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黄昏の岸 暁の天 7章4~

2010-08-08 22:20


  4

「|謀反《むほん》に参加したのは、天官ばかりが十一人、首謀者は|内宰《ないさい》で、どうやらこれが全てだったようです。怪我人は三人、逃げ出した五人は取り押さえてあります」
 |桓たい《かんたい》[#「桓たい」の「たい」は「鬼」+「隹」Unicode:+9B4B]の説明を受けながら陽子が内殿に戻ると、|虎嘯《こしょう》が大きな体を縮めて待っていた。陽子の顔を見るなり、その場に平伏する。
「本当に──済まない」
「……どうしたんだ?」
 瞬く陽子に、桓たいは苦笑する。
「謝らせておやんなさい。確かに、あの場に|大僕《だいぼく》も|小臣《しょうしん》もいなかったのは落ち度だ」
「だが、私が人払いをしたんだ」
「だからといって、目を離しちゃならなかった」
 虎嘯は言って顔を上げる。
「虎嘯のせいじゃない。そもそも虎嘯の職責じゃないだろう」
 王の警護は夏官の中でも|射人《しゃじん》、特に|司右《しゆう》の職責だった。|公《おおやけ》においては司右の下官である|虎賁氏《こぶんし》が、|私《わたくし》においては|大僕《だいぼく》がそれを指揮する。ここで言う「私」とは、|内宮《ないぐう》を指す。内宮とは、王宮の最深部に当たる|後宮《こうきゅう》及び、|東宮《とうぐう》、|西宮《せいぐう》を含む|燕寝《えんしん》と、|正寝《せいしん》、|仁重《じんじゅう》殿、禁門に至る|路寝《ろしん》、そして内殿と外殿までを言う。その外側を|外宮《がいぐう》と言い、ただし、内殿と外殿を含む。本来、王は内宮の最も表に当たる外殿までしか出ないものだ。そして臣下は、原則として外宮の最も奥に当たる内殿までしか立ち入ることができない。
「大僕の仕事は内宮における警護だろう。|西園《さいえん》は掌客殿の一部だ。あれは外宮であって内宮じゃない」
「それはそうなんだ……だけど」
 すっかり肩を落とした虎嘯の背を宥めるように叩き、桓たいは、
「|詫《わ》びの言葉ぐらい聞いてやらないと、虎嘯も立場がないですよ。──確かに西園は外宮ですから、|虎嘯《こしょう》の管轄外です。そもそも普通は、公式の行事がある場合でなければ、王は内宮を出ないものです。公務で出る場合は、|虎賁氏《こふんし》が警護につく。ところが、今回主上が西園でやっていたことは、公務の範疇に入らない」
「それはそうだろう。法や礼典に基づく行為じゃなかったわけだから。公式には賓客はいないことになっていたし、だから本来、掌客殿に客人を訪ねるときに踏むべき手続きも全く踏まなかった。そもそも|李斎《りさい》を王宮に入れたところから、完全に慣例や礼典無視の手前勝手な振る舞いだ。……私が悪かった」
 陽子はそう詫びたが、|桓たい《かんたい》は大仰に顔を|顰《しか》めた。
「王様ってのは、手前勝手なものに決まってます。そうでなきゃ、国が荒れたり倒れたりする道理がない。あれは公務ではなかったのだから、虎賁氏の職責ではなかった。それでも警護は必要だったわけだし、虎賁氏と大僕と、どちらがそれに|就《つ》くべきかと言うと、大僕だったはずだ、ってことです」
 虎嘯はしゅんと|項垂《うなだ》れる。
「そういうことなんだ。……それが何しろ、あそこにおられたのは、他の国の王様や台輔ばかりで、俺には敷居が高かったし、事が事だけに、俺が|覗《のぞ》き見をしたり立ち聞きをしたりしちゃならないような気がしてたんだ。陽子が親しい奴のところへ一人でほいほい出掛けるのは、内宮じゃよくあることだし、だから──気を抜いてたんだよなあ」
 虎嘯らは、西園にはいるまでを警護して、そこから先は遠慮していた。西園への往復を警護すればそれで良いのだと、思っていたことは|否《いな》めない。
「それは虎嘯の落ち度だぞ。内宮で警護にぴりぴりしないでいいのは、そもそも危険な人間を一切踏み込ませてないからだ。内殿や外殿なら人目もあるし、宮毎、建物毎に護衛が付いている。だが、西園ではそうはいかん。今回のように、公式においでにならない賓客がある場合には礼典に|則《のっと》った警護も置けない。|燕朝《えんちょう》に出入りできる者なら誰だって西園に近づくことができたし、実際そうなったわけだろう」
 うん、と虎嘯は頷いた。桓たいは苦笑いし、
「虎嘯には大僕として落ち度があったのだから、謝らせてやらないといけませんよ。その上で、小官から奏上させてもらいたいんですが」
「何だ?」
「今度の件には主上のほうにも落ち度があった。何事にも堅苦しくなく、鷹揚でいらっしゃるのは主上の良いところだとは思いますけど、|則《のり》を気軽に無視なされば、こういう弊害が出る。周囲の官には、官としての職分というものがあって、主上のように一存でそれを無視するわけにはいかないんです。慣例や則を無視なさると、慣例や則で枠をはめられた官は|蹤《つ》いて行きようがなくなる。なので、この件については、大僕を|咎《とが》めないでやってください」
「……結局、そういう話か?」
「言っておきますけど、|虎嘯《こしょう》に詫びさせないことと、虎嘯を許すことは別物ですよ。主上はそのへんが|杜撰《ずさん》すぎます。虎嘯に詫びさせないのは、落ち度をなかったことにすることです。仮にも王が、罪や怠慢をなかったことにしたらいけませんよ。周囲の者だって、それじゃあ納得しない。|偏《かたよ》った寵だと言うに決まってるし、虎嘯だって立場がない」
「ああ、……そうか……」
 呟いたところに、|浩瀚《こうかん》が入ってきた。
「なんだ──お前たち、ここにいたのか」
 言って浩瀚は、真っ先に虎嘯に向かう。
「大僕にはこの度の責を取って、三月の謹慎を申しつける」
 待て、と陽子が口を|挟《はさ》もうとすると、
「だが、台輔のたっての請願もあり、主上も則を乱して大僕の職分を混乱させたことを認められた。大僕には、逆賊を捉えた手柄もあるので、罪を相殺して不問に処す。──ということにしようと、|有司議《ゆうしぎ》では一致しましたがいかがでしょう」
 浩瀚は平然と言って陽子に向かう。
「則を乱して、というところか? それはたった今、|桓たい《かんたい》に叱られたばかりだ」
「では、これで?」
 いいよ、と陽子は苦笑する。桓たいは声を上げて笑い、捕らえた罪人は秋官に引き渡してある旨、浩瀚に報告すると、虎嘯の背中を叩き、引き連れて出て行った。
 それを淡々と見送り、浩瀚は書面を差し出す。
「……内宰は、そもそも現状に不満が強かったようですね。彼はもともと|内小臣《ないしょうしん》で、内宰の下、王と宰輔の身辺の世話を一手に取り仕切っていました。主上が抜擢なさって内宰に位を進めたわけですが、現在のところ路寝における主上の|側仕《そばづか》えからは閉め出されている。内小臣の時代から、自分は路寝に侍ることができる、それが彼の誇りであったのに、それを踏みにじられて我慢がならなかったようです」
 そうか、と陽子は溜息と一緒に|零《こぼ》した。
「……おまけに王は、素性の知れない臣下を重用し、則も何も無視して、何やら窺い知れないことを側近とだけやっている……まあ、不満に思って当然なのだろうな」
 あの謀反に参加した者は、いずれも天官だった。天官は国の運営に直接の係わりを持たない。王と宰輔の世話をし、宮中の諸事を司ることが職務だ。あるいは、王にそれだけ近い、という誇りの持ち方をしなければ、やっていけないものなのかもしれない。
「もしもそれが、内宰らに対する同情なのでしたら、そんなものはお捨てになることです」
 素っ気ないが、強い口調に驚いて、陽子は浩瀚を見た。浩瀚は軽く眉を上げる。
「内宰らが西園に踏み込んだ経過は、劉将軍と泰台輔にお聞きしました」
「相変わらず手回しがいいな」
「それだけの大事だということです。──念のためにお聞きしておきますが、まさか主上は内宰らの言い分にも一理ある、などとは思ってはいらっしゃらないでしょうね?」
 陽子は目を伏せる。
「あるんじゃないのかな。……彼らは実際のところを知り得なかったわけだし、知らずに私の行動だけを見れば、あのように思っても仕方ないと思う。慶のためにならない王だと言われれば、そう思うのであればそうなのだろう、としか答えようがない。まさか、そんなことはない、私は慶のためになる王だ、なんてことを断言できるはずもないだろう。それは私が判断することじゃないからな」
「では、説明申し上げます」
 浩瀚はさらりと言って、書面を|書卓《つくえ》に放り出す。
「まず、主上が良い王であるか否か──これは見る人にもより、見る時にもよりましょう。ただ、今回の件に関しては、主上がいかなる王であるかは問題ではございません。剣をもって人を襲うと決めた時点で道義の上では有罪、その罪人に正義を標榜して他者を裁く資格のあろうはずがない」
「それは……そうだろうが」
「そもそも、私共が内宰らを路寝から閉め出したのは、このような事態があることを|懼《おそ》れてのことです。信用できる者でなければお側には上げられない、それが官の一致した見解であり、お側に上げ、重用できるほど彼らに信用が置けなかった、ということです。信用がならない、と判断したのは、彼らの|為人《ひととなり》を見てのことでございますね。そして、その判断が誤っていたとは思われません。第一に──半獣ごとき、土匪ごとき、と?」
 浩瀚は陽子を見る。
「そのようなことを考える者は、必ず権を振り|翳《かざ》す。それに権威を与えるわけには参りませんでしょう。振り回すと分かっている者に、刃物を持たせる者などいない。第二に、それを口にすることを恥じない者に、道のなんたるかが分かるはずもなく、道を分からない者に国体に参与する資格などございません。第三に、実情を知らない者には、批判する資格はございません。にもかかわらず、実情を知ろうとするより先に、憶測で罪を作り、その罪を元に他者を裁くことに疑問を覚えない者に、いかなる形の権限も与えるわけにはいかない、これが第四。さらに第五、そのような自己の不明、不足を自覚せず、己の不遇を容易く他のせいにして|弾劾《だんがい》する者に信を置くことなどできかねる。ましてや、法に|悖《もと》り道に悖る手段でそれを完遂しようとする人物は危険人物だと言わねばなりません。危険な人物を主上の周囲に|侍《はべ》らせるわけには断じて参りません。これが彼らを重用しなかった理由の第六ですが、何か間違っておりますか」
 陽子は半ば呆れた気分で、浩瀚を見返した。
「彼らの常日頃の言動を見れば、お側に上げられるほど信用できる者には見えなかった。ゆえに路寝からは閉め出したのだし、それが間違いではなかったことを、図らずも自ら証明したということでございますね」
 陽子は|書卓《つくえ》に|肘《ひじ》をつき、両手の指を合わせる。
「……あえて訊く。もしも彼らを重用していたら、彼らもあんな行動には至らなかったとは思わないか?」
「こちらこそお訊きします。|報《むく》われれば道を守ることができるけれども、報われなければそれができない。──そういう人間をいかにして信用しろと?」
 陽子は|上目遣《うわめづか》いに浩瀚を見たまま、両手の指先を打ち合わせる。
「目が届いていると、言い切れるか? 功を見逃し、たまたま目にした罪だけを取り上げていないと?」
 浩瀚は冷淡な目で陽子を見る。
「それは私に対する|侮辱《ぶじょく》でございますか? 主上もご存じの通り、私は信の置ける者を、国の主だった官として取り上げる一方で、あえて下官としても働かせております。官で言うなら上、中、下士、兵で言うなら伍長でございますね。そうやって|端々《はしばし》まで目を配っているつもりですが、それにご不審がおありか」
「……悪かった」
 陽子が詫びると、浩瀚は息を吐いて微苦笑する。
「結局のところ、その人物の|為人《ひととなり》の問題でございますよ。そしてそれは、その者がいかに振る舞い、生きているかにかかっているのです。常にそれを問われている。必ず誰かが見ているのですから。そして信ずるに足るものであれば、喜んでその行為に報います。それは、李斎殿の例を見ればお分かりでしょう」
「……李斎の?」
「主上はなぜ李斎殿に手をお貸しになったのですか?」
「なぜ、と言われても」
「金波宮に転がり込んで来られた、その時の無惨な様子を御覧になったからではないのですか。李斎殿がああも傷ついておられたのは、妖魔の巣窟と化した垂州を越えて来られたせい、李斎殿があえてそれを成されたのは、それだけ戴を救おうと必死になっておられたことの証左ではないのですか?」
「それは……勿論」
「戴を救って欲しいと、李斎殿は主上に訴えられた。しかしながら、他国に武をもって入ることは|覿面《てきめん》の罪を意味します。──あるいは李斎殿はもとよりそれを承知だったのかもしれません」
「……浩瀚」
「承知で主上の情に訴え、罪を|唆《そそのか》すためにやって来られたのかも。ひょっとしたら、そんなことはご存じなかったのかもしれないし、失念しておられたのかもしれない。たとえ承知で罪を唆すためにやって来られたのだとしても、それだけ必死だったということなのかもしれないし、あるいは、戴さえ良ければ慶など知ったことではない、というだけのことだったのかもしれない。李斎殿の内実は、私などには分かりかねます。それでも、主上が李斎殿のために労と時間を割かれることに、私は反対いたしませんでした」
「……ああ」
「それは李斎殿の言動を拝見していたからですね。主上に対する態度、我々に対する態度、あるいは虎嘯に対する態度。なにかにつけて発せられる言葉、行われる行為、それらのものから考えて、私には李斎殿が戴さえ良ければ慶など知ったことではない、と考えられるような方には見えませんでした。私は未だに李斎殿の内実を知ることはできませんが、もしも罪を承知で来られたのであれば、それだけ必死でいらしたのだろう、けれどもその罪深さを自覚なさったのだろう、と思っております」
 うん、と陽子は頷いた。
「結局、そういうことでしょう。自身の行為が自身への処遇を決める。それに値するだけの言動を為すことができれば、私のような者でも助けて差し上げたいと思うし、場合によっては天すらも動く。周囲が報いてくれるかどうかは、本人次第です。それを自覚せず、不遇を恨んで主上を襲った。こういうのは、|逆恨《さかうら》み、とこちらでは申すのですが」
「……蓬莱でもそう言うみたいだよ」
「逆恨みの|挙《あ》げ|句《く》、剣を持ち出すような者の意見に耳を傾けるだけの理があろうはずがございません。──これもまた、本人の言動が報いるに値するかどうかを決する、という実例でございますね」

   5

「──お身体はどうですか?」
 李斎が|夕餉《ゆうげ》を抱えて臥室に入ると、泰麒は起き上がって窓の外を見ていた。李斎が一時、身を寄せていた太師の邸宅にある|客庁《きゃくま》だった。
 大丈夫です、と振り返った泰麒は、しっかりした振る舞いをしているものの、どこか影が薄いように見えてならなかった。その不安を振り払うように、李斎は笑う。
「さっき……台輔が眠っていらっしゃるとき、景王がいらして、大変恐縮してらっしゃいました。また|穢《けが》れに当てるようなことがあって申し訳ない、と」
「……彼女のせいではないのに」
 そうですね、と李斎は食卓を整える。
「景王は慶の民のことを考えられたからこそ、ああなさったのに……。王であり続けることは大変なことなのだと、この頃、とみにそう思いますむ
「……本当に」
 言ってから、しばらく泰麒は口を|噤《つぐ》んでいた。やがて、口を開く。
「……李斎、戴へ戻りませんか」
「──はい?」
 李斎は最初、泰麒が何を言おうとしたのか分からなかった。首を傾げて聞き直そうとした李斎を、泰麒はひどく真摯な目で見返してきた。
「僕たちは、これ以上の御迷惑を慶にかけることはできません」
 李斎は愕然としながら、その言葉を聞いた。泰麒が何を言おうとしているのかをやっと悟って顔面から血の気が引くのを感じた。
「待ってください……台輔、でも」
「慶の波乱の種子になることはできません。これまでにも十分良くしていただいたし、大変なご迷惑をおかけしました。あとはもう、僕らだけで何とかしなければならないところへ来ているのだと思います」
「けれど台輔……そんな、いけません。台輔はまだお身体も。いいえ、そればかりでなく、失礼ながら使令も角も──」
 李斎は激しく|狼狽《ろうばい》していた。何としても止めねばならぬ、と思った。──そう、李斎はずっと泰麒を捜し出すことができれば、泰麒を伴って戴へ帰るのだと漠然と思っていた。泰麒がいれば王気を頼りに、|驍宗《ぎょうそう》を|捜《さが》すことができる。だが、泰麒は角を失い、麒麟としての本性を失った。使令も持たない。そして戴は今や、妖魔と兇賊の巣窟であり、李斎には利き腕がない──。
 内宰らが起こした事件は、李斎に失ったものの大きさを再確認させた。武器を持った|輩《やから》が踏み込んできて、|選《よ》りに|選《よ》って大切な泰麒と大恩ある景王がいる臥室へ踏み込もうとしていたのに、李斎はそれを|止《とど》めることができなかった。武人のようにも見えない者たちに、易々と取り押さえられ、拘束されているしかなかったのだった。
 病み上がりで身体が思うようにならないことを差し引いても、李斎はもはや武人として何の役にも立たないことは確実だった。戴へ泰麒が戻ったとしても、その泰麒を守ることさえできない。それはもとより承知していたことだが、ここまで自分が無力になっているとは思わなかった。漠然とそう知っていることと、それを自覚することはこんなにも違う。李斎はそのことに量り知れない衝撃を受けていた。
「駄目です、台輔──。お気持ちは分かりますが、台輔を戴へお帰しするわけにはまいりません。せめて、お身体をお|厭《いと》いになって……そう、その間に李斎が|荒民《なんみん》から人手を募りましょう。多少なりとも手勢を集めて──」
 泰麒は首を横に振った。
「確かに僕には何の力もありません。けれども李斎、僕らは戴の民です」
 李斎は立ち|竦《すく》む。
「戴は神々すら見放した国です。……そうなのでしょう? 主上はおられず、諸国の善意は届かず、天も戴のために奇蹟を施してはくれません。麒麟ももういないに等しい。それでも戴にはまだ民がいます。李斎と僕と」
「民だなんて──たとえ角を失っておられても、台輔は我が国の麒麟です。台輔は私共の希望です。簡単に失うわけには参りません。戴へ戻り、誰かが主上を捜さねばならず、民を救わねばならないというのであれば、李斎が参ります。──いいえ、李斎はもとよりそのつもりでした。ですが、台輔には安全な場所にいていただかなくては。どうぞお願いです、戴へ戻るなどという……そんな危険なことを」
 泰麒と李斎が喪失してしまったもの──そればかりではない。李斎はもうひとつ、大きな|危惧《きぐ》を抱いていた。
 |鴻基《こうき》で異変が起こった直後、李斎は乱を平定するために承州へ向かい、その途中で二声氏を保護した。この二声氏の証言によって阿選の謀反が明らかになった。同時に李斎は、このことによって大逆の汚名を着ることになったのだが、それよりも辛かったのは、なぜ李斎が二声氏を保護したことが阿選に知れたのか、ということのほうだった。李斎が密書を向けたのは、|芭墨《はぼく》と|霜元《そうげん》の二名だけ。内容が内容だけに、両者とも迂闊な人間に|報《しら》せはすまい。おそらくは|驍宗《ぎょうそう》|麾下《きか》の限られた人々だけが李斎の報せた内容を知った。そしてそれは、阿選に筒抜けだったのだ。
 仮にも驍宗麾下の者たちが、間諜や盗聴に無頓着だったとは思えない。彼らは秘密裏に集まり、十分に注意して密談を持ったはずだ。にもかかわらず、それが阿選に|漏《も》れたということは、その中に阿選に通じていた者がいたということを意味しないか。
 ──驍宗は、自らの麾下の中に、裏切り者を飼っていたのだ。
 李斎は目の前で真摯な目を向けている泰麒を見返す。泰麒にこの忌まわしい事実を知らせたくはなかった。だが、戴は二重に危険だ。戴に入れば、何とか麾下と連絡を取り、手勢を作っていかねばならないが、その中には裏切り者が|潜《ひそ》んでいるかもしれない。それは知古の顔をして泰麒の側に現れるやもしれず、そしてその者から泰麒を守る術が、李斎にはない。
 駄目です、と|譫言《うわごと》のように繰り返すしかない李斎に、彼は困ったように微笑んだ。
「李斎はちっとも変わらない」
 李斎は首を傾げた。
「常に僕のことを心配してくれて、恐ろしいことや辛いことから遠ざけようとしてくれる。驍宗様がおられなくなったときもそうでした」
「……台輔」
「僕はとても驍宗様のことが心配だった。なのに誰も本当のことを教えてはくれなかった。いえ……李斎の言ってくれたことが本当のことだったのかもしれません。けれども僕は、周囲の大人たちが、常に僕の目から恐ろしいことや辛いことを隠そうとすることを知っていました。だから、恐ろしいこと、辛いことを耳にいてくれた阿選を頼りにした……」
 李斎は、はっと息を詰めた。
「阿選は、驍宗様が危険だ、と言いました。あの日には……とうとう伏兵に襲われて大変な窮地に|陥《おちい》っている、と。僕には無事文州に到着したと報せてくれた、李斎たちの言葉を信じることができなかった。到着する前に急襲を受け苦戦している、という阿選の言葉を信じました。苦境をお救いしたくて、僕は使令に驍宗様の許に行くよう、命じたんです。阿選を疑うなんて考えてもみませんでした。それは僕が阿選を信用していた、そればかりではなく、あのときの僕にとって、恐ろしいことを耳に入れてくれる者こそが、嘘をつかない人物だったからです」
 言って泰麒は、|微《かす》かに苦笑する。
「……確かに、僕は本当に子供で、何一つ満足にはできなかった。何かをしようとすれば、かえって李斎たちに迷惑をかけた……あの時もそうだった」
「台輔、そんな」
「けれども李斎──僕はもう子供ではないです。いいえ、能力で言うなら、あのころのほうがずっといろいろなことができた。|却《かえ》って無力になったのだと言えるんでしょう。けれども僕はもう、自分は無力だと嘆いて、無力であることに安住できるほど幼くない」
「……台輔」
「誰かが戴を救わねばなりません。戴の民がせずに、誰がそれをするのです?」
「では……では、もう一度、蓬山をお訪ねして玄君に相談してみましょう。私や泰麒が戴のために何ができるのか」
「そして玄君が何を施してくれるのか、訊いてみますか?」
 李斎は言葉を失った。
「天を当てにしてどうします? 助けを期待して良いのは、それに所有され庇護される者だけでしょう。戴の民はいつから、天のものになったのですか?」
「泰麒……けれど」
「李斎が慶に助けを求めた経過は聞きました。そうやっ李斎が救いを求めて慶を訪ねてくれなかったら、僕が戻ってこられなかったことも確かです。人の手には余ることというものがあると、僕も思います。そして、今の戴の現状は、もはや角のない麒麟や|隻腕《せきわん》の将軍の手には余るのかもしれません。けれども──李斎」
 泰麒は李斎の残された手を取る。
「そもそも自らの手で支えることのできるものを我と呼ぶのではないんでしょうか。ここで戴を支えることができなければ、そのために具体的に何一つできず、しないのであれば、僕たちは永遠に戴を我が国と呼ぶ資格を失います」
 李斎は泰麒を見返す。……そうか、と思っていた。
 李斎は自分がなぜ、戴を救いたいのか分からなかった。同時に、あれほどの思いを、泰麒を前にして急速に失ってしまっていた自分に気づいた。そう、李斎にとっては、泰麒が無事であれば──自分の手で泰麒を守ることさえできれば、それが戴を守ることだったのだ。たとえそれが、慶の中の安全でも、李斎がその安全に何ら関与できていなくても、泰麒さえ無事でいてくれれば、李斎の中の戴は守られる。そして、戴を守ることがすなわち、戴が李斎のものである──祖国である、ということなのだ。守りきれず滅ぼすならばそれは戴に所属する李斎自身のせいだ。李斎は戴を失うが、泰麒さえ守ることができれば、李斎は戴を失わずに済む。
「僕たちは戴の民です。求めて戴の民であろうとするならば、戴に対する責任と義務を負います。それを放棄するならば、僕らは戴を失ってしまう……」
 そして、所属する場所を失うということは、自己を失うということだ。
 李斎は、|朝《ちょう》を失い仲間を失い、知古を失った。|花影《かえい》とも別れ──そして、自分が所属する場所を、もはや戴という国以外には持たなかった。だから、救いたかった。自己を喪失しないでいるために。
 いまや李斎には泰麒がいる。泰麒を失わなければ、李斎が戴を失うことはない。慶の中に居場所も得ている。李斎にはもう、ここを去ることのほうが恐ろしい。だが、それが戴に対する──泰の民に対する、驍宗に対する、戴に今も閉じ込められている幾多の人々と、そこで失われた生命に対する裏切りであることは確実だった。
 ……そう、確かに李斎らは、ここを出て戴に戻らなければならない。
 李斎は涙で|歪《ゆが》む視線を自分の手に向けた。それを握る手は、李斎のそれと変わらない。
「こんなに……大きくおなりなのですね……」

   6

 初秋の未明、李斎は泰麒を伴い、そっと|太師《たいし》宅を抜け出した。
 よくよく泰麒と話し合った末に、景王には何も言わずにいようということになった。出て行くと言えば、|内宰《ないさい》らの起こした事件のせい、自らのせいだと思うだろう。そうでないと説得することはできても、彼女は辛い選択を強いられることになる。それでもなお引き留めるということは、慶の中に戴を抱え込むということであり、送り出すということは、戴を見捨てるに等しいことだ。少なくとも、あの若い王は、そう思わないではいられないだろう。
 それに、と李斎は心の中で溜息を|零《こぼ》す。
 あの王に|真摯《しんし》に引き留められれば、決意が揺らがないでいられる自信はない。今も李斎はこれは蛮行だという思いから抜け出せないでいた。戴に戻らねばならぬ、という泰麒の言い分は分かるし、その通りだとも思う。確かに、李斎は泰麒を連れて戴へ戻らなければならないのだ。──だが、その一方で泰麒は戴にとって絶対に失われてはならない希望であることも確かだった。守りおおせる自信はない。想像も及ばないほどの危難が待ち受けていることなど分かり切っている。できれば思いとどまるよう、泰麒を説得したいとは未だに強く思っていた。人としては戻らねばならない。臣としては戻らせてはならないと思う。二つに裂かれて|拮抗《きっこう》する心は、泰麒の毅然とした意志の重みで、辛うじて戻るほうへと傾いている。
「李斎……残りますか?」
 迷いを|見透《みす》かすように泰麒に問われ、李斎は|慌《あわ》てて首を振った。
「まさか。御冗談を|仰《おっしゃ》らないでください」
「それとも、やはり景王にお別れを? 李斎はとても慶の方々にお世話になったのだから、このまま立ち去るのは辛いでしょう」
 |労《いたわ》るように言われ、いいえ、と李斎は笑って見せた。
「ほんの少し、|名残惜《なごりお》しい気がしただけです。景王も……慶のみなさまも、あんなによくしてくださったのは、戴を救うためなのですから、ここで|臆《おく》していては、それこそ顔向けができません」
 ──そう、全ては戴のために成されたことだ。李斎は戴の民として堯天に来た。ここで安逸に逃げ、戴を捨てることは、その恩義をも投げ捨てることだ。李斎がそんな見下げ果てた振る舞いをすれば、戴の民の全てが見下げられるだろう。自らが何かの一部であるということ──戴の民であるということは、そういうことなのだと思う。
 李斎は改めて息を吐き、太師邸の裏にある|厩《うまや》の扉を開けた。|塞《ふさ》がっている騎房は、ただ一つ、李斎らを認めて、|飛燕《ひえん》は嬉しそうに立ち上がった。
「飛燕」
 泰麒は駆け寄っていく。僅かに警戒する様子を見せた飛燕は、だが、すぐにそれが誰なのか思い出したのだろう、勢い込んで身を乗り出し、甘えるような声を上げた。
「……覚えていてくれたんだ」
 泰麒に|撫《な》でられ、飛燕は目を細める。それを微笑んで見やりながら、李斎は|鞍《くら》を乗せる準備をした。そっと手綱を取り、飛燕を厩から引き出す。李斎は未明の空を見上げた。
「……雲海の上を戻ることができれば、どこかの州城に一気に駆け込むことができます。そこも阿選の手に落ちていないとも限りませんが、雲海の下は妖魔が徘徊しておりますから。どのみち排除して進まねばならないのでしたら、どちらでも大差ないかと」
 説明する李斎に、はい、と折り目正しく答えて、泰麒は飛燕を撫でる。
「休む場所がなくて、飛燕が大変だろうけど」
「大丈夫でございますよ。飛燕はきっと頑張ってくれます。私を|堯天《ぎょうてん》まで運んでくれたのですから」
 うん、と泰麒は頷く。飛燕は柔らかく|喉《のど》を鳴らして泰麒の肩にその頭を寄せた。
 その時だった。
「──こんな時間に何をしてんのかなあ?」
 唐突な声に、李斎が振り返ると、|園林《ていえん》の暗がりの中に六太が立っていた。背後に見える大きな黒い影は|虎嘯《こしょう》のものだろう。
「……延台輔……どうして」
 立ち|竦《すく》む李斎と泰麒を、六太は淡々と見比べる。
「それは、俺が立ち聞きしたからだな」
 言って六太は、にっと笑う。
「悪いな、二人を警護するために使令を張りつかせていたんだ。だから筒抜け」
「……延台輔、僕は」
 言い差した泰麒に、六太は手を振る。
「心配すんな。陽子には何も言ってない。だが、そういう勝手なことをされちゃあ困る。お前は今んとこ、うちの|太師《たいし》なんだ、分かってるか?」
「それは」
「雁の太師が勝手に戴を訪問しちゃあ、|拙《まず》いだろ。もしてやそこで|揉《も》め事を起こされたんじゃ、なお困る」
 黙り込んだ泰麒と李斎を見比べ、六太は大きく溜息をついて苦笑する。
「……そういうわけなんで、仙籍からは抜くぞ。太師も突然の解職で、暇を持て余して|惚《ぼ》け始めてるみたいだからな。でもってこれは、慰労金だ」
 六太は白いものを|放《ほう》る。李斎は無意識のうちに|利《き》き腕を出そうとして受け取りそびれ、自信に苦笑しながら、足許に落ちたそれを拾い上げた。暗闇の中で定かではないがそれは、|旌券《りょけん》らしい木の札だった。
「いずれ、いるんじゃないかと思って、作っておいた。|旌券《りょけん》が必要になることはないかもしれないが、それについた|烙款《らっかん》で|界身《かいしん》から金が出る。ただし、戴でどの程度の役に立つかは分からないけどさ。こっちは路銀だ」
 李斎は放られた|財嚢《さいふ》を、今度はきちんと受け止めた。
「……延台輔」
「あとは最低限の荷物。とらに着けてある。連れて行け」
 李斎は目を見開いた。
「その|天馬《てんば》だけじゃあ辛いだろ。ま、とらは用が終わったら返してくれると有り難い。たまが|寂《さび》しがるからな」
 李斎は手の中のものを押し頂く。
「……はい。必ず」
 うん、と頷いて六太は両手を腰に当て、泰麒と李斎を改めて見比べた。
「本当は行かせたくない……それは覚えておいてくれ」
「……この御厚情は決して」
「朗報を待ってる」
 言って六太は背を向ける。|園林《ていえん》の木陰を|掠《かす》めて歩みを進め、そして|擦《す》れ違いざま、黒い人影を叩いた。樹影の下の夜陰から出てきた虎嘯は、ひどく複雑そうな表情で李斎に禁門のほうを示した。
「騎獣はあっちにいる」
「|虎嘯《こしょう》には……本当に世話になった」
「そうでもねえさ」
 力なく言って、心なしか肩を落とし、虎嘯は先に立って園林を抜けていく。太師邸のある内殿から禁門へと抜ける間、ずっと沈黙したまま、項垂れて足許を見詰めていた。
 虎嘯がようやく振り返り、口を開いたのは、門殿の間近に出てからだった。
「……できることなら|蹤《つ》いていってやりたい。俺がどれだけ働けるかは、分からないけどな。でももう、俺も宮仕えの身なんで」
 複雑そうな表情のまま言った虎嘯に、李斎は微笑む。
「景王のお側には虎嘯が必要だと思う」
「うん。まあ、……そういうこった」
「くれぐれも、景王にはお礼を言っていたと伝えてもらいたい。できればお怒りにならないでくださいと」
 虎嘯は頷き、そして門殿へと歩み寄った。門の内側に|控《ひか》えた小臣が、禁門へと抜ける門を開ける。広い露台の向こうには淡い月に照らされた雲海が広がっていた。

 内殿から禁門へと抜ける門殿の扉が開き、二人の人影と騎獣の影がひとつ、ひっそりと吐き出されるのを|杜真《としん》は見た。傍に立っていた|凱之《がいし》が|徐《おもむ》ろに、|すう虞《すうぐ》[#「すう虞」の「すう」は「馬」偏に「芻」の字。Unicode:U+9A36]の手綱を引いてそちらのほうへと歩み寄る。杜真はその後を蹤《つ》いていった。
 ごく軽々しい旅装の二人連れだった。凱之は、あの女将軍に手を差し出す。
「これをお預けするようにと|承《うけたまわ》っています」
「ありがたく存ずる」
「……お気をつけて」
 言って一礼した凱之に、彼女は丁寧な一礼を返した。凱之の後を|蹤《つ》いていった杜真は、手の中にあるものを彼女へと差し出した。驚いたように彼女は杜真を見る。ずっと以前にお預かりしていた剣です。……その、出過ぎかと思ったんですけど、|研《と》いでおきました」
 ありがとう、と呟いて彼女は片手でその剣を受け取る。あのとき、|深手《ふかで》を負っているように見えた右腕は彼女の身体には|最早《もはや》存在しなかった。
「心からお礼申し上げる」
「いえ」
「お顔は覚えていないが、その声は、いつぞや私が転がり込んだとき、声を掛けてくださった方だな?」
「はい……あの、ええ」
 杜真が頷くと、彼女は微笑んで深々と頭を下げる。
「お陰で景王にお会いでき、過分な御助勢をいただいた。全ては貴方のお陰のように思う。本当に心から感謝いたします」
 杜真は首を横に振った。彼女らがこれから何のために、どこへ向かおうとしているのかは凱之に聞いて知っている。
「……どうぞ、お気をつけて。心から御無事を祈っています」

 淡い月光を受けて白く浮かんで見える露台から、二頭の騎獣が飛び立っていくのが見えた。
「……別れを言わなくて良かったのか?」
 露台に近い高楼から見下ろし、陽子は傍らに向かって問い掛ける。
「お掛けする言葉もございませんし」
「そうだな。……引き留めてしまっては申し訳ない。李斎にも泰麒にも」
「はい」
「無事に辿り着いてくれるといいんだが……」
「州城までは何とかなりますでしょう。雲海の上には、妖魔は出ないものですし」
「問題はその後、か。せめて使令だけでも付けてやれると良かったんだがな」
 景麒は無言で頷いた。
 王または麒麟の身辺を離れ、使令だけで他国に入ることは、兵を入れることと同義だと見なされる。六太にそう教えられ、陽子も景麒も諦めるしかなかった。
 雲海の上を騎獣が遠ざかっていく。広々とした水面の上、それは痛々しいほど頼りない二つの点でしかなかった。見詰めていると、階段を駆け上がってくる威勢のいい足音がする。
「──行ったか?」
 六太が顔を出した。
「うん」
 陽子は|頷《うなず》き、そして再び雲海を見やると、黒い点はすでに波の影に溶け込んでいこうとしている。
「|旌券《りょけん》、渡しといたぜ。用意しといた、って言ったら疑いもせずに|仕舞《しま》ってたけど、俺がいつの間にそこまで用意したと思ったのかなあ」
「みんな、延台輔なら納得してしまうんですよ」
「なんだ、それは。……明るくなって裏書きを見たら驚くだろうな」
 陽子はただ笑った。
 ──もう少し、あとほんの少しでいいから、助けてやれれば良かったのに、と思う。その心情を盾に引き留めることは簡単だろうが、それで救われるのは二人を|憐《あわ》れむ自分の心でしかない。戴を救うことができるわけでもなく、救われぬ戴に痛む彼らの気持ちを救うことができるわけでもないことは確実だった。
 せめて慶がもう少し豊かで、もう少し朝廷が堅固なものであれば。内紛の起こるような朝廷では、安心し、信頼して身を寄せていることもできるまい。実際のところ、引き留めてそれを後悔させないだけのことは、何一つしてやれないと分かっている。みすみす死なすようなものだと承知で二人を出すことは身を切られるように辛いが、この痛みは受け止めるしかないのだ。
「……まず自分からなんだよな」
「うん?」
 雲海を眺めていた六太が振り返る。
「まず自分がしっかり立てないと、人を助けることもできないんだな、と思って」
 陽子が言うと、そうでもないぜ、と六太は窓に額を寄せる。
「人を助けることで、自分が立てるってこともあるからさ」
「そんなもんか?」
「意外にな」
 そうか、と呟いて見やった雲海には、すでに何者の影も見えなかった

 |弘始《こうし》二年三月、|文《ぶん》州に|反《はん》あり。|上《しょう》、文州|轍囲《てつい》に争乱の及ばんとすを憂えて王師を率い、之を鎮めんとす。同月、上、文州|琳宇《りんう》に於いて跡を|喪《そう》す。時に同じく、宮城に|鳴蝕《めいしょく》有り。|由《よ》って宰輔|亦《また》跡を|亡《ぼう》し、百官、之に|失措《しっそ》す。
 時に|阿選《あせん》、官を謀りて、偽王として立ち、其の権を恣にす。|丈《じょう》阿選は禁軍|右翼《うよく》に在りて|本姓《ほんせい》は|朴《ぼく》、名を|高《こう》、兵を|能《よ》くして幻術に通ず。非道を以て九州を蹂躙し、位を簒奪す。

黄昏の岸 暁の天 7章1~3

2010-08-08 22:19


七章

 

   1

 |範《はん》の主従は|李斎《りさい》たちの帰還を待って帰国し、|淹久閣《えんきゅうかく》を|泰麒《たいき》の病床として譲った。蓬山から連れ戻った泰麒は、相変わらず眠ったままだったが、|延麒《えんき》や|景麒《けいき》らが傍に寄れない、そういうことは|最早《もはや》なかった。それを確認し、|安堵《あんど》したように|廉麟《れんりん》も漣へと戻っていった。
「お会いになって行かれないのですか」
 李斎の問いに、旅立とうとする廉麟は首を振った。
「お顔なら拝見しました。御無事も確認しました。……ですから、もう。すべきこともない以上、国を|空《あ》けている理由がありませんから」
 ですが、と言いかけ、李斎は|俯《うつむ》いた。|金波宮《きんぱきゅう》に留まり、泰麒を捜すために|割《さ》いてくれた時間は、本来なら漣の民のために使われるはずの時間だった。李斎らは、漣から宰輔を奪っていた。心情だけで引き留めることも、引き続き留まることもできるはずなどない。
 それに、と廉麟は|微笑《ほほえ》む。
「安堵したら、主上が恋しくなりました。早く戻って差し上げないと、主上も困っていらっしゃるでしょう。……ちっとも目が離せない方なんですよ」
 李斎は微笑むことでこれに応じ、深く頭を下げて廉麟を見送った。その翌日には尚隆もまた、延麒を残し|雁《えん》へと戻っていった。閑散としてしまった|西園《さいえん》に、|密《ひそ》やかに秋の気配が忍び寄ろうとしていた。
 李斎はずっと泰麒の|枕辺《まくらべ》についていた。李斎の手に余ることは、|桂桂《けいけい》が手伝ってくれた。
「目を覚まさないね……」
 |萩《はぎ》の花を抱えてきた桂桂は、泰麒の寝顔を見て|零《こぼ》した。目を覚ますことが在れば、一番に目に入るように、と桂桂は花の一枝を欠かさずに運んでくる。
「顔色はずいぶんと良くなられた」
「ほんとだね。……泰台輔は麒麟なのに金の髪じゃないんだね」
「|黒麒《こっき》であらせられるからな」
「僕、ご病気でこんな髪になってしまったのかと思ったんだ。違うって陽子に教えてもらってほっとしちゃった」
 そうか、と李斎は微笑んだ。
「泰台輔はもっと小さな人だと思ってたんだけど」
「大きくなられたんだ。最後にお目に掛かったのは六年も前のことだからな」
 |李斎《りさい》の目の前で眠っているのは、もう子供ではない。違和感がないと言えば|嘘《うそ》になる。幼い|泰麒《たいき》は戻ってこない。流れ去った六年の歳月を取り戻しようもないのと同様に。
「六年も辛いところにいらっしゃったんだね」
「……辛い?」
「だから、御病気になってしまったんでしょう?」
「ああ……そうか。そうなのかもな」
「戻ってこられて良かったね」
 そうだな、と李斎は答える。その時、微かに泰麒の|睫《まつげ》が動いた。
「……泰麒?」
 ぱっと桂桂が身を乗り出し、泰麒の目が開くのを見て取って身を|翻《ひるがえ》した。
「陽子に|報《しら》せてくる!」
 |桂桂《けいけい》が駆け出していった勢いで、枕辺の|萩《はぎ》が揺れた。開いたばかりの|朦朧《もうろう》とした眼差しが確かにそれを目で追った。
「……泰麒。お気がつかれましたか?」
 李斎は|覆《おお》い|被《かぶ》さるようにして、その顔を覗き込む。茫洋とした眼差しが李斎を見て、夢見るようにゆっくりと瞬いた。
「戻っていらっしゃいました。お分かりになりますか」
 彼はしばらく呆然としたように李斎を見上げ──そして頷いた。
「……李斎?」
 微かな声ももう、子供の声ではなかった。穏やかに柔らかい。
「はい……」
 李斎は|堪《たま》らず泣き崩れた。|衾《ふとん》の下の薄い身体を抱きかかえた。
「李斎、……腕が」
 抱き返してくれた手が、右の残肢に触れていた。
「はい。不調法で失くしてしまいました」
「大丈夫?」
「勿論です」
 身体を起こそうとした李斎を、細い腕が引き留める。
「李斎……ごめんなさい」
 いいえ、と李斎は答えたが、多分|嗚咽《おえつ》で声にならなかったと思う。

 下官が外殿にやってきたのは、朝議の最中のことだった。下官に耳打ちされた|浩瀚《こうかん》は、ひとつ頷き、失礼を、と言って壇上に登った。陽子に一言、耳打ちをする。
 そうか、と答えて陽子は頷いた。|浩瀚《こうかん》が降り、議事の続きに戻ったところで、背後に控えた|景麒《けいき》を呼ぶ。
「……景麒」
 |怪訝《けげん》そうに身を屈めた景麒に、陽子は小声で告げた。
「泰麒が目を覚ましたそうだ」
 景麒は目を見開く。
「退出を許す。……行ってこい」
 しかし、と押し殺した声で答える|僕《しもべ》に、陽子は笑う。
「いいから」
 半ば|狼狽《うろた》えて外殿を退出し、景麒は|淹久閣《えんきゅうかく》へと向かった。|臥室《しんしつ》に辿り着くと、そこにはすでに延麒六太の姿があった。
「……景台輔」
 |臥牀《ねどこ》の中から掛けられた声には聞き覚えがない。向けられた顔も見知らぬ者のよう、景麒は幾度となく寝顔を見に来た時と同じく、困惑せざるを得なかった。躊躇しながら景麒が枕辺に立つと、ちらりと笑みを残し、黙って六太が退出する。|牀榻《ねま》にただ二人残され、景麒はかえって居場所を失ってしまった。
「たくさん御迷惑を掛けてしまったようで、申しわけありません」
「いえ……その、もう|宜《よろ》しいのですか?」
「はい。李斎をお助けくださったこと、私をお助けくださいましたこと、心からお礼を申し上げます」
 静かに言われ、景麒はますます当惑した。面差しが違って見えるのは勿論のこと、|零《こぼ》れるような笑みもなく、|稚《いとけな》い口調もない。あの小さかった麒麟はいないのだ、と思うと、喪失感で胸が痛んだ。
「……私の働きではありません。全ては主上のなさったことですから」
 顔を伏せて言ってから景麒は、泰麒と会った当時に仕えていた王が、もういないことを思い出した。それほどにも長い歳月が経った。
「景王は胎果でいらっしゃるとか」
 そうとだけ言ったのは、事情を誰かから聞いているからだろうか。
「はい。あの……泰麒にたいそう会いたがっておられました。今は朝議の最中で、いらっしゃれないのですが……じきに」
 そうですか、という言葉に、景麒は話の|接《つ》ぎ|穂《ほ》を見失ってしまった。目のやり場に困って|牀榻《ねま》の中、視線を泳がせていると、|密《ひそ》やかな声がした。
「……長い辛い夢を見ていました」
 景麒がはたと振り返ると、病み衰えたふうの顔が微かに笑う。
「覚えていらっしゃるでしょうか。景台輔と初めてお会いしたとき、僕は何もできない麒麟でした」
「……ああ……ええ」
「たくさん親切にしていただいて、たくさんのことを教えていただいて、なのに何も覚えられなくて……景台輔がお戻りになってから、やっと覚えることができたのに、また全部、失くしてしまいました……」
「泰麒」
「辛い夢の中で、僕はずっと|蓬廬宮《ほうろぐう》の夢を見ていました。……とても懐かしくて、とてもお会いしたかった……」
 言って彼は景麒を見る。かつてのように、真摯そのままの眼で。
「……僕は間に合うでしょうか」
「──泰麒」
「たくさん時間を無駄にしました。なにもかも失くしてしまいました。それでも間に合うでしょうか。僕にもまだできることがあるとお思いになりますか」
「勿論です」
 景麒は力を込めて告げる。
「そのために戻っていらしたのでしょう。泰麒がこうしておられるのは、まだ希望が|潰《つい》えていないことの|証《あかし》です。ご案じなさいますな」
 はい、と彼は景麒の言葉を|噛《か》みしめるように目を閉じた。

   2

「……|泰麒《たいき》?」
 陽子が間近から見た彼は、はい、と頷く。|窶《やつ》れたふうは深かったが、それでも彼は|臥牀《ねどこ》の中に起きあがって、しっかりとした様子を見せていた。
「景王でいらっしゃいますか?」
「……|中嶋《なかじま》、|陽子《ようこ》です」
 陽子の言に、彼はちらりと笑う。
「|高里《たかさと》です」
 陽子は息を吐いた。|狼狽《うろた》えるほど奇妙な気分がしていた。
「不思議な感じだ……同世代の人と、こんなところで会うなんて」
「僕もです。──たくさんお世話になって、ありがとうございました」
「お礼を言われるようなことじゃ……」
 陽子は言いよどみ、目を伏せる。
「そう──お礼を言われるほどのことができたわけじゃない。少なくとも戴のためには、まだ何もできてないに等しいから」
「僕は感謝しています。連れ戻してもらえて」
「だったら、良かった」
 陽子はしばらく口を|噤《つぐ》んだ。会ったら話をしてみたいことが、たくさんあったように思う。故国のことを──あれもこれも。だが、こうして泰麒を目の前にすると、あえて話すべきことが見つからなかった。
 もう戻ることのない故国だ。陽子とは無関係の世界になってしまった。他愛もない話題を見つけて懐かしむにはまだ生々しい喪失。変に語れば、里心に駆られそうで怖い。そう──多分、陽子が向こうで持っていた家族や同級生や、そんなものの全てがきっと死に絶えた頃にならなければ、ただ懐かしく思い出すために語り合うことなど、できないような気がする。
「向こうは……きっと変わらないのだろうな」
 ──元気でいるだろうか、あの人々は。
「そうですね。波風はあっても形が変わるほどではなかったです」
「そっか」
 ──ならば、それでいい。
 陽子は息を吐き、笑った。
「いま、戴のために何ができるかを相談している。|荒民《なんみん》に対する援助は当然のこととして、何とか本国に残った民を救う方法も考えなくてはならない。本当は助けに行けるといいのだけれども、どうやらそれはできないようなので」
「本当にありがとうございます」
「いや。……これは戴のためにだけ、やっていることではないから。それに、お礼を言われるほどのことはできていないんだ。慶はまだ貧しくて。かなりの数の荒民がいるのだけれども、その救済ですらままならないし」
 ただ、と陽子は笑った。
「泰麒が戻ってくれて心強いとは思ってる。実は当てにしているんで、できるだけ養生してください」
「僕を?」
「そう。私はいろんなことを言うのだけど、どうもこちらの人にとって、それが全部、突飛なことらしいんだ。たとえば──戴の荒民を救済するため、大使館のようなものを開けないだろうか、と言ったら、諸官にも延王、延麒にも唖然とされてしまった」
「……大使館ですか?」
 目を見開いた泰麒に、半ば照れて、陽子はうん、と頷いてみせる。
「そんなに変なことじゃないと思うんだけどなあ……。|荒民《なんみん》にだって利益を代弁してくれる組織があるべきだと思うんだ。たくさんの荒民が慶や雁に流れ込んでいるわけだけど、荒民はこちらの事情や都合任せで保護されている。でも、こうして欲しいとか、これはこうならないだろうか、って国に対して掛け合うことができてもいいと思うんだが。どうすれば助かるのかは、荒民自身が一番良く知っているわけだし。最終的には、国が荒れて荒民が生じた時のために、各国に各国の大使館があると安心なんじゃないかと思うんだけど、どうも突飛すぎて理解を得られないみたいなんだな……」
 陽子が溜息をついて顔を上げると、泰麒はまじまじと陽子を見ていた。
「……あれ。やっぱり変かな?」
「いえ……そうじゃないです。景王はすごいな、と思って」
「すごいと言われるようなことじゃ……その景王っていうのは、やめてもらえると。同じ日本の男の子だと思うと、何か気恥ずかしい感じ」
 泰麒は微かに笑う。
「中嶋さんは、いくつですか」
 そう呼ばれると、妙に|擽《くすぐ》ったかった。
「ええと、泰麒よりもひとつ上かな。……歳を数えても意味がないんだけどね」
 言ってから、陽子は、あ、と声を上げた。
「高里君、と呼んだほうがいいのかな?」
「僕はどちらでも……。小さい頃に一度戻って、その時から泰麒でしたから、あまり違和感はないんです」
「そうか……。私はこちらに来て三年にならない程度だから、泰麒に比べたらぜんぜんもの慣れない部類だな」
「実際にいたのは、一年ですから」
 泰麒の声音には|懐《なつ》かしむよりも|惜《お》しむ色の方が深かった。
「……じゃあ、余計に当てにさせてもらおうかな。もともと私はあちらで、政治とか社会の仕組みにぜんぜん興味を持っていなかったから、漠然とした知識や、思いつきだけでものを言っているところがあって」
「僕もそんなに変わらないだろうと思います。こちらのことは分からないに等しいので。僕がこちらにいたのはたった一年で、半分は蓬山でしたし……。戴にいたのは本当に僅かのことで、しかも子供で、だから社会のことがまるで分からなくて、右往左往しているしかなかったんです」
「それはこれからだよ。いろいろ知恵を貸してもらえると嬉しい。特に、泰麒には当面、戴の荒民の代弁者になってもらえると」
「……はい」
 泰麒が頷いた時だった。隣で騒がしい物音がした。李斎の、何事ですか、という叫びが聞こえた。変事か、と陽子が腰を浮かすと同時に|臥室《しんしつ》の扉が押し開けられた。

   3

 臥室に乱入してきたのは、数人の男たちだった。その先頭にいる人物を見て、陽子は眉を|顰《ひそ》める。それは|内宰《ないさい》だった。天官の中で、宮中|内宮《ないぐう》を司る長。その背後にいるうちの二人は禁門でよく顔を見る|こん人[#「こん人」の「こん」は門構えに「昏」Unicode:U+95BD]《こんじん》だった。
「──何事だ」
 問うまでもなく、来意は明らかだった。彼らはその手に剣を|提《さ》げている。
「これは……どういうことか」
 乱入者を|睨《にら》み|据《す》えると、男たちは切っ先を上げた。
「貴女は、慶を|蔑《ないがし》ろにしすぎる」
 言ったのは内宰だった。
「|予《よ》王ほどの|暗愚《あんぐ》でないことは認めよう。だが、貴女は国や官を|軽《かろ》んじすぎる。素性の知れない|民草《たみくさ》を重んじ、慣例を踏みにじり、国の威信も官の誇りも意に介さない」
 そうだ、と|こん人《こんじん》の一人が落ち尽きなく剣を握って身を屈めた。
「|半獣《はんじゅう》ごときを人並みに扱い、朝への登用を許したのみならず、選りに選って禁軍の将にまでするとは」
 陽子は顔に朱が昇るのを感じた。
「半獣ごとき、だと」
 |咄嗟《とっさ》に剣を取ろうとしたが、|水禺刀《すいぐうとう》は置いてきたことを思い出した。
「諸官の体面に泥を塗り、半獣や|土匪《どひ》を宮中深くに連れ込んで宮城を汚した。威厳ある官吏を軽んじ、半獣や土匪を重んじて側に|侍《はべ》らすのは、結局のところ、己には官が|眩《まぶ》しく|煙《けむ》たいからであろうが。半獣や土匪相手ならば、己の不足を引け目に思う必要はないからな。諸国の王や台輔を集めて浮かれていれば、己もその仲間になったような心地がするか。──思い上がりも|甚《はなは》だしい。いつまでもそんな振る舞いを天が許すと思わぬが良かろう」
 陽子は絶句した。ただ目を見開き、喘ぐしかない陽子に代わり、よせ、とこん人を制したのは内宰だった。
「……口汚くて申し訳ないが、そういう見解のあることはご承知願いたい。私は貴女をそこまで見下げはせぬが、他国の王や宰輔を頻繁に王宮に入れることは承伏できない。戴の将軍を|匿《かくま》い、そうやって戴の宰輔を保護するが、貴女は自分が慶の王であることをお忘れではないか。これほど他国の王が出入りするのは|何故《なにゆえ》か。貴女は慶を他国に譲り渡すおつもりか」
「……違う」
「では、なぜこうも他国のものが、王宮の深部を我が物顔で闊歩する。貴女は慶の国の民を、なんだと思っていらっしゃるのか」
「所詮は女王だ」
 一人がそう吐き捨てた。
「私情で国を荒らす。今のうちに正しておかねば、予王のようになる」
 陽子は怒りのあまり身体を震わせ──そして、唐突にそれを突き抜けてしまった。
 深く虚脱した。民も国も|蔑《ないがし》ろにしたつもりはない、むしろ民と国のためを思ったのだと、ここで訴えることに何の意味があるのだろう、という気がした。内実を知りもせず──と怒ることは|容易《たやす》いが、本来、内実とは他人に|窺《うかが》い知れないものだろう。事実、陽子だって、このような不満を抱いてきた官の内実を察することはできなかった。
 ──こんなものか、という気がした。
 誰もがその行為、その言動から他者の内実を推し量るしかないのだし、こうに違いないという評価が決すれば、その評価だけが一人歩きを始める。すでに確信を抱いている者、確信を疑う気のない者に何を訴えても届くとは思えない。
「つまりは……今のうちに|弑《しい》しておこうということか」
 陽子が問うと、内宰らは|僅《わず》かに|怯《ひる》んだ。
「そうすると、というなら仕方がない。戦う術があれば抵抗するが、|生憎《あいにく》剣は内殿に置いてきた。──抵抗のしようもないようだ」
「今更、ものの分かった振りをするな!」
 |こん人《こんじん》の声を、苦笑混じりに聞く。
「……どう|捉《とら》えても構わないが、泰台輔と|劉《りゅう》将軍には危害を加えないでもらいたい。彼らの存在が慶の何かを傷つけるというなら、放り出せば十分だろう。慶に民がいるように、戴にも民がいる。自国の憂いを取り除くのはお前たちの権利のうちだが、他国の民にまでその結果を押しつける権利はない。必要以上に、戴の民を苦しめるようなことはしないでもらいたいのだが」
 内宰は冷ややかに陽子と泰麒とを見比べた。
「戴は国が荒れているとか。その最中に、自分たちだけが国を見捨て、他国の保護を受けてぬくぬくとしているような台輔と将軍を失って、戴の民が嘆くとは思えないが」
「それは戴の民に決めさせてやったらどうだ? 戴の民も同じように感じるのであれば、自らの手でお二人を討とうとするだろう。……そういうことで、お二人にまで手を掛けるような真似はしないと約束してもらえないか?」
「約束はできかねるが、努力はしよう」
「せめて、ここを出よう。麒麟の|傍《そば》で殺生は控えよ」
 待ってください、と背後から腕を握る手があったが、それは振り|解《ほど》いた。
「……当の民がいらないと言うのなら、あり続けようとしても仕方がない」
 さらに|追《お》い|縋《すが》ってきた手を、こん人の一人が引き|剥《は》がした。内宰らに連れられ、陽子が寝室を出ると、数人に取り押さえられた|李斎《りさい》が青い顔をしていた。
 ──できれば、自分たちのせいだと、あまり深く気に病まないでもらえるといいのだが。
 思ったときに、いきなり横に突き飛ばされた。
 驚く間もなく背後で悲鳴と叫びがする。転倒した|体《たい》を起こして振り返ると、足許へごとんと鈍い音を立てて剣を握った腕が転がってきた。
 叫びがした。李斎に剣を突きつけていた男が、|切《き》っ|先《さき》を陽子に向けて突進してくるところだった。その切っ先が届く前に、男の胸郭を貫いて獣の前肢が突き出てきた。鋭利な爪を真っ赤に塗らしたそれが抜けると同時に男は|頽《くずお》れ、何者かがいたはずの背後には何の姿もなく、ただ遠くに凍りついたように立ちすくむ泰麒の姿だけが見えた。
「──抵抗ぐらい、なさってください!」
 陽子が振り返ると、蒼白になった景麒が駆け込んでくるところだった。|堂室《へや》の中には数人が転がり、悲鳴を上げた数人が血糊を踏んで逃げ出していく。
「都合良く現れたな……」
 陽子は坐り込んだまま苦笑した。
「延台輔が|使令《しれい》を残しておられたのです。なぜ抵抗なさらないのですか」
「……丸腰だったからな」
「剣がなくても、抵抗ぐらいは──だから|冗祐《じょうゆう》を手放すのはおやめくださいと」
「うん。……まあ、とにかく助かった。ありがとう」
 陽子が言うと、景麒は恨みがましく陽子を見てそっぽを向いた。
「主上のお側にいると、絶えず使令が汚れて困ります」
 悪い、と笑って陽子は李斎と泰麒を見る。
「……申し訳ない。とんだところをお見せしてしまった」
「いえ──大丈夫なのですか?」
 |弾《はじ》かれたように李斎が駆け寄ってくる。
「うん。怪我はない。それより李斎、泰麒をどこかへ。ここにいては身体に|障《さわ》る。景麒、お前もだ」
 陽子は立ち上がり、床に倒れた男たちを見た。
 内宰は絶命している。他の二人もどうやら息はないようだった。三人は深手を負っているが、とりあえずまだ命はある。
 ──死んでもいい気がした、というのは、たぶん真実ではない。
 だが、虚脱したあまり、何もかもどうでも良くなったのは確かだ、と陽子は思う。抵抗するのも怒るのも面倒だった。乱入者に|対峙《たいじ》するためには、自分は愚王ではない、と言い張らねばならなかったが、それができるような自身も自負もありはしない。かつてなら、天意がある、だから王だ、という気概を持てもしただろうが、陽子はこのところ天意を奇蹟の一種と見なすことができなくなっていた。そうしたいなら、それも良い。これで重責から解放されるなら、それでもいいか、という気がしていた。
「逃げた連中は取り押さえたぜ」
 建物を出てみると、六太がやってくるところだった。そのさらに背後からは、兵が駆けつけてきたのだろう、荒々しい|喧噪《けんそう》がする。引っ立てられていくのだろう、呪いの言葉を吐き散らすこん人の甲高い叫びが聞こえていた。
 

黄昏の岸 暁の天 6章7

2010-08-08 22:18


  7

 泰麒は|速《すみ》やかに蓬山へと運ばれた。例によって門前で待っていた|玉葉《ぎょくよう》は、抱え降ろされた姿を見て、眉を|顰《ひそ》めた。
「なんと……」
 呟くように言って絶句する。
「どうなのでしょう──治りますか」
 李斎は問う。泰麒は|蓬莱《ほうらい》では自分の足で歩き、|悧角《りかく》にも騎乗したと|尚隆《しょうりゅう》は言うが、こちらに戻ってからというもの、ただの一度も目を開けていない。玉葉に従う女仙たちによって抱え降ろされた泰麒は、今も土気色の顔をして、深い昏睡に落ちているように見える。
 玉葉は膝をつき、その憔悴した顔を痛ましそうに見下ろした。
「角がない……穢れがある。にもかかわらず、まがりなりにも成獣しておられるのは、さすがは|黒麒《こっき》と言うべきか」
 |呟《つぶや》いて、顔を上げる。玉葉は李斎と陽子、そして尚隆、三者の顔を見比べた。付き添ってきたのはこの三者だけ、麒麟は誰一人、|蹤《つ》いて来ることができなかった。
「……これは、|妾《わらわ》の手には負えぬ。|王母《おうぼ》にお|縋《すが》りするしかないであろ」
 三者が同時に玉葉の|面《おもて》を見返した。
「王母? 王母とは……ひょっとして|西王母《せいおうぼ》のことですか?」
 李斎の問いに、いかにも、と玉葉は頷く。
「王母ならば泰麒を助ける術をお持ちかもしれぬ」
「西王母が……おられるのですか? 実際に?」
「無論、おられるとも」
 来や、と声を残し、玉葉は廟へと向かう。そこにはかつて陽子も尚隆も足を踏み入れている。中には壇上に王母と天帝の像があるだけだ。無数の文様が彫りこまれた壇上、|白銀《しろがね》の|屏風《へいふう》を背に|設《しつら》えられた白銀の御座、そこに坐った白い石の人物像、四方の柱間に掛けられた|珠簾《みす》が、その胸元までを隠している。
 玉葉はその像に一礼し、さらに建物の奥へと向かった。段の奥にある壁の左右には白い扉がある。そのうちの左側にあるひとつを玉葉は叩いた。そうしてしばしを待つ。やがて扉の向こうから、ちりんと|璧《いし》を打ち合わせるような音がした。玉葉は扉を開ける。|廟堂《びょうどう》の大きさから考えて、その扉の向こうなどあるはずもないのに、扉の奥には白い堂が続いている。
 玉葉にはいるよう促され、陽子は扉を抜けた。
 そこは堂であって堂ではなかった。白い床の広さは廟堂のそれほど。中央に壇があって白銀の御座があることは変わらなかったが、|珠簾《みす》は上げられている。
 まるで同じ|堂室《へや》が二つあるようだった。だが、こちらには天上がなく、奥の壁がなかった。玉座の背後で純白の壁を作っているのは、いかほどの高さがあるとも分からない大瀑布だった。いったいどこへ流れ落ちていくのか、辺りは水煙にけぶり、振り仰いでみても遙か|彼方《かなた》から白い光が射してきているとしか分からない。その白々とした明かりが落ちる玉座の一方に、一人の女の姿があった。玉葉に|倣《なら》って|跪拝《らいはい》しながら陽子らは彼女を|窺《うかが》い見る。
 ──これが、西王母。
 尚隆でさえ、その姿を見るのは初めてだった。真の神は決して下界と交わらない。他の二者にいたっては、その女神が実在することさえ知らなかった。
 |碧霞玄君《へきかげんくん》の美貌は衆目の認めるところであろう。それに対し、西王母の容姿には|愕然《がくぜん》とさせられる。──醜いわけではない。あまりにも|凡庸《ぼんよう》だったのだ。
 泰麒を運んできた女仙たちが、彼女の足許にその身体を下ろした。目線だけを向け、彼女はゆったりと坐したまま、身動きひとつしなかった。
「……見苦しいことよね」
 声はひたすら無機的で抑揚を持たない。
 玉葉は深く一礼した。
「御覧ぜられます通り、|拙《せつ》の手には負えません。王母のお力にお|縋《すが》りしとうございます」
「よほど憎まれ怨まれたと見える。自身への|怨詛《えんそ》でかくも病んだ麒麟など例がなかろうな」
 その声に何の情感も窺えないのは、音もなく落ちる瀑布が声音の微妙な|彩《いろど》りを吸い取っていくからなのかもしれなかった。あるいは最前から、全く動かない身体、動かない表情のせいなのかもしれない。
「使令が道理を失い、暴走したようでございます。泰麒自身の|罪咎《つみとが》ではございません。角を失い、病んだ泰麒には、猛り狂った使令を押し留める力がなかったのでございます」
「……使令は預かる。清めてみよう」
「泰麒は」
 沈黙が落ちた。彼女は動きを止めた。|李斎《りさい》には王母が、彫像に変じてしまったように見えた。彼女の背後に落ちる水煙だけが動いているものの全てだった。それは純白の粉が流れ落ちているようにも見える。あるいは舞い上がっているようにも。
「お見捨てにならないでください」
 李斎の声に、王母の眉だけがぴくりと動いた。
「戴にはこの方が必要です」
「病を取り除いても、何ができるようになるわけでもない。──お前、その身体で兇賊を討つことができるかえ」
 情感もなく言われ、李斎は失われた右の上肢を|握《にぎ》りしめた。
「……いいえ」
「泰麒もお前のようなもの。もはや何の働きもできぬ」
「それでも──必要なのです」
「何のために?」
「泰が救われるために」
「なぜ、お前は戴の救済を願う」
 問われて、李斎ははっと言葉に詰まった。
「それは……それが当然だからです」
「当然とは?」
 李斎は口を開きかけ、そして言葉を見失った。そもそも自分は、なぜこうまでして泰を救いたいと思っているのだろう?
「泰王や泰麒が恋しいかえ? 自身のいた|朝《ちょう》が恋しいか?」
 ──それもあった、と李斎は思う。勿論、李斎は驍宗を崇敬していたし、泰麒を|愛《いと》しく思っていた。その二人から重用される自分が誇らしく、そういう自分を一員として受けとめてくれていたあの場所が恋しかった。
 だが、李斎とて分かっている。失われたものは取り返せはしないのだ、と。李斎は多くの|麾兵《ぶか》を失った。朝廷で|誼《よしみ》を得た官の多くも失っている。確か天官長の|皆白《かいはく》は行方が分からないままになったと聞く。|冢宰《ちょうさい》の|詠仲《えいちゅう》も傷がもとで死亡したと聞いた。そして地官長の|宣角《せんかく》、夏官長の|芭墨《はぼく》が後に処刑されたらしいことを、李斎は噂で知っている。垂州で別れた花影はその後どうなったのか──これについては恐ろしくて、とても考えてみる勇気を持てなかった。
 失われてしまった人々、六年の歳月。実際、と李斎は王母の足許を見た。そこに横たわっている泰麒は、もう|稚《おさな》いばかりの子供ではない。幼かった泰麒は、もうどこにもいないのだ。
「それとも阿選を許せないか?」
 それは勿論のことだ、と李斎は思う。阿選は少なくとも泰麒の信を知りながら、泰麒を襲ったのだ。玉座を奪い、戴を苦難の底に突き落とした。多くの民が阿選のために失われた。こんな非道が許されていいはずがない。阿選がこのまま玉座に在り続けると言うことは、道や善意や、慈愛や誠意、そんなものに重きを為して生きてきた、全ての人々の生が根底から否定されることだ。
「自身の汚名を|雪《そそ》ぎたいか? それとも戴が恋しいか?」
 李斎には答えられなかった。どれも違う、と思えた。
「……分かりません」
「ただただ嫌じゃと駄々を|捏《こ》ねる|童《わらべ》のようじゃの」
 そういうことでは──ない。李斎は目を上げる。白いばかりの空間は嫌でも戴の、雪に降り込められた国土を思い起こさせた。
 無数の雪片がひたすらに降って山野も|里櫨《まちまち》も覆い尽くしていく。全ての音は彩りを吸い取られ、世界は無音のまま昏睡にも似た停滞へと落ちていく。
 李斎は確かに、汚名を屈辱だと感じた。李斎の名を汚した阿選に怒り、そうやって善なるものを踏みにじる阿選に報復を誓った。天が正さないのであれば、自分が正してみせる、と思ったのも確かだ。そして、その機会を|窺《うかが》い、承州を転々とするうちに、李斎は多くの知古や理解者を失った。何重にも傷つけられた李斎の思いは、阿選を倒すことでしか|癒《いや》されない──そう思っていたこともあったように思う。
 だが、それらの思いは、ひとつ冬を過ぎるごとに雪の中に吸い取られていった。
「私にも、なぜなのかは分かりません……」
 李斎は瀑布から漂う水煙を目で追った。廃墟から立ち昇る雲煙にも似た。
「ただ……戴はこのままでは滅びてしまいます……」
「滅びてはならぬかえ?」
「はい。……それだけは嫌です。堪えられません」
「なぜ?」
 なぜなのだろう──李斎は考え、ふと口を突いて出てきたのは、李斎自身にとっても意外な言葉だった。
「なぜなら、もしも戴が滅びるのなら、それは私のせいだからです」
「──お前の?」
「うまく言えません。そういう気がするのです」
 勿論、戴のこの荒廃において、李斎が何かをしたということではない。
「もしも戴が滅びたら、私は多くのものを失います。……|懐《なつ》かしい戴の国土も、そこにいた人々も、それらに|纏《まつ》わる記憶も、何もかも。けれども、それよりももっと大事なものを失ってしまう気がする……。私はきっと、失ったものを懐かしみ、喪失に泣く前に、自分を憎んでしまうでしょう。呪い──怨む。絶対に許すことができません」
 李斎は息を吐いた。
「そう……駄々のようなものなのかもしれません。結局のところ、私はその時の苦しみから逃れるために|足掻《あが》いているんです。ただ──自分の気持ちを救うためだけに」
 李斎は台輔を見つめ、そして壇上に目を転じた。
「……台輔に何を望んでいるわけでもありません。奇蹟などは望みません。こうして奇蹟を施すことのできる神々ですら戴をお救いはくださらないと言うのに、どうして台輔にそれを望むことができるでしょう」
 ぴくりと女神の眉が動いた。
「けれども、戴には光が必要です。それさえなければ、戴は本当に|凍《こお》って死に絶えてしまいます……」
 王母はやはり声もなかった。如何なる表情もなく、じっと双眸を何もない宙に据えている。やがて彼女は、泰麒の方へ視線をやった。
「……病は|祓《はら》おう。それ以上のことは、今はならぬ」
 彼女は言って、機械的な動作で片手を上げた。
「|退《さが》りゃ。……そして、戻るがいい」
 言った途端、轟音を立てて玉座の前に瀑布が流れ落ちてきた。全ては水煙に呑み込まれ、声を上げる間もなく|蹈鞴《たたら》を踏む間もなく、目を閉じて気づくと、そこは廟堂の裏に広がる石畳の上だった。緑に覆われた山腹に、がらんとした石畳が広がり、穏やかに雲海から寄せる波の音がしている。
 李斎は|慌《あわ》てて周囲を見た。女仙たちに囲まれた泰麒、唖然としたような陽子と尚隆──ただ玉葉だけが、石畳の上に平伏していた。深々と叩頭した玉葉は、身体を起こす。李斎を振り返った。
「連れて戻られるがよい。泰麒はしばらく寝ついておられようが、王母がああ|仰《おっしゃ》りあそばした以上、この|穢瘁《えすい》は必ず治るゆえ」
 李斎は玉葉を見返す。玉葉の|臈長《ろうた》けた面には、委州の──驍宗の郷里で会い、永久に別れた少女と同じ種類の憂いが深い。
「……それだけなのですね?」
 玉葉は無言で頷いた。
 

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1987/05/22

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