早いだろうが、必ずしも王に保護を求めたとも限らない。戴を脱出した臣下や、かつての同輩、知古などを頼り、阿選を恐れて身を隠しているのであれば、問い合わせて分かるものだとも思えないが」
 浩瀚は頷く。
「いずれかの王──国に保護を求められるのであれば、|雁《えん》を|措《お》いては考えられません。近隣随一の大国であり、|虚海《きょかい》を挟んだ対岸です。しかも泰王は延王と|誼《よしみ》がおありになり、国交もおありになる。他国に保護を求められるのであれば、まず雁だと思われますが」
「そうか……」
「官の言の一致したところでは、他国の知古のところに身を寄せておられるということも、ほぼ考えられないだろうと。泰王は武勇のお方です。しかも政変からは六年もの歳月が経っています。仮にも将軍として名声のあった方が、阿選を恐れて六年もの間、ただ隠れているとは思われず、ただ隠れるのでなければ、知古の許に身を寄せてそれでよしとなさるとは思えません」
「だろうな……。一旦は知人の許に身を隠したとしても、戴をどうにかするためには、所在を明らかにして戴の民を集めるなり、せねばならないわけだし……」
「そういうことです。おそらくは泰王は未だに戴におられる。ただし、李斎殿がその所在を知らなかったことからしても、どこかに捕らわれているか、あるいは期を|窺《うかが》って潜伏しておられるかのどちらかであろうと思われます。前者のほうが可能性は高いでしょうが、いずれにしても、泰王を保護するためには、まず戴に乗り込んで泰王をお捜しするところから始めねばならず、これは天の摂理に抵触する可能性があります」
 陽子は考え込み、
「捜すだけなら、軍勢は必要ない──これはどうだろう。私か、あるいは誰かを勅使として立て、最低限の手勢を連れて戴に入る。個人的にとはいえ、景麒が訪問したことがあるのだから、私が戴を訪問すること自体は変なことではないだろう? 訪問するとなれば手勢を連れて行くのも当然のことだし、行ってみたら肝心の泰王がおられないので捜す──ということでは」
 浩瀚はちらりと陽子を見る。
「それならば天のお|目零《めこぼ》しを頂ける可能性があるのではないか、と言う声もありましたが、なにぶん定かではないうえ、主上に万一のことがあれば慶にとっては大事です。これは可能性としてないものにしようと官の意見が一致しましたので、不可能でございます、とお答えしておきます」
 その場にいた麒麟の一方は溜息を落とし、もう一方は声を上げて笑った。陽子も苦笑しながら、
「……一応、不可能だと言うことで聞いておく。だが、すると?」
「打つ手があるとすれば、泰台輔なのではないかと。|李斎《りさい》殿の証言によれば、台輔がお姿を消された時、鳴蝕があった様子、ならば泰台輔は|蓬莱《ほうらい》か──さもなければ|崑侖《こんろん》に流されたと考えることができます。台輔を捜すことには問題が無かろうと。ただし、実際にどうやって捜すのか、という問題がございます」
「問題なのか?」
「まず、蓬莱に渡ることのできる者には限りがございます。神籍または伯位以上の仙籍をお持ちの方に限られる。しかも、主上にお聞きした限りでは、蓬莱にせよ崑侖にせよ、大量の人員を派遣して手当たり次第に捜すことができるような場所でもございませんでしょう」
「それは……どうだろう」
 首を傾けた陽子に、六太が口を挟んだ。
「大々的な捜索はできない。それは考えないほうがいい」
「まあ……難しいとは思うけど」
「難しい以上だ。伯以上の仙を|掻《か》き集めて人員を確保することは可能だろう。だが、胎果でない連中には、あちらで確固とした存在でいることができない」
 陽子は瞬く。つまり、と六太は苦笑した。
「蓬莱はぜんぜん異質な場所だ、ということなんだ。本来は混じってはならない世界だ。それが混じってしまうのが蝕で、その蝕によって|卵果《らんか》が行き、人が来る。やってきたのが海客であり、|山客《さんきゃく》だ。海客は蓬莱からやってくる。ほとんどの場合、大陸の東に流れ着く。|海客《かいきゃく》はこの世界の民と何ら変わりのない人間だし、言葉が通じないことを除いては、なるきり民と見分けがつかない。そうでない者が見ても何の違和感も催さない。──だろ? 本当に、単にあちらの人間がこちらに来ただけ、という体裁だな」
「ああ……そう、確かに」
「だったら、こちらの人間も、あちらに流されることがあっても良さそうなもんだ。だが、実際には、こちらの人間は、一部の特殊な者を除いて、あちらに渡ることができない。流されて行くことができるのは卵果だけだ。まだ形を持たない人だけ、ということになる」
「形がない?」
「そう。命はあるが、まだ形がない──そういう場合でなければ、あちらに渡ることができないんだ。特例はあるものの、こちらとあちらはそういう関係にある。来ることしかできないんだ。行くことはできない」
「でも、|景麒《けいき》は実際に渡って|蓬莱《ほうらい》に来たわけだし」
「そう。麒麟は渡ることができる。伯以上の仙、あるいは神籍に入ったものは渡ることができると言われている。だが、実際のところ、この身体でぽんと向こうに渡って、この身体でいられるのは、神籍にある|胎果《たいか》だけだと思ったほうがいい。景麒が渡ったとき、どうだった?」
 六太に問われ、景麒は頷いた。
「延台輔に言われていた通り、私は|歪《ゆが》んだ者でした」
 歪んだ者、と陽子は問い返す。
「私は主上を捜しに蓬莱にまいりました。その前に延台輔に相談したのですが、その時に歪んだ者になるだろう、と言われました。その時にはよく分かりませんでしたが、実際に行ってみて分かりました。確かに──私は、私として確固としてあることができませんでした」
「さっぱり……分からない」
「言葉にするのが難しいのです。蓬莱の民は、得てして私が見えないようでした。見えても幻のように見え、あるいは別のものに見えていたようです。きちんと見える者もいるようでしたが、その場合にも、声が聞こえなかったり、あるいは言葉が通じなかったりするし、逆に声しか聞こえなかったりするのです。人の形を保っていることが難しく、ひどく不安定でした。唐突に獣形に戻ろうとしたり、|遁甲《とんこう》する時のように|溶《と》けてしまおうとするのです。私の存在がこちらにいる時のように、きちんと形を保つことができたのは、主上が近くにいた時だけでした」
「そうだったのか……?」
 陽子が驚いて訊くと、景麒は頷く。
「確かに、あちらは我々がいてはならない世界です。──そう、絶えず世界が、我々の存在を拒もうとするのです」
 六太は頷く。
「胎果でない連中は、向こうで確固として存在することが難しい。|幽鬼《ゆうき》のようにしか存在できない。長時間しっかりした形を留めていることができず、なんとか形を保っていても、影のように曖昧で不安定だ。王や麒麟でさえそうだから、伯位の仙程度では、それがもっとひどい。しかもあちらは、こちらの存在を知らない。そこに得体の知れない幽鬼じみたのが大挙して行けば大騒ぎになるぞ」
「そうか……」
「しかも、もしそれを強行することにしたとしても、泰麒の顔を知っているわけじゃないだろう。たとえ李斎に似顔絵を描いてもらっても、六年も経ってるし、泰麒は胎果だから、おちらでは姿が変わっている」
 陽子は首を傾げた。
「確かに私は、こちらに来た時に見た目が変わったけれども……それは、もう一度あちらに戻るとどうなるんだ?」
 戻るな、と六太は|素《そ》っ|気《け》なく言った。
「胎果は異界の女の胎から生まれるだろ。生まれた時には、父母に似た肉の殻を被ってくる。それを|胎殻《たいかく》と言うらしいんだが。こちらに戻れば、本来の──天に定められた姿形に戻る。麒麟ならこの、きんきらした髪になるわけだ」
「そうだよ……ね。あちらで生まれつき金髪のはずがないし」
「そう。理屈はよく分からないけど、これは同じ皮の裏表らしい。そういう感じなんじゃないかな。蓬莱に戻ると、蓬莱の時の姿に戻る。単純に戻るだけなら、俺なんかとっくによぼよぼの爺を過ぎて白骨になってるはずだけども、そういうこともない。こっちで成長が止まった時に胎殻のほうも歳を取るのをやめたみたいだな。若干のずれはあるみたいだけど、まあよく似た範疇だと思って間違いなさそうだ」
「……ということは、たとえ李斎を連れて行っても、泰麒の顔が分からない?」
「そういうことになる。ただ、麒麟なら麒麟の気配が分かるから。泰麒が卵のとき蓬莱に流されたろ。それを蓬莱で見つけたのは俺なんだよな」
「延麒が?」
「うん。遊びに行ったら──あ、いや。探しに行ってたんだよ。そしたら麒麟の気配があった。それで蓬山に|報《しら》せて、蓬山から迎えが行ったわけなんだが」
「では、麒麟ならば捜すことができるわけだ」
「できるけど。ただ、気配が分かると言っても、そのへんにいれば分かる、って程度だから。しかもあのときは、蝕の抜けた方向から、蓬莱にいるだろうってことは分かっていたんだが、それでも十年かかってる。今度の場合は、蓬莱と|崑侖《こんろん》のどちらに抜けたかすら分からないし、本当にあちらに渡ったとも限らない。俺と──たとえ景麒が手を貸してくれたとしても、たった二人じゃ何年かかるか分からないぞ」
「では、それが十二人なら?」
 陽子は何気なく言ったが、これには唖然としたような沈黙が返ってきた。
「あ……空位の国もあるから、十二麒麟全員が揃うことはないだろうけど。……何か変なことを言ったか?」
 尚隆は溜息をつく。
「陽子、こちらでは他国に干渉をしないのだ。それがこちらの流儀だからな。自国のことは自国で処断する。他国に協力を求めることはしないし、協力することもない」
「延王は私に手を貸してくれましたよね?」
「それは俺が胎果で、変わり者だからだ」
「度外れたお|節介《せっかい》なんだ」
 六太は|半畳《はんじょう》を入れて、
「……だが、本当にそういうものなんだ。こちらでは国同士が協力して何かを行うということをしない。一時的に他国に援助を求めることがあっても、あくまでも国と国との関係の中で行われることだし。そもそも隣国であっても、必要がなければ国交すら持たないような世界だからな」
「じゃあ、十二も国があるのに、団結して何かをやったことはないのか?」
「歴史で見る限り、ないと思うぜ」
「それは、してはならないことだからなのか? 兵を他国に向かわせてはならないみたいに罰に当たるから?」
 さあ、と六太は尚隆と顔を見合わせた。
「確認したことすらないのか? ……|呆《あき》れた話だな」
「……それは、そうかも」
「だが、他に方法がないだろう。泰王は自ら戴を脱出できないのだろう。だからこそ今まで何の噂も聞こえてこない。泰麒もあちらに流されるかどうかして、自力で帰還はできない。できないからこそ、今まで戻ってきていないんじゃないのか? 泰王も泰麒もいないで戴の民に何ができる? 李斎のような者がいても、民を組織して兵を挙げることすらできないできたんじゃないか。戴は自分の力で自国を救うことができない。だったら他国が手を貸すしかないんだし、麒麟の数が足りないと言うなら、諸国に依頼して手を貸してもらうしかないじゃないか」
 そもそも、と陽子は呟く。
「戴で政変が起こった時、|可怪《おか》しいとは思わなかったんですか。|鳳《ほう》が鳴いてもいないのに王が交代するなんて、どう考えても不自然でしょう。なのに戴の様子を|窺《うかが》おう、何が起こったのか確認しようとはしなかったんですか?」
「勿論、したとも」
 尚隆はいったが、六太はあっさり、
「その当初だけな。公式の使節と非公式の手勢と、それを戴に向かわせて、|鴻基《こうき》の中に入れない、中を窺い見ることができないとなると、さっさと静観を決め込んだだろう。以来、そのまま放置してきたんだ。言っておくが、俺は何度も、戴がどうなっているのか調べろ、救済方法を探せ、と進言したぞ」
「なるほどな」
 陽子は微かに笑む。
「緒戦は他国のこと、なるようになれ、というわけだ?」
 ぎょっとしたように息を|呑《の》む気配が室内に満ちた。主上、と|諫《いさ》めるような小声は景麒のもの、|浩瀚《こうかん》も|遠甫《えんほ》も驚いたように硬直している。尚隆は不快そうに眉を|顰《ひそ》めた。
「景王には言葉が過ぎないか」
「けれども事実じゃないのですか? 静観していればそのうち|泰果《たいか》が|生《な》って、それで全部が振り出しに戻って雁は安泰でいられる、そういうことなんじゃあ?」
「ま、そういうことだな」
 尚隆より先に答えたのは六太だった。
「六太」
「他国に干渉しないのが慣例だと何だと言って、そんなもんは言い訳だろうが。実際、陽子のときには呆れるほどお節介を焼いたわけだからな。尚隆は、手を出すきっかけを見つけられなかったんだ。泰王も泰麒もいない、誰も助けを求めてこなかったから。あえてそのきっかけを見つけようとするほど、熱心じゃなかった──泰と雁の間には|虚海《きょかい》があるから」
 尚隆は何かを言おうとしたが、六太はその前に大きく手を振った。
「つまんない言い訳をするなよな。結局のところ、お前にとって問題なのは|荒民《なんみん》なんだ。他国から荒民が流れてくれば、雁の国情に係わる。だから慶にしろ|柳《りゅう》にしろ、動向を気にするし、手助けもする。だが、戴との間には虚海が控えている。あれを渡って雁に流入してくる荒民は少ない。地を接した慶の場合に比べれば、ものの数には入らない。静観しても、とりあえず雁の根幹が揺らぐことはない」
「雁大事と言うわけだ」
「そういうこと」
「……俺は雁の王だぞ」
 尚隆は声を荒げる。
「無論、雁大事だ、それが悪いか。俺はそのためにいるのだからな」
 な、と同意を求めるように六太は陽子を見た。
「こいつは、ご覧の通りだ。お前だけでも、何とか努力をしてやってくれないか、陽子。俺にできることは協力する。どうにかして、ちびを連れ戻してやりたいんだ」
「ちび」
「こんなに小っこかったんだ。気の小さなやつでさ。──|誼《よしみ》がないわけじゃない。あったのは数えるほどだが、まだ生きていて辛い思いをしているなら、助けてやりたい」
「できる限りのことはする」
 尚隆は卓を叩いた。
「慶はまだ安寧にほど遠い。それを景王自らが、自国を措いて他国のために労を割くというのか? それこそ思い違いだぞ」
「|胎果《たいか》の|誼《よしみ》だ、放っておけない」
「胎果の誼で忠告してやる。お前はそんなことをしている場合ではない」
「では、|雁《えん》なら動いてくれるのか?」
 尚隆は少しの間、言葉に詰まり、
「ええい、何から何まで──俺を何だと思っている! 俺は確かに雁の小間使だが、他国の用まで片づけてやる義理はないのだぞ! 雁だけでも問題は山積みしておるんだ、それを|棚上《たなあ》げして、泰を助けろと雁国王の俺に言うのか!」
 陽子は六太を見た。
「延麒、私が何とかがんばってみる。──なに、慶の復興は若干遅れるかもしれないが、民には雁に流入すれば、お優しい延王が養ってくれると言っておこう」
「──陽子!」
「ああ、そうだ。いっそのこと王師を編成して、安全に民を雁との国境まで送れるよう、旅団を作ろうかな」
「そりゃ、名案だ」
「恩義のある俺に、脅迫まがいの真似をする気か」
「同じことだろう」
 陽子は失笑した。
「雁は北方で唯一、豊かで安定した国だ。北方の国々に何かが起これば、民は止めても雁を頼る。このまま戴が荒れ果てれば、戴の民の全ては、|筏《いかだ》を組んででも雁に向かおうとするだろう。妖魔や虚海がその妨げになっても、民にはそれしかないのだから」
 陽子は自分の両手を見下ろす。いつも、あまりに小さいと確認せざるを得ない、その掌。
「慶が他国のことを考えている状況にないのは確かだ。まだ復興の途中で、逆さに振っても他国のために割く余剰などない。だが、このまま戴を放置もできない。なぜなら、戴の民の行く末には、慶の民の行く末もかかっているからだ」
「……慶の民?」
「玉座は永遠ではないだろう? 私は慶を立て直すつもりでいるけれども、本当にそれができるかどうかは分からないし、途中で道を誤らない保証もない。私が|斃《たお》れた後、民がどうなるのか──それは戴の処遇にかかっている」
 言って、陽子は自国の臣──景麒と|浩瀚《こうかん》、そして|遠甫《えんほ》を見た。
「慶の復興さえままならないのに、泰を救っている場合か、とお前たちは言いたいだろう。それは私も承知している。けれども、私は泰を救う気でいる。できる限りのことはする。それは戴の民のためだけではなく、慶の民のためでもあると思うからだ。慶にも同じことが起こらないとも限らない」
「主上」
 景麒は|諫《いさ》めるような声を上げたが、陽子は首を振った。
「もちろん道を失う気などない。良い王になりたいとは思っている──本当に。けれども誠心誠意それを望めば、必ず結果がついてくるというものではないと思う。破滅するつもりで破滅した王などいないだろう。ましてや戴の場合のように、逆賊によって国を荒らされることもある。だから、私が|斃《たお》れたとき、あるいは私が道を失ったときのために、民を救済する前例を作っておきたい。王がいなくても民が救われるような道を敷いておきたいんだ」
 言って陽子は、唖然としたふうの尚隆、六太を見る。
「私が戴に労を|割《さ》けば、そのぶん慶の復興は遅れます。民は|焦《じ》れて慶を見捨てるかもしれない。慶よりも雁がいいと言って出ていく民を、止めることなどできはしません。先だってはついに|巧《こう》が倒れました。巧の北方の民も、やはり雁を頼らざるを得ないでしょう。そうやって巧が慶が戴が雁に覆い被されば、さしもの雁も荷が重いでしょう。雁一国で救済に当たろうとするならば、当然のことです」
 ずっと考えていたんです、と陽子は呟く。
「それは本当は、今のことじゃなかったのだけど。もっと慶が落ち着いて、国に余裕ができて、それなりの国になったら、他国の|荒民《なんみん》を救済するための方法を考えようって。国が荒れたから民は逃げ出す、逃げ出した先の国は|已《や》むを得ず抱え込む──そうではなく、もっと積極的に、荒れた国を支援し、民が国を逃げ出さなくても次の王が立つまでの間を|凌《しの》ぐことができるような、そんな方策はないだろうか、と」
「陽子……」
「せめて|義倉《ぎそう》があればな、と。各地に義倉がありますね? 飢饉や戦乱が起こり、民が物資に困ったときには義倉を開けて民に施す。──そういうものが国と国の間にもあればいいのに、と思っていたんです。どこかの国が負担を背負わなくても、諸国が余剰を貯めておいて、どの国にせよ、|荒民《なんみん》が出たときにはそれを開く。漠然とそんなふうに考えていたのだけど、李斎が駆け込んできたのを見て、どこかそういう場所も必要なんだな、と思いました。ここに行って助けて欲しいと訴えれば、他国が仲裁に入ってくれ、義倉を開けてくれる、そういう窓口が必要なんだと思ったんです。……|覿面《てきめん》の罪なんてものがあるとは知らなかったし、他国には介入しないという慣例があることも知らなかった。ものを知らないから、簡単に考えていたのだけれども」
「陽子は面白いことを考えるな……」
 半ば呆れたように六太が言う。
「私が考えたわけじゃない。これはそもそも、あちらにあった仕組みなんだ。延麒がいた頃にはなかったと思うけどね」
「へえ……」
「誰もやったことがないなら、やれれないものか試してみたい。諸国に依頼して力を借りることはできませんか」
 陽子は尚隆を振り返った。
「俺にそれをやれとぬかす気か」
「私がやっても構いません。もっとも、私のような青二才が言い出したのでは、どこの王も振り返ってくれないかもしれませんが」
 尚隆はむっつりと黙り込む。やがて、
「──大国、大国と勝手に祭り上げおって。先には戴が、つい先だっては慶だ。慶がやっと落ち着いたと思えば巧が倒れる。おまけに柳まで雲行きが怪しい。雁の周囲ばかりこうも次々と。俺は万能ではないぞ。雁は豊かだが|無尽蔵《むじんぞう》ではない。次から次へと周囲の国が乱れて、雁に倒れ込もうとしている。なぜこうも俺一人ばかりが背負い込まねばならん」
 吐き捨てる尚隆を、六太は呆れたように見た。
「あれ? 気がついてなかったのか、何でなのか」
「何だ」
 六太は、にっと笑う。
「そりゃ、お前が|疫病神《やくびょうがみ》だからさ」
 尚隆は盛大に顔を|顰《しか》めた。
「粉骨砕身して働いて、挙げ句の果てにこの報いか。……泰麒を捜す。俺が采配をすればいいのだろう」
「ありがとうございます」
 陽子は破顔し、一礼する。
「この借りは後々、必ず返させていただきます」
「いつの話だ」
「それは勿論」
 陽子は笑う。
「延王が|斃《たお》れたときに。雁が騒乱に巻きこまれる頃までには、慶を立て直しておくと約束します。安心して頼ってください」

黄昏の岸 暁の天 3章7~

2010-08-08 22:12



   7

 陽子は勢いに任せて|金波宮《きんぱきゅう》を奥へと向かった。しばらく|闇雲《やみきも》に歩き、ひっそりとした建物群を通り過ぎ、やがて雲海に面した静かな場所に出た。金波宮は複雑な起伏を持った山に広がる。どこかの宮の|庭院《なかにわ》を過ぎ、岸壁に|穿《うが》たれた短い|隧道《すいどう》を|潜《くぐ》ると、奇岩の合間に|拓《ひら》けた小さな谷間のような場所に出た。谷間の先は雲海に張り出した岬だった。ぽつりと|路亭《あずまや》があるだけのごくごく小さな場所で、夏草が小さな花をつけている以外、これと言って見るべきものもない。
 陽子は軽く息を吐いた。左右に|聳《そび》えた岸壁の上の木立が落とす影、緑の匂いと潮の香り、眼下に広がる雲海の眺望の他には何もない。
「こんな場所があったんだ……」
 陽子は呟いて|草原《くさはら》に腰を下ろした。夏鳥の声が降り、|潮騒《しおさい》が満ちる。|金波宮《きんぱきゅう》にこういう場所があることを、陽子はこの時まで知らなかった。そもそも広大な王宮のほとんどの場所は陽子にとって無用の場所だ。あえて立ち入ったことがない。
 ──ここは悪くない、と陽子は|頬杖《ほおづえ》をついた。
 どこなのか、さっぱり分からず、どうやって帰ればいいのか見当もつかないけれど。
 金波宮に限らず、この世界は余白というものに乏しかった。壁にも柱にも色彩と模様が踊り、何もないぽっかりとした空間が少ない。それは|園林《ていえん》も例外ではなく、個性の強い樹木や岩で、ぎっしりと空間が埋められている。
 雲海の眺め以外に何もないここは、歴代の王に見捨てられてきた場所なのかもしれない。|路亭《あずまや》はあるものの彩色も|剥《は》げ、人の手が頻繁に入っている様子がなかった。だからかえってほっとする。──そういうとき、異世界を出自とする自分に思い至る。
 王として立つ、それだけで精一杯で故国を思い出すことはほとんどなかった。たまに思い出しても、昔に見た夢のような心地がする。忘れていたのか、|蓋《ふた》していたのか──それが|泰麒《たいき》のことを聞いてからというもの、少し揺れている。懐かしい、という気持ち。恋しいとまでは言わないが、もう戻ることはないのだと思うと、切ない喪失感がある。
 同じ時代の同じ場所を共有した麒麟。
 ──今頃、どこで何をしてているのだろう。
 蝕があったということは、あの夢のような世界へ戻ってしまったと言うことなのだろうか。だが、なぜ泰麒は戻ってこない?
 考え込んでいると、微かな足音がした。振り返ると、陽子の|僕《しもべ》が立っていた。
「……よくここが分かったな、|景麒《けいき》」
「主上がどこにおられるかぐらい、いつでも分かります。……|浩瀚《こうかん》が探しておりましたよ」
「うん……」
「延王は難しい顔をなさっておいででした」
「……だろうな」
「横に坐らせていただいても?」
「どうぞ。……景麒はどう思う?」
「どう、とは」
「やはり仁の獣でも、戴を見捨てるべきだと思うか?」
 横に座った景麒は、しばらく無言で雲海を見ている。
「……戴の民が哀れです」
 ぽつりと言うので、陽子は|頷《うなず》いた。
「戴は荒れていると聞いたけれども、たぶん事態は想像以上に悪い」
「そのようですね……。たとえ空位になったとしても、まだ六年にしかなりません。普通は六年で目を|覆《おお》うほど|酷《ひど》い有様になることは少ないのですが。泰王が登極される以前から荒廃が著しかったというわけでもありませんし」
「行ったことがあるんだっけ、|鴻基《こうき》に」
「はい。王が登極されたばかりでも、目につくほどの荒廃はありませんでした。|仮朝《かちょう》がしっかりしていたのでしょう」
 ふうん、と呟き、陽子は景麒を見る。
「泰麒はどういう方だった?」
「お小さくていらっしゃいました」
 陽子はくすりと笑う。
「相変わらず、景麒の説明はさっぱり説明になっていない」
「そう……でしょうか」
 陽子はしばらく、一人で笑っていた。
「まあ……七年も前のことだから。聞いたところで、きっと今頃はずいぶん変わっておいでだろう」
 そうですね、とだけ景麒は答えた。
「景麒がもし、国を追われたらどうする?」
「……戻ります」
「戻れない状況というのは、どういう場合だと思う」
「私には想像もつきません。泰麒は小さくていらっしゃいましたが、御自身に課せられたもののことは、ちゃんとお分かりでした。むしろ萎縮しておられたぐらいですから。何かの災いで泰を離れておしまいでも、何とかして戻ろうとなさるでしょう。それができない、という状況は思い浮かべることができかねます」
「……ひょっとして、泰王が一緒だということはないだろうか」
 景麒は少し沈黙し、ないと思う、と答えた。
「なぜ? 戻りたくても戻れないということが考えられないのなら、本人に戻る気がない、と考えたほうが自然じゃないか? 泰王と共に潜伏しているのかも」
「泰麒が一緒にいるならば、泰王が潜伏なさる理由がないでしょう。泰王は民の信任を失って王宮を追われたわけではありません。傍らに|麒麟《きりん》がいて、王宮の門を閉ざす兵卒がいるとは思えません」
「そうだよな……」
 陽子が考え込んでいると、景麒はひっそりと|零《こぼ》す。
「多分そんな……|容易《たやす》いことではないと思います」
「なぜ?」
「|鳴蝕《めいしょく》があったそうですから。……鳴蝕は麒麟の悲鳴が招く蝕だ、とも申します」
「悲鳴」
 こちらとあちらを行き来するには、本来、|呉剛《ごごう》の門を使う。月の呪力を借り、月の影に門を開くわけだが、これは誰にでも開くことができるわけではなかった。門を開くための呪物か、さもなければその能力が必要で、それができるのは上位の仙、あるいは麒麟、それなりの妖魔だけだと言われている。しかしながら、呉剛門は、当然の事ながら月のない昼間には開くことができない。黄海の中や雲海の上に開くこともないと言われている。
「鳴蝕は月の力を借りません。麒麟の力のみで|綻《ほころ》びを作ります。それだけに、これは大変なことなのです。ごく小さな物とはいえ、蝕には違いないわけですから。街で起こせば付近には甚大な被害が出るでしょう。本人も無事には済まない可能性があると分かっている。ですから、普通は鳴蝕など起こしません。私も起こしてみたことはありません」
「ふうん……」
「しかも、おそらく泰麒は、鳴蝕の起こし方をご存じなかったと思います」
「知らないなんて事があるのか?」
「……泰麒の場合は。泰麒は|胎果《たいか》でしたから。|蓬莱《ほうらい》で生まれ、十の歳まで蓬莱で育った。そのせいで、麒麟というものがよく分かっておられなかったのです」
 陽子は首を傾げた。
「……どう申し上げればいいのでしょう。私たちの獣の部分を言葉にするのは、とても難しいのですが。私は鳴蝕を起こしたことはありませんが、起こそうとしてみたことはあるのだと思うのです。具体的に記憶があるわけではないのですが、鳴蝕とはあれだという感覚がありますから。あれが鳴蝕だろう、けれどもあれは大変なことだ、よほどのことがなくてはあの先には行けない、という生々しい感じがあるのです」
「へぇ……」
「そういう種類のことが、他にもたくさんあります。私たちは幼い頃には、獣の形をしています。それが人の形になることを覚える。人に|転化《てんげ》し、そして獣の形に戻る──|転変《てんぺん》することを覚えるのですが、それがいつのことで、何をきっかけにどうやって|会得《えとく》したのかは覚えていません。問われても、何となくいつの間にか、としか答えられない」
「私たちが歩くことや|喋《しゃべ》ることを覚えるのと同じなのかな」
「なのだと思います。麒麟の能力の多くは、獣の時代に身につきます。鳴蝕もそうです。私はそれをいつ覚えたのか、記憶していません。けれども、あれだ、という感触はある。きっと小さい頃に、やってみたことがあるのだと思うのです。ある日、自分に足があることに気づいて、走ってみようと何気なく思い立つ……そういう感じに近いのではないでしょうか。なぜその気になったのか、何が起こるのかも分からずに、走ってみる気になって、走り始めてこれは大変なことだと気づいて引き返す──そういう経験があるのだと思うのです。けれども泰麒は胎果でした。蓬莱で十までを過ごされ、こちらに戻っていらしたのですが、その頃にはもう人の形でいるほどに成長していらしたのです」
「獣の時代がなかった?」
「はい。ですから、獣形の記憶を持たない泰麒は、麒麟たるべき多くの力を喪失していました。私が蓬山でお会いした時には、転変することも妖魔を|使令《しれい》として下すこともできませんでした。それで鳴蝕を起こす方法を理解していたとは思えません。本能的に鳴蝕を起こしてしまうような、何かがあったのだと思います。とても悪い、恐ろしいことが泰麒の身の上に起こった。そして、その中に呑み込まれてしまい、泰麒は戻ってくることができない……」
「……そうか」
 陽子は呟き、しばらく口を閉ざしていた。
「……それでも泰を救うべきではないと思うか、景麒」
 景麒は陽子を見返し、そして目を|逸《そ》らした。
「私に答えられるはずのないことを、お訊きにならないでください」

   ※

 |穢濁《あいだく》は蓄積していった。彼はそのことに|微塵《みじん》も気づかなかった。それによって|損《そこ》なわれていくのは彼の中に閉ざされた獣としての彼だけで、殻としての彼は|些《いささ》かも損なわれることがなかったからだった。
 当然のように、彼の周囲にいる者たちがそれに気づくはずもなかった。ただ、彼の周囲は別のことに気づいた。彼の周りで不審な事故が多いことに。
「うちの子が、お宅のお子さんと遊んでいて|怪我《けが》をしたのは二度目です」
 女は彼と、彼の母親に言い放った。
「骨に|罅《ひび》が入ったんですよ。もう二度と近寄らせないでください」
 叩きつけるように言って去った女を見送り、母親は深い溜息だけを落とした。
「あいつが勝手に転んだんだよ」
 訴えたのは、彼の弟のほうだった。
「僕と兄ちゃんのこと、棒を持って追っかけ廻してきたんだ。そしたら、勝手に|転《ころ》んで溝に落ちたんだよ」
 そう、と母親は呟く。
「あいつはいっつもそうなんだ。物を隠したり、突き飛ばしたり。帰り道で待ち伏せしてて物を投げたりするんだ。だから罰が当たったんだよ」
「そんなこと言うものじゃありません」
「何でだよ。あいつが|虐《いじ》めてくるんだ。怪我をしていい気味だ」
「やめなさい」
 母親はぴしゃりと|咎《とが》めた。咎められたほうは、母親と兄を|怨《うら》みがましく見た。
「兄ちゃんのせいだ。神隠しなんか遭うからだ。変わってる、気持ち悪いってみんな言うんだ。それで僕まで虐められる」
 彼は|項垂《うなだ》れた。それは事実だったからだ。
 彼の周囲には最初、驚嘆と同情の声、そして帰還を喜ぶ慈愛が打ち寄せた。それが引くと奇異の眼差しだけが残った。それもやがて慣れによって|鈍磨《どんま》していき、次いで|慇懃《いんぎん》な|隔絶《かくぜつ》が訪れた。彼は異常な子供だとされた。そして彼の周囲にいる子供たちは、確かにそれを持って彼を迫害した。得てして弟はそれに巻きこまれることになった。
「僕のせいじゃないのに。みんなから悪口を言われて、小突かれたり物を投げられたりするんだ」
 弟は半ば泣きながら言って、彼にその場にあった|玩具《がんぐ》を投げた。
「やめなさい!」
「なんでお母さんは、兄ちゃんばっかり|庇《かば》うんだよ!」
 弟は手近の物を投げ続け、それが尽きると彼に|掴《つか》み掛かった。──いや、掴み掛かろうとした。だが、その前に弟の頭上に棚の物が降ってきた。突然、玄関の|鴨居《かもい》につけてあった棚が落ちたのだ。載せてあったものは、さほどに重いものではなく、しかも弟は棚板の直撃を|免《まぬが》れた。弟はきょとんとしてから、すぐに自分に降りかかった災難に気づいて大声で泣き始めた。母親は悲鳴を上げて駆け寄り、弟を抱き寄せ、そして大きな怪我のないことを確認すると、彼を振り返った。不審と不安が|綯《な》い|交《ま》ぜになった複雑な目で。

 くつくつ、と|汕子《さんし》が笑った。
 ──汕子。
 どこからか、|傲濫《ごうらん》の|咎《とが》めるような声がしたが、汕子は意に介さなかった。
 ──あの子供が悪い。
「泰麒に危害を加えることは許さない……」
 汕子はずっとただ見守ってきた。|穢濁《あいだく》を盛られていくのも、已むを得ず容認してきた。汕子にはこちらの世界がよく分からない。だが、半覚醒の意識で漠然と理解した限りにおいて、泰麒には看守の庇護が必要であると納得していた。看守たちは少なくとも、泰麒に最低限の保障と生活の基盤を与える役を果たしていた。しかも、汕子が見た限り、この看守たちは自分たちが毒を盛っていることを知らないようだった。
「どこかに、いる。……敵の手の者が」
 それが看守たちを巧妙に操っている。だが、それは誰なのか。
 看守たちには、積極的に泰麒を害そうという意志はないらしい。憎み、あるいは敵視しているわけではなさそうだ。こうして泰麒を捕らえ、|弑逆《しいぎゃく》に荷担しているのは、おそらく驍宗に対する敵意ゆえなのだろう。
 厳密な意味で、泰麒の敵ではない。だから、看守たちの迫害、理不尽は見逃してやる。けれども、それ以外の者は。
「警告しただけ。……たとえ|虜囚《りょしゅう》になっても、泰麒は麒麟なのだということを思い出させてやらないと」
 |隠形《おんぎょう》した手を、ほんの少し伸ばしただけだ。それ以上の行為は泰麒の気力を|損《そこ》なう。だから警告だけで辛抱している。
「できる限りの譲歩はしている」
 本音を言えば、|汕子《さんし》は今すぐにでも泰麒を|攫《さら》って逃げたい。王を除いては地上に並びない尊い身、下賤の者が捕らえ、粗末な生活を|強《し》い、無礼な言葉を吐き、ましてや打つなどと言うことが許されて良いはずもない。汕子は泰麒が受けるそれらの屈辱にまみれた仕打ちを、身も心も引き絞られるような思いで耐えている。たとえ手を挙げても、看守のしたことなら見なかったふりをしている。どんなに不遜な言葉を吐き、泰麒に向かって|罵《ののし》るような真似をしても、|断腸《だんちょう》の思いで耐えているのだ。|穢濁《あいだく》を盛られることさえ容認している。
「……悔しい」
 なぜ泰麒がこんな仕打ちを受けねばならない。
「どうして泰王は泰麒を救ってくださらないの」
 汕子が呟くと、少し|翳《かげ》ったように見える|鬱金《うこん》の闇の中、|傲濫《ごうらん》の呟きが聞こえた。
「……生きているだろうか」
「まさか」
「だが、王は文州へ|誘《おび》き出された」
 汕子は胸を押さえた──つもりになった。
 もしもそうだとしたら。仮に驍宗が逆賊に討たれ、すでに死んでしまったとしたら。いったい誰が、こんな状態の泰麒を救ってくれるのだろう?
 ──これがずっと続けばどうなる。
 汕子はようやくそれを考え、そして初めて恐怖を感じた。
 微量とはいえ、|穢濁《あいだく》は蓄積している。鬱金の色が|翳《かげ》った、それがその証拠だ。これが何年も続いたとしたら、泰麒はどうなってしまうのだろう?


 

黄昏の岸 暁の天 3章4~

2010-08-08 22:11


   4

 李斎らは、文州の乱が謀反の一部である証拠を──あるいは、そうでない証拠を|掴《つか》もうとして躍起になったが、成果は遅々として上がらなかった。特に文州と強い|誼《よしみ》を持っている者もおらず、格別、奇妙な振る舞いをしている者も見あたらない。王宮の中で、不審な人影を見た、と言う声が上がることはあったが、これはもう噂以上に、海のものとも山のものとも知れなかった。そして、その最中に、あの|蝕《しょく》が起こったのだった。
 李斎は路門から|仁重殿《じんじゅうでん》のほうへと走った。辺りは惨憺たる有様だった。楼閣の残骸を避けているところに駆け寄ってくる数人の姿と出くわした。
「ああ、李斎──」
「|臥信《がしん》──。台輔は」
「分かりません。私もそれを確かめようと思って」
 言いながら、さらに駆ける。仁重殿のある一郭は、今や|瓦礫《がれき》の山だった。辛うじて残った建物も、|悉《ことごと》く西の一郭が|潰《つぶ》れている。正殿である仁重殿の建物そのものも例外でないのを見て取って、李斎は背筋が冷えた。
 |庭院《なかにわ》を進んでいると、声がした。見ると、半ば傾いた建物の中から、泰麒づきの大僕が這い出してくるところだった。背中には|正頼《せいらい》を担いでいる。
「|潭翠《たんすい》──台輔は」
 叫んで駆け寄る。
「分かりません。お側にいなかったのです。いったい何が起こったのですか」
 表情に乏しい男の、血相が変わっていた。頭から|埃《ほこり》と壁の欠片を|被《かぶ》り、細かな傷を無数に作っている。|担《かつ》がれている正頼のほうも同様だったが、とりあえず大きな怪我はなさそうだった。どこか、瓦礫の中から馬が悲痛な声で|嘶《いなな》くのが聞こえた。
「なぜお側を離れた。──最後にお見かけしたのはどこだ」
 李斎が詰め寄ると、|潭翠《たんすい》は首を振る。
「正殿においででした。私は正頼に呼ばれて、その場を小臣に任せて離れたんです」
 地鳴りはいつの間にか|熄《や》み、辺りには呻き声と悲鳴が満ちていた。救済を求める人々の声が聞こえていながら、その彼らを助けるより先にしなければならないことが、李斎らにはあった。泰麒を捜さなくては──思っていると、遠くから李斎らを呼ぶ声が聞こえた。振り返ると、やはり数人の手勢を連れた|阿選《あせん》がやってくるところだった。
「台輔は」
 第一声、そう訊いてきた阿選は、潭翠らと大差ない有様だった。正殿らしい、と臥信が答え、正頼を兵卒に任せ、李斎らは潭翠を伴って奥へと向かった。凍るような思いで正殿の中を探し、瓦礫の間を探したが泰麒の姿は見えなかった。正殿ばかりでなく、付近のどこからも見つからない。夜を徹して続けられた捜索は甲斐もなく、そして、文州から飛んできた|青鳥《しらせ》がこの捜索を否応なく棚上げにしてしまったのだった。
 青鳥がもたらした報せによって、国府の混乱は極に達した。
 王宮が|鳴蝕《めいしょく》によって受けた被害は甚大で、官吏の多くが負傷し、行方不明になった。さすがに|燕朝《えんちょう》のことだけはあって、その場にいた官吏のほとんどは仙だったから死亡者こそは少なかったが、さすがにそれでも皆無とはいかなかったし、仙籍に入れられることのない|奚《げじょ》や|奄《げなん》からは甚大な犠牲者が出た。国政は、官吏の負傷と混乱によって完全に止まった。誰もが、何をどうすればいいのか分からなかった。
「いったい、主上はどうなさったのです」
 李斎の問いに答えたのは|芭墨《はぼく》だった。
「|霜元《そうげん》の書状では、主上は戦闘の最中に姿を消してしまわれたとか。霜元らがお捜し申し上げたが、見つからなかった。分かるのはそれだけで、具体的に何が起こったのかさっぱりわかり申さぬ。とにかく霜元だけでも一旦戻るよう、指示をいたしたが、青鳥が着いて霜元が戻るまでには、どんなに急いでも十日近くがかかるだろう」
「文州の様子は」
 訊いたのは|巌趙《がんちょう》で、これには芭墨は首を横に振った。
「平定したわけではないようだ。睨み合ったまま膠着しておるらしい」
「では……どうするのです?」
 訊いたのは|花影《かえい》だったが、これに答えられる者は誰もいなかった。どうすればいいのか分かっている者は勿論、これに答える権限を持っている者がいなかったのだ。王が不在であれば、その穴を埋めるのは|冢宰《ちょうさい》の職分、しかしながら冢宰の|詠仲《えいちゅう》は鳴蝕によって重傷を負い、未だ起きあがることも話をすることもできない。王の補佐となるべき宰輔も姿が見えず、王の代わりに諸官の意見をとりまとめ、決を下す者が朝廷には存在しなかった。
「こういう場合はどうなるのです? 官を指揮するのは……」
「慣例によれば、天官長が六官の|首《おびと》として冢宰を兼務する」
 |芭墨《はぼく》の言に、その場にいた者たちは沈黙した。天官長の|皆白《かいはく》は鳴蝕の当時、仁重殿に近い三公府にいたことが確認されている。王の指導役、宰輔の相談役とも言える三公の|府第《やくしょ》は、甚大な被害を受けて倒壊した。三公とその補佐を行う三|孤《こ》、六名のうちの二名は死亡し、一名が重傷、残る三名と皆白の四人は、今に至るも発見されていない。
「かくなるうえは、天官に次ぐ官、地官長に働いてもらうしかないと思うが」
 芭墨が言うと、地官長の|宣角《せんかく》は|頭《かぶり》を振った。
「とんでもございません。私は到底、その器にありません」
 固辞する宣角に、あえて勧める者はいなかった。宣角は温厚な若い文官で、驍宗軍とは無関係に瑞州から抜擢された官吏だった。誠実な人柄だが、経験も浅く、しかもこの非常時に軍のことは分からないでは通らない。それでなくても、朝廷は武断の朝廷、残された主たる官吏の多くが驍宗軍の|麾兵《ぶか》であることを思えば、望むらくは驍宗軍の麾兵、最低でも武官でなければ朝廷を|束《たば》ねきれないことは確実だった。
「|正頼《せいらい》殿ではいかがでしょう」
 宣角は言ったが、これに応える者はいなかった。正頼も負傷し今は休んでいたが、さほどの怪我ではないらしい。身体的にも問題はなく、しかも正頼はもともと驍宗軍の軍吏、麾兵であると同時に名うての文官でもある。その意味では官を率いるに最適の人材で、その場にいた誰もがそれを承知していたが、それでも正頼に、という声はどこからも上がらなかった。
「……主上がお戻りになるまでの間、誰かが朝廷を束ねると言うことであれば、正頼でも良いだろう。だが、これはそう言う問題ではあるまい」
 芭墨の言に、誰もが頷いた。誰が官吏の代表になるのか、という問題ではない。ただそれだけのことなら、正頼でも芭墨でもいい。宣角でも李斎でも──。問題はそう言う次元になかった。戴には今、王がいない、というところにあるのだ。
 驍宗の安否が分からない。もしも驍宗が|身罷《みまか》ったのであれば、国には次の王が必要だった。誰が次の王になるべきなのか──これはそういう、甚だしく重大な問題なのだった。
 玉座が空けば、次王が登極するまで冢宰がそれを埋める。だが、重傷を負った詠仲はその任に当たることができない。天官長はいない。その他の者では、仮にとはいえ、玉座を埋めるだけの後ろ盾に乏しい。慣習と天の条理、どちらの後ろ盾もない者が朝廷を束ねることは不可能に近い。それだけの威信が得られない。
「とにかく、|冢宰《ちょうさい》の代わりを一刻も早く立てることではないですか」
 言ったのは春官長の|張運《ちょううん》だった。
「人心を|束《たば》ねるに足る人物を推挙して冢宰に立て、|仮朝《かちょう》を開かないことには」
「それは順番が違うだろう」
 |巌趙《がんちょう》が努声[#入力者注:「努声」ってなんだ…]を上げた。
「驍宗様は姿が見えないだけだ。霜元も消えたと言って寄越しただけで、死んだとは言っていない。安否の確認が先だ」
「ちょっと待ってくださいまし」
 |花影《かえい》が声を張り上げた。白い顔は不安と緊張でさらに青白くなっている。
「……こういう場合はどうなるのでございます? 誰か慣例をご存じでしょうか」
 こういう場合、と呟く声に、花影は頷いた。
「不吉なことも申しますが、どうぞ御容赦ください。たとえば主上が|身罷《みまか》られた場合にはどうなるのですか?」
「それは台輔が次の主上を──」
 答えた宣角に、
「けれども、その台輔のお姿が見えません」
「台輔が亡くなられておられれば、空位ということになります。慣例通り、冢宰が|仮王《かおう》として立って仮朝を開くのが順当かと。そのために、|詠仲《えいちゅう》殿の具合がよろしくないのであれば、新たに冢宰を任じる必要があると思われます」
「誰が任じるのです?」
 宣角は絶句した。
「──冢宰を任じる権をお持ちなのは、王と台輔でございますね? 主上がおられないのなら、台輔がこれを行う。けれども主上がおられず、台輔もおられない、しかも冢宰も任に就けない……そういう例が、かつてあったのでございますか?」
「ないと思う」
 芭墨は苦々しげに答えた。
「いや、王と冢宰が時を同じくして|斃《たお》れた例はあるだろう。その時、たまたま冢宰も運命を同じくした例もあるだろうが、その場合は偽王が立つ。謀反あって王が宰輔共々|弑《しい》され、冢宰、天官長もまた|屠《ほふ》られた、そういう場合でなければ、ここまで見事に朝廷を束ねるべき者が欠けるものではない」
「冢宰は亡くなられたわけではありません。重傷とはいえ、意識だっておありになる」
 宣角は声を高くした。
「冢宰に|御璽《ぎょじ》を預け、冢宰自ら次の冢宰を任じていただくことはできるはずです」
「冢宰が御璽を預かることができるのは、台輔がそれを任じた場合だけだ。その台輔がおられないのに、どうやって冢宰に|御璽《ぎょじ」を預けるのか」
「そもそも主上が亡くなられたのであれば、御璽そのものが効力をなくす。その場合は、|白雉《はくち》の足が必要だ。白雉の足であれば、六官三公の推挙によって、新たに冢宰を任じることができる」
「だから、主上が亡くなられたとは限らぬ。まず安否を確認し、主上と台輔の行方を国を挙げて探さねばならぬ」
「では訊くが、その挙国の事業を行う主体は誰なのか。官を束ねる者なしに、国を挙げて動くことが適うとお思いか」
 議場は一瞬のうちに混乱の中に投げこまれた。李斎はその片隅で呆然としていた。王が|斃《たお》れた例はある。宰輔が斃れた例もある。だが、その双方の行方も安否も分からないなどという例が、これまであったとは思えない。一方だけでも無事に残れば、その場合どうするかの慣例はあろう。だが、双方ともおらず、しかも死んだとは限らないという、あまりに曖昧な現状をどうすればいいのか。
「とにかくまず、|規《のり》を無視しても主上の安否を」
 誰かが声を張り上げたときだった。
「主上は亡くなられた」
 静かな声が割って入り、議場は水を打ったように静まった。李斎が声のほうを振り返ると、議場の入り口に|阿選《あせん》が立っていた。これまでの混乱が知れると言うものだ、誰も阿選がその場にいなかったことに気づいていなかった。
 阿選は一同を見渡し、掌を差し出した。その掌には、鳥の足が載っていた。
「|僭越《せんえつ》とは思ったが、何よりまず主上の安否を確認することが大事であろうと愚考して、|梧桐宮《ごどうきゅう》を|訪《おと》ない、|二声《にせい》宮に参じさせていただいた」
 議場に呻き声が交錯した。阿選はごく静かに言った。
「白雉《はくち》は落ちておられた。慣例に従い、足を切ってここにお持ちした」

   5

 李斎が言葉を切ると、|堂室《へや》にいた五者は五様に声を漏らした。
「それは……」
 陽子の声に、李斎は頷いた。
「白雉が落ちたと言うことは、王が死んだことを意味します。私たちは絶望の底に突き落とされたようなものでした。──あのとき、その場にいた者たちにとって、阿選の言を疑う理由は、どこにも存在しなかったのです」
 驍宗の、かつての同輩。双璧と呼ばれ、公私に|亙《わた》って親しかったとも聞いていた。革命の後も、驍宗は|阿選《あせん》を|篤《あつ》く遇したし、驍宗の麾下も阿選には一目を置いていた。阿選もまたこれらの信頼によく応えていたし、泰麒までもが|懐《なつ》いているように見えた。
 なんの懸念、波風もなかった水面から、唐突に阿選は姿を現したのだった。

 議場はしばらく静まりかえった。誰もが衝撃のあまり、声を発することができなかった。その思い沈黙を割ったのは、やはり阿選だった。
「ともかくも、王宮で被災した者たちの救済が必要だと思うが、いかがだろうか。負傷した官吏は勿論、|奄《げなん》|奚《げじょ》を加療するための場所が必要ではないだろうか。外朝にでも加療院を設けることが急務だと思うが」
 |宣角《せんかく》は頷き、そしてふいに顔を上げた。
「そう言えば、|鴻基《こうき》の街はどうなったのでしょう」
「無事のようです」
 これもまた、答えたのは阿選だった。阿選はいち早く手勢を市民救済のために向かわせ、鴻基の市井にはさしたる被害のなかったことを確認していた。雲海の上で起こった蝕は、雲海に遮られて下界には届かなかったらしい。とにかく、被災した官吏や奄奚のための加療院を設置することが書面にされ、そこに白雉の足が押捺された。その段になって、誰かが、印影の消えた御璽を保管しておく必要を思い出したが、これについても、すでに阿選が|麾兵《ぶか》を向かわせていた。しかしながら、正寝も被災を免れず、御璽は散乱した瓦礫の間に紛れこんだと見える。至急探させている、とのことだった。
 ──つまり、他の官がここで|徒《いたず》らに|狼狽《ろうばい》していた間に、阿選だけがやるべきことを把握し、それを行動に移していた、ということだった。
 白雉の足は、王亡き後は、御璽である。それは誰かが保管せねばならなかったし、本来ならその任に当たるべき宰輔はおらず、宰輔がいないとき、代わってその責を負う三公も、補佐役となる三孤を含め、誰一人いないという有様だった。|冢宰《ちょうさい》も負傷して寝付いている。王宮の中は言うに及ばず、事態は混乱を極めている。この激変に対して、決裁しなければならない文書は無数にあった。その全てに白雉の足は必要で、誰かがそれを保管すると同時に、文書にそれを|押捺《おうなつ》せねばならなかった。
 白雉の足を持ち帰った阿選が、その任に就くことは、あまりに自然なことに思われた。誰も異を唱えなかった。自分たちがただ狼狽していた間に、行うべきを行っていた将軍、国は非常時にあり、文官よりも武官が指導者になることが望ましい。そもそも朝廷は武の王朝で武官に対して親和力が強く、しかも阿選はもともと驍宗と並び称されてきた逸材だった。阿選もまた次王として嘱望されていた。驍宗自身も登極してからでさえ、阿選には一目を置き、篤く遇してきた。──そのことを誰もが思い出した。
 驍宗の敷いた道は武断の道、いまさら冢宰やその他の者のような文官が、驍宗の代役を務めるわけにもいかない。王都に残された武人といえば、|巌趙《がんちょう》に|臥信《がしん》、そして|李斎《りさい》の三名だったが、巌趙も臥信も叩き上げの武人で施政者に無垢とは思われなかったし、李斎も出自は一州師の将軍でしかない。|驕《きょう》王の許でも禁軍将軍を務め、政にも深く関わってきた|阿選《あせん》が、とりあえず驍宗の後を引き継ぐことは、思いついてみればこの上なく妥当なことに見えた。この場はとりあえず阿選に任せ、非常時が過ぎ、事態が落ち着いたところで改めて朝廷を編成し、|仮朝《かちょう》を開けば良い──誰もが何となく、そのように考えた。
 誰が言い出すでもなく、白雉の足は阿選が保管することになった。決裁すべき文書が山のように阿選の許に持ちこまれ、それを|捌《さば》いていく阿選は、自然、内殿に留まることになった。誰もそれに違和感を感じたりはしなかった。
 驍宗を捜索し、文州を治めるために臥信が文州へと派遣され、代わりに率いる将を失った阿選軍が呼び戻されることになった。そして、王宮に異変があるのを|嗅《か》ぎつけたか、李斎の郷里になる承州で乱が起こった。李斎は急遽、承州へ旅立つことになったのだった。

「李斎──出陣とか」
 李斎の許に花影が訪ねてきたのは、明後日に出立を控えた深夜のことだった。
「ええ。承州ならば、私が行くのが適任でしょう。承州の地の利に通じているから」
 そうですね、と同意した花影はしかし、いつものように不安げで、ひどく心細げにしていた。まるで今生の別れのように李斎の顔をまじまじと見る。
「心配は|要《い》りません。私は承州のことなら熟知しているし、承州師には知人、同輩も多い。文州ほどの規模の乱でなし、さほどに時間を掛けず、片づけて戻れるでしょう」
「ええ……きっとそうね。一日も早いお帰りを、心からお待ちしています」
 花影は|微笑《わら》ったが、どこか泣き出しそうな表情だった。
「ねえ、李斎──私たち、これで良かったのでしょうか」
「……何が?」
「主上がおられない、台輔がおられない、なのにもう国は新しい時代に走り出ようとしています……私、怖くて」
「また?」
 李斎が軽く|揶揄《やゆ》すると、花影は複雑そうに笑った。
「そうですね、私はいつも怖がってばかりいる……」
 李斎は軽く笑った。
「本当に」
「けれども李斎、私は前よりも怖い……。主上は奔馬のような方でした。私は背に|跨《またが》っているのが本当に怖かった。今も国は疾走しています。けれども、私たちが|跨《またが》っているものは、いったい何なのでしょう?」
 え、と李斎は声を上げ、改めて不安そうな花影を見返した。
「たとえどれほど性急に見えても、果敢すぎるように見えても、主上は歴とした戴の国主でいらっしゃいました。台輔の選定を受け、天命を受けて登極されたお方。いわば、天からも認められた|悍馬《かんば》であったことは確実です。けれども、今は……?」
 李斎は少しの間、ぽかんとした。花影は目を|逸《そ》らす。
「私たちはそもそも、|仮朝《かちょう》に慣れている……。|驕王《きょうおう》が亡くなられてから主上が登極なさるまで、ずっと仮朝を支えてきたのですから。だから違和感がなかったのです。でも、日に日に怖くなる。内殿に留まり、|御璽《ぎょじ》の代わりに|白雉《はくち》の足を持つ、あの者はいったい何なのでしょう?」
「しかし……|阿選《あせん》は」
「天命がなかったことは確実です。台輔の|安否《あんぴ》は未だ定かではありません。台輔がおられ──あるいは台輔が|身罷《みまか》られたのであれば、現在の有様はちっとも不自然ではありません。けれども、台輔は本当に亡くなったのですか?」
「だけど、花影」
「鳴蝕があったということは、台輔はあちらへ流されてしまわれたということなのでは。いいえ、単に流されただけならお戻りになるでしょう。だから、戻りたくとも戻ってはこられない──そういうことなのかもしれません。けれども、台輔がどこかにいらっしゃるなら、今のこれは仮朝ではありません」
 花影は顔を|歪《ゆが》める。
「阿選は|偽王《ぎおう》であり、これは|偽朝《ぎちょう》です」
「……花影!」
 李斎は|咄嗟《とっさ》に周囲を見回した。李斎の自室、無論誰の影もない。
「李斎は、主上が文州に発たれて後の噂を覚えていますか」
「文州で轍囲は出来過ぎだ……という」
「ええ。そればりではありません。私はこの頃、もうひとつの噂のほうも気になってならないのです」
「もうひとつ?」
「ええ。主上は|謀《はか》られたのだ、という噂と同時に、これは主上の|謀事《はかりごと》だという噂もありましたね? 主上は王都に残した私たちを処断するために、あえて文州に向かわれたのだ、という。残されて将軍は、|巌趙《がんちょう》殿に|臥信《がしん》に李斎、そして阿選でした。主上があえて阿選の手勢を|割《さ》いて行かれたのは、阿選の兵力を削ぐためではないかと」
「まさか」
「今になって、それが真実だったのではないかと思ったりします。この時期に主上が文州にいらっしゃったのは、そこが轍囲である以上、仕方のないことだったのかもしれません。とはいえ、あえて阿選の軍を|割《さ》く必要があったでしょうか。主上はひょっとして、阿選が|起《た》つことを警戒しておられたのでは」
「しかし……いいえ、|驍宗《ぎょうそう》様は以前、台輔が|漣《れん》に向かわれた時、阿選を副使としておつけになっています。もしも疑いをお持ちなら、そんなことをするでしょうか」
「けれども、|霜元《そうげん》も一緒でしたね? 霜元と|正頼《せいらい》、台輔づきの大僕である|潭翠《たんすい》が同行しています。それぞれが下官を一人連れただけの、たった八人の従者、阿選と麾兵が|邪《よこしま》なことを考えても、いささか行動には移し|難《にく》いでしょう。けれども、これに同行したせいで、阿選は新年の冬狩に参加いたしませんでした。つまりは、あの計画の具体的な詳細を知らされてはいなかったのです。主上はあえて知らせないために、阿選をおつけになったのでは」
 李斎は黙り込んだ。花影の言を|鵜呑《うの》みにしたわけではない。信じたわけではないが、気に引っかかるものがあった。文州に乱を起こし、|轍囲《てつい》を巻きこんで驍宗が出発せざるを得ないようにし向けるやり方、そして、粛正の詳細を知らせないために|泰麒《たいき》を|漣《れん》に向かわせ、その副使として同行させる、というやり方。その両者に、極めて似た臭いを|嗅《か》いだのだ。不自然なほどの自然さ──とでも言うべきもの。
 渦中にあれば、ごく自然にそうなったように見える、当たり前のことに見える。だが、振り返ってみれば自然を装った作為が見える──見えるような気がする。気のせいかとも思うほどの|僅《わず》かな違和感、けれども妙に無視し|難《がた》いその感じが、ひどく似ているように思った。そして、かつて聞いたことがある。驍宗と阿選は用兵家としても似ていた、と。
 ひょっとしたら……と、李斎は僅かに息を呑んだ。李斎も知らない、誰も気づかない水面下で、似たもの同士が互いに互いの足許を|掬《すく》おうとして熾烈な戦いを続けていたのかもしれない。それが水面に、本当に有るか無しかの波紋を起こしていたのではないか。ほとんどの者は見逃すが、中にはそれに気づく者もいる。時に花影が違和感を感じ、時に李斎が引っかかりを覚え──そのように、方々で大勢の者たちが微かな不審を|嗅《か》ぎ取り、それがあの奇妙に錯綜した噂話に発展しはしなかったか。
 李斎は|僅《わず》かに震えた。明後日の未明には|鴻基《こうき》を|発《た》って承州に向かわねばならない。|選《よ》りに選ってこの時期に、承州でまた乱が起こる。残された将軍顔ぶれれを見れば、李斎が承州に向かうことが当たり前のことのように思える──だが。
「李斎……|杞憂《きゆう》ならそれでちっとも構いません。いいえ、私はこれが臆病な私の心根が見せる邪推なのだと思いたい……」
 花影は言って、李斎の手をしっかりと握る。
「無事にお戻りになって。そして花影は本当に臆病者だと笑ってやってください」
 李斎は頷いた。
 その明後日、未明に李斎は鴻基を発った。胸の中に真っ黒な不安を抱えたまま。
 ──そうしてそれが、李斎にとって鴻基の見納めとなったのだった。

   6

 |李斎《りさい》は使い息をついて、手の中の珠を握り|締《し》めた。
「──私は|承州《じょうしゅう》へ向かわねばなりませんでした。|鴻基《こうき》を発ち、半月で|瑞《ずい》州から承州へと入りました。州境を越えて何日目か、幕営に駆け込んできた下官があったのです」

「どうかお助けください。私は殺されてしまいます」
 身を震わせながら言った彼は、|酷《ひど》い身なりをしていた。官吏とは思えない、下層民のような|袍子《のらぎ》姿、|泥《どろ》と|垢《あか》にまみれているのは、浮民の間に入って追っ手の目を逃れようとしたせいのようだった。
「私は春官|大卜《だいぼく》の下官でございます。|二声宮《にせいきゅう》に努めておりました」
 言って彼は|綬《じゅ》を差し出した。綬は三指ほどの幅に作られた組み|紐《ひも》で、その所属する地位によって長さと色が変わる。|褐衣《ぼろ》の懐から取り出した綬は、見れば確かに春官大卜、二声氏のもの。二声氏はその名の通り、二声宮に置いて|白雉《はくち》の世話をする。
「二声氏が、どうして」
「将軍が……確か禁軍の将軍です。禁軍右翼の」
「……|阿選《あせん》」
「はい。確かに|丈《じょう》将軍でした。あの日です──あの大きな災いのあった日の夜、突然、手勢を連れて二声宮に入って来られたのです。被害はないか、官は皆無事かと|仰《おお》せでした。本来ならば大卜の免許がなければ扉を開いてはならないのですが、場合が場合なのでつい開いて将軍を中に入れてしまったのです」
「阿選を?」
「はい、そして丈将軍──阿選は急に踏み込んでこられるなり、いきなり白雉に斬りかかりました。けれども阿選の剣では白雉を切ることは叶いませんでした。剣が素通りしてしまうのでございます。それを悟ると、阿選は私の同輩に命じて|雉《きじ》を連れてこさせました。|郊祀《まつり》に使う|鶏人《けいじん》管轄の雉でございます。同輩は左右を兵士に挟まれ、剣で脅されて鶏人のところへ向かい、雉を持ち帰りました。すると阿選はその雉を殺して足を切り、白雉を壺に|籠《こ》め穴に埋め──」
 言って彼は顔を覆う。
「そしてその場にいた官吏を殺害に及んだのです……」
 彼は辛うじてその場を逃げ出した。鳴蝕で宮が半ば崩れていたことが幸いした。
「私は阿選が入ってきた時から嫌な予感がしていたのです。主上は将軍の誰かを恐れておいでで、文州に向かわれたのもその誰かの執拗な刺客から逃げ出すためだという噂がありました」
「そんな噂が……?」
「はい。それを思い出して、不安でならず、それでできるだけ隅のほうの目立たない辺りへ少しずつ場所を移動していたのです。恐ろしいことが始まって、わたしは瓦礫の間に身を隠しました。すると、そこに穴があって、外に抜け出すことができたのです」
 この若い官吏は付近の混乱と夜陰に|紛《まぎ》れて官邸へと戻ったが、すぐに探しに来る者があった。これも|走廊《つうろ》の下に隠れてやり過ごすことができたが、その時、死体の数が合わない、逃げたはずだと話し合う兵士の声が聞こえたという。
「|命《いのち》からがら、私は宮城を抜け出しました。遺体を運ぶ車の中に紛れこんで、死人のふりをして門を通り抜けたのです。鴻基の外の|冢堂《ちょうどう》の前に落とされたところで、|這《は》い出して逃げ出しました。最初はまっすぐに瑞州の所領へ行ったのですが、そこにも|空行師《くうこうし》の姿が見え、とにかく瑞州を離れようと、浮民の中に混じってここまで逃げてきたのです」
 彼は言って、李斎に|縋《すが》るようにして手を合わせた。
「お助けください。私は阿選に殺されてしまいます。どうか──」
「確かに引き受けた」
 李斎は頷いた。側近に命じ、とにかく休ませるよう言いつけ、くれぐれも姿を見られぬよう、他言せぬよう厳重に言い含めておいた。そして李斎は二通の書状を|認《したた》めると、そのうちの一通を側近に持たせ、鴻基へと向かわせたのだった。乱の平定について助言を請う、という体裁を整え、密書を持たせ、必ず本人に渡すよう、余人が手を触れそうになった場合には破棄するよう厳重に言い含めて、王宮の|芭墨《はぼく》に向けて使者を送った。同時に、元州の|霜元《そうげん》に対しても|青鳥《しらせ》を出した。
 ──阿選、謀反。
 駆け込んできた二声氏は幕内に隠し、李斎は粛々と承州を進んでいった。そして十日後、突然、空行師が舞い降りてきたのだった。阿選軍の|徽章《きしょう》を着けた彼らは、|忌《い》まわしい朱印を|捺《お》した文書を|携《たずさ》えていた。
「二声氏と秘かに通じ、白雉の足を私物化せんと二声宮に踏み込み、官吏を惨殺したことはすでに明白である」
 空行師はそう言い、|挙《あ》げ|句《く》には驍宗を|弑《しい》し、泰麒を弑した、と断じた。
「|劉《りゅう》将軍には宮城へお戻りいただく。無駄な抵抗などして、御名を汚さぬが良かろう」
 二声氏など知らない、勿論いないと言い張ったが、空行師は明らかに李斎の幕営に彼が|匿《かくま》われていることを知っていた。若い官吏は引き出され、その場で有無を言わず切り捨てられた。李斎には手を出さぬ、と空行師は言っていたが、それは軍兵の目があってのこと、|鴻基《こうき》へと連行される途中で殺されることは疑いがなかった。
 李斎がそれを逃れることができたのは、ひとえに空行師が李斎を連行するのに、李斎の騎獣──|飛燕《ひえん》への騎乗を許したからに過ぎない。飛燕の助けを借り、李斎は辛うじて逃げ出すことができた。すでにそこは承州、李斎は承州に知古を数多く持っている。それもまた、李斎の命を永らえるのに一役を買った。
 李斎はその日以来、大逆の罪人になった──。

 李斎は泣きたかった。国賊と呼ばれる以上の屈辱はない。|謂《い》われのない汚名を着て、方々を隠れ住む日々が続いた。知古の多くは李斎を信じ、同情してくれたが、中にはなぜこんな罪を犯した、と責める者もあり、そらには李斎を阿選に引き渡そうとする者もあった。そうでない者の一部は、李斎を匿った罪によって裁かれ、大逆に荷担した罪人として刑場に汚辱にまみれた|屍《しかばね》を|曝《さら》すことになった。
「一年……いいえ、それ以上、ただ隠れ、追撃を逃れるだけの日々が続きました。私がそうして放浪している間に、阿選は宮城に確固とした居場所を築いていたのです。やがて、民の目にも阿選こそが逆賊であったことは明らかになりました。その時にはもう──遅かったのです」
 当時、文州にいた|英章《えいしょう》と|臥信《がしん》はそこで姿を消した。驍宗麾下の多くが国土に散らばり、潜伏し、あるいは秘かに討たれたと聞いた。王宮の内部のことは、全く|窺《うかが》い知ることができなかった。立ち上がって阿選を責める者もあったが、そういった者たちは、|悉《ことごと》く|討《う》たれ、あるいは姿を消す運命にあった。
「阿選は|僅《わず》かでも自身を責める者、主上を|褒《ほ》める者を許しませんでした。|轍囲《てつい》──主上がそもそも阿選に|謀《はか》られることになったあの地は、阿選軍によって一柱残らず焼き払われてしまいました。主上の出身地──|委《い》州の土地も焼かれ、かつて所領であった|乍《さく》県は包囲され、物資を完全に止められて、その年の冬にほとんどが死に絶えたとも聞きます」
 陽子は愕然とした。
「阿選は、そこまで泰王を憎んでいたのか?」
「かもしれません。……分かりません。私はそれまで、そこまでの確執があるようには見えませんでした。秘めていただけ、阿選の憎悪は深かったのかもしれません。しかも、そうやって焼き払われ、冬に捨て置かれて無人となった|里櫨《まちまち》は、なにも主上|由縁《ゆかり》の地に留まりませんでした。阿選を指弾し、阿選に反した土地も、やはり同様の命運を|辿《たど》ったからです」
 待て、と声を上げたのは、黙って李斎の弁を聞いていた延王尚隆だった。
「それでは国土の破壊だろう。阿選は泰王から盗んだ羊を絞め殺そうとしているようなものではないか」
 はい、と李斎は頷いた。
「私もそう思います。阿選が主上を|弑《しい》し、玉座を盗んだのは、自分こそが王として戴に君臨したいからだったはずです。……けれども、私にはそのように見えませんでした。阿選は戴を支配し治めることに興味を抱いていないように見えたのです」
 |驍宗《ぎょうそう》を恨み、驍宗のものを|掠《かす》め取ろうとして起ったわけではない──|李斎《りさい》にはそういう気がしている。|阿選《あせん》が反した動機は、噂に言うように、双璧と呼ばれた片割れが王になり、自分がその臣に下った恨み、などという分かりやすいものではなかったのだろうと思う。だからこそ、誰一人、阿選を疑っていなかった。
 まるで戴を憎んでいるかのようだ、と李斎は感じていた。阿選は自らが治める国土が破壊されていくこと、支配する民が死に絶えていくことを|寸毫《すんごう》も気に留めてないように見えた。それゆえに、阿選に対して打つ手がなかった。
「乱があれば阿選がこれを押さえようとして兵を遣わすだろう、|双方《そうほう》が|睨《にら》み合った隙に何事かできるだろう、などという計略は立てようもありませんでした。乱が起これば大量の兵士を向かわせ、有無を言わさず|里櫨《まちまち》を焼き捨て|反民《はんみん》を殺すだけなのですから。阿選は逃れた反民を追うことすらしません。逃げてまた起てば、また殺すだけ──そんなふうなのです」
「しかし、それでは国は立ち行くまい」
「そのはずです……でも」
 なぜそうなるのかは分からない。それほどの振る舞いをしながら、阿選を支持するものは後を絶たなかった。阿選を恐れて恭順した──それは多分、正しくない。李斎は逆賊として逃げ回り、後には驍宗を捜して戴を奔走した。その途中、阿選に不審を抱く者、反意のある者があれば、これを集め、組織立てて謀反を起こそうとしたが、それはいつも不思議なほど成功しなかった。必ず内部から転向者が出て、|瓦解《がかい》してしまうのだ。昨日まで阿選を指弾し、阿選の非道を声高に叫んでいた者が、翌日には唐突に阿選の支持者になっている。地位の高い者ほどその傾向が著しかった。
「昨日まで反民を保護してくれていた州侯が、突然保護していた我らを阿選に売り、自身は何事もなかったかのように阿選に下って州侯を続ける、ということもございました。自らの州が|蹂躙《じゅうりん》され、民が殺されても、もはやまるで意に介さないのです」
 |病《や》む、という言葉が|囁《ささや》かれるようになった。それは確かに何らかの|疫病《えきびょう》に似ていた。|罹患《りかん》した者は阿選に対する反意をなくす。どんな非道も意に介さず、目の前で何が起ころうと心を動かすことがない。
「洗脳……みたいなものだろうか」
 陽子は|呟《つぶや》く。何かそういう手段で戴を席巻しているのか。いずれにしても、それでは逆賊を倒そうにも手の打ちようがあるまい。
「戴の民には、自らを救う|術《すべ》がありません……」
 李斎は|喘《あえ》いだ。陽子は|慌《あわ》ててその手を握った。
「──大丈夫か?」
 陽子の問いに李斎は、大丈夫です、と気丈にも答えたが、声は|忙《せわ》しない息づかいに途切れ、閉じた瞼には濃い影が落ちていた。
「……もういい。今日はここまでにしよう。とにかく」
 休め、と言おうとした陽子の手を、細く|窶《やつ》れた李斎の指が強い力で|掴《つか》んだ。
「お願いです、……戴を」
 分かっているとも、と陽子は李斎の手を強く握り返す。|浩瀚《こうかん》に呼ばれ、近くで控えていた|虎嘯《こしょう》が駆け込んできた。ここまでにしてくれ、と言われ、陽子は後ろ髪を引かれる思いで|堂室《へや》を出た。
 陽子は尚隆と浩瀚の顔を見る。
「見捨ててはおけない──そんなことはできない」
 陽子、と尚隆は低く|叱咤《しった》する。
「あの有様を見ただろう? あれを見捨てることが許されると思うのか? 見捨てるしかないなんて……そんな王にどんな存在価値があるんだ」
「陽子、そういう問題ではない」
「天は|仁道《じんどう》を|以《もっ》て天下を治めろ、と言ったんじゃなかったのか。ここで戴を見捨てることが仁道に|適《かな》ったことなのか? 天が許さないと言うけれども、それは本当に確かなことなのか? そもそも天はどこにあるんだ。許さないという、その主体は誰だ?」
 天には天の摂理があり、天帝がこれを|統《す》べると言う。だが、陽子は天帝が王に任じるという、その儀式の最中にさえ、天帝を見たこともなければ、声を聞いたこともない。いると言われている、信じられている──天帝の威信が世界を支えていることは承知しているが、誰一人その天帝を見た者などいないのだ。
「ここで慶を守り、戴を見捨てることが王の義務なら、私は玉座なんかいらない」
 陽子は言い捨てて、|庭院《なかにわ》へと駆け下りた。

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1987/05/22

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